気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る その16 SL急行かわね路号に乗る

2024年03月31日 | ゆるキャン△

 大井川鐡道の人気ナンバーワンの列車、SL急行かわね路号の全ての車輌を見て撮って、大急ぎで7号車に戻って自分の席につきました。時計を見ると11時51分でした。発車時刻まで1分でした。

 にもかかわらず、まだ団体客の方がホームに並んでいて乗りこんでいたので、出発が若干遅れるのかなと予想しましたが、そんなことはありませんでした。

 

 予定通りの11時52分に発車しました。そうだ、あれを撮っておかないと、とザックに仕舞っていたデジカメを慌てて取り出して、動き始めた車内の窓から上図の駅名標を撮りました。
 今までの数度のゆるキャン聖地巡礼で何度か来ている新金谷駅なのに、なぜか駅名標を撮り忘れるパターンが多くて、帰ってからの画像整理保存の際に「あれ、また撮り忘れたんか」とガックリすることが常だったからです。

 それからの37分間、SL列車の旅を楽しみましたが、蒸気機関車が牽引していると、電車とはまたちょっと違った振動が感じられるな、と気付きました。
 現代の電車は揺れが少なく、横揺れが殆どですが、SL急行かわね路号の振動は縦揺れもグイッ、グイッという感じで断続的にくるのでした。

 車に例えると、オートマチック車のかすかなシフトショックのカクッ、みたいなのが何度も出る、という感じでした。客車が戦前の古い車輌だからそうなるのか、それとも牽引するC10形8号機の蒸気パワー圧力が一定になりにくいからそうなるのか、それとも私自身の単なる気のせいであるのかは、分かりませんでした。

 SL列車には子供の頃に乗った事があるようで、祖父が撮ってくれた写真の中に、昭和四十五年(1970)夏に中央本線高蔵寺駅ホームのD51形200号機の横で写っているのがあります。ですが、まだ四歳でしたから、記憶が全然ありません。

 ですが、そのD51形200号機は、いまも地元京都の梅小路機関車庫に動態のまま在籍中であると聞きます。最近まで「北びわこ号」や「やまぐち号」の牽引機として活躍し、現在も山口線にて走っているそうです。私も頑張らねば、と思います。梅小路機関車庫に戻ってきた時には、一度会いにいかなければ、と思います。

 

 12時24分、家山駅に着きました。予想通り、ホームの向こうには普通列車の近鉄16000系が停車していて、乗客が窓や扉口からこちらの蒸気機関車に手を振ったり撮影したりしていました。

 

 家山駅に停車しました。このときもスーッと停まるのではなくて、例の縦揺れがガクッ、ガクッと連続的に感じられて最後にガタッときて静かになる、といった具合でした。SL列車特有の振動なのかもしれませんが、いまの電車や気動車では経験したことのない揺れでした。

 

 家山駅を発車し、上図の茶畑が広がる景色を見ながら終点の川根温泉笹間渡駅へ向かいました。

 

 川根温泉笹間渡駅の手前で、大井川に架かる大井川第一橋梁へ進みました。対岸の堤防上の園地でピカッ、ピカッとカメラのフラッシュが光るのが見えましたので、本格的なカメラを構えた撮り鉄が数人待ち構えているな、と分かりました。

 この大井川第一橋梁は、大井川鐡道の列車を撮影する人気のスポットとして知られています。道の駅に隣接していて常に観光客が居るので、列車が大井川第一橋梁を渡る時刻になると大勢が堤防上に繰り出して、いっせいにスマホやカメラを向けることもしばしばです。

 

 鉄橋を渡る際のゴロゴロというような特有の走行音を聞きつつ、この日泊まる予定の川根温泉ホテルの建物を見ました。この辺りでは一番大きな建物なので、目立っていて列車の窓からもよく見えました。

 

 大井川第一橋梁を渡り切ろうとする瞬間に撮った画像です。道の駅の建物が縮小工事を受けているようで、以前はもっと長かった建物が短くなっているのが見えました。その跡地で重機が忙しく動いていましたが、何らかの施設を新たに設けるのかどうかは分かりませんでした。

 

 終点に着く直前に、席を立って前の昇降口付近まで行き、上図のように通用扉の窓から見えるC10形8号機の背面のライトとナンバープレートを撮りました。

 御覧のように、車体にリベットが打たれてあります。C10形は、電気溶接が一般化する前の時期に製造されたため、運転台や側面の水タンク、背面部はこのようにリベット打ちによって組み立てられています。後継のC11形が電気溶接で製造されているためにリベットが見当たらないのに比べると、いかにも戦前の機関車らしい重厚な印象があります。

 

 12時30分、終点の川根温泉笹間渡駅に着きました。SL急行かわね路号の旧型客車の昇降口のドアは自動ではなくて手動なので、乗客が自分で開けて出入りします。私も7号車の前のドアを自分で開けてホームに降り立ち、前のC10形8号機に駆け寄って「御苦労様でした」と小声で礼を言い、小さく一礼しました。

 

 運転席から出てきた機関士が何かのチェックのためにランボードに駈け登って、排気弁や冷却管などを目視で確認していました。12分後には折り返してEL急行かわね路号として新金谷駅へ向かうので、今度はC10形8号機が補機として列車を押してゆくことになります。

 

 C10形8号機と、乗って来た7号客車を繋ぐ連結器の様子です。

 この時は、こういう連結器って外れる事は無いんだろうな、と思って撮っていましたから、わずか5日後の11月28日に家山駅にて発車直後の電気機関車のE34と客車オハフ33-469の連結器が外れて客車が置き去りにされるという事故が起きたのには本当にびっくりしました。E34もオハフ33-469も、私が乗った列車の車輌だったからです。

 この列車分離事故について国土交通省は事故につながりかねない重大なインシデントと認定し、運輸安全委員会が調査を行ないましたが、直接の原因は未だに判明していないようです。

 ですが、大井川鐡道はこのトラブルを「重大事故」と位置付け、翌29日の午前中に鈴木社長が記者会見を開き、謝罪とともに再発防止策を講じることや国交省の調査に全面的に協力するなどの真摯な態度を示しています。さらに、事故現場を含め、車両などの写真を翌29日にはすべてホームページ上で公開しています。現場見取り図などもイラストで添えて分かりやすく解説しています。その公開情報はこちら

 このように、すぐに対応して現場の状況や、事故車両の状況などをきちんと公開したのは見事な処置だと思います。鉄道事業者としての真摯な態度をはっきりと示しており、事実が明確に公表されたことによる風評もなく、社会的な不安を払しょくすることが出来ました。こういう点は大変に評価出来ますし、信用にも繋がります。

 だから、私は今後も安心して大井川鐡道を利用し、応援してゆきます。

 

 さて、折返し出発に備えて運転室では機関士さんたちが声出し、指差しであれこれと確認作業を進めていました。補機となれば、逆走になりますから、後ろ向きで運転するわけです。補機運転前の準備も抜かりなく進めるのだなあ、と感心しつつ見守りました。

 

 それから7号客車の前に戻りました。

 

 記念に妻面の車番表記を撮りました。感動をありがとう、スハフ43-2。また機会があったら乗ります。

 

 川根温泉笹間渡駅の駅名標です。次の駅名に白いシールが貼られているのがなんとも哀しいです。早く元通りに千頭駅までの全線運行が出来る日が訪れることを願ってやみません。  (続く)

 

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「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る その15 客車6号車から1号車と補機

2024年03月30日 | ゆるキャン△

 SL急行かわね路号の出発時刻までまだ間があったので、私が乗る客車7号車以外の客車も一通り見てゆきました。上図は6号車です。

 

 6号車の車体側面のプレートと車番表記です。オハ35形の559号車と分かります。プレートは他の客車とは異なって吊り下げタイプです。

 オハ35形は、国鉄オハ35系列客車の中心的存在となる三等車です。戦前の昭和十四年(1939)から戦後の昭和二十三年(1948)にかけて日本車輌、日立製作所、汽車製造、川崎車輛、近畿車輛、帝国車輛、新潟鐵工所、国鉄の小倉、大宮、大井、鷹取の各工場で合計1301輌が製造されており、時期により各種のバリエーションがあるそうです。

 大井川鐡道には8輌が譲渡され、うち1輌が車体の腐食劣化により平成二十八年に解体されています。あとの7輌はいまも健在です。上図のオハ35-559は戦前の製造分にあたり、昭和五十六年(1981)の譲渡分であるそうです。

 

 オハ35-559の車内です。天井以外の車内材は木を用いており、いかにも戦前の客車という雰囲気でした。

 

 天井の扇風機や室内灯も製造当初からの備品がそのまま維持されているそうですが、文化財的にみたら第一級の保存度です。長く使用していれば交換されている部品が、ずっと交換されないままですから、いかに大切に守られてメンテナンスも丁寧に継続されてきたかが分かります。
 こういうところに、大井川鐡道さんの丁寧かつ堅実なメンテナンスぶりがうかがえます。

