気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る その28 金谷から家山へ

2024年04月30日 | ゆるキャン△

 2023年11月23日、7時16分。「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る旅の三日目の朝、JR藤枝駅のホームにて7時19分発の浜松行き普通列車を待ちました。

 

 この時撮った、藤枝駅の駅名標です。

 

 藤枝から金谷までは、御覧のとおり2駅、約12分で着きます。掛川からは1駅、約14分で金谷に着きます。ゆるキャン聖地巡礼で各務原なでしこと同じく大井川鐡道の始発列車に乗るのであれば、掛川や藤枝で前泊したほうが良いです。

 

 金谷駅に7時31分に着いて、大井川鐡道金谷駅のホームへ。

 

 まもなくやってきた始発の7時36分発の普通列車。この日は南海21000系でした。

 

 昔、南海の高野線でこの型の列車に乗って高野山詣りをしたことが二度あります。学生時代にサークル活動で友人たちと高野山に登って宿坊宿泊坐禅体験を行なった時にも、この丸っこいズームカーで行った記憶があります。

 

 21000系の2号車であることを示す、モハ21002の車番です。大井川鐡道には2編成が譲渡されており、21001とこの21002が第一編成、いまは不通区間の果ての千頭駅に留め置かれている21003と21004が第二編成となっています。

 

 乗り込んで運転席の方を見ました。

 

 21000系の運転席です。いまの南海で運行している車輛の運転席よりゆったりしていて、割と広めな感じです。

 

 この日の切符。今は珍しくなった硬券ですが、家山までというのも、不通区間がある時期ならばです。全線が普通に走れた頃は、当然ながら千頭までの切符になりますから・・・。
 家山から千頭までは代行バスを利用しますが、川根本町の町営バスなので、運賃を大井川鐡道とのセットにすることが出来ず、鉄道の切符とバスの運賃は別々になっています。不便なので、以前のような全線フリー切符が懐かしいです。

 

 この日は勤労感謝の日で祝日だったため、乗客も多かったようです。金谷駅で上図の状態でしたが、次の新金谷駅で大勢がドッと乗ってきて、座席は埋まり、相当数が立ち乗りとなっていました。

 

 7時36分に金谷駅を出て、家山駅に8時8分に着きました。

 

 ここで乗客が全員下車していましたので、全員が代行バスに乗るんだろうか、と思いましたが、二割ほどは駅から出て歩いてどこかへ行ってしまいましたので、地元住民だったようです。
 残る八割、ざっと数えて90人ほどが、代行バスに乗るようでしたが、バス1台に全員乗れるのかな、と不安になりました。  (続く)

 

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「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る その27 静岡のゆるキャン展と藤枝の宿

2024年04月29日 | ゆるキャン△

 大井川鐡道のEL急行かわね路号を楽しんだ後、新金谷駅を13時25分に出る普通列車に乗って13時29分に金谷駅に着きました。改札口も急いで通ってJR線のホームへと移動し、すぐにやってきた上図の13時31分発の静岡行きの普通列車に乗り込みました。

 

 14時2分に静岡駅で下車、地下通路を通って上図の駿河屋紺屋町店に行きました。駿河屋本店の分館にあたります。

 

 この時期、店内で上図のゆるキャン複製原画展示が行われていたので、それを見に来ました。

 

 御覧のように、大井川キャンプ編など、静岡県に舞台があるストーリーの複製原画が並べて展示されていました。

 

 展示コーナーは書店の中央にありましたので、当然のように原作コミックの新刊や既刊、コラボグッズ類も並べて販売していました。

 

 複製原画は原寸大だそうで、コミック版で見るのより迫力がありました。上図は寸又峡の夢の吊橋を渡る各務原なでしこ、土岐綾乃、志摩リンの3人の場面です。

 

 夢の吊橋の景色です。令和4年の台風被害で遊歩道が崩落してしまう前の景観なので、ある意味貴重な記録図といえます。私自身は令和3年5月にここを回りましたので、原画の景色もそのまま見ています。

 

 上図のゆるキャン駿河屋限定グッズの「静岡ポストカード」が目的の一つでしたので、A、B、Cの3種を全て購入しました。ゆるキャンのポストカードは色々出ていますが、この駿河屋限定の、A富士宮セット、B伊豆セット、C大井川セットというのは販売数も少なかったらしく、現在ではレア品になっているようです。

 

 当時は発売日直後だった原作コミック15巻です。

 その後、近くの駿河屋本店ビルに立ち寄って模型コーナーも回り、ついでに静岡駅ビルのパルシェ5階にある鉄道模型の「ポポンデッタ」にも立ち寄って、トミックスのゆるキャン車輛を購入しました。その後、アスティ西館に移動して「石松」に入り、浜松餃子定食をいただいて遅い昼食を楽しみました。

 

 昼食後は静岡駅南口近くの静岡ホビースクエアへ模型の見学に行き、展示館内の各メーカーの代表的キットやウッディジョーの木製模型を見たりしました。とにかく模型が趣味である身には、静岡は最高の聖地であります。

 夕方は静岡からJRで藤枝に移動し、藤枝駅北口すぐの上図の東横イン静岡藤枝駅北口にチェックインしました。ここに宿をとったのは、明日も大井川鐡道に乗って井川線の井川駅まで行く予定であったからでした。
 井川までは、ダイヤの関係で列車とバスをコンスタントに乗り継ぐため、川根温泉ホテルや寸又峡の宿に泊まったりするとアクセスが難しくなります。ストレートに金谷からの始発に乗るのが一番楽なので、宿の候補をいつもの掛川にしましたが満員で取れず、第二候補の藤枝に落ち着いた次第でした。

 

 翌朝は6時24分に起床しました。井川線の終点まで行きますから、金谷駅7時36分の始発に乗っても井川駅への到着は11時12分になります。
 それで、6時半に食堂へ降りて上図のバイキング方式の朝食をいただき、7時にはチェックアウトしました。

 

 7時2分、宿の入口から見たJR藤枝駅です。この至近距離は有り難いことです。藤枝から金谷までは2駅、約12分で行けますので、大井川鉄道の7時36分発の始発に十分に間に合います。

 ただ、井川までずっと列車とバスをコンスタントに乗り継ぐので、途中で買い物とかしている余裕がありません。井川駅に着いても売店すらありませんから、井川駅前では食事も出来ません。
 それで、7時19分発の列車に乗る前に、藤枝駅南口にあるコンビニへ急いで、弁当やお茶やナッツ類など、とりあえず必要なものを買っておきました。  (続く)

 

