気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

継続高校 T-20コムソモーレツ(フェイズエリカ版) 作ります !!  その1

2023年03月31日 | ガルパン模型制作記

 御存知ガルパンコミックの「フェイズエリカ」です。同じコミックの「リボンの武者」とともに、多数多種の戦車および車輌が登場することで知られます。アニメシリーズには出てこない車輌が多いので、再現製作も様々に楽しめます。

 これらの作中車のうち、私の製作においては、既に継続高校チームの戦車を4輌作っています。トウコ隊長が搭乗するT34/76、そしてBT-5、BT-7、T-26、です。これで計画の半分ぐらいで、継続高校チームの車輌をあと3輌を作る積りでしたが、他の車輌の製作がしばらく続いたために、4年ほど中断する形になってしまいました。

 

 残る3輌は、2022年の10月にまとめて、というか連続で作りました。その1輌目が、上図のコムソモーレツ装甲牽引車です。当記事においては、T-20コムソモーレツと表記しています。

 

 「フェイズエリカ」に登場した作中車の図です。作中車は、形状からみて1941年以降に生産された後期型にあたるようです。車体前部右側にある車載のDT 7.62ミリ機関銃のマウントが円形でなく横に長いオーバルの形になっているのが特徴です。

 

 作中では、第2巻の第7話から登場し、トウコ隊長が天板上に仁王立ちして挨拶に来て転げ落ち、めげずに立ち上がって泥だらけのドヤ顔でサムズアップを決めたものの、逸見エリカ以下をドン引きさせるシーンにて、上図のように描写されています。

 

 そして91ページ5コマ目では、先に挙げた図では見えなかった背面からのアングルが描かれ、背面にも校章マークが付いていることが判明します。

 

 その作中車を再現すべく、上図のホビーボスのキットを購入しました。ホビーボスからは1938年型と1940年型の2種類のキットが出ていますが、上図の1940年型キットには車載機関銃マウントのパーツが2種類入っており、1941年型以降の後期型つまり作中車と同じタイプを製作出来ます。

 

 中身はホビーボスにしては割合にパーツ分割もパーツ総数も少ないほうです。コムソモーレツが小型の車輌であるためでしょうか。

 

 製作ガイドと塗装見本図です。いずれも大きくて見やすいです。

 

 製作ガイドはA4サイズで、御覧のように組み立てガイド図もゆったりと大きく描かれます。日本のメーカーの組み立てガイド図はこのような余白の多いスタイルではないので、少し見づらかったりします。ドラゴンのギッシリ詰め込んで見分けるのが大変な図も、なかなかに疲れます。ホビーボスのこういう見やすさを見習っていただきたいものです。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゆるキャン△の聖地を行く28 その3  新金谷駅にて

2023年03月30日 | ゆるキャン△

 新金谷駅の南側の新金谷車両区には、大井川鐡道本線のシンボルともなっている蒸気機関車の整備施設もあり、この日は運行予定が無かった「かわね号」のC10形8号機の姿も見えました。

 

 デジカメの望遠モードで撮ったC10形8号機。よく手入れされているようで、現役特有のピカピカ感に包まれていました。ですが、昭和5年(1930)の製造ですから既に93年を経た長老格の蒸気機関車で、C10形全23輌のうちの最後の1輌でもあり、いまも現役として動いていますので、存在自体が大変に貴重です。本当の意味での近代産業遺産の一つだと思います。

 

 さらに駐機線の奥に視線をやると、もう1輌のよく見慣れた蒸気機関車の姿がありました。

 

 ああ、やっぱりトーマスも居るんだ・・・。本名は確か、トーマス・ザ・タンク・エンジンだったな・・・。するとここはソドー島のソドー鉄道の整備工場なんだ・・・。

 

 ソドー島のソドー鉄道の幻想は、早くも現実の案内看板によって打ち砕かれました。ここはソドー鉄道ではなくて大井川鐡道新金谷駅の新金谷車両区に隣接するSL広場なのでありました。
 なるほど、蒸気機関車を間近に見られるから、SL広場ですか・・・。間違ってもトーマス広場とは呼ばないのですか・・・。

 

 さて、気を取り直して再度、新金谷車両区内の駐機車輌を見ました。左奥には電気機関車のE10形が見えました。昭和24年(1949)製造、大井川本線の電化に伴い新造した電気機関車であるそうです。以前に千頭駅の構内で見かけた記憶がありますので、時々何らかの形で走っているようです。

 

 さらによく見ると、右奥の洗車機のような設備の奥に旧近鉄16000系が見えました。おお、われらの16000系も居るぞ、ここに居るということは、この日の本線での運行は無いわけか、と気付きました。少しガッカリしました。

 

 反対側には、旧西武鉄道の電気機関車E31形が見えました。客車を繋いだ状態で駐機していましたから、何らかのイベント等の特別列車として最近に運用されたような雰囲気でした。

 

 E31形は昭和61年(1986)製造、大井川鐡道への譲渡は平成29年でしたから、まだ最近の導入事例にあたります。あわせて3両が譲渡されており、上図の機関車はそのうちのE32号機にあたります。

 

 その脇に並ぶ自販機は、よく見るとトーマスシリーズのラッピングが施されていました。大井川鐡道において実際に実現されている3輌のキャラクター、トーマス、ジェームス、パーシーのデザインで3基が並んでいました。記念にトーマスの自販機でお茶を買いました。

 

 ではそろそろ次に行きますか、ともと来た方向へ歩きかけて、SL広場の西に停めてあるトラックが目に入り、おや、と気付きました。よくある普通のトラックではなくて、ドアの「ウニモグ」のロゴが見えたからです。これはメルセデス・ベンツのリアル・オフローダーのウニモグ多目的作業用車なのか、と気付きました。

 

 しかも、車台の前後に鉄道用の車輪が付いていました。これは線路も走れる装軌装輪の併用車なのか、と驚きました。こういう車種の実物を初めて見たからです。ガルパンでいうと、大洗女子学園が使用しているSd.Kfz.254ザウラーRK-7が装軌装輪の併用車です。そういう車種の実物は、滅多に見られませんから、感動しました。

 

 後ろにも車輪が付いていて、前後を同時に線路に下ろしてレールに載せれば、そのまま線路上を走れるわけです。その変換用の動力機構やアーム状の部品がメカ感にあふれてカッコ良く見えました。

 

 しかし、長い事使用していないようで、車輪のリム部の踏面は赤錆で覆われていました。どういう場面で使われるのだろう、と首を傾げました。列車の牽引用でないことは確かでしょう。

 

 引き返して次の目的地へ向かう途中、上図の屋外休憩所らしい設備を見ました。よく見ると廃車輌の車輪がベンチ板の足代わりに使用されていました。わざわざ転用して残してあるのは、何らかの価値ある車輌のそれだったからなのかな、と考えたりしました。

 

 横にはポイントの転轍機および転轍機標識も置かれていました。古い時期のものを新型に切り替えた際に撤去してここに残したのでしょうか。標識のほうは青地に白の横線が入っていて、これは普通の定位のほうだったっけ、とおぼろげな知識をまさぐりました。
 確か、この標識は普通、脱線、発条の3種類があった筈です。脱線用の標識は赤い四角に白い縁が付いてて、発条用は青地に白の横線とアルファベットのS字が入ってるんじゃなかったかな・・・。  (続く)  

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

プラウダ選抜 カチューシャ義勇軍 T-60(リボンの武者版) 完成です !!