 

 5号車の車体側面のプレートと車番表記です。オハフ33形の469号車と分かります。プレートは枠にスライドさせてはめ込む形式です。

 オハフ33形はオハ35形系列の一車種である三等緩急車です。戦前の昭和十四年(1939)から戦後の昭和二十三年(1948)にかけて、日本車輌、日立製作所、汽車製造、川崎車輛、田中車輛、帝国車輛、新潟鐵工所で合計606輌が製造されています。

 大井川鐡道に譲渡されたオハ35形8輌のうち、2輌がオハフ33形です。2輌とも戦前の製造分にあたり、大井川鐡道へは昭和五十一年(1976)に譲渡されています。車内は6号車のオハ35-559とほぼ同じですが、緩急車ですので、後位の出入台側にブレーキ弁のある車掌室が設置されています。

 

 オハフ33-469の後位の出入台側の車掌室の内部です。窓際の大きな丸い縦のハンドルがブレーキ弁です。

 

 そのまま車内通路を進んで4号車に入りました。4号車から車体色がオレンジ色に変わったので、これはきかんしゃトーマス列車でも使われてるアニー、クララベルのカラーの客車だな、と気付きました。

 

 4号車の車内です。さきに見てきたオハ35形系列とは違って、車内が明るくて近代的な雰囲気になっていました。近年の電車や気動車の車内とあまり変わらない感じで、これは戦後の客車だろうな、と思いました。

 

 いったん外に出て4号車の外観を確かめました。

 

 車体側面の中央に行ってみました。が、かわね路号のプレートのみで車番表記がありませんでした。そうか、トーマス号の客車は劇中のアニー、クララベルの仕様に合わせてあるから、車体色をオレンジ色にしただけではなく、文字も消してあるわけか、と理解しました。

 

 ならば妻面の目立たない所の車番表記は残されているだろう、車体検査上の必要な表記部分だから消してはいないだろう、と考えて見てみました。上図のようにちゃんとありました。下の車番表記まで撮れていなかったので上図では分かりませんが、スハフ42形の286号車でした。

 スハフ42形は、国鉄スハ43系客車の一車種で、スハ43形の緩急車版として製造された三等客車です。国鉄が昭和二十六年(1951)から昭和三十年(1955)にかけて製造した客車の形式群の一部にあたります。
 大井川鐡道には4輌が譲渡され、現在は4輌ともトーマス号の客車用としてオレンジ色に塗られています。

 

 続いて3号車に行きました。外観はさきに見たスハフ42-286と変わらないように思いました。

 

 妻面の車番表記を確かめると、オハ47形の512号車と分かりました。これもスハフ42形と同じく国鉄スハ43系客車の一車種です。なので、外観だけでなく車内も、さきに見たスハフ42-286と同じ雰囲気でした。

 大井川鐡道には4輌のオハ47形がありますが、後日川本氏に教えてもらったところによりますと、厳密にはオハ47形というのはオハ46形の台車を変更して軽量化したタイプで、このタイプは大井川鐡道にはオハ47-81の1輌しかない、ということでした。
 なので、上図のオハ47-512を含む3輌は、スハ43形の軽量化タイプのオハ46形を大井川鐡道への譲渡入線時に形式変更しただけ、ということでした。

 続く2号車も、オハ47-512と同じスハ43形軽量化タイプのオハ46形を形式変更した車輌で、側面の車番表記はオハ47-398でした。外観も車内もオハ47-512と同じでした。

 

 1号車に行きました。おや、車掌室の窓の四隅が丸いな、オハ47形とは違うのかな、と気付きました。

 

 妻面の車番表記を確かめると、スハフ42-184とありました。なるほどこれもスハフ42形か、と理解しました。さきに見た4号車のスハフ42-286と同じ車輌でした。

 

 反対側の妻面に残されている「日本国有鉄道」つまり国鉄の銘板です。こういうものもきちんと残してあるのが素晴らしいですね。

 国鉄が民営化されて現在のJRになったのは、昭和62年(1987)4月のことでした。当時の私は大学三回生でしたから、当時の各地での、さよなら国鉄・初めましてJR、等のイベント類の様子も見聞きしていました。20歳までは、私鉄以外の鉄道はみんな国鉄であるのが普通で、新幹線も国鉄だったのですから、その頃の記憶というのはなかなか消えないどころか、いまだに鮮やかな記憶の一部として残っています。

 なので、こういう国鉄の銘板を見ると、大学生の頃までの昔を思い出してしまいます。

 

 そして最後尾の補機は電気機関車のE31形34号機でした。この機関車は今までにも何度か見かけましたが、こんな近くで見るのは初めてでした。そしてこの機関車がこれから乗るSL急行かわね路号の補機を務めるのですから、親しみすら感じられてしまいました。

 ということで、この日のSL急行かわね路号の編成内容は、C10形8号機、スハフ43-2、オハ35-559、オハフ33-469、スハフ42-286、オハ47-512、オハ47-398、スハフ42-184、E31形34号機、という並びであることを確認しました。

 その際に気付いたのは、この機関車2輌と客車7輌の9輌編成列車を、自分の手元にあるNゲージ車輌でだいたい再現出来るかもしれない、ということでした。
 現時点ではオハ47形の2輌が手元にありませんが、これはトーマス客車シリーズのスハ43形の準同型車輌ですから、オハ47-512、オハ47-398の2輌はトーマス客車シリーズのスハ43形に置き換えれば、車体色はそのままでオーケーです。

 それで、今回の旅行から帰宅した翌日の夕食後に、NゲージでそのSL急行かわね路号の9輌編成列車を再現しました。ループ状のレイアウトを作り、C10形8号機を先頭にして走らせてみましたが、私よりも嫁さんのほうが大喜びでスマホで何枚も撮影し、モケジョ仲間にメールで送りつけていたのでした。  (続く)

 

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伏見城の面影3 常寂光寺へ

2024年03月29日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 天龍寺勅使門を見た後は、長辻通を北へ歩いて丸太町通の交差点まで行き、角の吉崎稲荷社に参拝しました。それから交差点を左折して西へ進み、市営嵯峨住宅の横、嵯峨公園の北へ右折し、次の辻で左折して歌仙洞碑の辻まで行きました。
 
 この道順は、U氏が嵐山へ行く時に好んで選んでいるコースだそうで、今回もU氏が先頭に立ってのんびりと歩きました。上図は、歌仙洞碑の辻へ向かう途中で「長神の杜」の林を望んだところです。

 

 歌仙洞碑の辻を直進して西へ進むと、小倉山の麓の緩傾斜地に入って道はゆるく登り坂に転じました。道をおおう緑のトンネルの向こうに、茶色の門の一部が見えてきました。次の目的地である常寂光寺の山門でした。

 

 常寂光寺の山門に着きました。U氏が、山門の右脇に立つ上図の標石をまず見て、「おぐらやま、じょうじゃっこうじ」と声に出して読み、私を振り返って「この小倉山ってのは、この寺の山号でもあるのかね」と言いました。そうだ、と頷いておきました。

 

 常寂光寺の山門です。現在の建物は江戸後期の再建であるそうで、門扉や袖の塀が格子状に造られています。それ以前の門は袖に土塀をめぐらした薬医門であったようですが、詳しい事は分かっていないようです。

 つまり、山門は今のほうが小さく簡素になってるわけだな、とU氏が言い、私も頷きました。個人的には以前の薬医門も見てみたかったな、と思いました。

 

 山門をくぐって受付で拝観料を払い、石畳の参道を進むと、前方の一段高い石積み基壇上に藁ぶきの仁王門が見えてきました。
 この仁王門は、もとは六条堀川に所在した本圀寺(現在は山科区御陵大岩に所在)の客殿の南門として南北朝期の貞和年間(1345~1350)に建立されたものですが、江戸初期の元和二年(1616)に現在地に移築されています。

 U氏が「この仁王門がまた歴史的に貴重であるわけだな、国の重要文化財になってないのが不思議なくらいだ」と言いました。流石に京都の古社寺の建築には関心を持って色々と勉強しているだけあって、この仁王門の本質的な価値をよく分かっています。

 あまり知られていませんが、この仁王門は本圀寺の京都での最初の門であった可能性があります。周知のように、本圀寺は日蓮上人建立の鎌倉松葉ヶ谷法華堂を前身とする法華宗の寺院で、もとは本国寺と表記しました。いまの本圀寺に改めたのは、江戸期の貞享二年(1685)に水戸藩主徳川光圀が本国寺にて生母久昌院の追善供養を行った際に自らの名から圀の一字を本国寺に与えた縁によります。
 だから本圀寺は水戸藩とも関係が深く、それで水戸藩士の子孫であるU氏も一通りの歴史や由緒を当たり前のように知っているわけです。