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伏見城の面影9 伏見城御成殿の面影

2024年04月28日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 正伝寺の庭園を見ながら一休みした後、「さて」とU氏が縁側から立ち上がりました。くるりと後ろへ向いて本堂の内部へ入っていきました。私も後に続きました。

 

 本堂内の一番奥の間にあたる上図の部屋の仕切り襖の前まで行くと、U氏は「問題はあれだな」と開け放たれた襖の間の奥に見える黒漆塗りの材に金具が鈍く光る立派な障壁画の並びを指さしました。

 

「星野は、あれをどう思うかね?」
「帳台構(ちょうだいがまえ)やろ」
「やっぱりそう見るか」
「それ以外に有り得んよ、どこから見ても帳台構やな」
「つまりは徳川家だな」
「そうやろうな」

 御殿の書院造の三大特徴、とされるものがあります。違棚(ちがいだな)、押板床(おしいたどこ)、付書院(つけしょいん)を指しますが、徳川将軍家が関わる御殿の書院造においてはもう一つ、帳台構(ちょうだいがまえ)が加わります。武家の書院においては俗に「武者隠し」とも呼ばれます。将軍を護衛する近侍が不測の事態に備えて帳台構の内側に控えていたからです。

 正伝寺本堂の奥の間の奥室にいまも残る上図の帳台構は、形式や意匠が慶長八年(1603)に着工した二条城の黒書院や大広間の上の間のそれによく似ています。徳川将軍家が御成りになった際に坐する上段の間にしかない施設であり、時期的にも慶長七年(1602)再建の徳川期伏見城の御成殿の帳台構として違和感なく理解出来ます。

 ちなみに正伝寺本堂は、慶長年間(1596~1614)の建立といい、伏見城の御成殿として建てられたものと寺伝でも伝えますから、時系列的にも矛盾はありません。伏見城の廃城に際して南禅寺の塔頭金地院(こんちいん)の小方丈として移築され、それが承応二年(1653)に金地院から正伝寺へ移築されて本堂とされ、現在に至っています。

 

 ですが、本堂内部の空間構成を見ると、御覧のようにもとは前の間、中の間、奥の間の三室であったのが、上図のように中央に仕切りが入れられて襖が追加され、六室に改められていることが分かります。それに伴って中の間の奥室を仏壇としていますから、この内部空間の変化は、城郭の御殿から寺院の方丈へ改造した結果であろうと理解出来ます。

 前述のように、二度の移築を経ていますから、いずれかの移築の際に改造されたのでしょう。個人的には正伝寺への移築の時に改造したのだろう、と推測しています。上図の前の間の奥室には、本来は奥の間に帳台構とセットで造られていたであろう違棚と押板床が見えます。改造の際に移設したのでしょう。

 なぜかというと、伏見城御成殿であった頃は前の間、中の間、奥の間の三室構成で、奥の間に将軍の御成りの座が設けられましたから、その奥の間に違棚と押板床と帳台構がセットで揃っていた筈です。臣下は前の間から中の間に進んで将軍の謁見にのぞみましたから、その動線は前の間から中の間へと縦の一本になります。

 これが寺院方丈となった場合、中の間に仏壇を設ける必要がありますから、建物の正面も南向きに変更され、動線は縁側からの横線にかわり、前の間、中の間、奥の間はそれぞれ右の間、中の間、左の間に変わります。それぞれの奥の空間は北側に設定されますが、三室のままだと奥室が出来ないため、中央を仕切って襖を入れ、右の間、中の間、左の間のいずれも前室と奥室に分割し、現在の六室構成となっていった流れです。

 そうなると、もとは奥の間にあった違棚と押板床と帳台構のセットも、位置を変更する必要があります。帳台構は空間変更後は左の間の奥室に位置するのでそのままでも良いですが、違棚と押板床は前室に含まれるために違和感が出てしまいます。中の間の奥室は仏壇ですから、右の間の奥室に違棚と押板床を移設し、奥室の格式の設えを維持した、というように解釈出来ます。

 なので、この建物は外観はあまり変化がなさそうですが、内部空間はかなり変えられているものと理解します。

 

 ちなみに本堂の建物が、徳川期伏見城の建物であったことは、上図の釘隠しの金具などを見れば分かります。御覧のように徳川家の葵紋が打たれています。
 最初から寺院方丈として建てられたのであれば、紋は寺のそれになりますから、この点だけでも徳川家が建てた建物だということが分かります。

 

 杉戸の引手には、菊紋が打たれています。正伝寺が元亨三年(1323)に後醍醐天皇より勅願寺の綸旨を賜り、室町期にも皇室の帰依を受けた歴史を示しています。この場合は徳川家の葵紋はありませんが、興味深いのは、そうした引手の意匠が、同じ伏見城からの移築と伝わる南禅寺金地院の大方丈のそれによく似ている点です。

 正伝寺本堂も、現在地に移築される前は南禅寺金地院にありましたから、引手の意匠が似ているのはむしろ当然かもしれません。

 

 私と共に堂内各所の飾り金具を見て回っていたU氏が「これ、確かな証拠だよな」と嬉しそうに言いつつ、蔀戸の金具を指しました。

 

 徳川家の葵紋が打たれています。それも徳川宗家つまり将軍家の紋です。周知のように同じ徳川家でも将軍家、御三家のそれぞれで葵紋の形が異なります。水戸家ならば水戸家の葵紋があり、細部が上図の宗家の紋とは違うそうです。

 

 その後、U氏が上図の額装の説明文らしきものを指して「これ読んでみ、面白いぞ」と言いました。昔の新聞記事の切り抜きのようで、読んでみたら、この本堂の縁側の天井に張られているいわゆる「伏見城の血天井」の血痕の検査の経緯が述べられていました。鑑定したのは科警研、つまり警察庁の科学警察研究所で、血痕の血液型のみが判明した、という内容でした。

 つまりは本物の血痕であったわけです。慶長五年(1600)6月の伏見城合戦で西軍4万の攻撃を受けて落城、自刃した城代鳥居元忠以下徳川の武士たちのそれです。U氏が「徳川家の礎となりて果敢に散ったもののふの霊に黙礼」と言い、私も頭を垂れて祈ったのは、自然な成り行きでした。

 

 本堂を退出した後、U氏が「建物の外観にも何か徳川家の証しが残されてるのかな」と言うので、「武家の殿舎だったのならば、大抵は屋根の瓦とかに家紋が入るけど、ここの屋根は杮葺きなんで、あとは妻飾りの懸魚ぐらいしかないかも」と答えました。

 

 それで、庫裏の前庭まで戻って、上図のように見える本堂の屋根の妻飾りに視線を移してみました。

 

「あ、あれか、まさに徳川葵だ」
「せやな」
 U氏は感動しつつ、ザックから双眼鏡を取り出して再度見上げていました。

 

