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紫野大徳寺22 芳春院 下

2023年08月21日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 芳春院の表門をくぐり、庫裏の受付に向かう途中の前庭にて、上図のような幾つかの石造物が置かれているのを見ました。U氏が「曰くありげな石だな、右のゴツゴツ石はよく分からんが、左の丸いのは灯籠の台石か何かにみえるな」と指さしましたが、説明板も何もないので、詳細は分かりませんでした。

 

 こちらは石塔の基礎と塔身の一層目部分とを重ねたもののように見えました。U氏が「上下で明らかに色が違うし、石の彫り方や風化磨滅の度合いも違う。別々の石造品の部品を合わせたんだろうな」と推測していましたが、私も同じ考えでした。
 特に上の塔身石には四方仏が彫られていて、造りも古いので、室町時代までの中世期になるかな、と思いました。この種の四方仏石は、中世期の十三重や九重などの石層塔の一層目にあたるケースが多いので、江戸期の慶長十三年(1608)に建立された芳春院よりも古い時期のものである可能性があります。

 というより、大徳寺そのものは鎌倉後期の創建ですから、その境内地および塔頭の寺地も鎌倉後期以来の歴史を持ちます。そのなかに数多くの塔頭と子院が建立や移転や退転や廃絶を重ねていますので、鎌倉期や室町期の石造品があちこちに点在していてもおかしくありません。そうしてバラバラになってしまった石造品の残欠が、このような形で芳春院の敷地内に残存しているわけです。

 

 庫裏の建物は明治期の廃仏毀釈による荒廃後に復興されたものといいます。近年に修理されたようで、白壁も屋根の棟木もまだ真新しさを残していました。
 受付はどこかな、と探しましたが、庫裏には無いようなので、本堂方丈につながる玄関廊の唐門のほうへ行ってみることにしました。

 

 玄関廊および唐門です。明治期以降の再建になるらしく、門の破風の型式が近代的になっています。玄関廊の外壁が総白壁になっているのも新しい要素です。が、全体としては江戸期までの和様建築の基準線にのっとっていますので、落ち着いた雰囲気になっています。

 

 唐門から玄関廊に入ったところが受付というか、係員が居て拝観手続きを行なう場所になっていました。芳春院はふだんは非公開で、特別公開も数年ぶりだと聞きました。だから通常の受付があるわけはなく、今回の特別公開に際して臨時に係員が玄関廊にて拝観受付業務を行なっている形でした。

 上図は本堂にあたる方丈とその南の石庭です。慶長十三年の創建時の建物は寛政八年(1796)の火災により失われ、その後に再建された建物も明治期の廃仏毀釈で壊滅していますから、現在の方丈は明治八年(1875)以降の復興によって建てられたものと分かります。
 それにしては、江戸期前半期の様相を随所に垣間見せていますので、おそらく創建時の建物の指図(仕様図面書)などにしたがって規模や形式も踏襲する形で建てられたものと思われます。

 

 方丈の縁側を南から西へと回りました。先を歩いていたU氏が、「そういえばあの小さな門が墓参門なのかね」と振り返って上図の小さな門を指さしました。
 その内側には墓地が見えましたので、墓参門で間違いないようです。これは江戸期の建物で、廃仏毀釈の嵐に耐えてなんとか残りました。京都府の指定文化財に登録されています。

 墓地には芳春院の開基である前田松子(まつ、前田利家の正室・法号は芳春院)や前田利長、利常の前田家霊屋がありますが、今回は非公開でした。京都府の指定文化財に登録されています。

 

 本堂の裏に回ると、今回の特別公開の目玉であり、U氏が楽しみにしていた上図の昭堂がありました。呑湖閣とも呼ばれる楼閣建築で、もとは元和三年(1617)に創建されましたが、現在の建物は文化十二年(1815)の再建です。金閣・銀閣・飛雲閣と並んで京の四閣と称されているそうです。方丈と繋ぐ上図左端の「打月橋」と呼ばれる廊下橋とともに京都府の指定文化財に登録されています。

 

 この昭堂は、境内地の高台に位置して、東には園池と石を積み重ねて配置した石組とがあり、さながら金閣や銀閣のミニチュアを見るような感じです。ですが、芳春院においては開基や前田家の供養堂と位置付けており、内部には開祖の玉室宗珀像およびや前田家歴代の位牌などが安置されています。周囲に広がる墓地の中央に位置する点からも、総供養堂としての性格を持つことが明らかです。

 

 なかなか見ごたえのある建物と庭園の組み合わせでした。U氏も私も三度ぐらいは振り返って見ました。

 

 その先の裏庭に、上図の手水石がありますが、U氏が「台石が別の石造品のものを転用してるようだな」と指さしました。確かに逆三角形の自然石の手水石の下には、綺麗に蓮華紋を四方に彫りあらわした台石がありました。墓塔か石層塔の台座石のように見えましたが、転用品であるのは間違いない、と私も思いました。

 他にも礎石のような、妙な石が幾つか見えましたので、芳春院の位置にはかつて別の子院か塔頭があったのだろう、と思いましたが、大徳寺本山の古文献にも欠失が多く見られるためか、芳春院以前の歴史については不明であるそうです。  (続く)

 


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