 鎌倉にあった本国寺が京都に移転し、皇室の勅願寺とされ、室町幕府の庇護をも受けて六条堀川に建てられたのは貞和元年(1345)三月のことでした。その後、本国寺は天文五年(1536)の天文法華の乱で焼き討ちを受けて壊滅、永禄十二年(1569)には本国寺を居所としていた足利義昭が三好三人衆により襲撃される本圀寺の変の戦場となって被害を受けています。その後、残っていた建物の一部は織田信長が足利将軍家のために建設した二条御所(旧二条城)へ運ばれています。

 なので、このもと本国寺の貞和年間(1345~1350)に建立された仁王門というのは、現存する京都六条堀川移転時の唯一の遺構である可能性が考えられます。京都移転の年が貞和元年(1345)ですから、年代的にも合いますし、建築の様式も室町期の特色がまだ出ていないので、南北朝期の様相を反映しているとみても間違いありません。

 この仁王門には、左右に金剛力士像が安置されています。寺では運慶作と伝えていますが、調査がなされていないために詳細は不明です。仁王門本来の安置像ではなく、福井県小浜市の長源寺から移されたものですので、仏像彫刻史研究の視座においては若狭地方の仏像の歴史をベースにして捉えるべき遺品だと思います。

 U氏が「若狭にはこういう金剛力士像は多いみたいだな」と言い、私も「そうやな、小浜じゃあちこちにあるもんな」と応じました。運慶作というのは単なる伝承に過ぎないけれども、中世後期の遺品であることは間違いなく、作者の系譜はだいたい慶派仏師に連なるだろう、というのが私自身の個人的な見立てです。

 

 仁王門の前から参道を振り返りました。いい雰囲気です。

 

 仁王門をくぐると、上図のように地形的には急な傾斜地となります。小倉山の西麓の中腹に境内地の中心部があるので、さらに高い所まで石段を登る必要があります。

 仁王門から上の境内地へは、真っすぐに進む階段と、右に迂回して境内地の北側に回る上図の石段の二つのルートがあります。U氏が「行きは正面から登ろう」と言ったので、上図の石段は帰りに降りました。

 

 仁王門から上の境内地へ真っすぐに進む階段です。後から新しく追加されたような、小奇麗な感じでしかも急です。

 

 登っていくと、上図の本堂の前に出ました。U氏が指さして、これか?と聞きました。そうみたいやな、と頷きました。

 

 この本堂が、寺伝によれば、 慶長年間(1596~1615)に小早川秀秋の助力によって伏見城の客殿を移築したものと伝える建物です。

 U氏も私も、この常寂光寺を訪れるのは今回が初めてでしたから、この本堂の建物も初めてみました。まことに伏見城の建築であるのか否か、と二人で並んで本堂の南面に近寄りました。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く38 その6  高ボッチ高原へ

2024年03月28日 | ゆるキャン△

 崖ノ湯ルートから北の広場駐車場に進んで志摩リンのキャンプ地を見たあと、さらに林道を南へ登って高地へあがりました。まだ灰色の雲が空を覆っていましたが、次第に北へと流れていくので、もう少し待てば晴れるだろう、と考えました。

 

 高ボッチ高原の山頂の西麓にある、高ボッチ高原第2駐車場に着きました。上図は駐車場の入口から南西方向を見たところで、右に管理棟、中央奥に無線中継所、左に大きな案内板と新設のキャンプサイトが見えました。

 高ボッチ高原はもともとはキャンプ禁止だったらしいのですが、ゆるキャンの舞台になったことによる観光客の増加に伴い、2019年度に「高ボッチ高原環境管理ガイドライン」が策定され、第2駐車場の周囲のみテント・タープの設置が可能になったということです。

 さすがにゆるキャン効果というのはどこでも絶大なパワーを発揮していますね。この日も幾つかのテントが見えました。

 

 大きな案内板に近づきました。御覧のように高ボッチ高原全体の案内イラストマップが掲示されています。一見して、思ったよりも範囲が広大なのに驚きました。高ボッチ高原は、山頂付近だけではなくて、その南北の尾根の稜線とその支尾根に広がる緩傾斜地を含んでおり、非常に広大なエリアとなっています。

 ということは、志摩リンが移動し、見物して回った範囲も広くなるわけだ、特定するのが大変になりそうだぞ、と感じました。とりあえずアニメ劇中に出ているポイントを第2駐車場のあたりから順に探していくことにしました。

 

 第2駐車場の西には信州盆地を望む展望台があります。この展望台に志摩リンも来ています。

 

 このシーンですね。劇中では下界の眺めは雲に覆われてきかなかったのでした。私も朝から登ってきていたら、同じような状態になっていたと思います。西麓の馬場家住宅を見学して二時間ほど時間をずらしたのは正解でした。

 

 雲が流れていって、下界の景色は奥の北アルプスの山並みまで見渡せるようになっていました。もう少し時間が経てば空も青く変わるかな、と思いました。

 

 劇中では志摩リンが、景色がまったく見えないのに呆然としています。ここに至るまでに、志摩リンは私とは逆の東山ルートから登ってきているので、とりあえずはそのルートをこれから広い高ボッチ高原のなかで探さないといけませんでした。

 

 この時点で南側は雲が切れて行って青空が見え始めていましたので、もう少し時間をかせごう、と考えました。なぜならば、このときは高原一帯に強い横風が吹き付けていて、晴れてくれないと寒くて仕方がなかったからでした。ひとまず管理棟を先に見て、何か資料があったら見ていこうと思いました。

 

 そこで高ボッチ高原の管理棟に向かいました。第2駐車場の南に隣接し、テント・タープのサイトの管理事務所も兼ねています。この建物にも志摩リンが立ち寄っています。

 

 ですが、劇中では管理棟は閉まっていたようで、志摩リンも上図のように階段まではあがっていますが、中へは入っていません。出入口横の自販機が昔は赤かったことが分かります。  (続く)

 

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伯爵高校 Ⅳ号戦車G型(1号車)(樅の木と鉄の羽の魔女版) 作ります!! その5

2024年03月27日 | ガルパン模型制作記

 ステップ17では車体各所の部品の取り付けを行ないます。ステップ18からは砲塔の組み立てに進みます。いずれも組み立てガイドの指示通りに組みます。

 

 ステップ17で取り付けるアンテナケース等のパーツです。アニメ版のD型やH型仕様では長さの調整が必要だったアンテナケースですが、今回の作中車のG型では実車準拠ですのでストレートに組付けられます。変にガルパン仕様として形を変えたりしないのが、作る側にとっては大変に有り難いです。

 

 組み上がりました。下に置いてあるパーツA10は車外装備品なので、塗装後に取り付けます。

 

 ステップ18に進んで砲塔関連のパーツ類を切り出しました。

 

 ストレートに組んで仕上がりました。

 

 ステップ19およびステップ20でも砲塔の組み立てを進めます。今回の作中車の砲塔はG型の前期型の改修タイプにあたるようで、パッと見た感じではむしろ中期型の砲塔に見えます。
 使用したキットは後期型ですが、形状のうえでは中期型とほぼ同じで、発煙筒や機銃ガードの有無が相違点として挙げられる程度です。作中車は機銃ガードを付けますが、今回のキットにはパーツがありませんので、ジャンクからドラゴンのパーツを持ってきて付ける予定です。

 

 ステップ19で組み立てる砲塔背後のゲベックカステンやピストルポートなどのパーツです。

 

 組み上がりました。

 

 ステップ20で組み立てる、主砲の75ミリKwK40L/48のパーツです。

 

 組み上がりました。次のステップではこれにシュルツェンを取り付けます。  (続く)

 

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「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る その14 SL急行かわね路号の客車7号車

2024年03月26日 | ゆるキャン△

 いよいよ憧れのSL急行かわね路号に乗ることになりました。出発時刻まであと7分ぐらいあったので、記念に客車を見物し撮影することにしました。

 

 先頭のC10形8号機の黒光りする逞しい姿。これぞ蒸気機関車、これぞ往年の国鉄の主力機関車、といった貫禄です。

 

 昭和五年(1930)に川崎車両にて製造されて以来ですから、今年令和六年には94歳に達する老齢機です。が、車体はピカピカに磨かれて油も生き生きと通い、各パーツには些かのヘタリも見えず、常に行き届いた綿密なメンテナンスが行われていることが伺えました。

 

 蒸気機関車の動力機構の肝であるシリンダーからの主連棒も御覧の通りの鮮やかな銀色です。常にパーツの保全維持が図られて潤滑油も隅々に行き渡っていることが見て取れました。静態保存機の赤錆まみれの部品を見慣れている目には、眩しいほどの輝きが、この機関車の「生命」の息吹を感じさせてくれました。

 

 このC10形8号機は、戦前は主に東北本線や高崎線の旅客列車に使用され、戦後は山田線の旅客列車や会津線の旅客・貨物列車に使用されています。そして昭和三十六年(1961)11月から休車、翌昭和三十七年3月に廃車となりました。

 その後は岩手県宮古市のラサ工業へ譲渡され、同社の工場と宮古駅とを結ぶ専用線の貨物輸送と、宮古駅構内の入換作業に使用されましたが、ディーゼル機関車の導入によって予備機となり、昭和六十一年(1986)11月に再び廃車となりました。

 その翌年に宮古市が譲り受け、観光列車として使用するために動態復元工事が行われ、平成二年(1990)1月まで宮古駅付近と宮古港出崎埠頭を結ぶ旧国鉄臨港線にて「SLしおかぜ号」として保存運転を行ないました。

 それから四年間の休止期間を経て、平成六年(1994)に大井川鐡道に譲渡され、動態復元工事を行なってイベント等での展示を重ねた後、平成九年(1997)より営業運転を開始し、現在に至っています。

 

 

 運転室の窓から内部のボイラー本体後部と操作機器類を見ました。聞くところによると、過去の二度の動態復元工事によって構成部品の相当数が交換または新調されてきたといい、その多くは準同型機のC11形より調達されたものであったといいます。

 C11形は合計で381両が製造されて現在も全国各地に動態および静態の保存機があわせて約50両ほどあり、大井川鐡道にも動態2輌、静態1輌、譲渡修理1輌の計4輌がありますから、部品も豊富に入手出来る状態であり、それがC10形8号機の長寿を支えている、ということでしょう。

 

 こうしてみると操作機器の多さに驚かされます。それで蒸気機関車の運転操作は複雑で難しそうに見えますが、かつてD51形の機関士を勤めていた父方の大叔父の話では「(運転操作で)触るんは四つぐらいや、走らすんは簡単や。それよりも走る区間、時刻、石炭および水の積載量、貨物の総量、前後の列車のダイヤを勘案して最適な速度を計算して維持するんが難しい」ということでした。

 その大叔父は国鉄の無煙化施策によって蒸気機関車が廃止された後は、ディーゼル機関車のDD51形、電気機関車のEF65形を運転したといいます。
 私も子供の頃に一度大叔父に連れられて、大叔父が勤めていた奈良駅西側の奈良機関区の電気機関車に乗せてもらったことがあります。その際に大叔父が「蒸気機関車は運転が大変やったが、一番おもろかったな」と話していたのが、なぜか今も鮮やかに記憶に残っています。

 

 さて、これから乗る客車の7号車に向かいました。ブルーの車体に白線が二本引かれた小奇麗な印象のある客車でした。

 

 7号車の車番プレートです。個人的には今回このSL急行かわね路号に乗る事自体が、降ってわいたような幸運でしたので、この7は間違いなくラッキー・セブンだな、と確信しました。

 

 出入口脇の側面下の車番表記です。スハフ43ですので、国鉄が昭和二十六年(1951)から製造した戦後形客車の一形式群であるスハ43系客車の一種にあたります。その特急用三等座席車タイプの基幹とされたスハ44形客車の緩急車( ブレーキ を掛けるための装置が取り付けられた車両)版として製造されたのがこのスハフ43で、 計3両が造られ、そのうちの2両が日本ナショナルトラストの所有となって大井川鐡道に管理委託されています。

 

 車体側面中央の「かわね路号」のプレートと車番スハフ43-2の表記です。スハフ43の2号車であることが分かります。大井川鐡道にあるもう1輌はスハフ43-3です。いずれもNゲージの模型で揃えて持っていますので、何度か眺めていますが、その実物であるわけですから、とにかく感動が途切れませんでした。

 

 金谷側の車輛端部には車掌室が設けられており、その後方監視窓には白いガラスがはめられています。

 

 千頭側の昇降口から車内に入りました。閉じられた通路扉の窓ごしにC10形8号車の背面のナンバープレートとライトが見えるのに気づき、思わずカメラを構えて撮りました。

 

 車内の様子です。昭和二十六年(1951)製造というので、戦前の名残がただようレトロな車内を想像していたのですが、実際には近年のキハ系の車輛の車内とあまり変わらない雰囲気でした。天井が丸く作られているのが古風に感じられた程度でした。

 この日の7号車は個人客などにあてられていたそうで、乗客もまばらでめいめいの席に座っていました。大勢の団体客は6号車から1号車へと案内されていました。その長い行列を見ながら、予約制だからああやってスムーズに客車や席の配分を調整出来るわけなんだな、と感心したことでした。  (続く)

 

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「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る その13 現存唯一の老機の勇姿

2024年03月25日 | ゆるキャン△

 新金谷駅にて運転準備中のSL急行かわね路号ののC10形8号機をしばらく見ました。既に周囲には大勢の観光客が柵沿いにカメラやスマホを構えて見物しており、横の駐車場には既に5台の観光バスが入って複数の団体観光ツアー客が次々に降りて私たちの見物の列に加わってきました。

 その人数は、ざっと見て300人以上でした。それで今回のSL急行かわね路号の客車が7輌もあるわけか、と納得しました。旧型客車の定員は約50人だと聞いていたからです。
 周知のように、SL急行かわね路号は予約制なので、当日までの予約数を集計すれば、乗客の予定数が分かります。それに基づいて、当日の飛び込み分を追加して客車の数が決まるのだな、と理解しました。

 

 同時に、平日の火曜日にもかかわらず、それだけの観光客が集まっていることに感動しました。さすがにSLの列車はどこでも大人気なのだなあ、と感心しました。大井川鐡道さんの懸命の企業努力も功を奏しているのでしょう。

 地元の京都にも、梅小路の鉄道博物館に多くの動態保存のSLがありますが、旧型客車とセットで営業運転するというのは無いので、ここ大井川鐡道のSL急行かわね路号のほぼ毎日の営業運転というのがいかに凄いことであるか、鉄道には疎かった私にもだんだんと分かってまいりました。

 

 見学中に携帯が鳴りました。この日の切符を譲ってくれた川本氏からでした。このタイミングを見計らってかけてきたのでした。

「よお、ホッさん、調子はどうやな」
「最高や」
「ははは、それは良かった。ホッさんなら大いに楽しめる筈やからな・・・、大代川側線は行ったか?」
「ああ、川さんのアドバイス通りに行って、色々見てきた。話すことは一杯あるで」
「やろうな、また聞かせて貰うわ。そろそろ乗車時刻やろ、楽しんでこいよ。じゃ・・・」
「あっ、ちょっと待って、質問が一つあるんや、ええかな」
「何かね?」
「C10形8号機のナンバープレートな、あれサイズが大きい気がするんやが、製造当初からああなのかね?」
「ああ、それな・・・、今のナンバーは近年に付け替えてるのよ。元のナンバープレートは戦前からの車番の前に間があけてあるタイプやで細長かった。今のは間がなくて続いてるから、パッと見にはC108と読めるやろ」
「そうなんよ、Cの108号機かと思えてしまうな」
「それや。見ようによってはC10形の8号機と分からへんから、今のプレートは下に小さく形式番号が入ってるやろ、「形式 C10」って」
「ああ、入ってる・・・、そうか、なるほど・・・、その小さい形式番号を入れたからナンバープレートが大きくなったわけか」
「そういうことや」

 

 それじゃ、と相手が電話を切るのを聞いて携帯を閉じて鞄にしまいました。代わりに乗車券を取り出して席番を確認しました。7号車の7-Aとありました。

 7号車というと、あれか、C10形8号機の次に連結されている青色の客車(上図)だな、と気付きました。大井川鐡道では新金谷から出るのを下り、千頭や家山から出るのを上りとしていますから、今回の列車の客車も新金谷側から順に1号車、2号車と続きます。今回は7輌の客車が用意されていましたから、7号車は最後尾にあたりますが、新金谷駅においては先頭になりますから、牽引機関車と連結されるわけです。

 

 時計を見たら11時40分でした。そろそろ改札口が開かれるかな、と思ってもう一度C10形8号機を見て写真を撮りました。撮っていて、あれ、と気付きました。ナンバープレートの下の動輪の横に下がっている部品に既視感がありました。

 

 あの部品、大代川側線横の部品置き場でも同じのを見かけたな・・・。泥溜タンクだったな、あちらはC56形44号機のパーツだろうと見ましたが、こちらのはやっぱりC10形用のパーツなので、形状が全然違います。頂部に繋がるパイプやハンドルがありませんでした。

 

 何度見ても見飽きない、カッコ良すぎる現役の蒸気機関車の勇姿です。もう最高かよ、でした。

 

 記念に、これから乗る客車の7号車のプレートと車番も撮っておきました。スハフ43-2なんだな、たしかこれもNゲージのほうで持ってたな、と気付きました。さらに嬉しくなってまいりました。

 

 その時に、ボーッと音が響いて白い蒸気が機関車の車体を覆いました。運転準備完了、といった雰囲気でした。

 