 デジカメの望遠モードで撮りました。間違いなく徳川葵が彫られてあります。徳川期伏見城御成殿であったことの確かな証拠が、二度の移築と内部空間の改造を経てもなお、懸魚の紋章にとどめられているのに、感動してしまいました。二人ともしばらくその彫り物を見上げていました。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く38 その12  高ボッチ山山頂

2024年04月27日 | ゆるキャン△

 高ボッチ高原の第2駐車場の東側に戻ってきました。左の看板に高ボッチ山頂まで400メートルとあります。志摩リンもここから登っていますので、同じルートで山頂に向かいました。

 

 第2駐車場の東からの登り道は、いわゆる木柵道で、ゆるやかな階段付きの登り道でした。振り返ると、奥に第2駐車場が見えました。その景色も劇中に出ています。

 

 このシーンですね。季節的にあまり変わらない時期ですから、周辺の自然状況もほぼ同じでした。

 

 途中、左手つまり北側にあった高ボッチ高原の標識。落雷にあったのか、看板が上から縦に裂けてしまっていました。

 

 同じ位置で反対側の南側を見たところです。木柵の向こうの平坦地の奥は傾斜面になって谷間へと繋がりますが、ここからではその地形が見えませんので、谷間を隔てた奥の小ピークの平坦面までずっと繋がっているように見えました。

 

 同じ位置で前方、つまり東側の山頂方面を見ました。道は真っすぐに奥の高台へと通じていましたので、あの平たい高台が山頂なのかな、あんまり山頂っていう地形や雰囲気じゃないなあ、と思ったりしました。

 

 歩いて5分で山頂に着きました。標識とケルンっぽい石積みがありました。

 

 山頂に到達した志摩リンの図。ポケットに両手を突っ込んだままですが、寒かったのでしょうか。私の時は晴れていましたから暖かく、なぜか横風も止んでいたので、あまり寒さを感じませんでした。

 

 なにかちょっと劇中と違うような・・・。ケルンの石積みがそんなに高くないのでした。

 

 劇中のシーンです。望遠レンズで引き寄せて撮った図が元になっているようで、実際はもっと奥にある枯れ木が大きく見えます。同じ効果でケルンの石積みも実際より大きく、高く感じられます。

 

 劇中シーンに合わせて、改めて山頂標識を撮りました。刻まれる文字も全て一致しています。標高は1664.9メートルとありますが、だだっ広い高ボッチ高原の平坦な地形があまり高さを感じさせなかったせいもあって、1600メートル余りもあるのか、と少し驚いてしまいました。  (続く)

 

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黒森峰女学園 Ⅱ号戦車F型 作ります !!  その2

2024年04月26日 | ガルパン模型制作記

 ステップ3ではサスペンションを組み付けます。ステップ4では車輪類を組み立てて車軸にセットしますが、私の製作では塗装後に取り付ける予定です。

 

 ステップ3にて組み立てるサスペンションやギアカバーなどのパーツです。

 

 組み上がりました。

 

 ステップ4の工程は、車輪類を組み立てて、塗装後の取り付けまで保管しました。上図の右が組み立て前、左が組み上がった状態です。転輪のC14とC15の合わせがちょっとキツかったので、ヤスリで浚って調整しました。

 

 ステップ5では履帯を組み立てます。連結式ですが、直線部分はワンパーツになっていますので、全体的に組みやすいです。最近のキットではこの方式が増えているように思いますが、連結式履帯がいまだに苦手な身にとっては有り難い配慮です。

 ステップ6では、上部車体を組み立てます。前面装甲のA25は、取り付け位置がガイド図ではよく分からなかったので、後のステップ8にて組み付ける下部車体と仮組みを試したところ、A3の前端と合わせるのではなく、A3の前端より前に約0.5ミリ出して接着するのが正しいことが分かりました。
 これを知らずにA3の前端に合わせてしまうと、ステップ8にて下部車体と合わせた際に段差が出来てしまいますので、要注意です。

 

 ステップ5の履帯の組み立て作業の途中です。上下の直線部分はワンパーツになっているので、1コマ1コマを繋げる範囲は起動輪および誘導輪に巻き付ける部分、下部より持ち上がる部分だけになります。ドラゴンのマジックトラックよりは大変に楽です。

 

 片側の履帯が組み上がりました。上図のように四つのパーツに分割しておいて、塗装後の組み立てにおいて繋いで仕上げる予定です。

 

 左右の履帯パーツが仕上がりました。上図のように厚紙に仮留めして塗装まで保管しました。

 

 ステップ6で組み立てる上部車体のパーツ類です。

 

 組み上がりました。上図では分かりませんが、前面装甲のA25は、A3の前端より前に約0.5ミリ出して接着しました。

 

 ステップ7では戦闘室周囲の装甲板を貼り付けます。ステップ8では上下の車体を合わせます。

 

 ステップ7で組み立てるパーツ類です。

 

 組み上がりました。

 

 バイザーのA10もガイド図の指示通りに取り付けました。

 

 ステップ8にて貼り合わせる上下の車体です。

 

 貼り合わせました。寸分の狂いもなく、隙間もなくピッタリと気持ちよく組み合わさっています。タミヤの製品に全然ひけをとらないレベルです。今回のアカデミーを始め、海外メーカー製品の精度が国内メーカー並みか、それ以上になってきている傾向を改めて感じさせられて興味深いです。  (続く)

 

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「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る その26 C10形8号機ふたたび

2024年04月25日 | ゆるキャン△

 12時53分に家山駅を出たEL急行かわね路号は、次の停車駅で終点の新金谷駅へと向かいました。神尾駅を通過した後で大きく右にカーブした時、車窓からは先頭のE31形電気機関車が見えました。昨日と同じE34号機でした。

 このように、急行かわね路号は両端にSLとELを繋いで、どちらが先頭になるかでSL急行かわね路号とEL急行かわね路号のどちらかになっています。これは千頭駅までの不通区間があって川根温泉笹間渡駅で折り返しになるため、本来ならば千頭駅で転車台を使って蒸気機関車の向きを変えて切替して新金谷行きでも先頭にすることが出来ないからです。

 それで、現状では単なる往復運転の形になっており、千頭側にSL、新金谷側にELを繋いだまま、牽引車と補機を交替させているだけで、SL急行かわね路号およびEL急行かわね路号の運行がなされています。これはこれで面白いと思いますし、SL急行かわね路号とEL急行かわね路号の両方を楽しめるというメリットがあります。

