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ゆるキャン△の聖地を行く32 その10  土肥金山の黄金の輝き

2023年08月02日 | ゆるキャン△

 土肥金山の金山資料館の続きです。土肥金山に関する展示資料の大半は、上図の石臼のような、金山にて使用されていた道具や工具、土器などの歴史的遺物です。個人的にはこういった文化財に興味がありますので、なかなか面白くて一つ一つをじっくりと見ました。

 ゆるキャン聖地巡礼関係では、身延町の下部温泉にある甲斐金山資料館が似たような展示施設として挙げられます。あちらは坑道は公開されていませんが、金山遺跡の範囲が全国屈指の規模をもつこともあって、考古学的資料も豊富で見応えがありましたが、金の産出量に関してはこちらの土肥金山に及ばなかったようです。

 

 金山というと、金しか産出されないイメージがあるようですが、多くの金山では金以外の鉱物が多く産出されています。むしろそれらの色々な鉱脈の中に金の鉱脈も含まれていて、その比重が大きいところが金山と呼ばれるケースが殆どです。
 一般的に、金の鉱脈は銀の鉱脈と共に発見されて採掘されるので、金山では銀も採れます。土肥金山では銀のほうが産出量も多かったのですが、それに伴って金のほうも他の鉱山よりも豊富に採れたので、金山と呼ばれる条件を満たしていたということでしょう。

 

 江戸時代初期の日本の流通貨幣といえば、上図の慶長小判金がよく知られています。時代劇でも悪役の手土産アイテムとしてよく出てくる、あの小判ですが、実際には徳川幕府が小判金の流通を隅々まで監視してコントロールし、異常な蓄積がなされたり、裏金や賄賂として使われるのを防ぐべく、取引における小判の価格上限を定めていました。

 なので、全国各地の悪徳商人が金を貯めて私腹を肥やすといった時代劇のパターンは、経済学の概念からいっても有りえない、とされているようです。第一、そんなに小判があちこちに豊富に流通していませんから、日本の貨幣経済のメインは銀貨や銅貨が占めていたということです。

 

 慶長小判金の説明です。御覧のとおり、小判は高額通貨として主に関東で流通した、とあります。全国各地に流通していたのは、甲州金で作られた一分金と呼ばれる金の小銭のほうで、単位は分と朱がありました。

 以前に読んだ、日本銀行の金融研究所貨幣博物館の刊行資料によると、1両は4分にあたり、1分は4朱にあたったそうです。つまり16朱で1両になりますが、江戸期の1両を現在の円に換算すると約12、13万円になりますから、1朱は8100円ぐらいになります。

 ちなみに金1朱は銅銭250文にあたりますから、例えば寛永通宝のような1文銭が4000枚で金小判の1両にあたります。江戸期の平均年収は、武家が約30両前後、農民が15両ぐらい、職人が19両ぐらいでしたから、円に換算すると約500万、200万、250万となります。現代とあまり変わらないようにみえますが、江戸期は物価が安かったうえにいわゆる固定費が少なくて、住居費用および家賃ぐらいしかないうえ、現在の所得税や地方税や消費税などの諸々の税金がありませんでしたから、実収入は現在より多くて割合に余裕があったとされています。

 なお、江戸幕府の税金は「年貢」と呼ばれて農産物や海産物などの収穫品のみにかかり、いわゆる税率4割の「四公六民」できつかったようですが、定期的に米や野菜を農民に還元する、今でいうとポイント還元のような制度があり、年単位でみると実質的には税率3割に近かったようです。凶作や飢饉の年には税金無し、還元放出となっていました。農民以外の町民や工人職人には、「普請」と呼ばれた労働力提供の制度があって、道や用水路や公共建物などの普請に従事させることで税金に代えていました。

 しかも徳川将軍の歴代は、将軍補任の年には祝いとして税金は免除、凶作や飢饉の年は原則として税金無しと定めており、幕府の行政機構の費用は年貢でまかない、不足分は徳川家が負担していました。その不足分というのが、いまで計算すれば何十億にものぼったのですが、徳川家は全国の金山銀山を直轄してその産出金銀によって毎年の幕府運営費用の不足分を補っていたのでした。

 なので、当時の金山や銀山がいかに重要な産業単位であったかがよく分かります。徳川家が私腹を肥やすために独占するのではなく、年貢しか税収がない時代なので、幕府の行政機構の維持においてはどうしても不足分つまり赤字が発生してしまうのを、江戸幕府の担当者たる徳川家の責任にて補填するために、金山銀山を公共事業と位置付けて直轄領とし、奉行をおいて運営にあたらせ、産出する金や銀を貨幣に代えて幕府財政の不足分にあてた、という構図であるわけです。

 だから個人的には、江戸幕府というのはかなりよく考えられた行政組織だったんじゃないか、という認識を持っています。時代劇ドラマのイメージは九割が妄想や誤解にもとづくので、江戸時代の実相を全く示していません。全国に悪代官や汚職だらけの旗本が居たはずはないのです。徳川氏の行政政権そのものが悪事や汚職をすれば物事が簡単に瓦解するようなシンプルかつ堅実なシステムでしたから、悪事があるとすぐに検挙され、関係者は全員が斬首となっています。

 かりに、いまの政治機構の頂点に徳川将軍が居たならば、政治家の殆どは何らかの不祥事や悪事や汚職に関連していますから、殆どは「斬首」に処せられる可能性が高いでしょう。それぐらい、江戸幕府というのはシビアでリアルな政治体制であったのでした。
 戦争ばかりして国内を不安定にした鎌倉幕府、朝廷との紛争が絶えず汚職や内乱で幕府が不安定となって将軍自身が京都に居られなかった室町幕府の歴史を振り返り反省し、そのうえで日本の戦国乱世を鎮めて平和を維持すべく編成された江戸幕府ですから、いまでも歴史研究者の間では人気があって、研究も盛んです。

 そういえば、鎌倉幕府や室町幕府の将軍にはいまでも罵られている人、悪人扱いされている方がいますが、江戸幕府の将軍に関してはあまり悪口を聞きません。歴代が政治に一生懸命に取り組んだことを、国民が肌で知っていたからでしょう。

 

 金山資料館の目玉は、この巨大な金塊2種です。片方は12.5キロ、時価1億円余りです。

 

 これ欲しいなあ・・・。

 

 もう片方は世界最大の金塊です。ショーケースの周囲に警備員が居て、天井からは複数の防犯カメラが睨んでいるというものものしい雰囲気のなかに展示されています。

 

 250キロ、時価23億円余りだそうです。金相場の変動にあわせて時価を換算してその都度数字の札を入れ替えているようです。

 

 これはめっちゃ欲しい・・・。これ1個で一生遊んで暮らせる・・・。毎日ゆるキャンの聖地巡礼に行ける・・・。

 

 こちらは金銀の鉱石つまり原石です。1トンの原石に金が600グラム、銀河7200グラム含まれています。一般的な鉱石1トンあたりの金の包含量は2グラムから10グラムほどですから、600グラムがいかに多いかが分かります。

 

 土肥金山の坑道の全体図です。保安図とあるので、掘られた坑道を全て網羅しているものと理解出来ます。それらのなかで、落盤や崩落の危険が高い坑道を安全のために除外し、それ以外の坑道で採掘を進めて金銀を産出したわけです。

 

 近頃は金山でも萌えキャラのマスコットが居るのか、と思ったら土肥温泉の温泉むすめ「土肥間由」でした。

 

 資料館を出ると、桜の並木道に出ました。

 

 外庭には、江戸時代の御用金運搬の作業人足のマネキン展示がありました。採掘し製錬した金銀の塊を箱詰めして駿府の銀座への船まで運ぶ様子を再現しています。

 江戸時代の鉱山は、前述したように徳川幕府の直轄領でしたから、そこで働く労働者は全て幕府の御用人足と定められて給料も他よりは多く得られたそうです。
 だから、鉱山人足の募集があるたびに人々が詰めかけて、常に抽選が行われていたというのもよく理解出来ます。大変な労苦を伴う仕事ですが、それに見合う高い給料が約束されていたために人気があったようです。
 なにしろ宿舎や食事付きの住込み人足ですから、現代で言うと寮付き賄い食事つきの労働者にあたるわけですが、そのような条件の良いケースは今でも少ないですね。

 

 土肥鉱山は昭和37年に閉山しました。その直前の写真が案内板にありました。

 

 同じ位置、アングルで見た現在の鉱山施設遺跡です。高い石垣と、右端の丸いコンクリート擁壁だけが残されています。それらの上に砕石および製錬の関連施設が並んでいたそうです。

 土肥金山、なかなか面白い所でした。今回はゆるキャン聖地巡礼の5ヶ所の2番目のスポットということで見学に約1時間をあてましたが、あと1時間ぐらいは欲しかったな、と思います。観光坑道の周囲にも金山関連の史跡や遺跡が点在しているので、さらに1時間あれば、それらも回れただろうと思います。  (続く)

 

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