 運転席の様子も見えました。デジカメの望遠モードを効かせて撮りました。メカメカ感満載ですね・・・。

 

 11時42分、出発時刻の10分前に改札口が開かれました。私は行列の先頭から5人目ぐらいに並んでいて、駅員に切符を掲示しつつ改札口を通り、列車の前の踏切を渡りました。その際に上図の写真を撮りました。

 

 私だけでなく、他の観光客も同じように踏切の上からスマホやカメラで撮っていました。やっぱり正面から見る姿も絵になるからです。

 

 ホームへ上がりつつ、何枚か撮りました。私だけでなく大勢の観光客の大部分が同じように撮っていたので、改札口からの行列の動きがゆっくりになり、駅員さんが「どうぞ御乗車下さーい」と声を出して列を促していました。

 それにしても、このC10形8号機は本当にどこから見てもカッコ良すぎました。同時にこんな貴重な蒸気機関車が今も現役であるのは稀有の現象だな、と深く感動しました。

 なぜならば、このC10形は、戦前の昭和五年(1930)に23輌が一括で製造されたのみで、その後の追加製造がありませんでしたから、23輌で全てであり、これは日本の蒸気機関車の一形式の生産数としては少数に属します。そして現在に至っているのはこの8号機のみで、他の22輌は全て廃車、解体されています。

 だから、いまも全国各地に多く存在する静態保存の展示機のなかに、C10形は1輌もありません。なので、上図の8号機のみが、現存唯一のC10形としていまも動態で健在であることがどんなに貴重で稀少で価値があるかが、よく分かります。川本氏が「大井川鐡道のC10形は、超国宝級の機関車やぞ」と何度も力説していましたが、その通りだと思います。

 なので、その日本に現存する唯一の老機の勇姿を目の当たりにし、かつその牽引する列車に乗るというのは、なかなか得られない至高の機会じゃないか、と何度も思ったのでした。  (続く)

 

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伏見城の面影2 天龍寺勅使門

2024年03月24日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 天龍寺勅使門の続きです。上図は袖土塀との接続部にあたる部材ですが、土塀の棟面の保護板の役目を果たしていて、蟇股(かえるまた)の形に造られています。内側に彫り物が施されています。

 

 反対側の同じ部材にも彫り物が入っていますが、同じ表現意匠にはなっていませんので、おそらく左右のモチーフがワンセットで作られているものと思われます。

 

 袖土塀は、御覧のように瓦塀(かわらべい)の形式で造られています。これは練塀(ねりべい)の一種で、寺院の土塀の一形態として平安期から存在し、現存遺構は鎌倉末期頃からのものが多いです。京都では大徳寺や天龍寺や本隆寺、今宮神社など各地の寺社で色々な瓦塀が見られます。

 

 ですが、天龍寺勅使門の瓦塀のように南に張り出して屈曲する形式は、むしろ城郭のほうで幾つかの事例が見られます。よく似たケースがU氏の地元の水戸城の大手門の瓦塀で、しかも城郭の瓦塀としては国内最大級の規模を持つことが発掘調査によって確認されています。

 瓦塀は、京都では皇室と関係が深い院家か門跡、もしくは皇室勅願の寺院に見られますが、いずれも格式は三位以上であるようです。従って中納言以上か、三位相当に該当する身分でなければ設けることが出来ない格式の高い塀の形式であったのかもしれません。

 そのことを言うと、U氏は大きく頷いて、水戸藩主も歴代が中納言に叙せられてるからな、と言いました。だから水戸城に瓦塀があって当たり前だな、と満足げに言い、こちらの瓦塀を撮影していました。

 

 そうなると、この瓦塀が勅使門に付属して一体の建築となっている以上、これも創建時には中納言以上か、三位相当に該当する身分の人が関わる場所に建てられた門であった可能性が高くなります。

 この勅使門が現在地に移築されたのは寛永十八年(1641)のことですが、それ以前は慶長年間(1596~ 1615)に建てられた京都御所の明照院の門であり、それ以前は伏見城の門であったと伝わります。伏見城のあるじ豊臣秀吉は正一位の関白太政大臣でしたから、この格式の門を居城に設けることは普通に出来た筈です。

 なので、この門がもと伏見城の門であったとする伝承は無視出来ません。徳川期再建の伏見城の門であったとしても、そのあるじ徳川家康は従二位内大臣で、武家の論理に従えば、豊臣政権下では秀吉、秀長兄弟を除けばトップの官位にありましたから、この格式の門を居城に設けることは可能でした。

 つまり、この格式の門を伏見城に構えることが出来た身分の武家は、当時は豊臣秀吉と徳川家康の二人だけでした。だから問題は、伏見城の門であったのならば、それは豊臣期か徳川再建期かのどちらであるのか、ということに尽きると考えます。

 

 ただ、この門の表現意匠は桃山期の門にしてはおとなしめであるように思います。伏見城の門であったのならば、外側にあって目立つ門ではなく、内向きの通用門としての位置にあった可能性が考えられます。

 

 そして重要なのが、上図の南側の袖土塁接続部部材の彫り物が龍虎である点です。こちらは向かって左側の龍です。口を開いて阿吽のうちの阿形に作られています。

 

 そしてこちらが向かって右側の虎です。口を閉じて阿吽のうちの吽形に作られています。

 この龍虎の表現は、もともとは古代中国の「易経」にある「龍吟ずれば雲起こり、虎嘯けば風生ず」「雲は竜に従い、風は虎に従う」に由来しており、武門の象徴とされて日本では室町時代以降に流行し、戦国武将たちが龍虎の屏風絵によって権勢を誇示するケースが一般的になっています。

 したがって、武門の象徴である龍虎が、阿吽の姿をとって門の両側に侍るという彫刻表現は、武家の門に相応しい意匠であることになります。寺院や皇室の門には有り得ないモチーフですから、この点でも伏見城の門であったとする伝承は真実味を帯びることになります。

 

 なので、U氏も私も、天龍寺勅使門がもとは伏見城の門であった可能性は高い、という見解では一致していました。

 

 ただ、U氏は豊臣期伏見城の門だろう、と言いました。私はそこまで踏み切れず、慶長年間に京都御所へ移築した点を考慮すると、同時期に破却が始まっていた徳川期再建伏見城の門である可能性を指摘するにとどめました。

 

 門の各所に見える見事な彫刻表現の基調は、桃山期のそれですが、それを担った作家たちは江戸初期まで活躍していましたから、同じようなものを江戸初期にも造る事は可能でした。

 

 なので、この門が桃山期なのか江戸初期なのかは、細部の彫刻表現からは識別出来ませんでした。

 

 なので、この門の扉が初めて開け放たれた際に吹き込んだ時代の風が、豊臣政権期のそれであったか、德川政権期のそれであったかは、銘文や古文献史料等の確証が出てこない限り、分からないままとなります。

 

 ただ、この門が最初は伏見城にあった可能性が限りなく高い、ということは言えます。今は、それだけで充分じゃないかな、とも思います。そのほうが、歴史のロマンをより感じられて楽しくなるからです。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く38 その5  志摩リンのキャンプ地

2024年03月23日 | ゆるキャン△

 馬場家住宅の見学を終えたのが10時17分でした。駐車場から高ボッチ高原の方角を見上げると、分厚かった灰色の雲がすっかり薄れていて、青い空が山頂にもチラチラ見え始めていました。よし頃合いだな、と車に乗って、再び高ボッチスカイラインの崖ノ湯入口へと向かいました。

 

 道なりに進んで立派なホテル施設の横を登って行くと、上図の分岐に出ました。ここで「高ボッチ」の看板にしたがって右折、細い林道へと進みました。

 

 山麓からの林道はすっかり乾いていて、小雨が降っていたのは山頂エリアだけだったようだ、と思いました。道はそれほど悪路ではなく、険しいカーブも一部にとどまって全体的に走りやすいものでした。
 奈良県に住んでいた頃に宇陀や吉野でもっと細くて険しい林道を色々走っていましたから、高ボッチスカイラインは、それに比べれば快適な道でありました。

 

 馬場家住宅の係りの方に、高ボッチ高原までは一時間ちょっとで行けます、と教えられていましたので、その通りに進めば11時20分ぐらいに山頂に着くことになるかな、と考えて運転席パネルの時刻表示を見ました。10時31分でした。

 林道には、御覧のように陽光が差し込み始めていました。良かった、晴れてくるな、と何度も思いました。登るにつれて紅葉も増えてきて、まさに劇中で志摩リンがビーノで登っていた林道の景色そのものになってきました。

 

 劇中で志摩リンが登ったのは、今回私が登った崖ノ湯からのルートではなく、諏訪湖側からの東山ルートでしたが、地形や植生は共通した環境にあるので、上図の劇中シーンのような景色がいくつも見られて楽しめました。

 

 ですが、志摩リンが途中ででくわした上図の大きな落石はひとつも見当たりませんでした。

 朝に「崖ノ湯口」付近で出会った塩尻市観光協会の方も話していましたが、毎朝山頂までのコースをパトロールしている理由の一つが、こうした落石や路肩崩れが無いかチェックする事なのだそうです。高ボッチ高原の山地帯の土壌は比較的脆いところがあるそうで、主に東山ルートのほうにそれが多いそうで、落石や崩壊も時々あるということでした。

 だから令和3年8月豪雨災害により東山ルートで崩壊および土砂崩れが発生してしまい、それ以降ずっと令和6年4月頃まで通行止め規制がかかっていたわけです。
 それに比べれば、今回走った崖ノ湯ルートのほうは地盤がしっかりしているのと、地形的に谷間をさけて尾根筋をたどる形で道路が付けられている為、落石は殆ど無い、ということでした。

 

 11時8分、林道を覆う林が無くなってパッと視界が広がりました。上図の広い砂利駐車場のような空間があり、あっ、ここか、と気付いてその砂利スペースの端にいったん車を停めました。そして登って来た林道のほうへ歩いて引き返して、上図の景色を確かめました。上図の青い行先表示板に既視感がありました。

 

 上図のアングルの場所でした。劇中では青い行先表示板が「高ボッチ鉱泉」になっていますが、6キロの距離表示は同じでした。志摩リンは高ボッチ高原から麓の温泉施設へ行く時に、私が登って来た崖ノ湯ルートを降りているので、このように劇中でも私と反対方向の北へ向かって走っているわけです。

 

 するとこの辺りで志摩リンがキャンプしたわけですか・・・。

 上図は広場から北東方向を見た所です。ここで地図を取り出して調べたところ、高ボッチスカイラインと鉢伏山林道の分岐点の駐車場がここだと分かりました。高ボッチ高原はここから南へさらに少し登ったエリアになりますので、ここの広場と駐車場は高ボッチ高原の範囲外であることも知りました。

 

 志摩リンが麓の温泉施設まで行って「おいまじか」となり、再び戻ってきてこの場所にテントを張ったわけです。上図の劇中シーンは広場から南南西方向を見た所です。

 

 上図ではほとんど見えませんが、広場の北東の丘の上に見晴小屋と呼ばれる東屋が建っています。そこへ登る道の入口の白い標柱が上図左端に写っています。そこまでは行きましたが、東屋への階段を確認しただけで上には登りませんでした。志摩リンもそこへは行っていないからです。

 

 広場にてキャンプの準備をする志摩リン。広場の南東側の諏訪湖方面が望める端っこのスペースだろうと思いますが、その辺りは実際には砂利が撒かれていました。劇中シーンのような茶色の地面は見当たりませんでしたので、これもアニメ上の演出なのだろうと思います。  (続く)

 

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伯爵高校 Ⅳ号戦車G型(1号車)(樅の木と鉄の羽の魔女版) 作ります!! その4

2024年03月22日 | ガルパン模型制作記

 ステップ12およびステップ13では、車体背面部の部品やマフラーなどを取り付けます。
 ステップ14では車外装備品や予備転輪などを取り付けますが、これらは塗装後に組み付ける予定です。エッチングパーツのMA1からMA5までは不要です。

 

 ステップ12およびステップ13の工程はまとめて行ないました。

 

 組み上がったマフラーです。

 

 背面に取り付けました。

 

 ステップ14で取り付ける車外装備品や予備転輪などのパーツです。これらは塗装後に取り付けます。

 

 なので、ここでは仮組みを行なって取り付け位置の確認をしておきました。

 

 ステップ15、ステップ16でも車外装備品や予備履帯などを取り付けますが、これらは塗装後に組み付ける予定です。それ以外のパーツを指示通りに取り付けます。なお予備履帯は作中車のは7枚ですので、それに合わせます。

 また、作中車では車体前端にも予備履帯がセットされています。今回のキットには該当するパーツがありませんので、タミヤのジャンクパーツより履帯と履帯ラックのパーツを転用します。

 

 ステップ15にて、切り出し準備中の各種パーツです。

 

 順に取り付けてゆきました。今回の作中車はほぼ実車準拠ですので、キットの後期型ともあまり相違が無く、前期型のパーツを追加するだけで再現が出来ます。

 

 ステップ16にて、切り出し準備中の各種パーツです。

 

 ジャッキも含めて、大部分は車外装備品パーツですので、塗装するまで保管しておきました。  (続く)

 

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「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る その12 SL急行かわね路号のC10形8号機

2024年03月21日 | ゆるキャン△

 新金谷駅の東の宅地内を北に歩いて県道228号線に繋がる旧東海道に出ました。そこで左折して西へ向かい、まもなく踏切を渡りました。上図はその踏切から新金谷駅を望んだところです。

 

 新金谷駅のホームをはさんで、左側の側線にさっき見てきた旧型客車の留置分、右側の側線に急行かわね路号の客車が停まっているのが見えました。牽引する機関車のC10形8号機はまだ準備中なのか、踏切からの視界内には全然見えませんでした。

 

 踏切の西詰から線路に沿って路地を進むと、東側の側線の旧型客車たちの北端のオレンジ色の客車が見えました。きかんしゃトーマス号の列車用にペイントされているオハ47形でした。あのオレンジ色は、きかんしゃトーマスの劇中に登場する客車のアニー、クララベルの車体カラーを模しているそうです。

 

 11時21分に新金谷駅に戻りました。これでほぼ二時間を大代川側線の見物に費やしたわけですが、のんびり歩いて、線路や蒸気機関車の部品などをじっくり見て、側線の南端まで行って留置車輛の全てを確認し、新金谷駅車両区の東の公園でものんびり過ごして色々な車輛を見て撮っていました。普通にサッサと移動してパッパッと見ていけば一時間ぐらいで済んだであろうコースでしたから、本当にブラブラ散歩気分で楽しめました。

 

 駅の向かいのプラザロコに行き、上図のSL予約センターと呼ばれる窓口にて、かねて川本氏が予約し、行けなくなったために私の名義に変更しておいたという、この日と翌日の急行かわね路の切符を購入しました。

 

 このとき発券された切符です。上がこの日の行きのSL急行かわね路号、下が明日の帰りのEL急行かわね路号の乗車券です。このときは、今日と明日の急行かわね路号は別々の列車なのかなと思っていましたが、実際には同じ列車で先頭がSLかELかの違いだけだと知りました。

 行きは、SLが先頭になりますからSL急行かわね路号ですが、帰りは最後尾の補機のELが先頭になりますので、そのままEL急行かわね路号に変わるということでした。

 

 プラザロコを出ると、駅の方からドラフト音が低く響いてきました。線路わきの柵まで行くと、上図のC10形8号機の後進の姿が見えました。

 

 側面水タンクの表面のナンバープレートを撮影。なんか大きなサイズのナンバープレートだなあ、と感じました。製造当初からのものにしては真新しい感じでしたので、修理の際に付け替えたのかもしれません。

 

 ゆっくりと後進し、側線に停まっている客車に近づいていきました。

 

 最後の接近で速度を落として、まもなく停止して客車と連結しました。

 

 これでSL急行かわね路号のこの日の一番列車の編成が仕上がりました。カッコいい、実にカッコいいです。この昭和レトロ感も、昭和生まれの昭和育ちにはグッときます。なにか熱いものが胸にこみ上げてくるようでした。

 ですが、この状態ではまだホームに接していないので、側線から移動することになります。どこから本線に移るんだろう、と思いつつ、ポイントの位置を探しました。側線の向こうと、こちらがわに1基ずつポイントが見えましたが、どちらへ行くのかは分かりませんでした。

 

 それで、いっぺん駅の北の踏切まで移動してみました。先に渡った踏切ですが、そのすぐ南のポイントを見たら、上図のようにレールが左の線路に繋がっていました。あれ、これは違うな、こっちには来ないな、と悟りました。

 

 するとSL急行かわね路号は向こうのポイントから本線に入るのだな、と察してしばらく見守っていたら、汽笛をポーッと短く鳴らしてゆっくりと後進を始めました。やっぱり向こうから入るのか、と思って駅の方へ戻ることにしました。

 

 踏切からの移動中に、別の接近音が次第に大きくなってきて、やがて上図の近鉄16000系がゴーッと通過していきました。11時41分発の家山行きの普通列車でした。

 それを見送りつつ、この16000系はおそらく家山駅かどこかで、私たちのSL急行かわね路号とどこかですれ違うんだろうな、と予想しました。  (続く)

 

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「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る その11 新金谷駅側線の電気機関車と旧型客車

2024年03月20日 | ゆるキャン△

 新金谷車両区の車輛群を東の公園から見ました。上図は南海6000系と東急7200系です。後者はこの日も翌日も全く動いていませんでしたので、運休日であったか、または要点検であったのかもしれません。前者は令和六年度中に営業運転に入るとの噂があるようで、ひょっとしたらこの両者が置き換わるのかもしれないな、と思いました。