 個人的な感覚で恐縮ですが、SL急行かわね路号とEL急行かわね路号とでは、明らかに列車の揺れや振動が異なっています。SLの時は、前にも述べたように、あまり感じたことのないカク、カクッという感じの縦の小刻みな揺れがあった気がしましたが、ELの時はその小刻みな揺れがありませんでした。加速もスーッといき、減速もスルスルとスムーズにいった感じでした。

 

 13時19分、終点の新金谷駅に着きました。これで昨日のSL急行かわね路号、および今日のEL急行かわね路号への乗車が終わりました。切符を譲ってくれた川本氏に感謝、です。

 

 ホームの反対側には、先の普通列車であった南海の21000系が停まっていました。

 

 午前中に大井川第一橋梁を渡るのを撮影し、川根温泉笹間渡駅でも撮影し、そしてここ新金谷駅でも撮影しましたので、同じ車輛を何枚撮るんだろう、と自分でもちょっと不思議に思いました。

 

 列車の最後尾にて補機として働いていたC10形8号機を見に行きました。

 

 昨日は曇りでしたが今日は晴れましたので、機関車の車体も陽光を浴びて白っぽく浮かび上がり、ナンバープレートの金色部分が光っていました。

 

 斜め前から撮りました。どこから撮っても絵になるのが蒸気機関車です。

 

 カッコいい。実にカッコいいです。生きている蒸気機関車の独特のオーラのようなものも感じ取れて、ずっと眺めていても飽きませんでした。

 

 このC10形8号機は、御覧のようにデフレクターが付いていません。そのために大きなボイラーの円筒部分が目立って見えて、この蒸気機関車の迫力と存在感を際立たせているように思います。Nゲージの模型も持っていますが、姿は同じなので、模型でもやっぱり大きなボイラーの円筒部分が目立って見えます。

 

 昨日と今日の列車に乗れて楽しかったぞ。有難う。今度は嫁さんと一緒に乗りに行きます。 

 

 運転室を撮らせて貰いました。何度見てもこの数多くの操作機器類のメカメカ感が良いですね。こういう運転室内部も精巧に再現出来るプラモデルとかあったら、作ってみたい気がします。  (続く)

 

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「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る その25 EL急行かわね路号に乗る

2024年04月24日 | ゆるキャン△

 12時42分に川根温泉笹間渡駅を発車するEL急行かわね路号の4号客車、スハフ42-2186に乗りました。その車内は御覧の通り、明るい色調で戦後の車輛の雰囲気でした。

 

 洗面室が付いていて、ドアが付いていないので、通路から内部が見えました。向かいにトイレもあるようですが、そちらはドアが閉まっていました。

 大井川鐡道の旧型客車は昔ながらのトイレのままなので、用便は戦前と同じようにそのまま線路に垂れ流しであると聞いたことがあります。だから、鉄道ファンが大井川鐡道の線路には近寄らない傾向がある、という噂も聞きましたが、それは本当かもしれないな、と思いました。

 

 昨日購入しておいた切符と、席番号プレートを並べて記念に撮りました。この日の席は4号車の12番Dでした。

 

 これは懐かしいです。子供の頃はこういう栓抜きが普通に鉄道車両の窓のテーブル下に付いていましたから、当時は瓶だったジュースの王冠をこれに噛ませてガチンと開けたものです。

 

 栓抜きの部品を見ました。シンプルな形状ですが、これで確実に瓶の王冠を抜くことが出来たのです。いまは飲料は全てプルトップ付きの缶になりましたから、こういう栓抜きは使ってみる機会がなかなか無いでしょうね。昔ながらの瓶ジュースとかを車内販売してくれれば、実際にガチンと抜く懐かしいアレが味わえることでしょう。

 

 天井の照明も古いタイプで、一部しか点灯していませんでした。昼間ですから最低限の点灯で済ませているのでしょう。

 

 よく見たら、中央の一列は完全に消してあって、左右の列の照明が交互に一つずつ点けられていました。そういう点灯方式になっているのでしょうか。

 

 発車時刻の一分後に撮った、車輛の番号札と車番。

 

 10分後の12時52分に家山駅に着きました。1分弱ぐらい停車しました。

 

 家山駅の駅名標。昭和の状態のまま、令和の空間のなかで時を刻んでいます。ホームの上屋も昭和四年(1929)12月1日 開業以来のままだそうで、柱も表面に朽損が目立ちますが、まだしばらくは現役であるようです。

 

 ホームの向こうの側線には、見慣れたホキ800形の姿がありました。

 

 そのホキ800形の金谷側には、初めて見る上図の小さな台車が4つ並んだ形の平形車輛がありました。あれが保線用トロッコだな、と気付きました。これが家山駅にスタンバイしているということは、保線工事が時々行われているのだろうか、と思いました。  (続く)

 

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伏見城の面影8 正伝寺本堂へ

2024年04月23日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 西賀茂の正伝寺は、いまの京都では珍しい隠れ古寺の一つです。快晴の土日においても訪れる人は少なく、御覧のように紅葉に彩られた広い境内地にも人影はなく、静寂に包まれて悠久の時を刻んでいるかのようでした。

 

 その優雅とも静謐ともいえる佇まいに感動し、上機嫌になったU氏ですが、言葉を発することはなく、胸の中で深く感慨を保っているらしく、ただカメラを周囲に色々と向けては撮り、ファインダーの中の景色と、実際の視界とを同時に味わっているようでした。

 上図は庫裏で、その玄関が開け放たれてありました。あれを入れば拝観受付があるのか、と考えましたが違いました。横にみえる下駄箱の左手に通路があって、その奥に受付がありました。

 

 U氏が「あれだな」と上図の門と塀の奥に見える杮葺の建物を指しました。私も初めて見ましたが、間違いなくあの建物がめざす旧伏見城建築遺構だ、と直感的に悟りました。それほどに、寺院の建物らしくない外観であり、城郭の御殿の建物らしい雰囲気が濃厚にただよっていました。

 

 拝観受付で手続きをして、住職に案内されるままに通路を通って本堂である方丈の縁側にあがり、ふと南を見ると白砂の石庭を囲む白壁の土塀の向こうに、くっきりと比叡山が望まれました。U氏が「北嶺を借景にしてるとはなんと贅沢な・・・」と言いましたが、その後の言葉が絶えて聞こえませんでした。

 

 なぜかというと、噂に聞いた庭園が、御覧の通りのシンプルな白砂の石庭であったからです。向かって右手に唐門と丸い植え込みが並んで、海中の島々とその建物をシンボライズしていましたが、龍安寺や大覚寺や醍醐寺の石庭に比べると随分あっさりした構成でした。