2023年03月29日 | ガルパン模型制作記

 塗装作業を行ないました。ズベズダとミニアートの2輌はともに同じ車輌でカラーも共通ですから、まとめて塗装しました。車体はミスターカラーの69番グランプリホワイト、履帯パーツは28番の黒鉄色で吹き付けました。

 

 続いて転輪のタイヤゴム部分をポスカの黒で塗りました。上図の右がズベズダ、左がミニアートの転輪です。ハブの形状に差異があり、ズベズダのほうが出っ張りが大きいです。転輪のサイズはミニアートのほうが正確で、誘導輪の役目も果たす第5転輪だけがやや小さいサイズです。ズベズダの転輪は全て同じサイズで、その大雑把さが伺えます。

 

 履帯パーツはズベズダのほうはベルト式でした。が、経年による縮みのせいか、4ミリほど短くなっていて、そのままでは車輪に取り付けられませんでした。無理にはめこむと転輪の軸が折れてしまうので、履帯パーツの繋ぎ目を4ミリずらしてホッチキスで応急的に繋いだうえで、起動輪に巻いて共にはめ込みました。

 

 続いてミニアートの連結式履帯パーツを組み付けました。こちらは組み立ての際に上下に分割してあったのを、車輪に組み込んでセットし、繋ぎ目を瞬間接着剤で貼り合わせて仕上げました。上図のように転輪にも接着して、固まるまで綿棒を差し込んで固定しておきました。

 

 ミニアートの履帯が仕上がった状態です。これの履帯の組み立ては、パーツの小ささと精巧さの故にかなり苦労しましたが、丁寧に作って接着も念入りに行ないましたので、後で折れたりバラバラになったりするハプニングにも見舞われず、思ったよりも綺麗に組み合わさってまとまりました。

 個人的に、連結式履帯パーツは苦手でありますが、ベルト式パーツでは出せない独特の質感、雰囲気がありますから、そこは前向きに評価して、連結式パーツへの忌避感も少しずつ克服していければ、と思う次第です。

 

 砲塔では砲身と同軸機銃の銃身とを28番の黒鉄色で塗りました。

 

 排気管を42番のマガホニーで塗りました。上図右のミニアート品の通気グリルカバーの網目に塗膜がひっついて固まってしまいましたが、見ようによっては雪がこびりついているようにも見えますので、こういうのもアリか、と割り切っておきました。

 

 前照灯は、普通は内側をシルバーで塗りますが、今回はちょっと暗めというか、クローム系の色感を試みたい気がしましたので、実験的にガンダムマーカーのガンメタルシルバーで塗りました。黒鉄色に近い色ですが、これにコトブキヤのHアイズのクリアパーツを嵌めこんでみましたら、独特の奥行き感が思ったよりもいい形で出ました。

 

 ガルパンの作中車は、周知のように車外装備品類を全て下ろした状態で描写されていますから、パーツやジャッキや予備履帯といったパーツ類は不要で、それらの塗り分けもありません。それで、上図の状態で塗装が完了となりました。これはズベズダの車輌です。なにか大雑把な感じのある輪郭線は相変わらずです。

 

 こちらはミニアートの車輌です。細部もきっちりと再現されて輪郭にも実車感がただよい、戦時中の記録写真でみる実在の車輌の雰囲気と大して変わりません。さすがはミニアート、さすがはウクライナ、と改めて感心してしまいました。

 

 かくして完成したズベズダのT-60。おそらくは初期の1941年型の生産タイプと思われる外観形状ですが、各所の寸法がオーバー気味で、車輪やフェンダーは大振りに見えます。ロシアのメーカーの大らかさ、といえば良いのでしょうか。

 

 こちらはミニアートのT-60。細部の表現もしっかりしていて精密感があります。実車の写真や資料図面と照らし合わせて調べた限りでは、どうも1942年型の改良型であるT-60Aじゃないかなと思いますが、確認は出来ていません。いずれにしてもガルパンの作中車はT-60Aあたりがベースになっているように感じられ、主な特徴としては角型の砲塔、ディスクタイプの転輪が挙げられます。増加装甲の有無は作中車の描写では分かりません。

 T-60Aは、厳密には増加装甲付きですので、例えばゴーリキー自動車工場製後期型増加装甲仕様のキット、例えばミニアートのMA35232番の製品を組み立てればより作中車に近づくのかもしれません。でも、そのキットの増加装甲の表現もよく見ないと分からない程度のものですので、作中車の再現製作においてはさほどの問題にはなり得ないと思います。

 

 かくして、プラウダ高校選抜のカチューシャ義勇軍のT-60軽戦車2輌がコミック「リボンの武者」仕様にて完成しました。製作日数は、2輌あわせて2022年4月30日から7月13日まででした。組み立てに77日、塗装および塗装後の組み立てに4日かかりました。ズベズダのキットは4日で組み立てましたが、ミニアートのキットはフルインテリアであったために塗装込みで71日を費やしました。

 前回のT-70に続いて、同じ車種の2輌を異なるメーカーのキットで連続で作りました。キットはロシアのズベズダ、ウクライナのミニアートの2製品を使用しました。図らずも戦争の当時国同士のメーカーの製品の作り比べとなり、比較検証のうえでも興味深い知見が色々と得られました。
 同じ戦車ですから、パーツ割りや組み立て手順もほぼ同じでしたが、パーツの数と精度に差がありました。比べれば、ミニアートのほうがパーツが細かくて数も多い割には組み易く仕上がりも綺麗でした。ですが、細部の状態をなるべく合わせて並べてみると外姿は大して差がありませんので、ズベズダの品も古くて大らかなキットではあるものの、出来はそんなに悪くないのだと分かりました。

 私のガルパン車輌の製作において、ずっと以前から、同じ車輌を複数再現する場合にはなるべく違うメーカーのキットを選んで作り、それぞれの製品の実情を比較検証してみる、というスタンスで取り組んでいます。
 既にプラウダ高校のT-70のほか、黒森峰女学園のパンターやラング、サンダース大付属高校のシャーマントリオ等を複数のメーカーのキットで作り比べてきています。それらの工作を通して、それぞれのメーカーの個性や特徴などを把握してきていますが、それらに加えて、それぞれの母国の内部事情のようなものも何となく感じ取れて興味深いものがありました。国や民族性の差異、というまでの明確なものではないにせよ、それに近いようなニュアンス、スタンスの違いというものは微妙なところでも確かに感じ取れました。

 それらの感慨を重ねることにより、私なりに模型を通して「世界」を感じ取っているのだろうな、と思うこの頃です。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゆるキャン△の聖地を行く28 その2  新金谷駅へ

2023年03月28日 | ゆるキャン△

 金谷駅にて、発車3分前の旧南海電鉄21000系ズームカーを撮りました。この車輌も相当に古いので、旧近鉄車輌と同じように廃車の時が近づいているのかもしれません。
 というのは、2020年に南海電鉄より新たに6000系が譲渡されて新金谷駅の駐機線に入り、運行に向けての整備が進んでいると聞いているからです。

 

 なので、21000系ズームカーとの記念撮影も、いずれは出来なくなってしまうかもしれないな、と気付いて自撮りをしておきましたが、ゆるキャン聖地巡礼中は気分が高揚して幸福感が上がるため、どうしても顔に出てしまいます。

 

 ズームカーの車内です。例によって乗客は私だけでしたので、御覧の通りの貸し切り状態でした。

 

 おや、吊り下げ広告が全部ゆるキャンのコミックの原画になっていますね・・・。後で何のコマがあるか見てみましょう。

 

 運転席を見ました。こういった乗り物の操縦席には興味があります。私は鉄道マニアではありませんが、文化財学の一環としての近代工業遺産資料としての観点によって、鉄道の古い時期の車輌や施設全般に関心を持っています。
 それと、模型が趣味でガルパンの戦車を作っていますが、車内インテリアの操縦席を作って塗装する際に、こういった鉄道の操縦機構の様子や色感なども参考にしています。操縦機器というのは、戦車も鉄道も雰囲気があまり変わらないからです。

 

 さて、今回は次の新金谷駅で9時53分に降りました。大井川鐡道でのゆるキャン聖地巡礼を何度もやってきましたが、新金谷駅に行く機会がまったく無かったので、今回が初めての利用でした。

 

 去っていく列車を見送りました。

 

 新金谷駅の待合室に貼ってあった、ゆるキャン聖地巡礼マップ。

 