 

 

 蒸気機関車のC10形8号機は、まだ運転準備中でしたが、煙突にかぶせられていた排煙ノズルは外されていました。ボイラーの圧力が規定値に達して黒煙が白煙に変わっていたからでしょうか。
 このC10形8号機が、これから私も乗るSL急行かわね路号の牽引機関車を勤めます。私にとっては初めてのSL急行かわね路号の蒸気機関車なので、ワクワク気分でしばらく眺めていました。

 時々「シューッシューッ」「ポッポッ」という音が小刻みに聞こえました。前者は下の方から響いてきましたので、おそらくドレーン(蒸気が冷えて水になったもの、凝結水)の排出音でしょう。後者の「ポッポッ」は煙突からの白煙とともに響いてきましたので、蒸気のブラスト(強い風、突風)だな、と感じました。

 上図では見えませんが、煙突の近くに吐出管というのがあり、これはドラフト弁とも呼ばれますが、その音らしいのがかすかに「ジュッ、ジュッ・・・」というように聞こえました。ボイラーから煙突までの一連の通風、通気の機構が作動している状態でああいう音が出ているのかもしれませんが、一般的にSLの音として言われる「ドラフト音」というのは、ドレーンやブラストや排気関連などの音の総称であるそうです。

 

 そのドラフト音が低く辺りに響き渡っていました。停止中でこの状態でしたから、走行中はドラフト音が高く大きくなるわけです。私が子供の頃は、あちこちの鉄道でまだドラフト音が響いていたといいますが、かすかに記憶しているのは国鉄時代の中央本線と二俣線ぐらいのものです。

 中央本線は、母の実家筋にあたる親戚の一家が高蔵寺駅の近くにあった関係で、子供の頃は名古屋から何度も乗りました。また定光寺駅近くの川沿いの民宿へ毎年の夏に家族で遊びに行った時期があり、その頃に川遊びをしていて上の線路を蒸気機関車がドラフト音を響かせて通ってゆくのを、たなびく白煙を目で追いつつ見ていた記憶があります。

 二俣線は、現在の天竜浜名湖鉄道にあたりますが、その三ヶ日駅の付近に親戚の家がありました。母と一番仲が良かった弟にあたる叔父の家、そして母の兄にあたる伯父の家がともに三ヶ日の街区にありました。
 子供の頃は、どうも豊橋駅からそのまま三ヶ日駅まで乗っていたように思います。新所原駅で乗り換えた、という記憶が無いのです。

 そして叔父が当時は国鉄の保線員を勤めていた関係で、当時は遠江二俣駅と呼ばれていた二俣駅の車両区へ連れて行ってくれて、そのときに蒸気機関車に乗せてもらった事があります。
 その時の写真がアルバムにあるので確認してみたら、蒸気機関車は豊橋機関区所属のC50形96号機でした。豊橋駅から二俣線に出入りしていたようです。

 

 さてこちらはE31形電気機関車です。パンタグラフを畳んで収納しているので、この日は運行予定が無いようです。

 

 公園の線路わきに上図の「SL広場」の石碑がありました。

 

 もう1輌のE31形電気機関車は、これから乗るSL急行かわね路号の補機として最後尾についてパンタグラフも片方を上げていました。

 

 この日のきかんしゃトーマスは静かに停まっていました。この日は運行しないようでした。

 

 側線沿いに北へ歩くと、留置されている旧型客車が見えてきました。片側のドアが3つあるタイプでした。

 

 これも検査または修理中であるのか、錆止めの赤い塗料が各所に塗られていました。

 

 側面の車番を見て、あっこれはNゲージで持っている客車だ、と気付きました。優等列車用の三等座席荷物合造車であるオハニ36-7、間違いない、と二度見て確認しました。マイクロエースのA4295番、「C12-164・44系客車「トラストトレイン」青色4両セット」を夏に中古ショップで買ったのですが、その客車3輌のうちの1輌がこのオハニ36-7でした。

 やっぱり模型を手元に置いて見ていると、実物を見た瞬間に「あっ、これだ」とすぐに分かります。Nゲージは小さくても細部の再現度がなかなかのものですから、それを1/1に拡大した姿をそのまま見るという形になります。おお・・・、と感動してしまいます。

 

  その北にも3輌ほど繋がっていましたが、宅地の横なので近寄ることが出来ず、側面の車番も草木に隠れて見えませんでした。外観と車体色から、たぶんオハ35かな、と思いました。

 これらの旧型客車は、新金谷駅のホームからのほうが、よく見えそうに思えたので、とりあえず、宅地のなかの道を旧東海道筋まで北上し、北から回って新金谷駅に戻ることにしました。  (続く)

 

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伏見城の面影1 天龍寺へ

2024年03月19日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2023年11月5日、かねての打ち合わせ通りに水戸のU氏と京都歴史散策に出かけました。10月22日の高台寺、方広寺、豊国神社巡礼の続きでした。

 前回は日帰りでしたが、今回は訪問地が多いのでU氏も泊りがけで行程を組み、4日の夜に水戸から京都まで移動して祇園四条のカプセルホテルに前泊して、5日の朝は嵐電四条大宮駅で待ち合わせて嵐山へ向かいました。

 

 U氏は、京都市内の鉄道のなかで嵐電が一番好きなのだそうです。乗る前からテンションが高かったようで、集合時間より40分余りも早く四条大宮駅に着いて駅の内外を見物していたらしく、集合時間の9時きっかりに改札口に着いた私に「ちと遅かったようだな」と笑顔でのたまう始末でした。

 なので、乗ってからも上図の路線図を熱心に見たり、駅に停まるたびに駅名標や景色をいちいち撮影し、近辺の古社寺や名所を出来るだけ挙げては嬉しそうに笑うのでした。なぜ嵐電が好きなのか、と聞いてみようと思ったことが何度かありましたが、未だに聞けていません。

 

 U氏のテンションが朝から高止まりのままだったのには、もう一つの理由がありました。今回の行程の主目的は、伏見城から各社寺へ移築されたと伝える幾つかの建築のうち、可能性が高いもの、であったからです。これは私が春から継続的に行っている旧伏見城移築遺構巡りの一環でもあって、今回はU氏のリクエストも含めて4か所を選んでいました。

 豊臣氏びいきのU氏には、伏見城といえば豊太閤殿下の居城、というイメージが強烈なほどにあるようで、今回まわる建築遺構の多くが徳川期再建伏見城の建物だと思うよ、と私があらかじめ話しておいたのにも「つまりは豊臣期の建物のコピーなんだろ、コピーを見ることである程度は豊臣期の豪華さってのも分かるんだろ」と言うのでした。

 

 嵐山は京都でも人気が高いスポットです。朝から駅前通りは御覧の賑わいでしたが、U氏と私はその雑踏を斜めに横切って、天龍寺の境内地へ踏み入りました。

 

 目当ては上図の天龍寺勅使門でした。天龍寺伽藍の正式な表門にあたりますが、一般参道が北に設けられているために現在は動線から外れていて、門の内外に観光駐車場が設けられています。
 それで、観光バスなどが停まったりすると門が見えない場合がありますが、今回は観光バスは奥の広い駐車場へ入っていたので、勅使門そのものはよく見えました。

 

 U氏「おい、あれ立派な彫刻だな」と上図の大瓶束(たいへいづか)と笈形(おいがた)を指さしました。笈形が雲状に表されて二段の曲線を描いていました。虹梁(こうりょう)を支える花肘木(はなひじき)にも草花のレリーフが施されています。

 こういった建築部材に彫刻や浮彫を豊かに表すという手法は、安土桃山期と江戸初期だけの特色でありますから、少なくともこの勅使門が平安期や室町期の建物でないことはすぐに分かります。

 

 勅使門の内側つまり北側に回りました。この門は外側と内側の装飾意匠が共通しているため、どちらから見ても門の細部の美しさを見ることが出来ます。

 

 門の天井裏に板も壁も張っていない点は、以前に御香宮神社で見た旧大手門のそれと共通しています。ですが、貫(ぬき)を支える斗供(ときょう)は一切の装飾を施していません。
 こういう実質的な構造材には、彫刻を入れたりすると材の強度が落ちる場合があるそうですので、桃山期までの建築ではあまり見られませんが、江戸初期頃の建物ではやたらに目立つようになります。

 その相違点が、安土桃山期と江戸初期との識別ポイントの一つだろうと個人的には理解していますが、復古建築にはこの識別法も応用出来ないのが悩ましいところです。

 

 ですが、上図の門扉を見ると装飾は枠材の金具のみで、これは枠材の補強を兼ねていることが分かります。門扉に装飾文様を入れたりレリーフをはめ込んだりするのは桃山期の後半期だろうと個人的には推定していますので、この勅使門の門扉は桃山期前半の古式を示しているのではないかな、と推測します。

 

