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妙心寺へ

2023年08月25日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 大徳寺の塔頭2ヶ所を回った後は、U氏の予定表に従って妙心寺へ向かいました。妙心寺でも同時期に塔頭2ヶ所の特別公開が実施されており、U氏も私も未訪の場所でしたから、興味津々でした。

 バス停「大徳寺前」から市バス205系統に乗り、バス停「西ノ京円町」にて市バス91系統に乗り換えて、4つ目のバス停「妙心寺前」にて下車、そこから北へと登ると上図の妙心寺表参道に入りました。参道の突き当りに門が見えました。

 

 その門が、妙心寺の南の入口にあたる南総門でした。大寺院の総門に相応しい切妻造、本瓦葺きの薬医門で、江戸期の慶長十五年(1610)に建立されたものです。国の重要文化財に指定されています。

 

 南総門の脇にあった、今回の特別公開の案内です。U氏が「これだよこれ。ついにやって来たのだよ」と嬉しそうに指差しては何度も頷き、写真も撮っていました。私も妙心寺の塔頭はあまり行ったことが無いので、上図の二ヶ所の塔頭寺院の名前も「聞いたような名前やな」と返すにとどまりました。

 

 とりあえず、妙心寺の伽藍域に入ります、ということで二人で並んで上図の立派な白墨描の寺号板に一礼しました。

 大本山、とは臨済宗妙心寺派の大本山であることを意味します。日本に存在する臨済宗の寺院は約5650を数えますが、そのうちの約3350が妙心寺派に属します。日本禅宗のナンバーワンの流派であり、その総本山でありますから、他の寺の「大本山」よりも重みが感じられます。

 

 U氏が「あの門は格式高そうな構えだなあ」と上図の門を指差しました。南総門の西側に並んで建っていますが、扉は閉ざされていました。

 たぶん勅使門じゃないかねえ、と言いましたが、後で案内板を見たら正しく勅使門でした。伽藍の正面に位置しており、勅使や住持が普山する際にのみ開かれます。南総門と同じく江戸期の慶長十五年(1610)に建立されたもので、国の重要文化財に指定されています。

 

 伽藍域に入ると放生池があり、その中央の伽藍中軸線に沿って石橋をともなう参道が築かれています。その奥の木立の向こうに大きな赤い二重門が見えました。

 

 その赤い二重門に近づいてみました。妙心寺の中心伽藍の正門にあたる三門です。大徳寺の三門「金毛閣」とよく似た朱塗りの型式で、雰囲気もよく似ています。上層は円通大士(観音)と十六羅漢像を安置する仏堂空間になっています。
 江戸期の慶長四年(1599)の再建ですが、妙心寺の門としては最古の建物になります。国の重要文化財に指定されています。

 

 妙心寺中心伽藍のエリアの参拝路は東側に寄っているため、左に勅使門、放生池、三門、と見てゆきながら、右側の上図の建物も見ました。切妻造の建物に唐破風が付いていますが、その唐破風の下にある門口は不釣り合いなほどに小さく、左右の花頭窓が目立ちます。

 変わった造りの建物だなあ、何か曰くがありそうだな、と思っていると、U氏が「おい、明智風呂だってよ」と言いました。あ、妙心寺にあるという明智風呂はこれか、と感動しました。その建物の内部を何度かテレビで視たことがありますが、実物を見るのは初めてだったからです。

 

 つられて脇の案内説明板を見ました。U氏はいつものように二度読んで、「あ、再建なのか、明暦二年の・・・」とややガッカリした様子を垣間見せました。

 元々は天正十五年(1587)に明智光秀の母方の叔父にあたる塔頭大嶺院の密宗(みっそう)和尚が、光秀の菩提を弔うために建立したものですが、その規模はそのままに踏襲されているそうです。

 

 明智風呂、という名前なので実際に明智光秀が入浴したのかと思われそうですが、建物自体は光秀の没後に建てられていますから直接の関係はありません。

 ですが、明智光秀は妙心寺には時々参詣していたようです。妙心寺の基本的な歴史書とされる「増補妙心寺史」によれば、本能寺の変で織田信長を討った後、明智光秀軍は妙心寺に引き上げてきています。作戦全般における陣所が妙心寺であったようですが、とにかく長年の宿怨を晴らした光秀は心置くこともないので自害しようと仏殿に礼拝し、辞世をしたためたそうです。
 このとき、塔頭太嶺院の慈澤(じたく)上人が光秀の気持ちを悟り、自刃を戒めたといいます。さらに妙心寺の使僧が内裏に参じて光秀のために諸国討伐の勅許を要請したそうです。当時の妙心寺は明智光秀の側に立っていたもののようです。
 さらに、塔頭瑞松院の玄琳こと南国梵桂(なんごくぼんけい)は、光秀の子といわれる人物です。塔頭瑞松院そのものも、中興の開基は光秀の妻の実家である妻木氏であり、もともと妙心寺は明智家とは縁が深かったようです。

 なので、明智風呂と呼ばれる浴室が現存しているのも、そうした歴史的背景によるものだと分かります。妙心寺は、京都における明智光秀のバックボーンでもあったのでしょう。  (続く)

 


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