 新金谷駅の駅舎です。昭和二年(1927)の開業以来の建物で、2018年に登録有形文化財に指定されています。これは後でゆっくり見ることにして、駅の南にある新金谷車両区へ行きました。

 

 駅構内南側の新金谷車両区の景色です。ここも初めてなので大いに興味がありました。大井川鐡道の本社はここ新金谷駅に置かれ、車輌の整備工場もここにあります。蒸気機関車を含めた大井川本線の車両の整備がここで行われています。なので、千頭駅に置かれている蒸気機関車を除いて、大井川鐡道の保有車輌の大部分がこちらにあることになります。それで、どんな車輌があるのか、見ておきたかったのでした。

 

 最も近くで見られるのが、この転車台の上に載った蒸気機関車のC12形です。今までにも車窓から何度も見かけましたので、この状態のままでずっと静態展示されているようです。ということは、この転車台も普段は使用されていないのかな、と思いました。

 

 しかも、転車台本体は、基礎のコンクリート台も含めて、そんなに古いものには見えませんでした。転車台というと大抵は蒸気機関車が鉄道の主役だった戦前からのものが一般的なのですが、こちらの転車台はどう見ても戦後の、というか近年の造成のような雰囲気でした。

 後で調べてみて、やはり最近のものだと判明しました。もとの戦前からの転車台は昭和45年(1970)に撤去されましたが、それ以降は蒸気機関車の方向転換が出来なくなり、千頭駅行きの蒸気機関車は逆向きのままで客車を牽引したそうです。しかし、それでは何かと不便なので、平成22年に転車台の再設置が決定され、地元島田市の観光政策の一環として翌平成23年に完成し使用を開始した、ということです。電動ですが、手動でも回せるそうです。

 

 転車台に載ったままのC12形は、大井川鐡道の公式サイトの「大鉄車両図鑑」によると、2019年より運行休止中であるそうです。廃車ではないので、いつかは再稼働するのでしょうか。

 それ以前に、こういう状態で転車台が使えないということは、いま運行している「かわね号」のC10形やトーマス号は家山駅からの折り返しは逆向きのままで走っているのか、と気付きました。  (続く)

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

紫野大徳寺20 方丈修理現場公開 その六

2023年03月27日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 大徳寺方丈のような、国内屈指の国宝級の建築の解体修理の現場を一般公開するという機会は、文化財修理が各地で継続的に行われる奈良県や京都府においてもなかなかありません。数年に一度あるか無いか、という程度です。

 私自身は文化財学および美術史学の一学徒で、古建築の解体修理事業にも相当の関心があり、機会があれば行く事を心がけていますが、それでもこれまでに接した国宝建築解体修理現場公開は、奈良県では唐招提寺金堂、室生寺五重塔、薬師寺三重塔、京都府では二条城二の丸御殿、清水寺本堂、平等院鳳凰堂、妙法院庫裏、のあわせて7件ぐらいで、それ以外では延暦寺根本中堂、姫路城天守閣の2件ぐらいしか思い浮かびません。

 なので、今回の大徳寺方丈の解体修理現場公開も、稀有の機会でありました。主催側でもそのことは承知していて、その機会を活かしての日本の伝統技術および修理関連技術の公開展示および実演を行って、文化財保護の重要性を積極的にアピールし、後継者の獲得や養成に努めていました。

 

 なので、嫁さんが興味深々で順番にじっくり見学していた日本の伝統技術および修理関連技術の公開展示および実演は、いずれも専門の技術者が案内や解説を務めていて、後継者の獲得や養成に向けてのアピールも展開していました。

 上図は、建築の表面仕上げの最終段階である彩色用の顔料や工具類です。木製六葉の塗り仕上げの工程を写真で示し、それに用いる数種の顔料や刷毛を並べていました。
 嫁さんはこういったものにも非常な関心を示し、テンション上がりまくりでした。プラモデル用の塗料や筆とは全然違った、天然素材の岩石などを原料とする顔料と動物の体毛などを用いる刷毛の独特の質感に感動し、許可を得て手にとったり、瓶を振って中の顔料を動かして眺めたりしていました。ただのモケジョさんではなく、模型を含めた「モノ作り」そのものに関心が強い人なのだな、と改めて思いました。

 

 桧皮葺き(ひわだぶき)の縮小模型展示です。日本の古建築の屋根は、いまでは瓦葺きが主流ですが、平安時代から室町時代あたりまでは板葺きや桧皮葺きの方が多数を占めていました。その時期の古建築も多くは後に瓦葺きに変更されてしまうので、解体修理が復元の目的も伴った場合は、もとの桧皮葺きに戻す、というケースもあります。いまの日本では桧皮葺き自体が珍しくて伝統的技術の一種になっていますから、その継承と職人の養成は喫緊の課題です。

 

 桧皮葺きの素材である桧皮です。文字通り、桧(ひのき)の樹皮を剥がしたものです。これを用いて屋根を葺くのは、日本古来かつ日本独自の歴史的な建築手法です。海外では類例が無く、類似の手法も存在しない、日本の重要な伝統的手法ですが、その原料となる桧が減ってきているため、檜皮葺き自体が存続の危機に面していると聞きます。
 桧皮葺きには、桧のほかに杉の樹皮も使われましたが、耐久性が劣るために古社寺の建築遺構においては遺品があまり見られません。

 

 こちらは杮葺き(こけらぶき)と呼ばれる、板による屋根葺きの手法の一つに使用される木の薄板です。杮板(こけらいた)と呼ばれます。この薄板を幾重にも重ねて屋根を葺きます。
 これも日本古来の伝統的手法で、今でも多くの古建築の屋根で見ることが出来ますが、単なる板葺きとは違って、独特の曲線や曲面も表せるように工夫が凝らされて技術が華麗なまでに発達しています。日本独自の洗練された文化技術のひとつで、すでに飛鳥時代からの歴史があり、平安時代の貴族住宅や寝殿造りの流行によって技法が成熟し、戦国時代の城郭建築を経て、江戸時代に完成された屋根葺き技術の決定版とされています。

 

 杮葺きの実物見本展示です。御覧のように木の薄板を重ねて軒や屋根のラインを構築します。博物館などに展示されているレプリカ等の大型の木造建築模型でも屋根の作りには同じ工程を用いることが多いので、一般の大工でも習練すれば造れると聞きます。あとは美しい屋根のラインをどう表現するか、の高度な技術の会得が必須となりますが、そこまでやれる職人さんは一握りの数だ、と聞いた事があります。

 嫁さんが「プラモデルで建物を作る時に、屋根をこんな感じでプラ板の薄板いっぱい作って重ねて葺いたら、絶対に面白いよね、本物みたいな屋根が作れそうですね」と話していましたが、彼女のことですから、一度は実験的に作っちゃいそうな気がします。

 

 嫁さんが特に関心を持っていた、建物の飾り金具の色々です。ほんらい女性は宝飾品全般に興味がありますから、こういった金属製の装飾品にも魅力を感じていても不思議はないのでしょうが、嫁さんの場合はモケジョだけにプラモデルのエッチングパーツを見るような感じもあるのだろう、と思いました。
 そう思っていると、案の定「エッチングパーツみたい」と話していました。

 

 嫁さんは、こういった釘隠し用の飾り金具に異様な関心を示していました。家にも飾りたい、と何度か前のめり気味に話していましたが、我が家の室内には、隠す釘そのものがありませんから、釘隠しの金具は不要です。

 

 そして丹念に見学していたのが、上図の金属板からの作り起こし工程の実物展示でした。この板がこうなって、ああなって、こうなるんだー、と楽しそうにそれぞれを触ったりして大喜びでした。ガチのモケジョさんですから、モノが出来上がってゆく流れを見て体感出来るのが楽しくて仕方が無いのでしょう。

 

 こちらの各種の釘隠しの展示にも、10分ほど釘付けになっていました。そりゃ釘隠し金具だけに釘付けにするわな、と気付いて笑いがこみ上げてきましたが、嫁さんが熱心に見ているので、笑いを抑えるのに苦労しました。横に居た案内役の職人さんが色々と説明して下さるので、嫁さんは真剣に聞いて、また展示品を見ていました。研究熱心な学生さんのようでした。

 

 こちらは引手(ひきて)の各種金具の展示です。引手は、襖や障子などの引き戸を開け閉めする際に手をかける部分です。現在の住宅でも襖や障子に丸型や方形のものが付いています。

 ですが、こちらは伝統的な格式ある社寺建築の引手ですので、御覧のように装飾意匠のデザインが凝らされており、引手自体が美術工芸品になっています。こんな形状のがあるのか、と私でも感心しましたから、嫁さんの興味津々な見物ぶりはそれ以上でした。

 

 金具類の展示に大喜びだった嫁さんにトドメをさしたのが、上図の金具類の金箔仕上げ品でした。このキラキラ感、贅沢感、高級感が女性にはたまらないのでしょう。これ欲しい、家に飾りたい、とまたも繰り返していました。

 しかし、案内役の職人さんに、金具ひとつにかかる費用を聞かされた時には茫然としていました。え、そんなにかかるの、と呟いたきり、その後はしばらく無言でした。私はこういった金具類の最低限の費用も知っていますが、嫁さんは初耳だったようでした。

 

 ですが、上図の実演展示を見た時にはショックから立ち直っていました。これは瓦当(がとう)と呼ばれる、屋根の軒丸瓦の先端の円形部分の模様を作る工程ですが、見学者も体験出来るので、嫁さんも早速チャレンジしていました。瓦のパーツである瓦当は粘土で作りますが、その粘土がやわらかいうちに、上図の白い木の型に押しつけて、抜き取ると瓦当の模様が出来上がります。

 この技法は中国発祥で、日本でも飛鳥時代からの古代寺院の屋根において様々な瓦当が造られており、その模様の変遷から製作時期を判別出来るほどに、各種の豊富な遺品データが構築されています。
 私自身も文化財学の一環として古代寺院の考古学は一生懸命に勉強したほうですので、古代寺院の瓦当の遺品ならば、見ただけでどの系統の、いつの時代のものか、どこの寺院のそれか、ぐらいは大体分かります。

 

 隣のテントでは木材の鉋がけ作業の体験展示をやっていました。当然ながら嫁さんはこれにもチャレンジして、案内役の職人さんに教わりつつも鉋でスルスルと木材を削り、細長い鉋くずを貰って超ご機嫌でした。聞けば、鉋そのものを触ったのが初めてだったそうです。その削る際の滑らかなシャーという動きが「病み付きになりますねー」と話していました。

 そうやって、日本の伝統的技術を体験して感動していけば、日本の文化財や文化財保護に対する意識や理解も高まることでしょう。もともと歴史や古社寺にも興味がある嫁さんですから、今回の公開展示見学は最高に楽しかっただろうと思います。

 

 ともあれ、御機嫌で笑顔のままの嫁さんの横で、こちらも幸せな気分に包まれつつ、退出の際に上図の金毛閣を見上げました。

 この重厚な二層の山門建築は、普段は非公開のままですが、2023年の4月下旬から6月にかけての特別拝観事業において仏殿、法堂、方丈唐門とともに一般公開される予定です。嫁さんも私もこれらの建築群は間近に見た事がありませんので、必ず行くことに決めています。とても楽しみです。  (了)  

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

紫野大徳寺19 方丈修理現場公開 その五

2023年03月26日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 大徳寺方丈の解体修理現場見学の続きです。今回の解体修理は、戦前の昭和七年(1932)に行われた根本的な修理以来の半解体修理で、約90年振りの解体事業となっています。建物全体の傾き、南側正面の柱の傾斜などの修理とあわせて耐震補強、経年劣化の部材の補修が行われています。方丈と合わせて玄関、廊下、庫裏や仏殿の修理も行われることになっており、修理事業期間は令和2年11月から令和8年10月までの6年間となっています。

 つまり、今回の令和4年11月の解体修理現場公開というのは、修理事業の2年目が過ぎた節目のタイミングにあたっていたわけです。おそらく、次のタイミングでは仏殿か玄関廊下、庫裏の解体修理現場が公開されるのでは、と予想しています。

 

 方丈の天井を見上げました。このように屋根がほぼ解体されて小屋組みだけの状態になっており、このように建物にかかっている重量を極力減らしてから、建物の傾きを建て起こしで是正したわけです。

 

 方丈の左側の空間、「礼之間」と「函丈之間」の修理前の図版パネルです。函丈とは、本来の意味が「師から1丈離れて座る」ですので、ここでは住職や高僧の位置から離れて控えることを意味します。つまりは武家屋敷でいう「控えの間」にあたるのでしょうか。

 

 「礼之間」から「函丈之間」を見たところです。建物の主な構造材が柱と梁であることがよく分かります。壁の柱も、梁方向では建物の柱と同じですが、桁方向では御覧のように左端から二本目と三本目が単なる壁の支持材であるのが分かります。

 

 大徳寺方丈の畳は、国宝の一部ですから、古くなったからと言って新品に交換するわけにはいきません。可能な限り現状維持を目指して内部材の修理や補強、部材の交換がなされて根本的に修理されます。いまの建物が建てられた寛永十二年(1635)以来ずっと敷かれている畳なので、一部の交換された分を除けば、既に約400年の歳月を経ていることになります。

 

 方丈南側の見学路の様子です。これは一階部分のルートです。建物の写真ばかり撮っていて、見学路のそれはあまり撮る機会が少ないので、見学者が減ったこのタイミングで撮りました。床面は保護シートの上にビニールカーペットを敷いて文化財保護への配慮がなされていました。

 

 東端の庫裏との連結部分を見ました。庫裏はまだ解体作業に入っていませんが、たぶん方丈の建物が一段落してから庫裏に取り掛かるのでしょう。一部の壁が芯材のみになっているのが見えましたが、これは壁自体の保存状況の検証が目的であったのでしょうか。

 

 こちらでも畳が展示されていました。よく見ると、うっすらと墨書が浮かび上がって見えました。

 

 案内パネルの赤外線撮影図にて、墨書がはっきりと示されていました。御覧のように現在の建物が竣工なった頃の畳であるようです。現役の畳としては日本最古のものと考えられていますが、大徳寺方丈よりも古い時期の江戸期方丈建築は他にもありますから、そちらで解体修理を行なえば、より古い時期の畳が見つかる可能性があります。

 

 方丈東側の玄関廊に戻りました。ここで見学路を一巡して起点に戻ったことになります。この玄関廊も国宝であり、今回の解体事業範囲に含まれていずれは解体される予定だそうです。

 

 なので、今回のタイミングが、修理前の玄関廊の現状を観察する最後の機会でありました。

 

 それで、周囲に見学者が居ないのを幸いとして、かなり長い間玄関廊の内側に立ち止まって破風などをじっくりと観察するホシノでした。それで嫁さんが、そのうちに待ちくたびれて私の横顔を撮ったりしたようでした。(嫁さん撮影)

 

 出口を出てからは、屋外の修理技術関連の公開展示や実演展示のテントを回りました。嫁さんはこういった伝統技術関連にものすごく興味があるそうで、待ってましたとばかりにテント内へ嬉々として入っていって色々見学していました。

 

 上図は、柱材の装飾文様の復元例です。宇治平等院鳳凰堂の平安時代当時の彩色蓮華文様です。現在では退色剥落していますから、この鮮やかな色あいをイメージして鳳凰堂内部を見ると、また違った印象と感動があるでしょう。

 嫁さんは「こういう模様とかをガンプラに塗ってみたいわあー」とか話していましたが、これは平安時代を中心に流行した繧繝彩色(うんげんさいしょく)の技法で、色の濃淡順に塗り重ねて一種のグラデーションをあらわすものですから、簡単に出来るでしょう。
 というか、ガンプラに繧繝彩色を施したモデラーさんは日本でも世界でも皆無だろうと思うので、じゃあチャレンジしてオンリーワンを目指してみたら、とけしかけておきました。

 

 嫁さんが特に感動してじっと観察し、スマホで何枚も撮っていた蓮弁(れんべん)の彩色文様です。左が開き蓮華、右が唐草紋のモチーフです。宇治平等院鳳凰堂の定朝作の本尊阿弥陀如来坐像の蓮弁の復元レプリカですから、定朝を研究対象として宇治平等院に何十回も通った私にとっては、若い頃からの懐かしい思い出が一杯甦ってくる品です。

 そのことを話すと、嫁さんは微笑して「美亜さんの記憶もこれみたいに美しくて鮮やかなままなんですよね」と言いました。遠い昔に若くして逝った前妻との出会いも宇治平等院鳳凰堂でのことでしたから、「そうやな」と返しておきました。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゆるキャン△の聖地を行く28 その1  14ヵ月ぶりの大井川鐡道へ

2023年03月25日 | ゆるキャン△

 2023年1月11日、遠州掛川の宿より見渡した景色は、御覧の通り快晴でした。前日の退勤後に京都駅へ直行して新幹線に乗り、夜に掛川に着いて駅南の東横イン掛川駅南口に泊まった、その翌朝でした。今日は見えるかな、としばらく上図の景色の最も遠い範囲を見つめました。

 

 思った通り、富士の高嶺がうっすらと青空の下に浮き出て見えました。ゆるキャン聖地巡礼にて掛川に何度も泊まっていますが、富士山の姿を捉えたのはこの日が初めてでした。

 

 この日の巡礼計画は、14ヵ月ぶりの大井川鐡道エリアでした。1月10日から大井川鉄道が昨年に続いてのゆるキャンコラボキャンペーン第2弾を催すということで、それを楽しんでみる予定でした。
 行動開始は、朝9時からでした。いつものように早朝から忙しく動き回るパターンではなく、宿での朝食もゆっくりと楽しみ、部屋に戻ってからも2時間近くのんびり過ごしていました。そうして9時5分にチェックアウトして、上図のJR掛川駅に行ったのは9時10分の事でした。乗る予定の列車が9時17分発だったからです。

 

 ところが、突然の電力設備点検の為による列車の遅延があり、10分遅れて9時27分に発車、上図の金谷駅に着いたのは9時41分でした。

 

 が、大井川鐡道の9時50分発の列車への乗り換えに支障は無く、まだ9分の余裕がありました。

 

 大井川鐡道金谷駅の売店が9時から開いていました。前回までは全て9時前に金谷駅を発していたため、金谷駅の売店が開いているのを見るのは初めての事でした。それで、ゆるキャングッズがどれぐらい展開販売しているのかをざっとのぞいてみました。上図のように、全体的にほとんどゆるキャン関連の品々が目立っていました。

 

 山梨や静岡の各聖地などで販売されているゆるキャン関連商品は、既に多数の品目と品種とを揃えて食料品から衣料品、キャンプ用品に至るまで幅広く展開されていますが、ここ大井川鐡道におけるコラボ商品群は、大井川鐡道がキャンペーン期間において出した独自の品ばかりで占められています。つまりは大井川鐡道の指定売店でしか入手出来ない品々でありました。

 

 なので、既に何度か大井川鐡道でゆるキャン聖地巡礼を行なっている私でさえ、どのような商品が出ているのかは殆ど把握出来ていませんでした。昨年1月に大井川鐡道が初のゆるキャンコラボキャンペーンを実施した時にも、都合が付かずに行けませんでしたから、今回の2度目のゆるキャンコラボキャンペーンにおいてはゆるキャン関連グッズ類もとにかく見て回り、良いのがあれば買うつもりでした。

 

 大井川鐡道のゆるキャン関連商品の最大の特徴は、全てのデザインが原作者あfろ氏による新規描き下ろしである、という点でした。大井川鐡道の列車や沿線の景色などを豊富に盛り込んで描いた上図のイラストなどは、大型のタペストリーやクリアファイル等になっていました。この図の特大パネルが、千頭駅に展示されているという情報も得ていましたが、今回の計画では千頭駅までは行きませんでした。

 実は、今回の2度目の大井川鐡道のゆるキャンコラボキャンペーンにおいて、日時を10日ほどずらして二回行く、という計画でコースを二通り設定していました。大井川鐡道本線の運行が、昨年の台風15号による被害の為に家山までになっていることを考慮して、一回は家山まで、もう一回を千頭まで行く、という形で別々に計画したのでした。

 それで今回は、一回目として1月11日をあて、鉄道利用は家山までの往復とし、オプションとして家山からの代替バス利用による川根温泉ホテル行きを考えていたものでした。

 

 とりあえず、上図の左下のクリアファイルを記念に買いました。大井川鐡道オリジナルのゆるキャンクリアファイルですから、買わないという選択肢は有り得ませんでした。

 

 改札口をくぐった所の壁面に貼ってあった、ゆるキャン本栖高校の5人のポスター。各務原なでしこ以下の5人が、それぞれのイメージカラーをバックに、それぞれのセリフをもって大井川鐡道沿線観光の特色などをさりげなくアピールしていました。

 

 お約束の、駅名標の記念撮影。来るたびになぜか撮ってしまうのです。

 

 今回は大井川鐡道本線にて4回列車に乗る予定でした。その最初の列車は旧南海電鉄のズームカーでした。大井川鐡道本線では上下1本ずつの列車が運行されていると聞きますから、もう一本は旧東急の車輌か、旧近鉄の車輌のいずれかだろうな、と考えました。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

プラウダ選抜 カチューシャ義勇軍 T-60(リボンの武者版) 作ります !!  その13

2023年03月24日 | ガルパン模型制作記

 2輌のT-60の塗装前の組み立てが完了しましたが、最初に作ったズベズダのキット(右のオリーブ)と、二番目に作ったミニアートのキット(左のグレー)を並べて見比べると、幾つかの相違点が見えてきました。

 

 まず、車体のサイズからして微妙に異なります。上図のように、フェンダーの高さも幅も違うのが目立ちます。ズベズダ製品の方が若干大き目であることが分かります。

 

 しかし、外姿の基本的な輪郭は対して変わりません。T-60の特徴的な形状はズベズダもミニアートもきちんと把握して再現しています。ズベズダのほうはエンジン点検ハッチの通気口側に丸みがあるので、初期の1941型にあたるようです。対してミニアートのほうは操縦手ハッチの出っ張りに厚みがあり、前面装甲が追加強化された1942年型からのT-60Aに近い感じがします。

 

 後ろからみた姿も寸法の微妙な差をのぞけば、輪郭も形状もほぼ同じです。ズベズダ製品のほうはフェンダー上のステーがありませんが、これはパーツが太すぎて違和感があったために使わなかったからでした。

 

 さらに、ズベズダキットのほうで排気管の向きが間違っていました。斜め左に向いているミニアートの方が正しいので、ズベズダの排気管を後で修正します。

 

 基本的にミニアートの方が精巧で出来もよく、各部の形状が正確に出来ている感じです。それでズベズダのキットをミニアートに合わせて追加工作することにしました。

 

 フェンダー上の三つのステーと砲塔の視察窓の庇をプラ板で追加しました。

 

 ズベズタのキットの前照灯のパーツが変な形であったので使わず、ミニアートのキットのそれに合わせて似た形状のパーツをジャンクから調達して取り付けました。

 

 さらに右側フェンダーの後ろには、ミニアートキットの余りパーツであった雑具箱を取り付けました。

 

 車体前端の左右の牽引フックを追加しました。元のパーツが細くて折れていたため、ジャンクから適当なパーツを探して転用しました。

 

 車体背面中央の牽引フックも再現しました。こちらはドイツ軍車輌のシャックルを半分にカットしたものを削って整形して取り付けました。その上のバックランプもパーツが無かったので、ミニアートのそれと似たものをジャンクから探して取り付けました。

 

 以上で、ズベズダキットの追加工作が完了しました。2輌の外姿の相違点が工作前より少なくなって、同型の軽戦車としてなんとか見られるまでになりました。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