 同じことは、貫の上の笈形(おいがた)の意匠にも言えそうです。御覧のように笈形の骨格そのものは本来の弓状曲線のままに保たれており、それを彫刻でより立体的に「盛って」表現するという手法が採られています。

 江戸期になると笈形自体が板状になって彫刻意匠も彫りが薄く、同時に細かくなって表現の基調が繊細になってゆきます。この勅使門の笈形は大振りで古いタイプだろうと思うので、これも桃山期前半の古式を示しているのではないかな、と推測します。

 

 さらに、上図のアングルで見上げるとよく分かるのですが、建物全体に占める装飾部分の割合が僅かです。江戸初期の豪華な門になると大部分の部材に装飾や彫り物が施されていき、例えば東照宮陽明門のような華美で絢爛たる姿になります。

 同じ桃山期の門では、前に見た大徳寺方丈の唐門や豊国神社の唐門が後半期の典型例として挙げられますが、それらの豪華さは唐門という特殊な階層のみが利用できる最高格式の門だからなのであって、こちらの勅使門は、本来はそこまで格式が高くなかった門だった可能性があります。装飾が全体的に控えめなのも、そのためかもしれません。

 ただ、四脚門なので、有職故実の慣例にしたがえば、中納言か、三位相当の高官でなければ設けることが許されない最高格式の門にあたります。そもそもこの門が、構造的にみても寺院の門建築ではなくて、公家や武家の屋敷や政庁クラスの門建築に該当しますから、現在地に移る前には京都御所に置かれていたというのも納得出来ます。

 仮にこの勅使門がもとは武家の門だったとすれば、桃山期において城館や邸第(屋敷)にこのような四脚門を設ける事が出来た武家は5人しか居ません。挙げれば、豊臣秀吉(関白太政大臣)、織田信雄(内大臣)、德川家康(大納言)、豊臣秀長(大納言)、豊臣秀次(中納言)となります。うち3人までが豊臣氏で、京都に居城を構えていたのは豊臣秀吉だけです。

 なので、相当な身分で財力も備える人で無いと建てられない最高格式の四脚門であれば、最初に建てられるべき場所の候補は、皇室関係か、政権関係の二つしかあり得ません。政権関係とは、豊臣政権そのものですから、その意味でもこの勅使門がもとは旧伏見城の門だとする伝承は、無下に否定出来ません。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く38 その4  甲斐武田氏家臣の末裔の地

2024年03月18日 | ゆるキャン△

 馬場家住宅の座敷の縁側より、南の庭園を眺めました。馬場家住宅は、江戸期より地元では長らく「馬場屋敷」または「古屋敷」と呼ばれていましたが、その歴史的かつ文化財的価値が昭和50年代に評価されて以降、県外にも広く知られるようになりました。

 

 馬場家住宅を長らく伝えてきた馬場家は、甲斐武田氏の家臣の馬場美濃守信春の縁戚を祖とします。一説では美濃守信春の子の民部少輔昌房の縁戚といい、その初代が馬場亮政(すけまさ)を名乗ります。

 武田家の滅亡後、家臣の大半が本願地へ帰農して郷士になったりしていますが、馬場亮政は現在地の内田に移り住み、天正九年(1581)に没しました。その子孫は江戸期には広大な田畑を持ち、高島藩主諏訪氏と親密な関係を保った特別な地位を有していたといわれます。

 

 そのためか、上図の馬場家当主の「ザシキ」つまり座敷は、格式的には上級武家の正式な座敷としての体裁に造られています。接客空間の中心ともなるので、庭側に書院が設けられています。書院の上部の欄間には透かし彫りが施されています。 

 

 「ザシキ」の内部です。奥に床の間と違い棚が設けられています。典型的な武家系列の書院造の一例です。

 

 馬場家住宅は、江戸期に相次いで建てられた主要な建物が現在まで揃って伝わります。外側の庭園や土塁囲みの敷地をともなう屋敷構えが、往時の姿を良くとどめている点で歴史的価値が認められ、平成八年(1996)に国の重要文化財に指定されました。

 その指定範囲は、現存の建築物群だけではなく、その敷地や景観も含むため、西側の道路を挟んだ向かいの畑までに及んでいます。来るときに見学路から眺めていた田畑の景色も、重要文化財の指定範囲にあるわけです。

 国重要文化財指定に先立つ平成四年(1992)三月、馬場家現当主より、屋敷地の西半分とそこに所在する建物群が松本市に寄付されました。その後に復元修理工事が行われ、現在の外観に整えられて、平成九年(1997)に松本市立博物館の分館施設として開館し、現在に至っています。

 

 なので、松本市に寄付されていない上図の屋敷地の東半分とそこの建築群は、馬場家現当主の所有のままになっています。建物は「隠居屋」や「茶室」、「奧蔵」があるそうです。

 

 「隠居屋」と「茶室」の案内板です。

 

 主屋の東側の外側を見ると、御覧のように二階部分があるようで、その戸口らしいのがあります。主屋内部を回っている時に、当主の生活空間であった「ネマ」に箱階段が付き、「カッテヨコノマ」に梯子状の階段があるのを見ましたので、どうやら、複数の二階空間があるようですが、それらに関する説明板はなぜか見当たりませんでした。

 ただ、幕末の頃に、賊の侵入に備えて「ネマ」から二階に逃れて屋根づたいに避難出来る仕掛けがあったそうですので、その関連の脱出用の戸であるのかもしれません。

 

 主屋の見学を終えて土間より外に出て、西の前庭に戻りました。上図は西側の通用口で、そこからも土間に出入り出来ますが、見学者用には北側の通用口をあてています。

 

 主屋の軒下より、表門と長屋を見ました。左手には高島藩主専用の中門が見えました。

 

 最後に表門から主屋を一瞥し、興味深くて見どころの多い、長野県西南部に分布する「本棟造(ほんむねづくり)」の比較的大規模な典型例である馬場家住宅の見学を終わりました。

 

 最後に、入った時からものすごく気になっていた、上図の主屋の棟上の破風のような独特の飾りをもう一度見上げました。長野県西南部に分布する「本棟造(ほんむねづくり)」の特徴のひとつで、「雀おどし」と呼ばれる棟飾りの一種であるそうです。

 国重要文化財「馬場家住宅」の公式案内ページはこちら。  (続く)

 

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伯爵高校 Ⅳ号戦車G型(1号車)(樅の木と鉄の羽の魔女版) 作ります!! その3

2024年03月17日 | ガルパン模型制作記

 ステップ8、およびステップ9では車体を組み立てます。ガイドの指示通りに進めます。

 

 ステップ8で組み立てるパーツ類です。戦闘室と左右のフェンダーです。

 

 組み上がりました。

 

 ステップ9で組み立てるパーツ類です。ハッチ類や前部機銃などです。

 

 組み上がりました。戦闘室前部の乗員用ハッチは全て接着固定しました。作中ではハッチを開けているシーンや乗員がハッチから外に出たりしているシーンが無いからです。

 

 車体後部のエンジン点検ハッチ類も接着固定しました。これがインテリアキットで、中にマイバッハのHL120TRMV型12気筒ガソリン300PS (224kW)が再現出来ていれば、ハッチも開閉自在にしたでしょう。

 

 ステップ10では履帯を組みます。車体前面の牽引フックのパーツ類、A25、A26、J8は形が大まかなので、もっと形がしっかりしているパーツと交換します。

 ステップ11では上下の車体を貼り合わせます。増加装甲のパーツK1、K2、K3は作中車にありませんので不要です。

 

 ステップ10の履帯組み立ての途中の様子です。苦手な連結式パーツですが、無心の境地で丁寧に確実に繋いで組みました。車輪に巻き付けながら形を作り、乾燥させました。

 

 一度、上図のように車輪類を全て仮組みした状態で履帯も仮組みして、全体の形を整えました。この状態で乾燥させた後、塗装まで外して保管しました。

 

 仕上がった左右の履帯の状態です。今回も上下二つの部分に分割して組みまして、塗装後に車輪にはめ込んで繋ぐ予定です。

 

 上図の車体前面の牽引フックのパーツ類、A25、A26、J8は形が大まかなので、もっと形がしっかりしているパーツと交換します。手持ちのジャンクパーツのなかに、タミヤの「ドイツIV号戦車車外装備品セット」(ミリタリーミニチュアシリーズ No.185)があったので、それに付いている牽引フック一式を使いました。

 

 交換して組付けました。ガルパンに限らず、Ⅳ号戦車シリーズを古いキットで作る場合は、タミヤの「ドイツIV号戦車車外装備品セット」が必須ですね。

 

 ステップ11にて上下の車体を貼り合わせました。古いキットの常で、車体に僅かな反りや歪みが出ていましたので、テープで留めて固定して接着しました。また増加装甲のパーツK1、K2、K3は作中車にありませんので省きました。

 

 エンジン点検ハッチのヒンジ部も組み上がりました。  (続く)

 

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