 その簡素で分かりやすい庭園は、U氏にとっては予想外だったらしく、「これがデヴィッド・ボウイの・・・」と小声でやっとのように呟いていたところをみれば、かなり想像と違ったようでした。もっと苔むした、古びた侘び寂びの風情の佇まいをイメージしていたようです。

 私のほうは、南禅寺派の寺だからこんなものだろう、と考えていました。それよりも南禅寺派の寺であることが重要なのだ、と思い当って少し興奮してしまいました。だから伏見城からの移築建築が本堂になっているのか、と腑に落ちた思いでした。

 

 そうなると、この唐門ももしや伏見城からの・・・、と思ったりしましたが、流石にこれは後年の建物であるそうでした。江戸末期か明治頃に建て直したということですが、詳細は不明です。

 

 この「獅子の児渡しの庭」は、江戸初期に小堀遠州によって作庭されたと伝えますが、確証はありません。白砂に石を用いないのが特徴で、丸いサツキの刈り込みも、向かって右から七、五、三と配されています。いわゆる「七五三式」の枯山水の庭です。

 

 本堂である方丈の縁側の端の杉戸を見ました。かつての絵画が白い胡粉の痕跡のみとなっていました。何の絵だったんだろう、とU氏が言うので、揃って杉戸に近寄りました。

 

「近づいたら余計に分からんぞ、木目ばっかり目立って見えてくる」
「うん」

 

 外側も一応のぞいてみましたが、なにか草木っぽい絵の痕跡が白や黒のシミのように見えたのみでした。

 

 方丈内部の向かって左端の間です。御殿建築でいう上の間の空間にあたります。正伝寺に移築した際に中央に仕切りを入れて襖を入れたようで、欄間や天井にもかなりの改造や修理が加えられているのが見て取れました。伏見城にあった頃とは空間構成からして異なっているようです。

 

 ですが、いま東面する上図の縁側は、伏見城のいわゆる「血天井」がはめ込まれている他は改造の痕跡が見当たりませんでしたから、この廊下と軒先の外観はおそらく伏見城の殿舎のそれを保っているものと思われます。

 

 この本堂は、寺伝によれば、もとは伏見城本丸の御殿の御成殿であった建物で、伏見城の廃城後に南禅寺塔頭金地院に移築されて小方丈として使用されました。それがが承応二年(1653)に再び移築されて、南禅寺派の正伝寺の本堂とされ、現在に至っています。
 内部の障壁画は、作風等から狩野山楽一派の筆と推定され、国の重要文化財に指定されています。廊下のいわゆる「血天井」は、伏見城の戦いで伏見城が落城する際に自刃した鳥居元忠らの血痕が残った廊下の板を用いたものと伝わっています。

 なお、正伝寺には御成殿とは別にもう一棟、御前殿であった建物が伏見城より移築されたといいます。その建物は正伝寺にて仏堂として使用されましたが、寛文六年(1666)に新たに建て直されたということです。その建物を、明治二十三年(1890)に東山の長楽寺が購入して移築し、本堂として現在に至っています。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く38 その11  高ボッチ山山頂へ

2024年04月22日 | ゆるキャン△

 高ボッチ高原の牧場入口から引き返し、高原の中央を南北に通る上図の高ボッチスカイラインに進んで北へ登り、次の聖地スポットを探しに行きました。
 志摩リンは牧場入口のほかに高ボッチ山山頂にも行っており、その山頂へは第2駐車場の東から行く道があるので、いったん第2駐車場まで戻る形になりました。

 その途中で眺めた上図の景色も、劇中のシーンによく似ていました。

 

 このシーンですね。3基の電波中継塔が並んで見える点は同じですが、傾斜面が実際の地形よりも急になっています。実際にはそんなにきつい登り坂ではありませんから、アニメ特有の強調表現がなされているのだろう、と思います。

 

 道の右手遠方には諏訪湖が望まれました。劇中でも志摩リンが山頂から降りる途中で諏訪湖の見える辺りを歩く場面がありますので、上図の範囲にそのルートがあるのかな、と思って地図を見、辺りの様子を確かめました。ですが、園路はその辺りにはなくてもう少し北側にありました。

 地図でみると、上図の位置は「ふれあい広場」のある小ピークの北西側にあたっていました。

 

 デジカメの望遠モードで撮影した諏訪湖と諏訪市街です。

 

 道を進みつつ、高ボッチ山山頂の方向を見ました。山頂というから一段高い地形を想像していましたが、実際には上図のような台状の高台といった雰囲気でした。高ボッチ高原の最高所の平場、といった感じに見えました。

 

 牧場入口から歩いて13分で第2駐車場の東に着きました。高ボッチ山山頂への園路の入口が、既視感をともなって見えました。ここだ、志摩リンが山頂の方角を見ていた場所は・・・。

 

 このシーンですね。左わきの看板も同じのようですが、何と書いてあるのかは分かりませんでした。

 

 実際の看板はこういう感じでした。デザインは共通でした。看板の下には現地の見取り図が付いていました。

 

 その見取り図に近づきました。道が3種類あって、車道、木柵道、ロープ柵道とあります。なるほど、電波中継塔の下から牧場入口まで行ったあの両側が柵の道が木柵道か、と納得しました。

 この図でみると、現在は管理棟になっている「高ボッチ高原自然保護センター」から牧場までの木柵道を下り、牧場から車道に進んで北上して、「ふれあい広場」の横を通って第2駐車場の東の「現在地」に居る、という私の行程がシンプルによく分かります。

 

 看板から道をはさんで反対側、南側には上図の標識があります。これも既視感バッチリでした。

 

 そのまま劇中に登場しているからです。しかし、右横の鉄柵は最近のテントサイトエリアの整備工事で撤去されたそうなので、現在はありません。  (続く)

 

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黒森峰女学園 Ⅱ号戦車F型 作ります !!  その1

2024年04月21日 | ガルパン模型制作記

 前回のパンターG型に続いて今回も黒森峰女学園チームの戦車を作ります。最終章第4話の無限軌道杯準決勝戦に臨んだ逸見エリカ率いるチームの上図のⅡ号戦車F型です。ガルパンにおいては、コミック版の「リボンの武者」にて既に同チームのシュバルツバルト戦闘団のⅡ号戦車F型が活躍していますが、アニメ本編では初の登場でした。

 

 車体カラーもアニメの黒森峰女学園チームにおいては初のグレーです。史実のドイツ軍の初期の車体カラーでもあり、これまでブラウン系のカラーばかりであった黒森峰女学園チームに新たな彩りを添えています。

 

 Ⅱ号戦車F型そのものは、アニメシリーズにおいては既に西住家の車輌、青師団高校チームの車輌が登場していますが、最終章第4話にて黒森峰女学園チームの所属車輌として参戦したことにより、いよいよドイツ軍装甲部隊の末裔たるに相応しい陣容の一角を表してきた、という気がします。

 試合には2輌が参戦して逸見エリカ直率のの遊撃部隊に属し、うち1輌には前の試合で逸見エリカと搭乗車を交替した入間アンナが搭乗して果敢な威力偵察を試みるなどの活躍を行なっています。

 

 その健闘をたたえて、今回はアカデミーの新製品で製作にチャレンジしてみました。

 これまでガルパンのⅡ号戦車F型の製作においてはタミヤ、ドラゴンの製品を利用してきました。それらに対して、2021年9月に発売されたアカデミーの新キットではいかなるクオリティにて仕上がるのかに興味があり、キットも発売日直後にすぐ2個を確保して、しばらく手元に置いていました。

 最初はこの2個で「リボンの武者」のシュバルツバルト戦闘団の5号車と6号車を作ろうと考えていましたが、嫁さんが作りたいというので1個を渡しました。残り1個は、別の車輌に仕上げるか、と思案しつつも月日が流れてしまい、最終章第4話の公開上映の時期に至ってしまいました。
 ですが、幸いにも逸見エリカ率いる黒森峰女学園チームの新陣容の一翼としてⅡ号戦車F型がアニメでの初登場を果たしてくれましたので、その劇中車を再現するという流れに落ち着いた次第です。

 ガルパンのアニメの劇中車は、西住家の車輌、青師団高校チームの車輌、そして今回の黒森峰女学園チームの車輌のいずれも仕様は共通で、つまりは元ネタと推測されるドラゴンの実車準拠の仕様であるようです。今回のアカデミーのキットも、北アフリカ戦線仕様となっていて劇中車と同じですので、基本的にはストレート組みでもいけそうだと判断しました。細部の異なる箇所のみ小改造やパーツ差し替えで対応しよう、と決めました。

 

 キットの中身です。ドラゴン並みのパーツ分割がなされていますが、細密化には至っていないのでパーツ数はそんなに多くはありません。取扱い易さ、組み立て易さ、への配慮がなされていることが分かります。

 

 組み立てガイドは安定のA4サイズ、印刷はカラーで、最近の海外メーカー製品の一つの傾向を顕著に示しています。コスト削減に血眼になるあまり、サイズも質も落としてゆく国産メーカーの凋落じみた斜陽化傾向との格差が歴然としています。

 

 こういう大きなサイズで、カラー印刷ですから、見やすく、扱いやすく、プラモデル製作も楽しくはかどるというものです。これが重要なポイントですが、タミヤもファインモールドも、同じような品質では作ろうとしないのでしょうか。それとも、衰退する日本企業の常で、作る余力すら無くなっているのでしょうか。

 

 ステップ1およびステップ2では、下部車体を組み立てます。背面部のフックのB14は劇中車のと形が違いますので、ドラゴンのジャンクパーツと交換します。

 

 ステップ1で組み合わせるパーツは上図のごとくです。

 

 ステップ2までのパーツも一緒にして一気に組み上げることにしました。車体は箱組みですが、中に組み入れるパーツB24、B25にはダボが付き、それをはめ込むダボ穴もB1、B2、B28にそれぞれ完備しており、カッチリと確実に組み合わせられるようになっています。タミヤやドラゴンのキットには無かったこの一点だけでも、アカデミーの「本気」を感じさせられます。

 

 あっという間に組み上がりました。合わせる面に凹凸が付けてあったりしますから、ズレや歪みや付け間違いが起こりようがありませんでした。これは組み立て易いキットだな、と感じました。

 

 ひっくり返して底面を上にしました。このように底面のリベットやバッチ類も精巧にモールドされています。ドラゴン並みの精度であり、古くてモーターライズ品であったが故に底面の表現が完全省略されているタミヤ製品とは大きな隔たりを見せています。

 隣国のメーカーがこのように頑張っているのですから、タミヤさんもそろそろ本気を出して、Ⅱ号戦車F型のキットに関しては劇的なリニューアルを敢行していただきたいところです。  (続く)

 

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「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る その24 大井川第一橋梁を渡るSL急行かわね路号

2024年04月20日 | ゆるキャン△

 道の駅の休憩ルームでまったりと30分ほど横になって休んだ後、12時20分に再び大井川第一橋梁へ向かいました。これから乗る急行かわね路号がC10形8号機に牽引されて大井川第一橋梁を渡るので、その姿を下から撮ろうと予定していたからです。

 撮影地点へ移動する途中で、また上図の鮮やかな黄色のイチョウを撮ってしまいました。周囲に同じ木が無く、線路沿いの高所の目立つ場所に高くそびえているので、何度見ても印象的でしたし、何度も撮ってしまう美しい姿なのでした。

 

 撮影予定地点につきました。時刻は12時23分でした。先に普通列車の21000系を橋の東側から撮ったので、今度は橋の西側に陣取りました。まもなくSL特有のドラフト音がかすかに響き始めました。

 

 来ました、SL急行かわね路号の列車です。橋を渡る直前に合図の汽笛を鳴らしていました。周囲に居た6人の撮り鉄らしき方々がカメラを構えていました。

 

 排煙が無く、ゆっくりと速度を落としつつ、周囲の人々に姿を誇示するかのように鉄橋の上を進んできました。これはカッコいい、本当にカッコいい、間違いなくカッコいい・・・。この雄姿をNゲージで再現してみるのもアリだな、と思いました。

 

 そして、私の直上を通過してゆきました。実は橋の向こうに川根温泉ホテルの建物もおさめてSL急行かわね路号の姿を撮る予定だったのですが、この通り、なんとかいい絵に撮れて成功しました。

 

 昨日私が乗った時と同じ7輌編成で、最後尾の補機も同じ電気機関車でした。おそらく、昨日と同じ編成だったのかもしれません。

 

 鉄橋を渡って川根温泉笹間渡駅へ向かう列車を追いかけて、線路の下の連絡路を通ってホームへの歩道を急ぎました。この列車が折り返して12時42分にEL急行かわね路号として発車するのですが、それに乗る予定だったからです。

 

 既に列車は駅に着いて停まっていました。が、ホームが短いので、7輌編成の客車の後ろ3輌ほどはホームに入らないのでした。

 

 なので、上図のように客車の1号車から3号車まではホームに出られません。1号車から3号車までの乗客は車内通路を4号車まで移動して4号車から降りることになります。

 

 やっぱり客車7輌というのは、この大井川鐡道本線においては長過ぎる編成なんだろうな、と思いました。川根温泉笹間渡駅のような小さなホームの駅も少なくありませんから、新金谷駅から千頭駅までの全線を普通に走っていた頃は、途中の停車駅が家山駅のみであった、というのも頷けます。

 

 御覧のように、3号車までがホームの端になっているので、乗降口ドアは閉じられたままでした。

 

 で、4号車からがホームに入っていて乗降口ドアも開かれていました。昨日購入しておいた切符を取り出して確認したところ、これから乗る客車はこの4号車でした。  (続く)

 

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「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る その23 大井川第一橋梁にて

2024年04月19日 | ゆるキャン△

 11時37分、この日の最初の普通列車が走行音を響かせながら大井川第一橋梁に近づいてきました。

 

 車輛は旧南海の21000系でした。

 

 鉄橋を渡る電車の姿は、模型的にみても絵になりますから、実物がカッコ良く見えるのは当然でした。

 

 サーッと通過していきました。それを見送っているうちに、時間がたっぷりあるから、川根温泉笹間渡駅まで追いかけて撮るのも良いな、と思いつきました。

 

 それで、道の駅駐車場を横切って線路沿いの歩道を歩いて川根温泉笹間渡駅へ向かいました。

 

 既に駅ホームに停まっている21000系が見えました。なんだか模型みたいだな、Nゲージのジオラマをきちんと丁寧に精巧に作ったら、同じような風景を再現出来るのかもしれないな、と思いました。

 

 ホームにあがりました。この川根温泉笹間渡駅は無人駅なので、ホームへは二ヶ所の出入口から自由に出入り出来ます。地方鉄道ではよくある無人駅の一般的な状態ですが、鉄道の写真を撮ったりする場合にはこの自由さが重宝します。

 

 しかし、この車輛も本当に頑張っています。昭和三十三年(1958)製造ですから私よりも八歳上です。昔は南海高野線の特急か急行として走っていて、私も学生の頃に高野山詣りにて乗った記憶があります。

 

 車体の銘板とナンバーからモハ21001と分かりますが、これは21000系の一号機であるわけですから、最初の車体がいまなお現役であることが知られます。鉄道マニアでなくとも、この車輛の貴重さが理解出来るでしょう。

 

 そろそろ折り返し発車時刻になるので、歩道を引き返して線路沿いの撮影ポイントに移動しました。線路の東側には茶畑が広がっていました。

 

 折り返して発車してきた21000系を撮りました。こうしたローアングルでの撮影は初めてでしたが、車輪がちょうど目の高さにあるので、走行音がゴオオオッと響いて迫力がありました。

 

 道の駅に戻って、食堂で名物の「幻の塩ラーメン」をいただきました。大井川鐡道エリアにおけるゆるキャン聖地巡礼の食べ物と言えば、ダムカレー、豚串、川根茶ソフトですが、個人的にはこの「幻の塩ラーメン」も加えて4大グルメとしております。

 「幻の塩ラーメン」は、上図のように売店コーナーでも販売していて、お土産に持ち帰ることが出来ます。

 

 今回は、嫁さんにリクエストされていましたので、7箱買いました。1箱2食入りです。うち5個はモケジョ仲間にあげるのだそうです。

 

 あと、上図の川根温泉由来の塩も買ってきてくれと頼まれていましたので、上図の「かわねのごえん」を1瓶、右の詰め替え用パックを2パック買いました。

 嫁さんによれば、市販の加工品の食塩よりもこういった天然成分析出の塩のほうが体にいいのだそうです。
 もともと我が家の台所には、管理栄養士の嫁さんの意向によって塩と砂糖は置いていないのですが、砂糖はともかく、塩は無いと困る場合があるので、出来たら天然温泉系の塩を少量でもいいから置きたいね、という話をしていました。

 天然温泉由来の塩は全国どこでも多様多種な製品が売られていますので、今回は泉質の良さでも定評のある川根温泉の析出塩を試してみよう、となった次第でした。  (続く)

 

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伏見城の面影7 正伝寺へ

2024年04月18日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2023年11月6日、水戸のU氏との京都歴史散策二日目は朝8時からスタートしました。北大路バスターミナルで待ち合わせて市バス1系統に乗り、上図の神光院前バス停で降りました。

 U氏が「この辺は初めて来たな。神光院って、京都の三大弘法のひとつだったよな」と言いました。
「へえ、そうなのか」
「なんだ、知らなかったんかね」
「京都に長く住んでても、知らない事は一杯あるからな」
「それもそうだ、あははは」

 

 この日訪ねたのは、北区西賀茂に所在する正伝寺でした。私がリクエストして今回の歴史散策スポットに加えたのでしたが、U氏も私もこれまで全然行った事のない寺でした。
 U氏もそれで色々調べたらしく、「この正伝寺っての、デヴィッド・ボウイのCMのロケ地だったらしいぞ、面白いなあ」と言いました。

 デヴィッド・ボウイは、周知のようにイングランド出身のロック歌手ですが、U氏や私の世代にとっては俳優のイメージも強く、YMOの坂本龍一と共演した「戦場のメリークリスマス」のジャック・セリアズ少佐の姿などがいまも印象に残っています。

 正伝寺には、「獅子の児渡しの庭」と呼ばれる京都市指定名勝の庭園があります。たびたび京都を訪れていたデヴィッド・ボウイは、正伝寺の庭園を特に気に入っていたそうで、宝酒造のテレビCMに起用された際、自ら正伝寺を撮影場所に希望し、その通りになったといいます。

 そんなに美しい庭園ならば、一度は見てみよう、というのも今回の正伝寺行きの理由の一つでありました。バス停から西へ進んで住宅地の中を、道標を確かめつつ上図の旧参道筋へと歩きました。

 

 門前に着きました。「おお、いいじゃん、いいじゃんか、この如何にも京の隠れ古寺、って風情がね」とU氏が嬉しそうに言い、門へ進もうとする私を左手で制しつつ、右手で右脇の寺号標を指しました。

 

 U氏が指した寺号標です。吉祥山正伝護国禅寺、と刻まれています。
「ほう、禅寺にしてはカッコいい正式名称だね。山号が吉祥山というのが素晴らしい。護国禅寺って奈良仏教のあれ、護国之寺とかみたいでカッコいいな」と上機嫌なU氏でした。

 

 門の左に立てられている案内説明板。例によって二回読んで「なるほど、本堂の方丈が伏見城の遺構であると伝えられてるわけか」と頷いていました。

 だから私もここをリクエストしたのでした。伏見城の建物が各地へ移された経緯を古文献などで色々と追っているうちに、南禅寺へ幾つかの建物が移された伝承につきあたり、とくに塔頭の金地院を介してさらに同じ南禅寺派に属するここ正伝寺に御成殿の建物が移築されたという件を知りました。
 この移築伝承には、さらにもう一ヶ所の寺院が含まれますが、それは後日の機会に回して、今回はここにやってきた次第でした。

 

 門にかかる表札には「正伝禅寺」とありますが、U氏は「これ上手な字なのかね、なんだか小学生の書道の作品みたいに見えるんだが」と、さりげなく凄い事を言っていました。

 

 ですが、門をくぐって中に進むと、U氏のテンションが再び上がりました。さっきよりも上機嫌になって「いいねえ、いいじゃん、この鬱蒼たる原生林のなかにひっそりと静まる境内地、あの小さな簡素な門。これですよ、こういうのが京の隠れ古寺、禅の古刹ってなもんだよなあ・・・」と熱っぽく語るのでした。

 

 門からの参道は左に折れてこの小さな門をくぐり、右に曲がって階段となっていました。この小さな門は近年に出来たもののようです。

 

 階段をあがると上図のまっすぐな道が林間の奥に伸びていました。なかなかいい雰囲気でした。山門から本堂までの距離が思ったよりもありそうなので、急がずにゆっくりと周囲の自然を眺めつつ歩きました。

 

 紅葉も綺麗でした。

 

 やがて道は再び長い階段となり、左手には苔むした石垣が二段ほど続いていました。U氏はますます雰囲気が気に入ったようで、「デヴィッド・ボウイは、正伝寺の庭園を特に気に入ってたそうだけどさ、実際は庭園だけじゃなくって、こういう境内地の雰囲気も好きだったんじゃないかねえ」と言いました。そうだろうな、と私も思いました。

 

 この石垣はおそらくは、かつて建ち並んでいた坊院か塔頭の区域のそれだろうと思います。

 この正伝寺は、鎌倉期の文永年間(1264~1275)に播磨国の禅僧の東巌慧安(とうがんえあん)が師の兀庵普寧(ごったん ふねい)を勧請開山として烏丸今出川に創建したのが始まりとされます。
 その後、寺は比叡山延暦寺の衆徒によって破却されましたが、弘安五年(1282)に賀茂社の社家・森経久の援助により現在地に移されて再興され、元亨三年(1323)には後醍醐天皇より勅願寺の綸旨を賜りました。室町期には天皇家および足利将軍家の帰依を受けましたが、応仁の乱の兵火により荒廃しました。

 それを復興したのが徳川家康で、江戸期には塔頭を五か寺有していたといいます。徳川家の支援により復興した寺が現在に至っていますので、本堂の方丈が伏見城の遺構であると伝えられるのも、おそらくは徳川期再建の伏見城の建物を廃城の際に移築した事例の一つだろう、と思われます。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く38 その10  広い高ボッチ高原

2024年04月17日 | ゆるキャン△

 高ボッチ高原の電波中継塔の下から木柵に沿って園路を下ること約5分、南西にある上図の高ボッチ牧場入口に着きました。劇中で志摩リンがビーノを停めて立ち寄った場所のひとつで、高ボッチ高原上の聖地スポットとしては最も南に位置します。

 

 劇中シーンでもそのままの景色が描かれています。時期的にも同じ季節に訪れましたので、周囲の枯れ草の様子や作業小屋の脇の丸太も同じでした。

 

 向かって左側にある屋根付きの何らかの施設です。牛に餌や水をあげたりする場所でしょうか。

 

 高ボッチ牧場入口付近から、もときた道や電波中継塔の方角を見ました。この風景にも既視感がありました。

 

 このシーンですね。志摩リンはこの後高原の北側へ回っていますので、同じルートを私も歩いてみることにしました。

 

 電波中継塔からずっと降りてきましたから、今度はゆるやかに登る形になりました。両側にはクマザサやススキが広がって風に揺れていました。

 

 道を突き当りまで行くと三叉路に出て、高ボッチスカイラインに合流しました。その付近で浅い谷間になっていて、東側から南側に眺望が開けていました。御覧のように諏訪湖の一部と諏訪市街が望まれました。

 

 高ボッチスカイラインを北へ進み、電波中継塔を目印にしながら周りの景色を見ました。劇中で志摩リンがビーノで走っている道なので、劇中シーンの景色が他にもあり、それらの場所を探しながら歩きました。

 

 高ボッチ高原の南から二番目のピークに「ふれあい広場」と呼ばれる展望スポットがあり、その西側をゆるやかに登るあたりで電波中継塔を見て、このへんかな、と立ち止まりました。

 

 劇中ではこういう見え方です。志摩リンがキャンプ飯を作る場所を探して、高ボッチ牧場入口まで行く途中のシーンです。引き返す場面でも似たようなアングルがありますが、実際に現地を歩いてみますと、電波中継塔はもっと遠くに見えますので、劇中シーンの電波中継塔はかなり近い感じです。  (続く)

 

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黒森峰女学園 パンターG型(3輌目) 作ります!! その3

2024年04月16日 | ガルパン模型制作記

 ステップ6ではエンジンフードパネル辺りを組み立てます。パーツC14およびC41は劇中車に見えませんので不要です。
 ステップ7では、車体右側面の装備品類を組み付けます。このうちのジャッキ台B49の留め具の形を劇中車仕様に変更し、C15は縦にセットします。C39に付けるA3は不要です。装備品は塗装後に組み付ける予定です。

 

 ステップ6で最初に組み立てるエンジン点検ハッチのパネル部分です。

 

 組み上がりました。

 

 続いて通気グリルや送風ファンなどを組み立てます。

 

 車体に組み付けました。

 

 フックのA4を指定位置に取り付けました。

 

 ステップ7で組み立てる車体右側面の装備品類のパーツです。車外装備品と、その据え付け具です。

 

 据え付け具を全て組付けました。C15は縦にセットし、車体と同じカラーの消火器K19も取り付けました。あとの装備品は塗装後に取り付ける予定です。

 

 予備履帯を組み立てます。これも塗装後に取り付ける予定です。

 

 ステップ8では、車体左側面の装備品類などを組み付けます。パールのK1は劇中車では未装備ですので不要です。
 ステップ9では、砲身を組み立てます。内部は作りませんので、B3、B4は不要です。またB33も劇中車に見えませんので不要です。

 

 ステップ8で組み立てる車体左側面の装備品類のパーツです。車外装備品と、その据え付け具です。

 

 組み上がりました。あとの装備品は塗装後に取り付ける予定です。

 

 ステップ9で組み立てる砲身のパーツ類です。

 

 組み上がりました。昔から一番好きなドイツ戦車がパンターですので、その長砲身の70口径75ミリKwK42L/70は何度見ても惚れ惚れしてしまいます。  (続く)

 

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