紫野大徳寺18 方丈修理現場公開 その四

2023年03月23日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 大徳寺方丈の解体修理現場見学の続きです。見学路が階段から下に回って東から南側に回りました。つまりは方丈の正面に回ったわけです。高さも床面にほぼ同じ所になりました。

 

 方丈の東側にあたる「檀那の間」と奥の「衣鉢の間」の修理前の図版パネルです。修理では外されている襖や障子戸や畳の取り付け状況が分かります。ちなみに襖絵は、ここを含めた方丈全体計84面が狩野探幽の作であるそうです。

 

 襖や障子戸や畳、そして床板、天井板も外すと、こういう状態になります。畳間と廊下の空間の分かれ目が、大引(おおびき)や根太(ねだ)の配列によって分かります。上図右側が廊下部分で、根太の方向が南北に沿っています。その上に敷く床板の方向に合わせてあるわけです。そして床下の風通しを良くするために、基礎の束石(つかいし)を方形に仕上げてその上に長めの束(つか)を建てています。

 

 そして壁面は御覧のように表面の漆喰部分を剥がしてありました。その内部の、藁スサ混じりの荒壁が残してありました。壁部分は保存状態が良かったようで、芯にあたる小舞(こまい)が見えるまでにバラす解体は行われていませんでした。つまり、この上に斑直し(むらなおし)、中塗り、上塗り、と漆喰を三度塗り重ねることで、白壁の復元が出来るわけです。

 

 外されていた舞良戸(まいらど)の一枚が展示されていました。横に並ぶ舞良子(まいらご)と呼ぶ細い木の間隔が詰まっているタイプで、繁舞良戸(しげまいらど)と呼ばれます。繁舞良戸は舞良戸の最も格式ある造りとされています。

 

 西隣の空間に移りました。大徳寺開基の宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)の墓所にあたる雲門庵の範囲の修理前の図版パネルです。

 

 解体状態の雲門庵の範囲です。奥のブルーシートが懸けられた空間が墓所の雲門庵です。大徳寺では、住職が亡くなると住坊の塔頭などに墓所が営まれるのが普通ですが、開基の宗峰妙超は、自らの死後に墓所を別に設ける必要は無いと遺言したため、方丈内に塔所つまり墓所が置かれて位牌や納骨具がおさめられています。その墓所が今回の解体修理でもそのままに維持されているので、ブルーシートで覆って保護されていました。

 

 嫁さんがステキですねー、と指さしていた長押(なげし)上の六葉(ろくよう)。長押や扉などの釘隠しに用いる金具で、六枚の葉を六角形に模様化したものです。大体は金属製ですが、場所によっては木製のものもみられます。

 

 続いて右から三番目の空間、「室中」と「仏間」の範囲に移りました。修理前の図版パネルです。御覧のように方丈の中心となる空間で「室中」の床は漆板貼りになっています。「仏間」には方丈の本尊が安置されています。

 

 見学路はこの範囲で奥に入れるようになっており、「室中」全域を回って「仏間」の前まで行けました。上図の「仏間」の前壁には欄間が設えてあり、最も細密かつ格式のある筬欄間(おさらんま)の造りでした。筬は木または竹の薄板で、非常に精密なものは0.5ミリぐらいの薄さに作られます。それ自体が熟練の専門技術者でないと作れません。その筬を5ミリ以下の間隔できっちり等間隔に並べる高度な技術があって初めて、この筬欄間が成立します。つまりは当時の木工および建築技術の粋がここにみられるわけです。

 

「室中」より「仏間」を見ました。ここは解体した部材の一部の展示コーナーにもなっていて、天井板などに墨書で落書きや署名などが記されたものが公開されていました。

 

 天井板の墨書です。嫁さんが「大工さんってけっこう落書きとかするんですねー」と感心していました。落書きというより、作業に関わった記念に名前などを記した、というのが実態に近いです。この種の墨書は江戸時代に限らず、古代からありますから、奈良時代や平安時代の古建築でもまま見られます。最古の事例が、法隆寺五重塔などの飛鳥白鳳時代の落書きだったかな、と記憶しています。

 

 こちらの墨書は、「天井打出衆」とあるように天井の造成や板造り作業などを担当したチームの面々の7人の名前を並べたもののようです。「江州三井寺住人」とあるので、いまの滋賀県大津市の園城寺辺りの住人が大徳寺方丈の建設に従事していたことが分かります。そしてなぜか山部赤人(やまべ の あかひと)の有名な万葉歌が添えられています。

 「天井打出衆」の7人の最後の「たみ」は女性なの?、と嫁さんが訊いてきましたが、おそらくそうではないかと思います。江戸期までの日本では、女性の名前はたいてい平仮名表記であったからです。さらに江戸期までの職人衆というのは世襲制および家族制が普通でしたから、例えば棟梁にあたる人の奥さんや娘さん、職人の奥さん等も大体は職人として働くのが一般的でした。
 近世までの日本では、殆どの女性が労働力の基幹として諸産業を支えていましたから、現代でいう女性の職場進出とかのレベルではなく、職種によっては女性が主力だったケースも多かったです。農業は当然、酪農や繊維などの専門職、建築や木工の技巧職にも女性が関与していましたから、いまよりも女性の就業率は高かった筈です。とくに建築分野では金具などの細密な部品や壁塗り、建具などの塗り仕上げなどに女性の職人がかなり居たことが知られています。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゆるキャン△の聖地を行く27 その11  ラストは韮崎駅

2023年03月22日 | ゆるキャン△

 あけの農さん直売所で昼食の後、もときた道を引き返して、韮崎市の中心街区へと移動しました。移動中はほとんど下り坂でしたが、行きはそんなに登っている感じは無かったので、韮崎市街までの道が下り坂の連続であるのにちょっと驚いたりもしました。

 

 そして今回の聖地巡礼の最後の目的地である上図のJR韮崎駅に行きました。原作コミック第12巻の「ホラかホンマか回想キャンプ」編にて大垣千明、犬山あおい、斉藤恵那の3人が瑞牆山キャンプ場へ向かうべくここ韮崎駅に集まったのです。

 

 原作コミック第12巻31ページ2コマ目、「韮崎駅 ついたーーーっ!!」のアングルです。建物は勿論、床の碁盤目模様までそのままです。

 

 少し右側を向いたアングルが、原作コミック第12巻33ページ1コマ目の背景に一致します。

 

 原作コミック第12巻32ページ3コマ目にて、各務原なでしこが「あきちゃん あれなにー?」と指差した白亜の大きな観音像も見えました。

 

 作中で大垣千明が「韮崎平和観音」と呼んでいますが、こちらも実際に「韮崎平和観音」と呼ばれます。昭和34年の皇太子殿下ご成婚を記念し、かつ市民の平和と登山者の安全無事を祈願して、昭和36年に建立された高さ18.3メートルの大観音像です。高崎白衣観音、大船観音の観音像とともに、関東三観音と言われているそうです。

 

 こちらは北のタクシー乗り場をみた図。原作コミック第12巻34ページ1コマ目のアングルです。

 

 原作コミック第12巻35ページ2コマ目のアングル。犬山あおいが「二人共バス来たでー」と呼びかける場面です。そうして3人はみずがき湖および瑞牆山荘まで行きますが、実際にそのルートの路線バスがここ韮崎駅から出ています。

 なので、いずれ行く瑞牆エリアの聖地巡礼にて韮崎駅からのバスを利用する案を考えていますが、最終目的地の瑞牆山キャンプ場(実際にはみずがき山自然公園キャンプ場)へは徒歩で往復することになるうえ、バスの便も限られていますので、巡礼行動そのものに制約がかかるかもしれません。やっぱりレンタカー利用が無難かな、とも思います。

 

 JR韮崎駅の東にある商業施設エリア「ライフガーデンにらさき」の中核となっているスーパーマーケット「オギノ」。ゆるキャン作中にも南部町や山中湖の店舗が「ハギノ」の名で登場して有名になっています。

 最初の計画では、このエリア内に並ぶ食事処(松屋、ココス、幸楽苑、くら寿司)のいずれかで昼食をとる予定でしたが、前述したように、あけの農さん直売所を追加してそのレストランで昼食の野菜カレーをいただいたので、こちらではオギノで買い物をして、隣の宮脇書店で本を買いました。

 

 その後は約一時間ほどかけて甲府へ戻りました。まだ昼過ぎでしたが、今回の巡礼旅行が二泊三日であちこち回るハードスケジュールだったため、三日目になると相当な疲れが出てくるだろうと考えて、早めに帰途につく予定でした。

 

 タイムズさんにレンタカーを返却して、近くの甲府駅に着いたのが14時24分でした。時間ギリギリでした。

 

 帰りの列車は、14時35分発の特急ふじかわ10号でした。乗り込んでからは、疲れが出て殆ど眠り込んでいました。それでもなんとか静岡と名古屋での乗り換えをこなして、京都に帰り着いたのは4時間後の18時37分でした。

 以上で、「ゆるキャン△の聖地をゆく27」の記述を完了しました。これにより、今回の巡礼レポート四部作(内船・石和・塩山・勝沼ぶどう郷編、早川編、富士川街道・西郡路編、韮崎編)は完結となります。次のレポートの舞台は静岡県に移ります。  (了)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

プラウダ選抜 カチューシャ義勇軍 T-60(リボンの武者版) 作ります !!  その12

2023年03月21日 | ガルパン模型制作記

 ステップ38およびステップ39で砲塔を組み立てます。ステップ40からラストのステップ42までは車体を組み立てます。作中車は車外装備品類を一切付けませんので、留め具類のエッチングパーツは全て不要となります。また作中車に見えないパーツも省きます。

 

 ステップ38とステップ39はまとめて行ない、砲塔を一気に組み立てます。関連のパーツを全て並べて準備しました。

 

 砲塔を組み上げて、車体に仮セットした状態です。

 

 砲塔の天蓋ハッチは開閉自在として、内部を見られるようにします。

 

 ステップ40からラストのステップ42までの組み立ても順に進めました。エッチングパーツが大半を占めますが、作中車は細部を省いた描写になっているため、見えない部品や箇所のエッチングパーツは不要としました。

 

 車体右側面の仕上がり状況です。フェンダー上の3本のステー、車体後部の通気グリルカバーはエッチングパーツでした。

 

 車体前面部の仕上がり状況です。エッチングパーツの使用は作中車に合わせて最低限にとどめ、PEa43とPEa44のみを取り付けました。

 

 最後まで保留にしていた、前照灯の隣の小さなミニライト状の部品は、ジャンクパーツより似たものを探して取り付けました。

 

 以上で、塗装前の組み立て工程が完了しました。

 

 このミニアート製品での2輌目は、さすがに精巧な出来です。先にズベズダ製品で製作した1輌目が大まかな仕上がりであるうえに、こちらの2輌目に無いパーツもあるので、この2輌目になるべく外観を合わせる方向で、1輌目の最後の仕上げを次回にて行ないます。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

紫野大徳寺17 方丈修理現場公開 その三

2023年03月20日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 国宝大徳寺方丈の東側の妻部分です。屋根の垂木などは解体されていますが、破風板(はふいた)や妻格子(つまごうし)はそのままでした。

 

 シンプルな形状ですが、格調の高さを示している梅鉢懸魚(うめばちげぎょ)です。二枚の板を繋いで造られているようです。

 

 野垂木(のだるき)の様子です。屋根の内部の部材の一種で、普段は見えない材ですから大雑把に作られるケースが多いですが、ここでは一本一本丁寧に鉋がけも行なって、しっかりと仕上げた材を使用しています。

 

 後ろを振り返って破風を見上げました。大きな屋根の割には傾斜角が浅いのが特徴で、江戸時代の建物にしては古典的な要素が多いです。旧方丈の建物を参考にして、特徴的なところは踏襲しているということでしょうか。

 

 見学路がぐるりと北側に回って、雲門庵の横で折り返して階段で下に降りました。その階段の手前から屋根を見上げたところです。屋根の野垂木が全く無い範囲が、雲門庵の規模をよく示していました。

 

 屋根の北東隅部です。何十枚も重ねられた桧皮が、このように合板状になっているので、雨が降っても内側にしみこまず、桧皮の樹脂成分が雨水をはじいてゆきます。瓦屋根は、ヒビが入ったりすると雨漏りの原因になりますが、桧皮にはヒビも穴も生じにくいので、頑丈さや耐久性においては瓦よりも桧皮のほうが上とされています。

 

 見学路が階段で下に降りるので、方丈の床面に近い高さになってきました。上図の手前が「衣鉢の間」で、向こうが「檀那の間」です。全ての床板が外されて、下の基壇面が見えていました。

 

 各所に立てかけてあった床板。民家の戸口よりも大きな板ですが、いずれも一枚板であるのが凄いです。江戸期の日本の木材資源がいまよりも豊富であったことを物語っています。

 

 「衣鉢の間」および「檀那の間」とその東側の外縁の空間です。方丈建築の約四分の一の部分ですが、このように広々としています。
 方丈とは、本来は住職の居室であったのですが、ここ大徳寺においては塔頭がその役目を担い、そして方丈のほうは公的空間として、朝廷の勅使や幕府役人の接待、催事や仏事、宗教行事などに用いられたため、大人数を収容出来るように規模も大きくなったわけです。

 

 見学路の脇の地面に並べられてあった各種の屋根瓦。嫁さんが「パズルのピースみたいですね」と話していましたが、モケジョさんならば「プラモのパーツみたいですね」と言うべきだろう、とひそかに思いました。

 

 屋根つまり棟の各部名称の説明図。

 

 屋根の解体によって下ろされた諸種の瓦は、再び屋根に上げられて葺き戻されるそうです。破損して新造する分はごく一部だそうです。

 

 大棟の両端を引き締める巨大な鬼瓦です。色々な意匠が伝統的に伝えられており、上図の雲の模様のデザインは「吹流し三つ切」と呼ばれます。江戸時代の社寺建築の鬼瓦では一般的にみられる意匠です。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゆるキャン△の聖地を行く27 その10  あけの農さん直売所のレストラン

2023年03月19日 | ゆるキャン△

 あけの農さん直売所の建物は二階建てで、一階は農産物の直売所ですが、二階はレストランになっています。一階の北側に上図の階段があり、それを登るとレストランに行きます。

 

 カウンターには、しっかりとゆるキャンのタペストリーが。ここで大垣千明ら3人が「朝ごはん」を食べたことは既にお店の方でも知っているようでした。このノリノリ感がよろしいですね。

 

 上図の券販機で食券を買って半券を渡すシステムです。この券売機は原作コミック第12巻115ページに出ていますが、ボタンのデザインや値段がそのまま描かれています。

 作中で、大垣千明が「ええいっ!! おとなしくおすすめの方だッ!!」と押したボタンは「地元の野菜カレー900円」でしたが、元ネタの実際のメニュー名は「季節の野菜カレー900円」でした。犬山あおい、斉藤恵那も同じ品を選んでいましたから、私も元ネタの「季節の野菜カレー900円」を選びました。

 

 出来上がるまで少しお時間をいただきます、との事でした。他に客が居なかったので、ベランダに出てみました。ベランダにもテーブル席が並んでいて、景色を眺めながら食事が出来るようです。

 

 ベランダからの景色です。

 

 前を通る道路が茅ヶ岳西麓広域農道です。これを北上すれば県道23号線に合流し、その県道23号線をずっと北東方向へ登っていくと塩川ダムのダム湖である、みずがき湖に至ります。
 この日は韮崎市エリアで聖地巡礼コースを設定していたため、みずがき湖までは行けませんでした。いずれ瑞牆エリアへも聖地巡礼に行く予定ですが、その時にまたこの道を通るのでしょうか。

 

 ベランダから室内席に戻りました。このときの客は私だけでしたので、独占貸し切り状態でした。

 

 原作コミック第12巻40ページ2コマ目のアングルです。作中画は広域ワイドビューの描写なので、上図のデジカメ画像の倍ぐらいの範囲が描かれます。上図は作中画の右半分にあたります。

 

 そしてこちらが作中画の左半分にあたります。

 

 そして、大垣千明、犬山あおい、斉藤恵那の3人が昼食をとったテーブルがこちら、との事でした。

 

 上図が、大垣千明、犬山あおい、斉藤恵那の3人が食べた「地元の野菜カレー900円」の元ネタの「季節の野菜カレー900円」です。作中画の描写とほぼ同じでした。

 

 斉藤恵那いわく「かぼちゃ さつまいもにズッキーニ・・・」「これ野菜がすごく美味しいよ」でしたが、まさにその通りでした。犬山あおいが「特にこのトマトがカレーにむっちゃ合うわー」と言いましたが、その通りでした。これぞ「まじうま野菜カレー」でありました。

 普通、野菜カレーと言えばカレーに野菜が煮込んでありますが、こちらは新鮮な生野菜および油で軽く揚げた野菜をライスの上に盛り付けてありますので、サラダのような感じでした。カレーとサラダが一体化したようなものでした。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

プラウダ選抜 カチューシャ義勇軍 T-60(リボンの武者版) 作ります !!  その11

2023年03月18日 | ガルパン模型制作記

 ステップ27では車外装備品の斧やジャッキを組み立てますが、作中車は一切の車外装備品を降ろした状態にて描写されていますので、これらのパーツは不要となります。したがってステップ27は飛ばします。
 ステップ28からステップ30までは左右のフェンダーを組み立てます。車外装備品の斧、ジャッキ、パールが不要ですので、雑具箱のCa10のみを取り付け、エッチングパーツの留め具類は省きます。
 ステップ31、ステップ32では砲塔のインテリアを組み立てます。これはガイドの指示通りに進めます。

 

 ステップ28からステップ30までの工程はまとめて行ないました。左右のフェンダーを組み立てます。

 

 雑具箱のCa10の正確な取り付け位置が分からなかったので保留にしました。車外装備品の斧、ジャッキ、パールは不要ですので、製作中の戦車工場ジオラマのほうで工具類として使います。

 

 ステップ31、ステップ32の工程もまとめて行ないました。砲塔のインテリアを組み立てます。

 

 小さな砲塔内に細かいパーツを塗装しつつ組み付けるので、慎重さと丁寧さが要求される緊張の連続でした。

 

 なんとか組み上がって、車体上に仮組みしてみました。このT-60軽戦車の乗員は2名ですから、上図に見える茶色の円シートに車長が位置して、指揮と装填と砲手の三役をこなしたわけです。大変だったことでしょう。

 

 ステップ33からステップ36までは砲塔インテリアの組み立てが続きます。ステップ37では車体へのフェンダーの組み付けなどを行ないます。スコップのBa12、ワイヤーのBa16は作中車にありませんので不要です。

 

 ステップ33からステップ34までをまとめて行ないました。エッチングパーツもあるので慎重に組み付けました。

 

 組み上がりました。

 

 ステップ35からステップ36までは武装パーツの組み立てでした。

 

 武装パーツは順番に組み付けることになっていますが、ここではまとめて一気に組み立ててから、そのまま砲塔にセットする方法に切り替えて作業を進めました。

 

 砲塔に武装をセットしました。

 

 内部の状況です。パーツごとに配色を変えて塗り分けてから組み立てましたので、細かいパーツでも色が異なっていてメリハリがつきます。

 

 しかし、砲塔内に陣取る車長も大変ですね。指揮と装填と砲手を兼ねますが、武器も戦車砲と機関銃の両方を扱わないといけないのですから、戦闘中は多忙だったことでしょう。

 

 ステップ37に進みました。車体の組み立てに戻り、左右のフェンダーなどを取り付けます。

 

 組み上がりました。左右のフェンダー上のステーが付きましたので、それに挟まれる雑具箱Ca10の位置も定まりました。左右とも取り付けました。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

紫野大徳寺16 方丈修理現場公開 その二

2023年03月17日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 大徳寺方丈の解体修理は、建物全体が経年劣化により傾いて、正面の柱が大きく傾斜していたのを修復する目的で実施されました。そのために屋根を中心に上部の部材を解体して、建て起こしを行なったのが修理作業の流れです。

 今回の特別公開は、その解体作業が予定通りの全ての部材を解いた段階での状態を公開するものでありました。つまり上図の状態が解体作業の完了した姿であり、これ以上の解体は行わないわけです。その意味では基礎まで完全にバラしてゆく全面的な解体ではなく、部分的な解体修理であると言えます。

 

 解体作業が完了した大屋根を見るホシノ。専門的視点から各所の要部を一つ一つ観察していました。(嫁さん撮影)

 

 この時は何を見上げていたんでしょうか。覆屋の天井の鉄骨から吊るされていた支持縄とクレーン状の装置であったかと思います。(嫁さん撮影)

 

 この時見ていた範囲がこんな感じでした。上図中央の覆屋天井のグレー色の鉄骨が、単なる構造材ではなくてクレーンの移動レールのように思えたのでした。鉄骨の最奥に黄色のホイストのような装置が見えたからでした。

 

 正面の軒を支える大きな桁材は、四本のうち一本が展示用に外されて、見学路側に寄せてありました。

 

 正面の桁木が繋がる部分のホゾ穴の状態もよく見えました。大屋根の軒の重量を支えるために、桁そのものは大きな材を用いて接合もシンプルな組み合わせにしてあるのが理解出来ました。

 

 屋根の東南隅の状況です。屋根は地垂木(じたるき)までが解体され、軒は完全に解体されて軒桁のみになっていました。

 

 桁の隅部を見たところ、傾斜も歪みも見られませんでした。傾きの是正のための建て起こしが終わっていたようです。

 

 軒桁の部材を原木からどのように切り出したかの説明と図版のパネルです。木の芯は外す、という基本原則がきちんと守られていることが分かります。同時に、原木の大きさもよく理解出来ます。原木の各位置を様々な部材に利用し、残った芯も垂木(たるき)などに活用しています。
 嫁さんは示される情報の全てにただただ感心していました。何を見ても、スゴイ、ステキ、の二つの言葉だけしか発しませんでした。

 

 屋根の東側の妻部です。この範囲は端部の桧皮が残されていましたので、解体重視の範囲では無かったようです。

 

 この桔木(はねぎ)の辺りの場所から、江戸時代の寛永期頃のものと見られるノミが見つかって、ニュースとなっていました。置き忘れたのか、飛檐垂木(ひえんだるき)と化粧裏板(けしょううらいた)との間に挟まれて残っていたそうです。

 

 東側の軒部は桔木(はねぎ)までの解体で完了したようです。建物の傾きは南側で大きかったそうなので、両側の東西面ではそこまでのズレに至っていなかったようです。

 

 軒先の桧皮の打ち付け状況です。鋏板で押さえて重ねてゆく様子がよく分かります。嫁さんは「なるほどー、こうやって丁寧に重ねるのですねー」と小声で感心し、スマホで何枚も撮っていました。

 

 桔木(はねぎ)の端部のホゾ穴は、それぞれに独特の形状でかたどられてありました。釘を使わずに部材を接合し、かつ容易に外れないようにし、さらに地震の揺れをある程度吸収するための工夫の一つで、これの工作技術は古代から近世に至るまでずっと、宮大工の重要な秘伝とされていました。

 ですが、現在では文化財保存の見地からこうした秘伝的な技術や工法はなるべく公開して記録資料化し、かつ後継者に伝え習得させる形で作業が進められていると聞きます。今回の方丈に限らず、日本の古社寺の主要建築は、平均して80年から120年ぐらいのスパンで修理を行う必要がありますから、こうした伝統的な建築技術の保存継承も喫緊の課題となっています。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする