気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

豊家の余香1 高台寺表門へ

2024年01月31日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2023年10月22日、豊臣家関連の社寺3ヶ所を訪ねて回りました。三日前の19日に水戸の友人U氏から電話がありました。

「右京大夫、息災かね?」
「おお、これは水戸の」
「しあさっての22日に行こうと思うんだが」
「承知した」

 いつものパターンでパッと決まったその巡礼散策は、5月に大徳寺の特別公開に行った後で、私が「秋ぐらいに伏見城から移築された建築遺構の巡礼を予定している」と話し、U氏が「それはいい、俺も行こう。どうせなら高台寺とかも行かんかね?」と応じたのに端を発しました。
 その後、追加した高台寺のほうを先に見物したい、との希望を伝えてきたので、それに合わせることにして、ついでだから近くの方広寺と豊国神社も行こうと提案して、そのコースに決まりました。

 前日の夜に水戸から常磐線と新幹線を乗り継いで京都に着いたU氏と四条河原町で合流して夕食をとり、U氏は祇園四条のカプセルホテルに泊まり、翌朝は9時に八坂神社の西門前で待ち合わせて東山通を南へと歩きました。上図のように天気は快晴で、U氏は御機嫌でした。

 

 八坂神社から高台寺へは、南門から下河原通に出て、祇園閣の南から「ねねの道」に入ればすぐに行けます。が、今回はU氏の希望により、東山通をしばらく南下して、安井金毘羅宮の前を過ぎてすぐの上図の高台寺南門通から東に登りました。U氏が、高台寺の正式な表参道から入ってみたい、と希望したからです。

 その上図の表参道は、いまでは霊山観音への参道として知られて東山通の交差点には鳥居が建っていますが、高台寺南門通の名が示すように、本来は高台寺への参道であった歴史を持っています。

 

 そのことは、歩いていくうちに、左手に高台寺の旧参道と表門が見えてくるのでよく実感出来ました。霊山観音の敷地の大半も、元々は高台寺の伽藍域でありましたから、上図の表門が高台寺の南西に位置して旧境内地の隅に位置していることが理解出来ます。

 ですが、大半の観光客はこの古い門に関心を持たず、または気付かずに通り過ぎてしまいます。日本人でさえ見向きもしませんから、外国人はなおさらです。

 

 それで、京都の観光客の大多数からは注目されることもなく忘れ去られたようになっているこの高台寺表門です。旧参道のスペースは雑草がぼうぼうと伸びていて、向こう側は駐車場および観光用人力車の待機所になっています。

 

 ですから、この表門に近づいていって、興味深そうに見学していたのはU氏と私の二人だけでした。すぐ横の高台寺南門通を行き来する大勢の観光客の数人が、あいつらは何を見ているんだ?とチラリと横目でみてきたのが感じられましたが、そのまま行ってしまって、表門には目もくれないのでした。

 それをU氏が「観光客がみんな、この歴史的に重要な建物に気付かないなんてさ、京都の観光ガイドやネット記事がいかにいい加減かがよく分かるな」と批判していましたが、そう言うU氏も私が高台寺表門について話すまでは存在を知らなかったようで、知らないままであったならば、わざわざ八坂神社から高台寺南門通へ回ろう、とは言いださなかった筈です。

 

 U氏は、表門に近づいて見上げた途端に「予想以上に凄い立派な門じゃないか・・・」と驚いてあちこちを見、デジカメを取り出して撮影し始めました。

「おい星野、昨日話してくれたこの門の事は、よく知ってるのかね」
「いや、あんまり・・・。時々横を通ってたから、存在してることは知ってたけどな。国の重要文化財やからな」
「えっ、重要文化財なのかこれ・・・、確かにこれだけの門もあんまり無いな・・・、貫の装飾の彫刻が素晴らしいな、流石に高台寺の表門だけのことはある。高台寺は北政所のおねねさんが創建したんだから、これも安土桃山時代の建築であるわけだ、豊臣家の家格に相応しい立派な建築だな」
「でも高台寺の門として建てられたものじゃないらしい。もとは加藤清正が伏見城の門として建てたのを、こちらに移築したという。実際に移築の痕跡が残っているし、こんな立派な彫刻意匠を施すところは5月に見た大徳寺唐門とよく似ている」
「ああ、確かに似てるな。あっちは聚楽第の門だったとか。こっちは伏見城の門だったとか。どっちも豊臣秀吉の政権が建てた政治本拠地の城郭の門だ、というから共通項はあって当たり前。似てるのも当然か」

 

 この表門は、伏見城の薬医門を移したと伝えていますが、当時の一般的な薬医門よりは規模が大きくて雄大な気分をまとっています。寺の表門にしては立派過ぎるうえ、寺院の山門や表門クラスには基本的に有り得ない装飾意匠が冠木(かぶき)や桁(けた)や蟇股(かえるまた)に見られます。

 

 そして、門口を構成する左右の素木造りの本柱の頂部には木製の根巻きが付けられますが、この根巻きだけでも手間暇かけた贅沢な造りです。根巻き自体は黒漆塗りで、その彫り込み模様の部分に胡粉(ごふん)が白っぽく残っていますので、もとは木口(こぐち)や彫り口に胡粉塗りを施していたことが分かります。上部に打たれる三つの飾金具の中央は豊臣家の五七桐紋に形づくられています。

 

 主桁となる冠木(かぶき)の見付(みつけ)は御覧のように龍の彫刻が配されています。これは表も裏も同様です。冠木(かぶき)の上には支輪形の欄間が付けられて屋根裏の高さを支えています。

 このように冠木(かぶき)の見付(みつけ)に龍の彫刻を施す点は、5月に見学した、聚楽第の遺構と伝わる大徳寺唐門と共通しています。こちらの表門が伏見城の薬医門だったのであれば、ともに豊臣政権期の本拠地の城郭の門であったわけで、建立時期もほぼ同じになります。

 

 門口の左右の腰貫の下には潜戸(くぐりと)が設けられています。U氏はこの潜戸に注目して正面から見、横から見、そして裏へ回って見ていました。潜戸がどのように造られているかで、戦国期なのか戦国期終焉期なのかが分かるからです。
 しばらく見ていたあと、カメラで写真を撮りつつ「なるほど豊臣期の城郭の門だなあ、防御の要としての最低限の構えはちゃんと残してあるな」と言いました。

 

 御覧の通り、潜戸は左右とも同じ簡素な造りで、写真では見えませんが、内側に堅固な扉が付きます。城郭の門というのは、普段は門口の扉は閉じていて、有事の際にのみ開かれます。それで平時の出入りは左右のこの潜戸で行ないます。

 そのため、潜戸の内側には通行人を監視する門番所が左右いずれかに設置されているのが普通です。この門の場合は向かって左、つまり北側の潜戸の内側に門番所の取り付け仕口(しぐち)を木で埋めた痕跡が残っているので、もとは左側に門番所が付いていたことが分かります。

 ですが、門番所という施設は寺院の門には必要ありませんから、この高台寺表門がもともと城郭の門であったものを現在地へ移築した際に門番所を撤去している、ということが分かります。
 加藤清正の築造とされる点といい、規模の雄大な薬医門であることといい、装飾の豪華さといい、豊臣家北政所の創建たる高台寺の表門という位置からみて、もと伏見城の城門であったとの伝承は、本物だろうと思います。

 個人的には、いま御香宮神社に残る大手門に次ぐ規模の城門だったのだろう、と推測しています。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゆるキャン△の聖地を行く37 その3  霧ヶ峰高原へ

2024年01月30日 | ゆるキャン△

 翌10月28日の朝は御覧の通りの快晴でした。この日は霧ヶ峰高原への再訪で、前回は雪のために行けなかった「ころぼっくるひゅって」で昼食をいただくのが主な目的でした。

 しかし、天気予報では午後から曇り、山間部では曇りのち雨、ということでした。ですが、バスの時刻の関係で13時には山を下りるため、午後からの天候悪化はさほどに問題にならないだろう、と考えました。

 6時半の起床後に天然温泉の朝風呂を楽しみ、8時から信州蕎麦とお握りのセットの朝食をいただきました。そして宿を9時15分に出発しました。上図はその際に記念に撮った、宿のグリーンサンホテルの外観です。

 

 宿のすぐ向かいにJR下諏訪駅があります。歩いて1分ぐらいです。

 

 昨日撮り忘れた、下諏訪駅の駅名標。

 

 昨日も見たホームの御柱と曳き綱に、軽く一礼し、この日の巡礼の安全を祈りました。

 

 9時19分発の普通列車に乗りました。目指すは次の駅、上諏訪駅で、4分後の9時23分に着きました。

 

 上諏訪駅の東口を出て、駅の南の高架連絡路を通って西口へと移動しました。上諏訪駅のバス停は東口と西口とに分かれていて、霧ヶ峰高原に行く季節限定の登山バスは西口から出ます。駅の改札口は東口にしかないので、西口へはいったん駅の外に出て、南の高架連絡路を通らないと行けませんが、その移動に3分ぐらいはかかってしまいます。

 上図は上諏訪駅の西口の階段口を出てバス停の方向を見たところです。既に30人ぐらいの行列が出来ているのが見えました。この日は土曜日でしたから、霧ヶ峰高原に行く季節限定の登山バスは満員に近いだろうな、と予想しましたが、その通りでした。

 

 行列の最後尾について、5分ほど待っていると、霧ヶ峰高原行きのアルピコ交通の登山バスがやってきました。

 このバスは季節限定の運行で、令和5年度は4月29日から10月29日までの土日祝日、夏の7月29日から8月27日までは毎日運行、というスケジュールでした。つまり冬季は積雪で道路が埋まるので運行しないわけです。

 

 今回は私を含めて54人が乗りました。ほぼ満員に近い状態でした。行きの便が一日に3便ぐらいしか無いので、どの便も満員に近い状態になると聞きます。とりあえず、乗れたのでホッとしました。9時35分に出発しました。

 

 36分後の10時11分、霧ヶ峰インターチェンジのバス停で降りました。ここで降りたのは私だけでした。このバスの利用客はだいたい八島湿原か、車山高原まで乗ってゆくので、途中の霧ヶ峰インターチェンジで降りる人は稀であるそうです。
 この霧ヶ峰インターチェンジが、志摩リンが立ち寄って、ライブカメラに手を振ったりしていた場所です。

 

 バスを見送りました。が、このバスには後でもう一度乗る予定でした。なぜかというと、バスは次に八島湿原へ向かい、それからUターンしてまた霧ヶ峰インターチェンジに停まり、それから車山高原まで行くからでした。

 

 バス停の令和5年度の時刻表です。私が乗ってきて降りたのが10時11分でしたが、そのバスが八島湿原へ回って再び戻ってくるのが10時29分でした。それに再び乗って、車山高原まで行く予定でした。

 つまり、霧ヶ峰インターチェンジでの滞在時間は18分でした。が、ここには2019年4月に一度聖地巡礼で来ているので、志摩リンのスポットも全部覚えていました。付近を歩き回って最低でも三、四ヶ所ぐらいを撮れれば良いので、18分でも充分だったのでした。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖グロリアーナ女学院 クルセイダーMk.Ⅲ 作ります!! その8

2024年01月29日 | ガルパン模型制作記

 ステップ14に進んで砲塔上部の組み立てにはいりました。ここでもガルパン仕様への改造が加わりますので、まずはそれを紹介します。

 

 砲塔上部のパーツDa1の前面に大きなベンチレーターの周縁部円環がモールドされています。中央の左寄りに位置していますが、劇中車ではその位置が中央寄りになっています。

 

 上掲のシーンを御覧下さい。劇中車のベンチレーターが中央寄りに位置しています。完全な中央ではなく、前から見るとわずかに右寄りにオフセットされているのがわかります。かなり目立つポイントですので、劇中車に合わせるならば、改造は必須となります。

 

 そこで、周縁部円環モールドを削り取りました。完全に綺麗に切り剝がせれば良いのですが、切り剥がす途中で円環が曲がったり潰れたりしますので、そのままの形で切り取るのは難しいと思います。

 

 削り取った円環モールドの代替品については、嫁さんが「ガンプラのパーツにちょうどいいのがありますよ」と教えてくれました。上図のウェーブの「Uバーニア(丸)M」のパーツ7です。大きさや直径がほぼ同じであるからです。

 

 これがパーツ7です。削り取った円環モールドと大きさや直径がほぼ同じですが、下にギザギザ部分が付いていますので、これを切り取ります。

 

 御覧のように、凸部をニッパーでカットしました。

 

 凸部をカットして仕上げた状態です。削り取った円環モールドと大きさや直径がほぼ同じパーツになりました。

 

 砲塔天板前面にて位置を劇中車に合わせて仮置きしてみました。うん、なかなかいい感じですね。ベンチレーターの移動はこの方法が一番簡単でしょう。

 

 続いてさらに上図の二ヶ所でガルパン仕様への改造を行います。砲塔天面の右側のモールドを埋め、砲塔右側面にあるモールドを削り取ります。

 

 砲塔天面の右側のモールドを埋めるのは、御覧のように劇中車の同じ位置に何も無いからです。

 

 砲塔右側面にあるモールドを削り取るのは、御覧のように劇中車の同じ位置に何も無いからです。

 

 改造の途中の状態です。砲塔天面の右側のモールドはパテで埋め、砲塔右側面にあるモールドを削り取りました。この後、ヤスりがけで表面を均しました。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最終章の継続高校チームの15輌の陣容に関して

2024年01月28日 | ガールズ&パンツァー

 ガルパン最終章の無限軌道杯における継続高校チームの陣容に関しては、第3話の段階ではフラッグ車のBT-42の他は軽戦車のT-26のみが出ていました。さらにヨウコ車の内部の様子からⅢ号突撃砲G型であることが推測されました。それで、この3車種のみだろうと考えたファンが相当数おられたようです。

 私自身は、第3話の公開後に「継続高校チームの15輌の陣容は?」と題する記事を書きまして、他にも未登場の車輌があるかもしれない、と推測しました。

 将棋に例えると、数の多いT-26軽戦車は「歩」のような駒であり、フラッグ車のBT-42が「王将」にあたります。ヨウコの車輌は狙撃を担っているようなので「飛車」または「角」に当たるでしょうか、と述べました。そして、あと2、3輌ほどの「金銀桂香」に相当する車輌が居るとみて間違いないかと思います、と結んでいます。

 

 第4話では、やはり「金銀桂香」に相当する車輌が登場しました。3輌のT-34/76でした。個人的には「金銀」あたりに相当する駒だろうな、と感じています。
 この3輌のT-34/76が隊長車のBT-42に随伴して、澤梓率いる大洗女子学園チームの本隊を意識しての追撃および牽制にあたっていましたから「金銀」のような位置づけにあるのは間違いないでしょう。

 ですが、第3話の時点では、BT-42に随伴して序盤戦を展開していたのはT-26軽戦車ばかりでした。その時期に3輌のT-34/76はどうしていたのか、という疑問が浮かび上がります。15輌のうちの9輌を占めていたT-26軽戦車が、あんこうチームが撃破され脱落するまでに4、5輌ぐらいはやられていますが、その成り行きが継続高校の作戦行動に少なからぬ影響を及ぼしていなかっただろうか、と思います。

 第3話の序盤戦で、最初からT-34/76の1輌でもBT-42に随伴していれば、その後の展開は少しは違っていたんじゃないかな、と思います。装甲の薄いT-26軽戦車なら撃破されたけれど、装甲の厚いT-34/76ならば、相手の弾をはじいて反撃を行なえた可能性があります。そうでなくても、T-34/76が1輌でも現われていれば、大洗女子学園側のプレッシャーはより重くなっていた筈です。

 ですが、ミカ隊長の作戦の第一が、集落内に追い込んで雪だるまに隠したT-26軽戦車で奇襲する、というものでしたから、軽快なT-26軽戦車を勢子のように動かせば事足りえたのでしょう。少なくとも第3話の時点ではBT-42の周囲にはT-34/76は居ませんでしたから、このときはヨウコ車と同じように別行動をとっていたのでしょうか。

 

 そして上図のユリのKV-1Eについては、前の記事にて、「KV-1であるか、他の戦車であるかは、現段階では可能性の問題に尽きるでしょう。」と述べました。コミック版の「フェイズエリカ」の継続高校チームにはKV-1Eは無かったのですが、アニメ版に出てきたというのは、前隊長トウコとの作戦方針の違いによるもの、と解釈することも出来そうです。

 というのは、「フェイズエリカ」の隊長トウコの戦い方は、相手が黒森峰女学園だったというのもありましたが、中戦車クラスを主力に据えて基本的には防御戦の構えをとり、BT系列の快速車輛を別動隊となして二面作戦を謀るという形で、最終章のミカ隊長の方針がヨウコの狙撃を前提として構築されていたのとは異なっていたからです。

 そしてKV-1Eはチームにおける唯一の重戦車で、護りの要にありましたから、逆に言えば後の車輛は、ヨウコ車を含めて攻めの駒として使われたのでしょう。とにかく攻めて、撹乱し、隙を突き、相手を自分たちのペースに引きずり込もうと試みたミカ隊長らしい布石であった、と思います。

 ですが、ヨウコ車が撃破されて後、その護衛の任務から解かれて本隊に合流したKV-1Eの格闘のさまを見ていると、KV-1Eは最初から本隊に随伴させてミカ隊長車との連携をとって動いていたほうが、大洗側に与える打撃やプレッシャーがより大きかったのではないかな、と思います。ヨウコ車の護衛は、T-34/76でも成し得たのではないでしょうか。

 

 ヨウコ車は、チームでは唯一のⅢ号突撃砲G型でした。つまり、継続高校チーム15輌とは、BT-42、KV-1E、3輌のT-34/76、9輌のT-26軽戦車、そしてⅢ号突撃砲G型から成り立っているわけです。
 ですが、個人的には、Ⅲ号突撃砲G型はヨウコ車の他にもう1輌ぐらいは出てくるだろうと予想していました。

 なぜかというと、ヨウコはスナイパー担当なので、スナイパー以外の行動が出来ないだろう、それでもう1輌のⅢ号突撃砲G型が本来の待ち伏せ攻撃に使われて大洗側にある程度の損害を強いるだろう、と推測したからです。

 ですが、実際にはもう1輌のⅢ号突撃砲G型は居ませんでした。それどころか、ヨウコは狙撃は一流だが動きながらの射撃は超下手という衝撃的な事実が判明しました。これではⅢ号突撃砲G型の利点が活かせず、ある意味持ち腐れではないだろうか、狙撃なら他の車輛、例えばT-34/76でも出来たのではないか、とも考えてしまいます。

 このように、全体としてみますと、最終章の継続高校チームの15輌の陣容は、作戦目標に適した、攻守のバランスもとれた編成だったのだろうか、と思えてきます。
 むしろ「フェイズエリカ」の継続高校チームのほうが、中堅戦力が分厚くて攻守のバランスも良かったんじゃないか、だから黒森峰女学園の戦車部隊ですら苦戦させられたのだろう、と考えてしまいます。

 以上の事柄をまとめると、最終章の継続高校チームの15輌の陣容は、強そうに見えるけれども、ガルパンの既定路線である「大洗の勝利」を達成させるための、負けてもおかしくない編成内容であった、ということが言えそうです。サークル交流仲間のモケジョのミカさんの辛辣な言葉を借りれば、「あれじゃ絶対負けるよね」となるわけです。

 もう少し、なんとかならなかったのでしょうか。最終章の継続高校チームの15輌の車輛の組み合わせ次第では、もっと面白い、手に汗握る衝撃的かつ感動的な試合を演出出来ただろう、と思います。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゆるキャン△の聖地を行く37 その2  下諏訪めぐり

2024年01月27日 | ゆるキャン△

 宿のグリーンサンホテルに一端入って手続きをして、部屋に荷物を置いたのち、下諏訪の見物散歩に出かけました。下諏訪の町は、諏訪大社下社の門前町として栄えた地域で、いまも江戸期の風情を残す街並みが各所に残ります。

 宿から北に進むと国道20号線に出ました。この道がかつての中山道で、諏訪大社下社秋宮への参詣道でもありました。そのまま東へ歩いて緩やかな登り坂を進み、上図の諏訪大社下社秋宮に行きました。

 

 諏訪大社は、周知のように諏訪湖の北側に下社の春宮と秋宮、南側に上社の前宮と本宮、の4つの社殿があって、これらを総称して諏訪大社と呼びますが、実質的には上社と下社は別々の神社として認識されているそうです。

 大学時代の同級生に諏訪市の人が居ました。出身校は諏訪清陵高校だったかと記憶していますが、秀才肌で非常にもの作りが上手で、マッチ棒で法隆寺五重塔を作ったり、新聞紙で東大寺大仏殿を作ったりしていました。木を削ってドイツ軍の機関銃を作り、それがあまりにも実物に見えたために間違えられて警察に呼び出された件で、学内ではかなり有名でした。
 その彼に、諏訪大社の事を聞いたら「どっちや?」と訊かれました。上か下か、というのでした。四社のうちの秋宮、と答えたら、「ああ、向こうか」という言い方をしました。彼は上諏訪の南側の飯島に家があるので、上社の氏子圏に含まれていたようで、諏訪大社といえば上社の前宮と本宮、という基本意識があったようです。それで、諏訪湖の反対側に鎮座する下社の春宮と秋宮を「ああ、向こうか」と言ったわけですが、その言葉が今も記憶に残っています。

 その彼が「ああ、向こうか」と言った下社の秋宮に、今回は参拝して明日からの聖地巡礼の交通安全と無事を祈願しました。諏訪大社の四社へは、2019年4月のゆるキャン聖地巡礼の際にひととおり回って参拝したことがあるので、今回は下社秋宮のみにとどめました。

 諏訪大社の公式サイトはこちら

 

 諏訪大社に参拝した後は、北の中山道筋にある上図の本陣岩波家に行きました。江戸期に東海道や中山道などの主要街道に配置された本陣の一つです。長野県内では現存する本陣跡の建物は二ヶ所、小県郡長和町の和田宿本陣と、諏訪市の下諏訪宿本陣、となっています。

 この下諏訪宿本陣は、江戸期より本陣問屋を務めた岩波家の邸宅であるので、観光ガイドなどでは「本陣岩波家」とされていることも多いです。

 

 本陣(ほんじん)とは、 江戸期以降の宿場町において、大名や皇族などの身分が高い者が泊まった建物を指します。一般的には参勤交代の際に大名が泊まる宿、として知られますが、実際には皇族の利用も少なくありませんでした。他に勅使、宮様、門跡そして公家、旗本や幕府役人が利用しています。

 

 玄関口には、上図の「関札」と呼ばれる大きな木の札が幾つも並べてありました。大名や公家の名前が官職名で記されており、これを玄関に掲げておくことで、誰が泊まっているのかが分かるようにしたものです。

 例えば、上図の左から2枚目の「米沢中将」は米沢藩12代藩主の上杉斉憲、5枚目の「仙台中将」は仙台藩13代藩主の伊達慶邦、7枚目の「因幡中将」は鳥取藩10代藩主の池田斉稷もしくは12代藩主の池田慶徳、と分かります。4枚目の「尾張大納言」は尾張徳川家でしょうし、8枚目の「彦根少将」は彦根藩井伊家でしょう。また6枚目の関札は皇族の伏見宮のものです。

 

 本陣の現存部分は、全体の四分の一ぐらいといい、母屋と客殿、土蔵などの建物が伝わります。上図は客殿から見た庭園です。見学客には客殿にて茶菓子がふるまわれます。

 本陣岩波家の公式サイトはこちら

 

 本陣岩波家を見学した後は、上図の「星ヶ塔ミュージアム 矢の根や」に行きました。中山道筋の脇道に面する「しもすわ今昔館おいでや」の中にある歴史系の資料館です。地元の国史跡「星ヶ塔黒曜石原産地遺跡」の出土品やジオラマなどを展示しています。
 「しもすわ今昔館おいでや」の公式サイトはこちら。「星ヶ塔黒曜石原産地遺跡」の紹介記事はこちら

 

 「星ヶ塔ミュージアム 矢の根や」の二階には、上図のように諏訪地域唯一の前方後円墳とされる青塚古墳のパネル展示もあります。建物がその青塚古墳の西隣に建てられているので、二階の窓から青塚古墳を見下ろせます。

 

 二階の窓から見下ろした青塚古墳の墳丘です。上図の左側が前方部、右側が後円部にあたり、後円部に設けられた石室の石組みが露出しています。石室に繋がる羨道(えんどう)の部分は破壊されているようです。

 

 「しもすわ今昔館おいでや」の売店にて土産物を買い、あとは中山道筋の上図の古い街並みの民家の列を見ながら宿に戻りました。宿には16時過ぎに入って、その天然温泉風呂に浸かり、しばらく休んで、18時前にすぐ近くの中華料理店「福来屋」に行って夕食をとりました。

 諏訪地域のゆるキャン聖地は、周知のように志摩リンが回った霧ヶ峰高原、高島城、片倉館が諏訪市にあり、いずれも2019年4月に回っています。
 このときは諏訪市の上諏訪駅付近のビジネスホテルに泊まりました。が、付近に食事処が殆ど無く、夕食をとるには上諏訪駅の反対側まで回り込むか、約200メートル離れた上諏訪温泉の繁華街まで行く必要があったのでした。

 そうした経験があるので、今回は周囲に食事処が幾つかある下諏訪駅近くの宿に泊まりましたが、実際に泊まってみて、なかなか便利だと思いました。下諏訪めぐりの観光コースがすぐ近くで楽しめましたし、その途中にコンビニもありますし、美味しそうな料理のお店を中山道筋に幾つか見かけました。何よりもJR下諏訪駅のすぐ向かいにあるので、ゆるキャン聖地巡りの宿としてもおすすめです。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖グロリアーナ女学院 クルセイダーMk.Ⅲ 作ります!! その7

2024年01月26日 | ガルパン模型制作記

 ステップ13の続きです。今回のキットでのガルパン仕様への改造で二番目に手間がかかる箇所だったと思います。この改造は、実車と劇中車の形状の差が原因ですので、タミヤやイタレリのキットで作っても同様の改造工程が必要となります。なお、上図の左に見える円環パーツDa4は、今回の製作では不要となります。

 

 実車と劇中車の形状の差、とは上図のように劇中車においては砲塔と車体の間に隙間や段差が無い点を指します。実車は隙間や段差がありますから、今回のボーダーモデルはもちろん、タミヤやイタレリのキットでもそのようになっています。

 

 さらに別シーンで見ますと、砲塔がやや左向きに旋回している状態ですが、御覧のように砲塔底面と車体上面とが隙間なくピッタリと接しているのが分かります。実際にこんな状態ですと摩擦が生じかねないのですが、そこはガルパン世界の謎仕様のひとつに数えられるのでしょう。

 ですが、私の製作では基本的に劇中車の形状に合わせますので、砲塔と車体の間の隙間や段差を無くすべく改造することにしました。

 

 キットのパーツのオリジナルの状態です。これはタミヤやイタレリのキットでも同様です。ガイドの指示通りに合わせれば、実車と同じく砲塔と車体の間に隙間や段差が生じます。この隙間や段差をどうやって無くすか、について色々考えてました。

 

 パーツの形状を見ながらさんざん悩んだ挙句、上図のようにキットの本来の組み合わせ状況を描き、その図の下に劇中車の状態はこうなってるのだろうな、という組み合わせ図を推測して描きました。

 私の場合、問題点や疑問点はこのように図面に描いて可視化することが多いです。可視化することで対象をより具体的に把握出来、問題点等がより分かりやすくなって、解決策が次第に見えてくることがあります。そして今回も解決策が間を置かずに見えてきたのでした。

 

 見えてきた解決策つまり改造案は上図のようでした。砲塔下部のパーツDa2のターレット部を上図のようにカットして、上へずらして再接着する、というイメージです。これによって砲塔と車体の間の隙間や段差がなくなります。

 

 改造案が決まったので、パーツDa2の改造にとりかかりました。上図のように赤線の位置で円形にカットして、そのまま砲塔内部へずらす形で押し込むイメージです。

 

 カットした状態です。この部分はかなり厚みがあって、切るのに手間取りました。アートナイフで外側と内側から交互に切り込んでいって、切り離しました。

 

 切り離した部分を砲塔内部へずらしてセットし、マスキングテープで仮留めして固定しました。

 

 横からみるとこんな感じになりました。この状態で車体上部にセットすれば、隙間や段差が無くなる、と確信しました。

 

 車体上部パーツにはターレット周囲の円環がモールドされていますが、それに合わせるように砲塔下部をセットしておいて、上図のようにプラ材でパーツDa2のカット部分を再接着して固定しました。

 

 これで改造が完了しました。御覧のように砲塔と車体の間の隙間が無くなって、劇中車の状態になりました。これで砲塔上部のパーツを組み合わせれば、段差も無くなります。

 

 以上、ステップ13における砲塔下部のガルパン仕様への改造工程でした。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宇治巡礼23 隼上がり瓦窯跡

2024年01月25日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 宇治市の菟道(とどう)地区には、日本でも最古級の7世紀前半期の瓦窯遺跡として考古学の世界では超有名な遺跡があります。現地の地名が菟道東隼上り(とどうのひがしはやあがり)であるために隼上がり瓦窯跡と命名され、国の史跡に指定されています。

 この遺跡は、昭和57年に現地の宅地化にともなう発掘調査にて発見され、丘陵の斜面に4基の窯跡、南の平坦地に7棟の建物跡から成る造瓦工房が検出されました。
 当時の考古学界は大騒ぎになりました。それまで全く不明であった、日本の古代寺院の屋根瓦の生産・供給のシステムの様相が、この隼上がり瓦窯跡の発見によって一挙に解明されたからです。

 日本における仏教文化の黎明期において、最初の本格的な古代寺院である飛鳥寺が創建されたのは、崇峻天皇元年(588)からの事でした。つまりは6世紀末期の出来事です。その後、奈良県大和国の飛鳥地方を中心に数多くの古代寺院が建てられました。

 そのなかに、推古天皇の豊浦宮を舒明天皇六年(634)に寺となして塔の心柱を建てた、日本最古の尼寺である豊浦寺がありますが、その瓦が大和国内ではなくて、50キロ余りも離れた山城国の隼上がり瓦窯から供給されていたことが判明したのです。この事実は、当時の考古学者たちにとっては衝撃的であったといいます。

 豊浦寺の瓦を焼いた窯跡はいまだに奈良県には存在しませんので、京都府宇治から運ばれていたことになります。なぜそんな遠隔地で瓦を焼いてはるばる運んでいったのか、という謎が多くの考古学研究者やファンを惹きつけました。

 その謎にロマンを感じて魅せられた、考古学ファンの一人が私でした。遺跡発見の翌年に発行された「隼上がり瓦窯跡発掘調査概報」を読むべく県立図書館に走り、要点部分をコピーして貰い、何度も読んで興奮していた高校2年生でありました。

 

 そして昭和60年に奈良大学文化財学科に進学して本格的に文化財の勉強を始めたその5月、城陽市在住の先輩のSさんに誘われて、その隼上がり瓦窯跡を訪ねました。既に丘陵の周辺では宅地造成が進んでいて周囲で重機が忙しく動き回っていました。

 ここがあの遺跡か、大和の豊浦寺の瓦をここで焼いていたのか、と二年前にコピーして読んだ「隼上がり瓦窯跡発掘調査概報」の要点を思い出しては感動し、興奮しました。感涙にむせびつつ、まだ発掘後に埋め戻して整地されたばかりの遺構面の土を手でなでました。
 Sさんが普段よりもかん高い声で「すげえなあ、なんでここで、豊浦寺の瓦焼いとったんかねえ」と話していたのも、よく憶えています。

 あれから38年、現在は周囲を宅地に囲まれ、すぐ東下に幹線道路が通って、南には京滋バイパスの宇治東インターチェンジが望まれます。
 隼上がり瓦窯跡は、発掘後は埋め戻されて保存がはかられ、Sさんと私が訪れた翌年の昭和61年に国の史跡に指定され、平成元年に史跡公園整備を実施して上図の石碑と説明板が設置され、今に至っています。

 

 現地の説明板に掲示されている隼上がり瓦窯跡の現況図です。史跡公園の範囲が示されており、発見された4基の瓦窯跡が並んでいます。

 このうち1号窯から3号窯までは発掘で遺構面を完全に検出していますが、4号窯は発掘調査の終盤にて遅れて発見されました。当時すでに遺跡の保存が確約されていたため、4号窯だけは将来の再発掘に期待して、掘らずに表面確認にとどめています。まだ謎の部分が残されているわけで、なかなかにロマンチックな措置です。

 なお、史跡範囲の外側の南には7棟の建物跡から成る造瓦工房が検出されましたが、そこは残念にも宅地造成で削られてしまい、現在は民家と車道になっています。飛鳥時代の工房跡としては日本最古の遺跡であっただけに、保存が切望されましたが、宅地化計画との兼ね合いで、保存可能なのは窯跡の範囲で精一杯ということになったため、記録保存のみにとどまりました。

 

 現地の説明板に掲示されている隼上がり瓦窯跡の1号窯の発掘完了後の様子と、出土した5種類の瓦のうちの4種類の写真です。

 私は大学時代は発掘のアルバイトで古代寺院の遺跡の幾つか(岡寺、橘寺、川原寺、薬師寺、野中寺)に入りましたので、瓦に関しては発掘調査の現場委員長でもあった帝塚山大学の森郁夫先生に色々と教わり、奈良県の古代寺院の瓦を中心にして勉強していた時期がありました。そのなかに豊浦寺の瓦も含まれましたから、隼上がり瓦窯跡のことも時折思い出すことがありました。

 その隼上がり瓦窯跡の瓦は、全部で5種類が知られています。上図の4種類のうち、上左が高句麗系A(甲Ⅰ類)、上右が高句麗系B(甲Ⅲ類)、下左が高句麗系D(乙類)、下右が百済系です。残る1種類は高句麗系C(甲Ⅱ類)ですので、5種類のうちの4種類までが高句麗系の文様の瓦であるわけです。

 したがって、隼上がり瓦窯の運営主体は、当時の日本にて高句麗系の文化を色濃く伝えていた秦氏との関係が推定されています。ここ宇治に限らず、京都そのものが秦氏の本拠地というに等しく、秦氏の氏寺として有名な太秦の広隆寺も京都市にあります。

 宇治には、隼上がり瓦窯の他にも古代の窯跡が10ヶ所ほど知られており、もともと土と薪に恵まれた地域であったことが知られます。宇治以外では同時期の瓦窯跡として京都市左京区岩倉幡枝町の幡枝瓦窯、八幡市橋本平野山の平野山瓦窯が知られ、隼上がり瓦窯跡と同じ瓦の笵(はん)を用いた事が分かっています。

 笵(はん)とは、瓦の文様を彫った木型のことで、これに粘土を押しつけるだけで同じ文様の瓦が大量に生産出来ます。隼上がり瓦窯跡の瓦に使った笵を、幡枝瓦窯や平野山瓦窯にも貸し出して、同じ文様の瓦を各地でそれぞれに大量生産していたわけです。

 ですが、隼上がり瓦窯跡の5種類の瓦のうちの4種類までが、豊浦寺でしか発見されていません。このことは、隼上がり瓦窯が豊浦寺建立のための専用瓦窯としてひらかれたことを意味します。前述したように豊浦寺の創建は舒明天皇六年(634)のことですから、隼上がり瓦窯跡も同時期にひらかれたことになります。

 上図は、平成元年に宇治市教育委員会が発行した「史跡隼上り瓦窯跡(概要版)」の冊子の42ページに載せられる図を参考として引用したものです。

 これを御覧いただくと、隼上がり瓦窯跡の5種類の瓦のうちの4種類までが、豊浦寺へ供給されていることが分かります。いずれも他では全く検出されていません。そして、隼上がり瓦窯跡で使われた笵(はん)が幡枝瓦窯や平野山瓦窯へと移動して、それぞれの瓦窯で似たような瓦が造られて、それぞれ北野廃寺と四天王寺とに供給されています。

 北野廃寺は、周知のように秦氏の氏寺である太秦広隆寺の前身寺院とされており、四天王寺は聖徳太子創建の寺のひとつで秦氏の支援があったとされるなど、いずれも秦氏との関係性が指摘されています。端的に言えば、これらの瓦窯を運営していたのが秦氏の工人組織だったのだろう、となります。

 そして、隼上がり瓦窯跡の5種類の瓦のうちの残る1種類、上図の右端のDつまり高句麗系D(乙類)の瓦に関しては、上図に「未確認」とあるように、いまだにどこへ供給されていたかが分かっていません。
 この高句麗系D(乙類)の瓦は、現在もなお、近畿地方だけで100ヶ所をくだらない古代寺院遺跡のどこからも検出されていないのです。不思議なことではあります。まだ発見されていない、高句麗系D(乙類)の瓦を使用した未知の古代寺院遺跡がどこかに埋もれているのかもしれません。

 それに関して、38年前に一緒に遺跡を見に行った先輩のSさんが「案外、俺んとこ(城陽市エリア)にあったかもしれんて」と冗談で話していたのが、いまは興味深く思い出されます。

 平成に入ってから、各地の古代寺院遺跡の調査が進んで京都府下でも遺構検出が相次ぎました。その結果、高句麗系D(乙類)の瓦の笵を用いた瓦、つまり第一変化形式と呼ばれるタイプの瓦が使われた寺が、現時点では3ヶ所、広隆寺と大津市の穴太廃寺、城陽市の正道廃寺で確認されています。
 この3ヶ所の第一変化形式の瓦のうち、隼上がり瓦窯跡の高句麗系D(乙類)の瓦と同じ周縁(しゅうえん)と呼ばれる文様周囲の枠が造形されているものは、城陽市の正道廃寺の瓦だけです。まさにSさんの言った「俺んとこ(城陽市エリア)」です。

 つまり、隼上がり瓦窯跡で生産された高句麗系D(乙類)の瓦が未確認の古代寺院で用いられ、その笵を使った第一変化形式の瓦が正道廃寺で使用されている、という構図になります。つまり、未確認の古代寺院と正道廃寺は、瓦の形式でいえば親子関係にあたります。
 なので、未確認の古代寺院は、おそらく正道廃寺とそんなに離れていない場所にあるのだろう、という推論に導かれます。城陽市エリアかどうかは分かりませんが、そんなに遠くはないだろうな、と思います。

 ちなみに正道廃寺は、現在は国史跡に指定されている7世紀以降の大規模な複合遺跡の一部とみられ、いまは正道官衙遺跡(しょうどうかんがいせき)の名で史跡公園化され、官衙遺跡の建物の一部などが復元されています。
 なので、未確認の古代寺院、というよりは、古代寺院も含めた同時期の建築群、官衙や郡衙などの遺跡も候補にあがってきます。古代寺院をいくら探しても出てこないのですから、古代寺院以外をあたってみるべきだろう、と思うわけです。

 いまもどこかに、隼上がり瓦窯跡で生産された高句麗系D(乙類)の瓦を用いた7世紀以降の建物の遺跡がひっそりと埋もれています。長らく、京都府下の考古学上の謎の一つとされていますから、見つかれば、大変な騒ぎになることは間違いないでしょう。

 

 隼上がり瓦窯跡の地図です。現地には駐車場はありませんので注意して下さい。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゆるキャン△の聖地を行く37 その1  下諏訪へ

2024年01月24日 | ゆるキャン△

 2023年10月27日、12時53分、名古屋発の特急しなの9号が塩尻駅に着きました。10時13分に京都駅を新幹線のぞみ88号で出発して、10時47分に名古屋駅で降り、中央本線に乗り換えて11時に出てから、1時間53分後のことでした。

 今回のゆるキャン聖地巡礼は、長野県エリアで実施しました。1日目に霧ヶ峰高原、2日目に高ボッチ高原、という日程で最初は一泊二日のコースを考えましたが、1日目の移動は全て公共交通機関つまり鉄道とバスを利用するので、1日に3便しかない霧ヶ峰高原への往復の季節限定バスの時刻がネックとなり、前泊を加えての二泊三日の行程に落ち着きました。

 

 それで、1日目は前泊のフリータイムとなったので、この日は京都から下諏訪までの移動と、下諏訪の半日観光をゆったりと楽しむことにしました。ゆるキャン聖地巡礼はいつも朝早くからのハードなスケジュールで回っているので、たまには時間を余裕でとってのんびりと行くのもいいな、と考えたからです。

 塩尻駅では38分の待ち時間がありましたので、駅の連絡通路の中にある日本で一番狭い立ち食いそば屋に行って、二人程度がやっと立てる程度の超狭いスペースで温かいかけ蕎麦を食べました。このお店は改札口外側のほうは普通のお店でスペースも広いのですが、改札口内の連絡通路側のカウンターは入口すら狭くて外から見ただけでは分かりにくいです。

 私は塩尻駅には乗り換えで何度か寄っていますので、鉄道ファンや旅行ファンの間では知られたこの日本最狭のそば屋のことも知っています。信州蕎麦の独特の旨味を味わえることも知っていたので、今回も絶対に寄る、時間的にも昼食のタイミングであるので、塩尻駅の蕎麦でいこう、と決めていたのでした。

 

 そばを食べ終わってホームに降りると、向かいの松本行きホームに上図の313系普通列車が停まっていました。これの模型を最近に買って走らせているので、実物を見ると嬉しくなります。6月から鉄道模型Nゲージを始めたおかげで、鉄道の旅の楽しみがより深まりました。

 元々鉄道に乗るのは嫌いではなく、色んな地方で鉄道を利用して楽しんできましたが、鉄道模型を始めてからは、見る楽しさが加わりました。他の列車を見る、駅や施設を見る、線路のレイアウトを観察する、架線や架線柱や信号、諸標識を見る、というように、鉄道関連の要素は何でも興味深く見えてしまうようになりました。

 というのは、Nゲージを楽しむ上での目標のひとつが、ジオラマの製作であるからです。鉄道に関する施設や設備の1/150スケールの模型をいつかは作ることになるので、実物を色々見て勉強している形です。

 

 13時31分に塩尻駅を出て、15分後の13時46分に上図の下諏訪駅に着きました。ゆるキャン聖地巡礼で諏訪を訪れるのは、2019年4月に続いて2度目です。
 前回は霧ヶ峰高原に行きましたが、思わぬ積雪があって雪景色に囲まれ、車山高原肩の聖地「ころぼっくるひゅって」が臨時休業となったのでした。それで、もう一度行くことにし、4年半を経てようやくリベンジを果たせることになったわけでした。

 

 2019年4月の聖地巡礼のときはまだマイカーを持っていて、それで回りましたが、今回は鉄道でやってきましたから、下諏訪駅には初めて降り立ちました。降りた途端に、ホームに置いてある上図の巨大な巻き綱に驚かされました。

 

 巨大な巻き綱の隣には長い丸太が横たえてありました。これは、もしかして諏訪大社の御柱(おんばしら)かな、と気づきました。

 

 説明板が設けてあったので近寄って読みました。思った通り、諏訪大社の古い御柱と曳くための綱でした。

 諏訪大社には二度ほど参拝したことがありますが、その代表的な祭事として知られる「御柱祭」はまだ見たことがありません。上図の説明文によれば、6年ごと(7年目ごと)の寅の年と、申の年に社殿の周囲の四隅の柱を取り替える習わしがあり、その柱を交換する神事が「御柱祭」です。

 

 そしてこの古い御柱は、平成22年の「御柱祭」で建てられ、6年後の平成28年の「御柱祭」で役目を終えて新たな御柱と交換されて「御柱休め」となり、諏訪大社より地元下諏訪の氏子に払い下げられ、ここに展示されています。

 木は樅で、秋宮の三之柱であったものといいます。諏訪大社の社殿の周囲四隅に建てられる御柱は、一から四までの順に短く細くなり、上空から見た場合に時計回りに配置されるそうです。一之御柱が社殿の右手前、二之御柱が左手前、三之御柱が左奥、四之御柱が右奥に位置するといいます。

 

 下諏訪駅の駅舎です。現在の建物は平成10年2月に改築されたものです。

 

 駅から北へ伸びる道路に面した上図のグリーンサンホテルが、今回の前泊の宿でした。下諏訪駅の向かいに立地して徒歩1分の至近にあります。下諏訪温泉の湯をひいた天然温泉もあり、朝食付きプランで利用しました。

 グリーンサンホテルの公式サイトはこちら

 前回の聖地巡礼では上諏訪駅の近くの宿に泊まったので、今回は下諏訪駅の近くで泊まったわけです。翌日の霧ヶ峰高原行きの季節限定バスが上諏訪駅前のバス停から9時35分に出るので、それに間に合うように駅前の宿を探した結果、上諏訪駅の周りの候補地は全て満員で予約が取れなかったため、下諏訪駅のほうで確保しました。

 下諏訪駅の次の駅が上諏訪駅で、移動時間は4分ですから、翌朝はゆっくりと過ごして9時過ぎに出ても、バスの時刻には十分に間に合います。が、人気の登山バスなので行列は当たり前、満員で乗れない場合もあると聞いていましたので、果たして今回は乗れるのかどうか、そちらのほうが心配だったのでした。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖グロリアーナ女学院 クルセイダーMk.Ⅲ 作ります!! その6

2024年01月23日 | ガルパン模型制作記

 ステップ11の続きです。側面スカートのA35、A36においてガルパン仕様への改造を施します。A27は劇中車にありませんので不要です。

 

 側面スカートのA35、A36において改造するのは上図のペン先で指した箇所です。段差が上下で並行になっていない部分(やや上に出っ張る部分)がありますが、これを劇中車のように全て並行に直します。

 

 劇中車の該当箇所は、全ての段差が並行になっています。これに合わせます。

 

 まず、マスキングテープを上図のように、段差の下の部分と並行になるように貼ります。これによって、段差の上の部分の僅かな出っ張りが可視化されます。この僅かな出っ張りをヤスって削り取ります。

 

 削り取って改造した状態です。段差が全て並行になりました。

 

 続いてのガルパン仕様への改造箇所は、上図の左右のエアクリーナーの側面部分です。御覧のようにキットのパーツでは左右のエアクリーナーの側面部分がフェンダー側面よりも内側に位置しています。ガイドの指示通りにエッチングパーツの側面板を貼っても、まだ内側にあります。

 

 ところが、劇中車においてはその側面板が外に張り出しており、見た感じではフェンダー側面よりも外側に位置しているような状態です。しかも上下二つの板を合わせているように見えます。
 個人的には、フェンダー側面と同じ位置に出ている、とみていますが、キットのエッチングパーツでは厚みが不足します。

 

 そこで、エッチングパーツのX6およびX17は使わないことにし、プラ板で同じ形状のパーツを切り出して自作することにしました。まず上図のように0.5ミリ厚のプラ板を貼り付けました。

 

 続いて0.2ミリ厚のプラ板で上図のように下部パーツを作って貼りました。

 

 これで大体の形になりました。張り出し具合も、フェンダー側面と同じレベルになりました。左右とも同様に改造して完了しました。

 

 ステップ12からは砲塔の組み立てに進みます。砲塔の各所にガルパン仕様への改造箇所がありますので、順に紹介します。
 ステップ12では砲身を組み立てます。砲の筒先のパーツは劇中車に合わせてDa21を選択します。ステップ13では砲塔の下部を組み立てますが、ここのガルパン仕様への改造がかなり複雑になります。ステップ14では砲塔上部などを組み立てますが、ここでもガルパン仕様への改造が多岐にわたりますので、順に紹介します。

 

 ステップ12で組み立てる砲身のパーツ類です。砲の筒先のパーツはDa21を選択します。

 

 組み上がりました。ジョイント部分にあたるDa13は接着せずに可動とするので、上図の状態で保管しました。

 

 ステップ13に進み、砲塔前面部のDa14と組み合わせました。ここまでがガイドの指示通りの工程で、次の砲塔下部の組み立てにおいて複雑なガルパン仕様への改造を行います。次回で詳しく述べます。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

島田愛里寿が加わったけれど

2024年01月22日 | ガールズ&パンツァー

 ガルパン最終章第4話の初視聴後、共に観ていた嫁さんに感想を聞いたところ、「意外に弱くなってません?」とだけ言いました。ウンウン、と頷きかけて「え?」と首を傾げつつ、それはどういう意味かと問い返しました。すると嫁さんは笑いながら「どうせあと2、3回は視るんでしょう、よく見て考えて下さいね」と言いました。
 その会話を、初視聴後の記事でもそのまま書いています。当時の記事はこちら

 それで、2回ほど視聴を重ねて自分なりに考えた結果、これは聖グロリアーナ女学院チームのことなのかな、と察するに至りました。その数日後の夕食時に、それとなく話してみたら、「うん、そうですねぇ、そうですよ」と笑顔になりました。

「聖グロリアーナ女学院って、第3話までの戦いぶり見てたら、勝つべくして普通に勝ってるというか、いかにも強豪らしい貫禄ある戦い方してますでしょ。第4話も戦車の顔触れは変わっていないんで、強力にプレシャーをかけつつ堅実に攻めてくるというイメージも変わらないかと思ったんですけど、予想に反して、中戦車メインで軽戦車も加わってる黒森峰女学園チームとなんだか互角、ラストはガチンコで殴り合いになってましたね・・・」

「黒森峰女学園はそれまでの重戦車メインの陣容から、Ⅱ号戦車とⅢ号戦車がメインの軽快な陣容に変わりましたね。砲も小さいから火力は相当減りましたね。Ⅱ号戦車が2輌もいて、えー、あれで戦えんの?と。・・・重戦車で出てたのはティーガーⅠが1輌だけでしたよね。あれ、一回マチルダのフラッグ車を照準距離に捉えてましたでしょ、あれ当たってたら試合終了だったんですよね。たまたま横のマチルダに当たってたから良かったものの、あれ、ピンチだったんと違います?聖グロリアーナ女学院があんなにあっさりピンチになってたの初めて見た気がしますけど、あんなの見たら、勝敗は運の差でしかないな、って思っちゃいます・・・」

「終盤で島田愛里寿(上図)が出てきて最後のバトルで僅差で勝ちましたけど、島田愛里寿が居なかったら間違いなく負けてると思う。ていうかね、島田愛里寿のセンチュリオンすらも、劇場版の時のように圧倒的にバタバタ撃ち倒す感じでなくなってて、なんかちょっと黒森峰女学園の押しに引きずり込まれてて、ぶつかり合いの肉弾戦に持ち込まれてる気がしましたねえ・・」

「だいたいですね、黒森峰女学園は、きっきも言いましたけど、戦力的には以前よりも低下してるんですよね、ティーガーⅡとかヤークトティーガーとかエレファントとかマウス、ああいう重戦車がみんな無くなってて、軽戦車とか中戦車のⅡ号戦車とⅢ号戦車とⅣ号戦車に変わってますから、装甲は薄くなってるし火力も低下してますね。そういう黒森峰女学園に辛うじて勝つってのはね・・・、島田愛里寿が参戦しているのに僅差で勝つ、ってなってますからねえ、要するに聖グロリアーナ女学院が意外にも弱くなってるんじゃないか、って思ったんですよ」

 

「逆に言えば、逸見エリカ(上図)が隊長になってからの黒森峰女学園は西住まほが隊長だった時期とは違う戦い方、違う戦車の編成でやってるわけですよね。重戦車ばかりで編成して重装甲と強い火力で押してゆくんじゃなくて、軽快なⅡ号戦車とⅢ号戦車で動き回って敵の隙とか死角とかを狙ってついてゆく、って感じの戦法になってるなーと思いました。たまたま砂嵐が来たからこれも利用してるし、臨機応変に戦っていますね。戦車は弱くなったけれど、そのぶん動きが良くなって、メンバーもノンアルなんか飲んでたりして明るい雰囲気になってますね。ああいうチーム、スポーツとかでも割と強くなってゆくパターン、多いみたいですよね」

「西住まほ隊長だと、みんな目上のお偉いさんに緊張して従ってる雰囲気だったけれど、逸見エリカ隊長になってからは、ふつうに先輩後輩とか同級生とかの間柄になってて、仲間意識っていうのか、ファミリーっぽい感じが芽生えてる感じでしたよ。ああいうのが、割と試合でのチームワークもバッチリなんじゃないかな、って。戦車は弱くなったけれど、戦術とチームワークでカバーして頑張ってる感じ、てのがありますね。」

「戦力的には弱くなっている黒森峰女学園と、従来通りの戦車部隊に島田愛里寿のセンチュリオン加えて格段にパワーアップしてる聖グロリアーナ女学院とが戦ったら、普通は聖グロリアーナ女学院の圧勝になるんと違います?・・・でも2秒だっけ、僅差で辛うじて勝ってますんで、これ、全体としてみたら聖グロリアーナ女学院のほうが意外に弱くなっちゃってるぞ、とビックリしましたよね・・・」

 そうすると、第5話以降の決勝戦で大洗女子学園と対戦しても、以前のような強豪の聖グロリアーナ女学院ではなくなっている、ということかね、と聞いてみた。

「そこはガルパンですからねえ・・・、大洗が勝つのが既定路線なんと違います?・・・ですから、島田愛里寿が加わったけれどね、どうもねえ、以前のような聖グロリアーナ女学院じゃあ、なくなってるんじゃないか、と思いますねえ。あんまり強いと、大洗が勝てなくなりますしね・・・。大洗と聖グロが、というよりは西住みほと島田愛里寿の再対決の図を大きくもってくるんじゃないかなー、と予想してます」

 なるほど、見事な演説でした・・・。当方といたしましては、嫁さんの見解に賛成、ということにしておきます。下手に逆らうと地獄を見ますので・・・。

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宇治巡礼22 院御所山遺跡(槇ノ尾山)

2024年01月21日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 平等院の南から府道3号線を南へ約500メートルほど進むと、右手に宗教法人の施設が見えますが、その東南に丸くそびえる山があります。地図では槇ノ尾山とあり、またgoogleマップでは槇ノ尾山城跡として表示されます。

 上図は、その槇ノ尾山を、宇治川をはさんで東の観流橋のたもとからみたところです。

 

 この山は、城跡として認識されているためか、その方向での調査も実施されたようで、「京都府中世城館跡調査報告書」山城編の宇治市の項に図面と記事が載せられています。確かに土塁や数段の郭がみられて全体的には城郭のような姿になっていますが、時期的には中世戦国期からの状態であるような感じです。

 この槇ノ尾山は、古くから「院御所山」と呼ばれて平安期の山荘跡として伝わり、宇治市の文化財関連資料などでも「院御所山遺跡」として記載されています。
 なので、平安期には貴族の山荘跡であったものが、中世戦国期に地形の利点を活かして城塞化された、その状態がいまに残っているものと解釈すれば良いでしょう。

 昔、近くの白川谷に残る白川金色院の遺跡を訪ねた折に、現地の白山神社の神主に偶然お会いして、白山神社の由来について教えていただいたことがあります。要約すれば、白山神社はもとは槇ノ尾の「院ノ御所山」に鎮座し、その山には摂関家の四条宮藤原寛子の別荘があった、という内容でした。つまりは藤原寛子自身が山荘内に祀った白山神の神祇祠がおおもとであった、ということです。

 藤原寛子(ふじわらのかんし)は、平等院を創建した関白藤原頼通の娘で、のちに後冷泉天皇の皇后となり、四条宮とも呼ばれて太皇太后の地位にまで達した人です。その山荘があったということで、院(天皇または皇后)の御所の山、という意味での「院御所山」の呼称が成立したもののようです。

 藤原時代の皇族や貴族は有名人に限っても多数にわたりますが、その邸宅跡や寺院遺跡のほとんどは京都市街地の下で、遺構すら見ることもかないません。せいぜい京都アスニーや宇治市源氏物語ミュージアムの復元模型でその姿をうかがい知るのがやっとでしょう。

 そんななかで、藤原寛子の山荘跡と伝わる「院御所山」は、生の遺跡を見られる数少ないスポットと言えます。

 

 その「院御所山」を麓の府道3号線から見上げました。夏場は、御覧のように木々の下を草藪が埋め尽くして容易には近寄れない状態ですから、登ってみるならば冬場が良いでしょう。

 山そのものは標高100メートル、府道3号線からの比高は約80メートルと聞いています。山登りの方やハイカーが宇治の里山登りのコースによく組み入れて登っている記録をネットでもよく見かけますので、どこかに山道があって割と楽に登れるのだろう、とは思いますが、その入口の位置をいまだに知りません。

 かつて奈良に住んでいた頃に、奈良県内の殆どの山城跡や城館遺跡を踏破しましたが、その多くは比高100メートル以上でした。そのクラスの山なら普通に登っていましたから、「院御所山」の槇ノ尾山も苦労なく登れる筈です。
 ですが、いまだに機会を得ていません。楽しみな遺跡スポットの一つでもあります。

 

 院御所山遺跡(槇ノ尾山)の地図です。googleマップでは槇ノ尾山城跡として表示されますが、実際に全てが中世戦国期に城塞化された状態なのか、それとも平安期の藤原寛子の山荘跡の痕跡がどこかに残っているのかは、未だにハッキリしていないようです。いずれ現地に登って、そのあたりを確かめたいな、と思います。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖グロリアーナ女学院 クルセイダーMk.Ⅲ 作ります!! その5

2024年01月20日 | ガルパン模型制作記

 ステップ9の続きです。上図に見えるパーツのうち、Ba7、Ba8、Ba9の3つはガルパン仕様への改造を施します。

 

 Ba8、Ba9の改造の手順を上図に示しました。リベット2個をカットし、上のダボ穴を埋めます。また方形の薄いモールドは無いので削り取ります。劇中車の状態にあわせます。

 

 劇中車の該当箇所の状態を御覧下さい。このように細部が省略された仕様になっているので、細部も精密に再現されているボーダーモデルのキットにおいては、色々と変更が必要になってきます。

 

 Ba8、Ba9の改造後の状態です。

 

 続いて上図の赤円内のバックランプを再現します。ガルパン仕様独自の装備のようで、キットにはこのパーツは含まれませんので、プラ材でそれらしく追加再現します。

 

 ランナーの切れ端で御覧のように作りました。ランプのレンズ部分はウェーブのクリアパーツを使用しようかと考えています。

 

 続いてのガルパン仕様への修正は、上図のフェンダー後端内側の形状の変更です。矢印で示すように、フェンダー後端内側は横に切れています。

 

 ところが劇中車においては、御覧のように斜めに下へ伸びる形状になっています。これに合わせます。

 

 プラ板で斜めに下へ伸びる形状に仕上げました。

 

 ステップ10では車輪を組み立てて取り付けて履帯を組み立てます。私の製作では車輪は塗装後に組み付けます。履帯のほうはタミヤカスタマーよりタミヤイタレリのキットのパーツを取り寄せた際に一緒にパッケージされてついてきたベルト式履帯パーツの余り分がありますので、それを活用します。

 ステップ11では左右の側面スカートなどを取り付けます。A35およびA36にてガルパン仕様への修正が必要となります。また、エアクリーナーの側面板をエッチングパーツで組み付けますが、劇中車のと形状がやや異なりますので、プラ板で作り直します。側面スカートのオプションパーツのエッチングパーツは全て不要です。作り直す範囲はX6とX17の部分のみで、X8、X9、x10、X11は元パーツに同じモールドがありますので省きます。

 

 ステップ10で組み立てる転輪のパーツです。

 

 組み上がりました。

 

 続いて起動輪と誘導輪を組み立てます。履帯は安心、お手軽のベルト式パーツを活用して作業量の削減を図ります。ボーダーモデルの連結式履帯は細かすぎるうえにパーツの合いが良くないので、精神衛生上の観点から回避しておくことにしました。

 

 組み上がりました。履帯も楽に繋いで良し、でした。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゆるキャン△の聖地を行く36 その10  帰りのバスと電車

2024年01月19日 | ゆるキャン△

 伊良湖港のフェリー埠頭にて二種類の船を見物していたら、あっという間に30分ぐらいが経っていました。それでクリスタルボルトの建物内に戻って土産物販売コーナーにて、嫁さんに頼まれた品々を買いました。これだけは絶対に、と頼まれたのは、三河湾産のあおさと青海苔と乾燥小海老、渥美半島産のはちみつ、の4品目でした。

 我が家では嫁さんが管理栄養士であるので、毎日の食事は質素ながらも栄養バランスはバッチリです。ほぼ毎日、ご飯は炊き込みとなります。具材は毎日色々変わりますが、乾燥小海老はダシも兼ねるので必ず入れます。そして味噌汁やお吸い物などの汁物には、ほぼ毎日あおさを入れています。あおさはご飯にもかけたりします。

 なので、あおさと乾燥小海老は毎日使う必需品になっていますが、いずれも最近の物価高騰ラッシュからは逃れていますので、家計的には大いに助かっています。栄養や効能に優れていて安価な食材ですが、一般的にはあまり使われていない食材であるせいか、スーパーなどは棚の隅っこに目立たなく並んでいるか、下手すると扱っていなかったりもします。

 

 土産物販売コーナーは展望所の横にありますので、買い物を終えた後もしばらく港や海の景色を眺めていました。

 

 17時50分、三河田原駅へ戻るバスに乗りました。15系統の渥美病院行きでした。

 

 三河田原駅まで50分、バス特有の振動に身をまかせつつ、次第にたそがれてゆく外の田園風景をぼんやりと眺めていました。シャイでナーバスでロンサムな気分になりつつ、時々ウトウトしました。

 

 18時40分、三河田原駅に着きました。もう夜になっていました。今回の聖地巡礼は珍しく日帰りでしたから、一日をめいっぱい使って夜遅くに帰るパターンとなりました。

 

 三河田原駅のホームには、既に次の18時47分発の列車が待機していました。

 

 朝乗ってきたのと同じ旧東急電鉄7200系の車輛でしたが、車番とラッピングのベースカラーが違いました。ヘッドマークに「しでこぶし」とあって、その花のラッピングデザインになっていました。

 

 車内は御覧の通りで、乗客はまばらでした。地方のローカル鉄道はどこもこんな感じですね・・・。終点の豊橋駅には19時22分に着きました。

 

 行きと同じく、豊橋鉄道の改札口からダッシュで新幹線乗り場まで急ぎまして、19時39分発のこだま745号に飛び込みました。乗った途端に背後でドアが閉まりました。あー、やれやれ、でした。

 以上で、渥美半島の土岐綾乃ソロキャンプ聖地3か所の日帰り巡礼のレポートを、渥美半島一周編として括って終わります。鉄道とバスを利用しての、文字通りの一周コースでした。

 次のゆるキャン聖地巡礼は、10月に舞台を長野県エリアに移し、再訪の一ヶ所と初訪の一ヶ所とをまわります。  (了)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最終章第4話はアンフェアの連続か

2024年01月18日 | ガールズ&パンツァー

 劇場版を見てガルパンファンになった、交流サークル仲間のモケジョさんの一人、ミカさんは、もともとは名前が同じミカ隊長のファンで、つまりは継続高校推しでした。

 それが今回の最終章第4話の視聴後に、「継続高校はアカンかもしれない、ミカはアカンかもしれませんねー」と言い出して私たちを驚かせました。同じく継続高校推しのイハラ氏が、動揺のあまり「なんで?なんでよ・・」を何度も繰り返したほどに、それは衝撃的な出来事でありました。

 その数日後のサークルの定期会合でも「アカンです」を連呼していたミカさんに、同じモケジョ仲間の嫁さんがその理由を詳しく教えてもらったようで、その日の夕食時に嫁さんがこう話しだしました。

「あのね、美佳ちゃんね、継続高校推し、やめたんやって。その理由とかって、想像がつきます?」
 舞茸と小海老と昆布の炊き込みご飯に青海苔をかけて食べつつ、大体は、と応じました。

「じゃあ、理由を・・・」
「雪崩のことかね」
「うん、それも言うとったです」
「え?それも、って、他にもあるのかね」
「うん」

 それから嫁さんが簡単に説明してくれた内容を要点にしぼってまとめると、次の3点になります。

1 意図的に雪崩を引き起こして相手チームを行動不能にさせようと図る。(サメさんチームが巻き込まれて動けなくなった)
2 その雪崩を誘発する砲撃を、既に撃破されて擱座している僚車(T-26か?)に指示してやらせている。
3 直滑降中にいつの間にかBT-42がソリを付けている。

 そしてミカさんの言い分は、次のようでした。

1については完全にアウト。自然に発生した雪崩なら仕方無いけれど、意図的に起こしているのが悪質。味方も巻き込まれる可能性があるのに、危険を顧みずに雪崩を引き起こすとは、頭大丈夫か。

2は、既に撃破されて擱座している僚車(T-26か?)にミカが指示して砲撃させているが、それはルールとして正しいのか、白旗が上がった後でも作戦に関連した砲撃が出来、かつそれが有効であるのはどういうことか。

3に関しては、たとえば、急斜面を降りる競争で皆が走っている場合、ひとりが途中からスケート履いて滑っていったら反則でしょう、反則じゃなかったら頭おかしい。第一、超スピードで降下してるのに、いつソリ着けたんだ。

 それぞれ、ごもっともな意見だな、と思いつつ聞いていましたが、嫁さんが「1は私もアウトだと思う。例えばですねぇ、スキー競技とかするときに、選手のひとりが意図的に雪崩起こしてたら、反則で退場で出場資格剝奪になるんと違います?」と付け加えてきました。なるほどな、と応ずる他はありませんでした。

 ですが、私自身は2に関しては疑問もありました。雪崩を誘う砲撃を行なったのはT-34で、撃破されてはいなかったように思ったので、それを言ったら、「違いますよ、砲塔も砲も小さかったから、美佳ちゃんの言うとおりT-26ですよ、雪原に傾いて埋もれてたじゃないですか・・・」と反論されました。
 それを押し返すだけの明確な記憶と自信はありませんでしたので、「そうだったっけか・・・」と返すにとどまりました。

 嫁さんはさらにこう言いました。

「第4話って、なんか反則みたいなのばっかり、って気がするんですよ。継続高校だけじゃなくって、聖グロリアーナ女学院だって、途中から島田愛里寿を入れてるでしょ、あれも反則じゃないかって思うんですよ」
「いや、あれは、以前から転校希望のストーリー入れててさ、西住みほともう一度対戦したいからって、やから、どこかに転校して試合に参加してくるぞ、というのは想定内やったんで・・・」
「それは分かってますけど、じゃ、転校するんなら、無限軌道杯の開始前にやったらどうなの、試合も第1試合から最初から出たらどうなの、ってことですよ。あれじゃ、途中からいきなり乱入してるも同然ですよ」
「いや、それは・・・」
「推しの黒森峰女学園も、途中から島田愛里寿が入ったから、勝てる試合を落としたじゃないですか、たった2秒の差で」
「・・・・・」

 しまいには沈黙さぜるを得なくなりました。ミカさんや嫁さんが言う通り、最終章第4話はアンフェアの連続だったのかなあ、と思ってしまいます。


コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宇治巡礼21 南泉房跡

2024年01月17日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 平安期の永承七年(1052)に時の関白藤原頼通が創建した平等院には、その後も摂関家によって幾つかの堂塔が寄進造立されて甍を競いましたが、いまに建物を残すのは阿弥陀堂である鳳凰堂のみで、それ以外は退転して地中に埋もれてしまっています。

 それらのうち、発掘調査などによって確認され位置が判明したのは、藤原頼通の娘の寛子が康平四年(1061)に建立した多宝塔と、境内地の南側の山裾にあった南泉房の二棟だけです。上図は、その南泉房の遺跡が発見された場所の北側に立つ案内板です。平等院の南口の向かいの広い観光駐車場の南側の駐車場の北東辺あたり、かつての塔ノ川を暗渠化した車道の脇に立っています。

 

 案内板に近づいてみました。説明文にあるように、鎌倉期に編纂された説話集「宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)」の序文に南泉房のことが触れられています。原文は次のとおりです。

「世に宇治大納言物語といふ物あり、この大納言は隆国といふ人なり、西宮殿の孫俊賢大納言の第二の男なり 、年高うなりては暑さを侘びて暇を申して、五月より八月までは平等院一切経蔵の南の山際に南泉房といふ所に籠り居られけり、さて宇治大納言とは聞えけり」

 この序文によって、かつて平等院に南泉房という坊院の建物があり、その位置が一切経蔵の南の山際であることが知られていましたが、平成9年の発掘調査にて平安後期の庭園遺構が確認され、南泉房に関連する庭園と推定されることによって、南泉房の位置がほぼ確定しました。

 この「南泉房といふ所に籠り居られけり」と書かれる「隆国といふ人」とは、源隆国(みなもとのたかくに)のことを指します。関白藤原頼通のいとこにあたり、頼通の娘寛子が後冷泉天皇の皇后に立てられたのに伴って皇后宮大夫に任ぜられ、その流れで頼通の側近を務め、後に権中納言に昇進した醍醐源氏の高級官僚です。

 その源隆国は、康平四年(1061)に権中納言を辞し、その翌年に皇后宮大夫も辞して宇治に籠居しました。そして平等院の南泉房に籠って、文学活動に取り組んで各地の伝承や説話などを収集し、「宇治大納言物語」を編纂したといいます。
 この「宇治大納言物語」は散逸してしまって現存していませんが、「宇治大納言物語」に収録されなかった説話類をまとめた「宇治拾遺物語」の内容からおおよその傾向を知ることが出来ます。

 摂関家の出身で天台座主となった慈円が承久二年(1220)頃に著した「愚管抄(ぐかんしょう)」によれば、「宇治大納言物語」には、源隆国が藤原頼通に聞いた話も数多くまとめられていたといい、頼通の父の道長や周囲の人々の動向に関しての情報も豊富であったといわれます。当然ながら同時期の宮廷にて「源氏物語」とともに名をはせた紫式部こと藤原香子(ふじわらのこうし)の情報も含まれていた筈なので、「宇治大納言物語」が散逸してしまったのは本当に残念なことです。

 

 上図は南泉房推定地より発見された平安後期の庭園跡です。時期的にも源隆国の活動期と同じであり、現地に推定される平等院の建物が南泉房しかないため、南泉房の庭園であったのだろうとされています。

 「宇治拾遺物語」の序文には、南泉房に籠って文学活動に没頭していた源隆国について、次のように述べられています。

「髻を結ひ分けて をかしげなる姿にて 筵を板に敷て涼み居侍りて 大なる団扇をもてあふがせなどして 往来の者高き卑しきを云はず呼び集め 昔物語をせさせて 我は内にそひふして語るに従ひて大きなる双紙に書かれけり 天竺の事もあり大唐の事もあり日本の事もあり それがうちに貴き事もあり哀れなる事もあり穢き事もあり 少々は虚物語もあり利口なる事もあり 様々やうやうなり」

 そうして「宇治大納言物語」をまとめて文学活動を謳歌していた源隆国でしたが、もともと優秀な人であったらしく、宇治に籠居しているのはもったいないとみられたようで、治暦三年(1067)に権大納言に返り咲きます。時に64歳のことであり、当時は前中納言の大納言昇進は稀有の人事であったため、後々まで数少ない前例として語り継がれたといいます。宇治大納言と呼ばれたのもそのためで、おそらくは当時太政大臣であった藤原頼通の意向が働いたものと思われます。

 なので、源隆国が南泉房にて上図の庭園を愛でながら文学活動にいそしんでいた時期は、皇后宮大夫を辞して宇治に籠居した康平五年(1062)から権大納言に任ぜられる治暦三年(1067)までの五年間だけだったのでした。

 南泉房跡の位置は、地図の中央あたりです。平等院観光駐車場の南側の駐車場一帯が、以前より南泉房の推定地とされていましたが、その北東辺より庭園の遺構が発見されました。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする