気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

今出川通の南北5 蛤御門の弾痕

2021年09月30日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 閑院宮邸跡を見学した後、同行者のすすめで御苑の西辺をたどることにしました。閑院宮邸跡の北門から宗像社の西を通って、次の辻で西に行くと、上図のように下立売御門が見えてきました。

 

 京都御苑の西辺は烏丸通に面しています。出入口は6ヶ所にありますが、そのうちの4ヶ所に御門が建ちます。下立売御門は、その一番南に位置しています。案内板は見当たりませんでしたが、たぶんこれも江戸期の建物なのでしょう。

 

 下立売御門から出水口を経て、次の御門が有名な蛤御門です。正式名称は新在家御門ですが、幕末の蛤御門の変(禁門の変)の舞台となったことから、俗称の蛤御門のほうでよく知られています。

 

 外観上は他の御門と変わりません。と言うより、御門はいずれも同じ形式で建てられているので、外見上の相違点は見当たりません。

 

 ですが、この御門にだけは上図の案内板が立てられています。歴史的に有名な事件の現場であり、幕末維新の歴史ファンが必ず訪れる史跡の一つですから、立てられて当然でしょう。

 同行者は、同志社大学在学中は京都府庁の近くに住んでいたので、通学路も蛤御門の前を通っていたそうですが、その割には蛤御門も蛤御門の変もあまり知らなかったそうです。あまり身近すぎると、興味が持てなくなるもののようです。

 

 なので、蛤御門にいまも残る蛤御門の変当時の弾痕を示すと、驚き、感動し、珍しそうに見て、触れていました。弾痕は御覧のとおりあちこちに白っぽく浮き出て見えます。数が多いので、激戦地であったことがよく分かりますが、同行者は「戦場にあってよく燃えなかったですね」と妙なところに感心していました。

 御所の門だから、それに向かって発砲するだけでも朝敵になってしまうのに、燃やしてしまったらもっとエライことになるよ、と説明すると、「あー」と思い至ったように頷いていました。

 

 蛤御門の変(禁門の変)とは、元治元年(1864)に長州藩が前年八月十八日の政変で失った勢力回復を図るべく京都に出兵し、京都を護る会津藩主松平容保以下の会津および薩摩などの藩兵と蛤御門付近で戦い、敗れて撃退された事件です。

 この敗戦によって長州藩は朝敵の烙印を押され、当時の藩主毛利氏は徳川将軍より頂いた偏諱を剥奪されました。さらに幕府は長州藩を罰すべく第一次長州征伐を行うことになりました。そういう重大事件の現場がここでした。

 

 当時の長州藩は、急進的な尊皇攘夷論を掲げ、京都政局を主導していたにもかかわらず、文久三年(1863)に公武合体派である会津藩と薩摩藩らの主導による政変(八月十八日の政変)により京都を追放されました。
 その失地回復を目指して、来島又兵衛らが武力を背景に長州の無実を訴えようとする進発論を採って御所へ向かったわけですが、藩内では桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞らが慎重論をとって反対していたのでした。

 にもかかわらず、来島又兵衛らは自ら遊撃隊600名の兵を率いて、京都守護職の会津藩主松平容保率いる会津、薩摩、大垣の諸藩に新撰組を加えた約3000の軍勢と激突、御所に入るべく蛤御門を確保しようとして果たせず、来島又兵衛自身も戦死して400名余りが斃れ、長州藩の軍勢は壊滅しました。

 結果的には桂小五郎らの慎重論が正しかったわけですが、この単なる小競り合いレベルの戦闘の影響は甚大で、周囲の街区に戦火が広がって約3万戸が焼失、大勢の京都住民が避難民に転じて社会問題になりました。

 なにしろ、畿内にて大名同士が合戦に及んだのは慶長二十年(1615)の大坂夏の陣以来のことでしたから、また戦国の世に戻るのか、と大勢の京都住民が怖れおののいたのも当然のことでした。だから、京都ではいまでも長州藩に関する評判はかんばしくないそうです。

 

 蛤御門からは再び御苑内に進み、京都御所の東辺の通りを北へ向かいました。途中で上図の宣秋門(ぎしゅうもん)を見ました。
 宜秋門は、平安京の頃は内裏の外郭門の一つで、内裏から見て西に位置しました。その伝統を受け継いで、現在の門は御所の西辺に建ちます。

 

 宜秋門を過ぎて北へ進み、西に中立売御門を望みました。

 

 同行者のすすめで京都御所の一般参観へも行くことになっていたので、参観入り口である清所門(せいしょもん)へと向かいました。上図の築地塀に繋がる門がそれでした。
 清所門は、京都御所の六門の一つで、かつては御台所御門と呼ばれ御所の勝手口として使用されましたが、現在は京都御所の一般参観の出入り口として使用されています。  (続く)

 

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戦車工場、作ります!! その19

2021年09月29日 | ガルパン模型制作記

 戦車工場B棟の工事責任者カチューシャの説明は、窓が二つ設けられた壁について続けられました。真面目に聞き入る西住まほでした。いつもはこの相手が苦手なはずのカチューシャも、普通に説明していました。

 

 壁も床板と同じく、100均のB4サイズ2ミリ厚のスチレンボードをそのまま使用しました。つまり、B棟は床も壁もB4サイズであるわけです。そして壁には二ヶ所に窓を設けるべく、切り抜きが施されました。

 

 コの字形プラ材を、四辺にくっつけました。溝を利用した接合のためというより、2ミリの厚さしかない壁面の補強をなすべく枠を付けるのが、その主な目的でした。

 

 拡大して撮りました。こんな感じで壁面の四方にコの字形材をフレームとして接着しました。A棟が自らのパーツの重量に耐えられずに壁面の端が曲がってしまった事を教訓として、B棟は可能な限り各パーツの軽量化を図ることにしましたが、それに沿っての2ミリ厚のスチレンボードの使用でした。

 

 続いて窓枠を木製で再現すべく、100均で買った模型工作用の板を2種類準備しました。幅が5ミリと3ミリ、いずれも1ミリ厚、90センチの板材です。

 

 まず、窓の大枠を幅5ミリの板で作りました。ボードの切り抜き部分に寸法をきっちり合わせてカットしました。

 

 組み付けました。この木製窓枠の意匠は、私の勤務先に幾つかある明治期以来のレンガ建築のそれを参考にしました。

 

 二ヶ所とも大枠を組み付けました。明治以来の古式の窓枠は、このように壁の外に枠が突き出ているものが多いです。壁を流れる雨水が窓に流れ込むのを防ぐ役目を持ちます。
 現在では古いレンガ建物の多くが窓枠をアルミサッシに換えたり、内側に組み付け直して枠を金属に交換したケースが多いので、なかなかこのようなヨーロピアンスタイルの簡素な木枠窓は見られなくなっています。

 

 大枠の中に、窓面を六等分する中枠を組み込みました。中央の縦枠は幅5ミリ、2本の横枠は幅3ミリの板で作りました。

 

 上から見るとこんな感じです。横の中枠が内側にセットされているのが分かるでしょうか。

 

 2ヶ所の窓を同じように組み上げました。後のステップにてそれぞれに6つの框を組み込む予定です。上段は遮光ガラス、中段は採光ガラスをはめ込み、下段のみは回転窓に作る予定です。

 

 次に、窓枠の上下にカットしたスチレンボードを接着し、外観を整えました。明治期のレンガ建築の窓は、強度確保のために上下に大理石などの石材をはめこむことが多く、外見上は窓の下が白くみえる事例が多いです。

 

 これで壁と窓の枠の製作が完了しました。内側はモルタル風にするので素材のままで生かしますが、外面はレンガ壁としますので、後のステップにてその作業をする予定です。  (続く)

 

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今出川通の南北4 閑院宮邸跡

2021年09月28日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 京都御苑内の閑院宮邸跡は、御苑内に現存する唯一の宮家の邸宅遺構とされていますが、厳密には建物の一部の部材のみが旧閑院宮邸のものである、というのが実状です。

 

 上図の主屋をはじめとする建物群は、明治十六年(1883)に宮内省京都支庁として建てられたものです。その建設当時、残っていた旧閑院宮邸の建物を再利用または建築部材の転用を行なったようなのですが、どこからどこまでが旧閑院宮邸のものである、というような説明や解説は、邸内の展示室のどこにも見当たりませんでした。詳しいことが不明になってしまっているのかもしれません。

 

 なので、正しくは宮内省京都支庁跡、とするのが現存建築群の実態に合っていると思います。たまたまその位置が旧閑院宮邸跡にあたっているため、遺跡名称は歴史や由緒の重視傾向により、古いほう、格式の高い方になっているわけです。

 

 現存建築群が宮内省京都支庁跡であることは、隣接して遺構面が平面復原展示されている宮内省所長官舎跡があることからも実感出来ます。上図の案内板の図から、かなりの規模の立派な施設であったことがうかがえます。

 

 現在はこのように遺構面が平面復原展示されています。完全復原すれば、いまの現存建築群とあまり変わらないぐらいの規模になるでしょう。
 いまは宮内庁ですが、戦前まではランク上の宮内省でしたから、その所長官職というのは相当な高級官僚です。いまで言うなら局長クラスに相当するでしょうか。

 

 なので、宮内省所長官舎跡に付属する庭園も立派です。すぐ近くに旧閑院宮邸の庭園があるのに、こういう庭園を新たに造ってしまうのですから、いかに当時の宮内省が贅沢していたかが分かります。

 

 ただ、明治期の作庭ですから、これまでの伝統的な庭園に比べると見劣りします。やたらに石を積んで景石も多く配置する傾向がありますが、全体的にゴチャゴチャしてしまって、庭園としての景観の質も落ちてしまいます。お金をかけたのでしょうが、もったいないことをしています。

 

 庭園内に古式な礎石とみられるものがありました。古代以来の寺院や宮殿の礎石に似た造りを示しますが、実際に古いものであるのかもしれません。京都御苑のエリアは、平安京の時代には藤原氏関連の邸宅が多かった地域ですので、その関連の遺物である可能性が考えられます。

 

 旧閑院宮邸、実際には宮内省京都支庁跡の現存建築群が一般公開されていましたので、中に進みました。玄関の造りを見て、宮家の格式ではなく、政庁クラスの標準的な形式であることに納得しました。

 

 中の廊下も、宮家らしい雅な要素が皆無です。戦前の学校や役場の内部を思わせる簡素なしつらえです。間違いなく宮内省京都支庁跡の建物だな、と改めて実感しました。

 

 現存の建築群は、上図の広い正方形の中庭を囲んで四方に建物が繋がりますが、この建て方自体が皇室および宮家の建築にはあまりなく、むしろ武家の御殿や大型屋敷の標準的なパターンに近いです。長屋門や番所を備えている点からも、宮内省京都支庁の建物が武家風の庁舎のスタイルを踏襲していることがうかがえます。

 上図左の建物までが一般参観の範囲で、右の建物はレクチャーホールです。残りの建物は環境省の京都御苑管理事務所や国民公園協会の施設となっていますので、外観のみの復原であったようです。

 

 ですが、一般参観エリアの展示室の奥の一室に入って木組みを見た途端、アレ、と気付きました。この部屋だけが伝統的な公家屋敷の造りを示しているのでした。虹梁と蟇股、素束と平肘木、化粧屋根の基本3要素が揃っています。同行者が、ここが旧閑院宮邸の転用じゃないかな、と話していましたが、同感でした。

 

 室内の説明板も、旧閑院宮邸からの転用の可能性を示唆するような内容にて簡潔に述べられています。最も立派な造り、とありますが、もっとハッキリと「伝統的な公家屋敷の基本3要素、虹梁と蟇股、素束と平肘木、化粧屋根、が見られる」というように書いてほしいところです。

 

 外の縁側に出ると、もとの簡素な武家屋敷ふうの官舎の外観のみになります。雅な公家空間から、質素な公僕空間に移ったという気がしました。

 

 縁側からは旧閑院宮庭園が見えますが、ただ縁側であるというだけで、庭園を愛でるための広縁や廻縁の造りは全くありませんでした。ちょっと距離もありますので、現存の建築群があまり旧閑院宮庭園を意識していなかったことが察せられます。
 ひょっとすると、明治期に宮内省京都支庁が置かれた当時の旧閑院宮庭園は、いまのように明確に整備されていなくて、すでに廃して埋まっていたのかもしれません。  (続く)

 

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戦車工場、作ります!! その18

2021年09月27日 | ガルパン模型制作記

 今回より、ガルパン戦車工場B棟のこれまでの建設過程を作業順に紹介します。カチューシャは設計と材料から説明を始めると言いましたが、アンチョビが白い床についても説明を、とリクエストしました。そこで床までの製作の流れを述べてゆきます。

 

 戦車工場B棟は、フェニックスモデルの鉄道工場キットを用いて組み立てたA棟とは異なり、完全な自作です。もちろん設計案からスタートし、一週間あまり図面を色々ひいて検討しました。最終的にまとまった案を、作業上のポイントや留意点、模索部分を列記しながら図面に変換して書き起こしたのが、上図の2枚のメモでした。

 その後、製作中に色々と変更や改変を加えましたが、結果的にはこの最終案メモの8割ほどがそのまま実現しました。現時点ではまだ建物の半分が完成しただけですので、残りの半分もこの最終案メモをベースに作る予定ですが、残り半分は外観も構造も少し変わるので、この最終案メモも一度新たに書き直す必要があるでしょう。

 

 戦車工場B棟は、大部分の材料を100円均一ショップの素材で作る計画でしたが、一部は上図のタミヤのプラ材など数種類を用いています。

 

 そのうちの3ミリL型棒を組み合わせるのが、建設作業の最初のステップでした。

 

 御覧のように、2本のL型棒を組み合わせて、コの字形棒に作りました。本当はコの字形のプラ材が欲しかったのですが、販売されていませんので、次善の策として2本のL型棒の組み合わせを採りました。

 

 かくしてコの字形、厳密には片側が1ミリずれたコの字形の棒を作りました。2ミリの幅の溝が出来ました。

 

 工場の壁や床は、100均のB4サイズ、2ミリ厚のスチレンボードを使用しました。建物の内装は基本的にモルタル調としてカラーを白にまとめる案でしたので、白のスチレンボードを6枚購入しました。建物の半分に3枚を使うからでした。

 

 次に、コの字形棒を、スチレンボードのB4のサイズに合わせてカットしました。壁面および床面はB4のサイズをそのまま生かす計画でした。

 

 こうして、B4サイズ2ミリ厚のスチレンボードと、2ミリの溝を持つコの字形棒を揃えました。

 

 まずは床面を作るべく、スチレンボードの長辺の片方に、コの字形棒を溝を上にして接着しました。これで床面部分が完成しました。白いスチレンボードを使用しているので、アンチョビが言ったように、白色の床になります。

 ですが、これで良いかというと、まだ物足りない気もします。床面の基本イメージはコンクリートですので、白よりはグレーに近い色に塗るか、そのカラーの色紙などを敷くか、といった選択肢も考えられます。また後で検討してゆきたいと思います。 

 

 このコの字形棒が、建物の半分の中央線にあたります。もう片方の床面のボードには溝を下に向けたコの字形棒を付けておき、双方のコの字形棒を組み合わせて床面を繋ぐ、という計画でした。

 もう片方の建物の基本案はまだまとまっていませんが、完成した片方と左右対称の外観、構造にならないことだけはハッキリしています。なので、双方の床面を双方のコの字形棒を組み合わせて繋ぐ、という案でそのまま行けるかどうかはちょっと分かりません。臨機応変に対応してゆくことになりそうです。  (続く)

 

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今出川通の南北3 宗像社と閑院宮邸庭園

2021年09月26日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 拾翠亭の一般参観がコロナ対策にて停止されていたので、次のスポットに行きました。上図の宗像神社です。

 

 案内板です。要約すると、この宗像神社は藤原氏北家の祖である藤原冬嗣が延暦十四年(795)年に桓武天皇の許可を得て、平安京の東西両市の守護神として九州築前の宗像神社を勧請したのが創祀とされます。その後、藤原冬嗣の自邸小一条第に移したと伝えられますが、現在地がその小一条第の跡地です。
 つまり、小一条第に移された宗像神社がそのまま境内地を保って現在に至っているわけです。後に小一条第は花山天皇の皇居とされたため、それ以来この地は「花山院」とも呼ばれました。

 

 その後、藤原時平の代に倉稲魂神を合祀し、更に天承元年(1131)に藤原師実から子家忠が花山院(小一条第)を伝領して花山院家を創設した際、天石戸開神を合祀して同家の守護神と定めました。それで、宗像神社は花山院家の邸内社となり、建治元年(1275)に官社に列しています。

 その後、応仁の乱にて罹災焼亡したが再建され、周辺一帯の公家町化にともなって花山院家が転宅した後も鎮座地を変えず、明治期の東京遷都によって御苑内鎮座となっています。

 

 境内社のひとつ、花山稲荷社です。境内地の南側に位置し、樹齢600年とされる御苑内最長寿の楠の老大木の下に鎮座します。祭神は倉稲魂神で、花山院家の守護神として祀られたものです。

 

 同行者と並んで幣門の前に進み、礼拝しました。幣門の奥に建物の一部が望まれた本殿は一間社流造、檜皮葺です。江戸期の安政年間の再建と伝えます。

 

 続いて、同行者の薦めによって御苑南西隅に位置する閑院宮邸跡へ行きました。ここはコロナ対策下においても公開されていたので、ここが大のお気に入りだという同行者の解説を聞きながら中に入りました。

 

 一般参観の出入口となっている北門は、宮家の門にしては武家ふうの長屋門の形式で建てられています。江戸期からの遺構と思われますが、現地においても詳しい案内資料が見当たりませんでした。
 閑院宮邸の創建当初の建物は、1788年の天明の大火で焼失しており、現存の建物はそれ以降の再建になりますが、明治期に旧宮内省京都支庁が置かれた際にどの程度の改変や建て替えがあったのか、詳しいことは不明であるようです。

 

 こちらは正門にあたる東門です。いかにも宮家の正門としての外観と風格を保っています。内側の脇に門番所の建物もあり、これらは閑院宮邸関連の旧施設がそのまま維持されているようです。

 

 現在の閑院宮邸跡の建築群です。大部分は明治16年に設置された旧宮内省京都支庁の施設として新築されたと伝わります。が、一部の建物には当時残存していた閑院宮邸の建物や材料が再利用されたことが、環境省による平成15年からの保存修復事業によって判明しています。

 

 閑院宮邸跡の庭園は、平成16年から17年にかけて発掘調査が実施され、その実態が解明されています。出土時の遺構は埋め戻されましたが、その精巧なレプリカが上に築かれて、発掘当時の様子を忠実に再現しています。こういう形で宮家の庭園遺構を見学出来るところは、国内ではここだけです。

 

 現地の案内解説板です。

 

 閑院宮家は、宝永七年(1710)に東山上皇第六皇子の秀宮(直仁親王)を始祖として創設されましたが、第七代の春仁王が戦後の昭和二十二年に皇籍を離脱し、閑院氏を名乗って純仁(すみひと)と改名、宮号を返上しました。閑院純仁には実子が無く、養子も取らなかったので閑院家は断絶となっています。

 閑院宮邸跡は、明治期の東京遷都で主が去った後は、華族会館や裁判所に転用され、庭園も寂れたようです。さらに大正天皇即位大礼にともなう大正四年の御苑大改修によって東の築地を延長したため、庭園の東半分がその際に埋め立てられて失われています。
 したがって、いま見られる庭園は、元の庭園の西半分にあたります。その範囲を発掘調査したわけです。

 

 現存の庭園は、新旧2期の様相を示しています。いまレプリカ再現にて表示されている遺構は、大部分が旧池、一部が新池のものであるそうですが、その境目はよく分かりません。

 上図は旧池の中島部分です。この川原石を並べて据えて築かれた部分が、閑院宮邸の創建に続く庭園の作庭当時の部分に相当します。

 

 こちらは旧池部分の魚溜まりとされる環状の石列遺構です。その両側には小さな石を敷き詰めて造った州浜があります。池の汀(みぎわ)、つまり水際の護岸と修景を兼ねる州浜は、仙洞御所の庭園と同じく、皇室の格式と伝統を意識した造りを示しています。

 

 上図は池の西側です。中島は無く、汀の西端に景石が一つあるだけで、水深も浅いです。水面を静かにたたえて遠浅の海をイメージさせるように水際の意匠が最低限に抑えられた範囲であったのでしょう。  (続く)

 

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戦車工場、作ります!! その17

2021年09月25日 | ガルパン模型制作記

 この9月上旬に半分が完成したガルパン戦車工場B棟の屋内の見学が始まりました。ダージリンが「まるで京都駅みたい!」などとのたまっておられますが、実際の京都駅屋内はこんなに白くないです・・・。・・・て言うか、なんで横浜市民のダージリンが京都駅を引き合いに出すのでしょうか・・・。

 以前にも、A棟の線路を見て「ここに阪急や近鉄が停まるのね!」とか言っておりましたし・・・、もしかしてダージリンは、本当は関西の出身・・・?

 

 カチューシャは工場建設責任者らしくきちんと、内装が9割ほど仕上がっている旨を説明し、あとは備品や機材を入れるだけと述べていますが、ダージリンは相変わらずのボケっぷりです。戦車工場を造船所と勘違いしているようです。

 

 御覧のようにB棟屋内にはガントリークレーンも設けられています。ホイスト等の吊り下げ装置がまだ未完成ですが、吊り上げ荷重は100トンまで可ですので、マウス以外の全てのガルパン戦車が吊り下げられることになります。

 

 アンチョビが備品をどこから調達するかを尋ねましたが、カチューシャもまだ考えていなかったようで、「それが問題なのよ!」と返しています。

 ですが、ケイが「ウチに備品や機材が一杯あるから」とあっさりと調達を引き受けました。C5ギャラクシー輸送機で長崎から運ばせるそうですが、すでに劇場版で大洗女子学園の戦車8輌を空輸した実績がありますから、備品や機材の輸送はまったくの「ノー、プロブレム!」なのでしょう。流石に金持ち高校は違いますね・・・。

 

 ガントリークレーンにはエレベーターが付いているので上の作業用通路まであがれます。エレベーターはカチューシャの上にて作動中です。ケイが居る場所は単なるステップで、これはエレベーターではありません・・・。

 角谷杏が「眺め良し!」と言ったのに合わせて、ダージリン以下がそれぞれの本拠地を言っていますが、千葉が絶対に見えて、長崎がバッチリ見える場所って、どこ・・・?
 しかもカチューシャが珍しく自信無さそうに小声で自身の本拠地を呟いているのが笑えます・・・。  (続く)

 

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今出川通の南北2 九條邸跡と厳島社

2021年09月24日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 今回の京都御苑散策では、同行者のすすめにより、御苑のエリアの西半分ぐらいを南から北へと回る計画でした。
 その最初の見学スポットが、御苑内の南西端に位置する九條邸跡でした。上図はその案内板で、九条邸跡と書かれますが、「条」は歴史的には旧字体の「條」と表記するほうがしっくりきます。

 

 九條邸跡の敷地内に進み、案内板を読んでから九條池にかかる石橋に進みました。上図は石橋より北の通りを振り返ったところです。

 

 現在の九條邸跡は、庭園の九條池と拾翠亭(しゅうすいてい)から成ります。本邸の屋敷は明治期に東京へ移され、いま一部の建物が九条館として東京国立博物館に移築保存されています。拾翠亭は江戸時代後期に別邸として建てられた茶室です。

 九條家は、五摂家の一つで、藤原北家嫡流の藤原忠通の六男である九條兼実を祖とし、遠祖藤原鎌足より続く藤原一族の男系血統上の宗家にあたります。家格としての嫡流は五摂家筆頭の近衛家ですが、歴史的にみると藤原氏一門全体のなかではむしろ九條家が主流として広く認識されたようです。

 

 九條の家名は、史上初の関白に就任した藤原基経が創建した京都九條の九條殿に住んだことが由来です。九條兼実の孫の道家の子、教実、良実、実経が摂関を務めてそれぞれ、九條家、二條家、一條家を立てて、五摂家のうちの三家が成立しています。

 現在の当主は第36代目にあたる九條道成氏で、明治神宮の宮司を務めておられます。京都ではその父の第35代目九條道弘氏のほうが平安神宮の宮司を務めておられた関係で知名度が高いようです。

 

 九條邸跡の北側の一角には、九條池に面して厳島神社が鎮座します。いったん外の通りに戻って西から回り込み、高倉橋と呼ばれる石橋を渡って境内地に入りました。

 

 案内板です。要約すれば、平清盛が摂津国兵庫津に築島(経が島)を造成した際に、同島に社殿を構えて厳島社を勧請し、後に清盛の母の霊を合祀したうえ、社地を当地へ遷座させたたものです。その遷座の時期は不明ですが、のちに鎮座地は九條家の邸宅内に取り込まれ、以後は同家の鎮守として崇敬されたということです。

 

 明治になって九條家が東京へ転宅し、屋敷も東京へ移築されましたが、厳島神社はそのまま残されて現在に至っています。現在の社殿は昭和二年(1927)の改築です。

 

 厳島神社の鳥居はいわゆる「京都三鳥居」または「京都三珍鳥居」の一つとして有名です。笠木と島木が唐破風形式に造られる花崗岩製の「唐破風鳥居」で、現存する中世期の遺品としてはおそらく唯一であるようです。戦前の昭和13年に国の重要美出品に認定されています。

 もとは平清盛が造成した兵庫築島(経が島)に建っていましたが、室町期に足利義晴が細川高国邸へ移築し、江戸期の明和八年(1764)に九條道前が幕府の許可を得て現在地へ再移築しました。このように来歴が確かである点も珍しく、平家ゆかりの遺品としての歴史的価値も大変に大きいです。

 

 厳島神社の「唐破風鳥居」の前より、先ほどまで渡っていた九條池の石橋を眺めました。この立派な橋が九條家の庭園の橋に過ぎないのですから、五摂家の贅沢ぶりは大したものだったことがうかがえます。

 

 厳島神社からさらに西へ回って、九條邸跡の拾翠亭(しゅうすいてい)に行きました。毎週木、金、土曜に一般参観があり、この日は土曜日でしたので、参観の申し込みをすべく受付に向かったのですが・・・。

 

 おい、マジか・・・。(志摩リン風に)  (続く)

 

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戦車工場、作ります!! その16

2021年09月23日 | ガルパン模型制作記

 久し振りにガルパン戦車工場のA棟内に集まった各チーム隊長に、角谷杏が最近に半分が完成したB棟の見学を持ちかけました。建設全般を仕切ってきたのはカチューシャの筈でしたが、角谷杏の提案に「ピロシキ―」と謎の返事で済ませています。やはり、そもそもの言いだしっぺは角谷杏でしたから、いまでも杏が最高経営責任者、つまりは戦車工場のCEOであるのでしょう・・・。
 ところで、ここでの「ピロシキ―」ってどういう意味・・・?

 

 ぞろぞろと並んでA棟の奥に位置するB棟へ向かいました。鉄筋モルタル造ふうのA棟とは対照的な、古風なレンガ建築スタイルの外見が目立っていました。その横に停めてある白い軽戦車は、プラウダ高校チームのT-70でした。おそらく今回カチューシャが乗ってきたのでしょう。

 

 B棟がなかなか立派な建物であるのに、皆が一様に驚き、感動していました。A棟より小型の建物とされていますが、皆が予想していた規模よりは大きな建物だったようです。

 

 ここで実質的な建設作業責任者のカチューシャより、B棟の半分だけで、組み立てと外装に4ヵ月余りを要したことが明かされました。あとの半分も4ヵ月余りを要するのかどうかについては、なぜか言及がありませんでした。ちょっと気になりますね・・・。

 

 出入口の扉は、ガルパン世界の通常の戦車道倉庫の扉とは異なって、左右の2枚と上に開く1枚の計3枚の扉から成っています。通常は左右の扉を開くだけで戦車が出入り出来ますが、たまに背の高い車輌が通る場合には上の扉もあげられて屋根庇のように展開します。
 仮に線路を引き込めば、機関車も余裕で入れるように設計してあったのでしょう。ダージリンが「おやりになりますわね・・・」と感心していますが、工場見学中でもティーカップを手放さないのは流石です・・・。  (続く)

 

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今出川通の南北1 京都御苑へ

2021年09月22日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2021年2月6日、久しぶりの京都歴史散策に出かけました。最初は相国寺承天閣美術館と京都市歴史資料館の特別展示を午前中の3時間ほどで見て回るだけの積りでしたが、隣接する京都御苑にはあまり行った事がないので、ついでに京都御苑や京都御所も見に行くか、と考え、3時間の行程を倍の6時間にしてほぼ半日の散策に変更しました。

 さらに同行者の提案で、室町幕府関連の遺跡も追加したので、朝からのスタートとなりました。見学範囲が京都御苑と相国寺のエリアとなったため、つまりは今出川通の南北を回る形になりました。そのコースを京都御苑の南東に位置する京都市歴史資料館からスタートしました。

 市営地下鉄で東山駅まで行き、市バスの「河原町丸太町」バス停で降りて、京都御苑東の寺町通に進み、京都市歴史資料館に向かう途中で、上図の立派な古民家の前を通りました。

 

 門の脇に貼ってあった説明板です。同志社の創設者である新島襄の旧宅だというのを、今回初めて知りました。京都御苑のエリアに今まであんまり行ってなかったので、周囲の史跡や文化財に関してもよく知らず、したがって今回は新たな学びの連続となりました。

 

 なかなか立派な邸宅ですね。主屋は木造二階建ての和風建築に洋風の手法を取り込んだ造りの建物で、いわゆるコロニアルスタイルの洋風ですが、造りの基本は和風寄棟式です。
 間取りは日本的な田の字型で、壁は柱を露出させる旧来の真壁造りとし、床を高くとって、三方にべランダをめぐらし窓には鎧戸をつけ、白い壁面に茶褐色の木部を見せる簡素な設えです。1985年に京都市指定有形文化財に指定されています。

 

 新島襄が本宅とする以前は、1875年に同志社英学校が開校した際に仮校舎として借用した高松保実の邸宅でした。要するに同志社発祥の地であり、現在も同志社大学の資料センターが管理しています。同行者も同志社大学の出なので、この邸宅にセミナーで入った事があるそうです。
 コロナ前は毎年秋に特別公開が行われていたそうですが、現在はずっと中止になっています。

 

 新島襄旧宅の前を過ぎて少し北へ進み、今回の第一目的地である京都市歴史資料館に着きました。

 

 この京都市歴史資料館の特別展示を見に行こう、という思い付きが今回の歴史散策の発端でした。ここで40分ほど特別展示を見学しました。
 個人的に印象に残った展示品は、上図のポスターを飾った、もと上賀茂神社神宮寺の本地仏であった神光院薬師如来立像のほか、方広寺大仏殿遺物の銅製舌、竜安寺の細川昭元夫人像、京都御苑内の公家町遺跡の出土品、の計4点でした。

 

 京都市歴史資料館を出て、近くの寺町御門へ向かいました。

 

 寺町通に面しますから寺町御門の名があるのですが、これと同じ御門が二棟、同じ寺町通に面していて、清和院御門、石薬師御門の名が付きます。それぞれに由来がありますが、今回は散策コースの関係でその二ヶ所の御門へは行きませんでした。

 

 寺町御門です。江戸期の建物のようですが、案内板も解説銘板も全く見当たりませんので、詳細が分かりませんでした。

 

 寺町御門をくぐると、右手に築地塀が長く延びていました。同行者が「京都仙洞御所の築地塀です」と教えてくれました。定期的に一般参観があるようですが、今回は京都御所の一般参観に行く予定でしたので、京都仙洞御所の一般参観は次の楽しみにとっておくことにしました。

 

 京都仙洞御所の西側の築地塀です。通りがどこもこんな広さなので、京都御苑ってこんなに広かったのか、と感心しました。
 京都には子供の頃から縁があり、かつては東山区や南区に住んでいた時期もありましたが、京都御苑にはどうも行った記憶がありません。たぶん今回が、初めての京都御苑だったのではないかな、と思います。  (続く)

 

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戦車工場、作ります!! その15

2021年09月21日 | ガルパン模型制作記

 「我々の機関車」の製作レポートのラストです。塗装は秋に他のキットとまとめて行う予定です。

 

 前照灯、運転室の操作盤、ラジエター、運転室の屋根などを組み立てます。

 

 組み上がりました。

 

 運転室の操作盤、けっこうシンプルです。現在の電車の操作盤とあまり変わらない印象です。

 

 ラジエターを車体前面に組み付けました。エッチングパーツを前面に貼りつけています。

 

 ディーゼルエンジンのフードカバーを取り付けました。

 

 運転室の前面部分を貼りつけました。

 

 運転室はこのような状態で組み立ててゆきました。

 

 運転室が仕上がりました。運転席の丸シートを取り付けると、運転士の位置が分かります。

 

 塗装カラーは何にしようか、と思案を重ねましたが、なかなか良いイメージが湧きませんでした。塗装の段階になったら改めて考えます。

 

 運転席の左右の側壁を組み付けました。運転室のパーツを接着したのはここまでになりました。

 

 屋根と後壁は接着して一体化し、取り外し自在としました。室内の様子を見て楽しめるように、との考えからでした。

 

 ラストの組み立て工程に進みました。梯子と、何のパーツか分からない4つのパーツです。

 

 車体に組み付けました。

 

 組み立てが完了した状態です。右側面観です。

 

 左からの斜め側面観です。

 

 この状態で、西住まほ達によってパンター積載の貨車を牽引して戦車工場内に持ち込まれました。  (続く)

 

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戦車工場、作ります!! その14

2021年09月20日 | ガルパン模型制作記

 「我々の機関車」の制作の続きです。足回りを車体基盤に組み付けます。

 

 組み上がりました。

 

 上面を上にしますとこんな状態です。

 

 さらに車体下部に取り付ける部品を作っていきます。

 

 何かのタンクとボックスのようです。

 

 組み付けました。

 

 続いて車体両端の乗降ステップ、運転室内の部品などを組み立てます。

 

 運転室内の部品のハンドルの幾つかはエッチングパーツを取り付けました。

 

 車体両端の乗降ステップを取り付けました。

 

 車体後端の乗降ステップの拡大図です。これが運転室への乗降ステップとなります。

 

 ディーゼル機関のカバーやグリル、手摺などのパーツを切り出しました。

 

 エンジンフードに組み付けました。

 

 運転室のパーツ群です。

 

 私の製作においては、運転室は全て接着固定せずに、屋根および後壁を取り外せるように細工します。運転室内部も再現されているキットですので、それが見られるようにします。  (続く)

 

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戦車工場、作ります!! その13

2021年09月19日 | ガルパン模型制作記

 西住まほ言うところの「我々の機関車」の制作の続きです。足回りの組み立てに入りました。

 

 左側の車輪などを取り付けました。

 

 右側の車輪などを取り付けました。

 

 車輪のブレーキシューを組み立てます。

 

 組み上がりました。

 

 車輪の連結棒を組み立てました。左右で向きが異なりますが、組み立てガイドの図は左右とも同じになっていました。トランぺッターの組み立てガイド図にはたまに誤記や間違いの図がありますから注意が必要です。 

 

 組み上がりました。

 

 ブレーキシューと連結棒と下部シャーシーを組み付けました。

 

 組み上がりました。続いて前後のスカートのパーツを取り付けます。

 

 前後のスカートのパーツを取り付けました。

 

 車体前後の連結器などの部品を組み立てます。

 

 組み上がりました。

 

 組み立てを進めてゆきました。 

 

 車体前後に取り付ける部品が仕上がりました。  (続く)

 

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戦車工場、作ります!! その12

2021年09月18日 | ガルパン模型制作記

 西住まほが述べるごとく、戦車工場に入ったディーゼル機関車の製作レポートを始めます。まだ未塗装ですので、組み立て工程を順に述べます。 

 

 使用したのは、トランぺッターの00216番のキットです。ドイツ国防軍のディーゼル機関車WR360 C12形です。2020年12月のサークルのクリスマス会合にて先輩M氏に頂いた品です。当時のツィートはこちら

 その後、サークル仲間に聞いたところでは、1/35スケールの鉄道の機関車のキットというのは数が少ないそうで、多くがトランぺッターから出ているそうです。しかもディーゼル機関車というのは今回の品が唯一であるそうです。蒸気機関車や貨車は幾つかのキットが出ているようですが。

 

 それでこのキットは希少品なのだなと知り、しばらく大切に保管していました。2021年2月にガルパン戦車工場の制作を思い立ってフェニックスモデルの鉄道工場のキットを買ったことにより、その中の線路上にセットして楽しめそうだと気付き、作ってみることにしました。

 トランぺッターのキットはこれまでにガルパン車輌の製作でも利用したことがあり、パーツの精度も良くて組み立て易いことを経験していたので、上図の今回のキットの中身を見ても、「あんまり難しくなさそうだな」という第一印象を抱きました。細かいパーツが少ないので、割と楽に作れるかな、と思いました。

 

 右が組み立てガイド、左が塗装見本図です。中国製キットの常で、ガイドは大きな冊子タイプで見易いです。今回は組み立て工程をさらっと紹介するにとどめますので、いつもガルパン車輌の製作記事に入れている組み立てガイド図は省きます。

 

 最初は足回りの基部から組み立てました。左右2組を順番に作る流れで、まずは右側の基部を組み立てました。

 

 組み上がりました。

 

 続いて左側の基部を組み立てました。部品は殆ど共通で、一部のパーツが異なるだけでしたので、組み立て手順はほぼ同じでした。

 

 組み上がりました。上図でパーツの1個を未接着のままにしていますが、これは上にくっつける車体パーツとの繋がり方が分からなかったため、取り付けを保留にしたのでした。

 

 続いて左右の基部を軸で繋いで組み合わせました。

 

 複雑そうに見えましたが、軸に左右の基部の穴を通す、というだけの作業なので、組み合わせに3分もかかりませんでした。軸部は未接着にして車輪が回るようにしましたが、後で接着固定したほうが良いことに気付き、固定しました。

 

 車輪を組み立てます。この機関車の車輪は3つが連結棒で繋がって回る連結駆動車軸のタイプです。

 

 組み上がりました。

 

 連結棒のクランクなどのパーツを組み立てます。

 

 組み上がりました。  (続く)

 

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戦車工場、作ります!! その11

2021年09月17日 | ガルパン模型制作記

 西住まほ言うところの「我々の機関車」が、建設中の戦車工場に到着しました。パンターG型を積んだ平積貨車1輌を牽引して、はるばる熊本から回送してきたようです。・・・って、ここ戦車工場の所在地ってどこ・・・?

 

 真面目に解説する西住まほ。その述べるところによれば、これはもともと黒森峰女学園の保有車輌の一つであるようです。第二次大戦中にドイツ国防軍が使用したディーゼル機関車の1種です。その1/35スケールキットがトランぺッターから出ています。

 

 早速、みんなが見にやってきました。感動気味に驚いている西絹代、自チームの蒸気機関車K-2形と早速比較していますが、そのK-2形の1/35スケールキットがあればなあ・・・。

 

 ケイが「結構大きいね」と言ったのに対して、西住まほが「これでも小型に属するけどな」と返しています。確かにドイツ国防軍が使用したディーゼル機関車のなかでは小型に属します。標準型とされたWR360-C14の車長を縮め、重量を2トン軽くしたのがこのWR360-C12です。小型に属しますが、カール自走臼砲の牽引も可能だったそうです。

 

 ケイが言う通り、この平積貨車にはシャーマンが2輌ギリギリで積めます。ちょっとはみ出しますが・・・。アンチョビが言う通り、アンツィオの車輌はP40、M41、CV33の3種類とも積めます。これもちょっとはみ出しますが。CV33だけならば横に並べて6輌積めます。

 

 一応、運転室のインテリアも再現されていますので、屋根および後壁は取り外せるようにしてあります。多様多種の操作器がゴチャゴチャと並ぶ蒸気機関車に比べれば、ディーゼル機関車の操作器は少ないです。現在の電車の運転席の様子とあまり変わりません・・・。

 この「我々の機関車」WR360-C12の製作レポートは次回より。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く21 その14  金谷駅まで

2021年09月16日 | ゆるキャン△

 アプトいちしろキャンプ場の近くの川原敷きで弁当を食べた後、もと来た道を引き返し、上図の小山トンネル南のあの場所を通って、千頭駅へと向かいました。天気は曇に転じていて、雨の不安は無かったものの、晴れ間がなかなか戻らなかったので、両国吊橋へ立ち寄るのも止めておきました。

 

 千頭駅前に着いたのが13時30分でした。駅の横の駐輪場に上図のようにビーノを入れて、原作コミック第10巻95ページ3コマ目の志摩リンの真似を楽しみました。付近はトーマスフェアで賑わっていて、出店も並んでいたので、おやつ代わりにやきそばを買って、駅前のベンチで食べました。

 それからビーノ返却前のガソリン補給を行うべく、県道77号線へ再び走り出し、大井川に架かる川根大橋を渡って東岸に移動、県道77号線を南へしばらく走って出光石油のガソリンスタンドに入りました。ガソリンを満タンにして引き返し、再び千頭駅前に戻りました。

 

 「カーケア中原」に戻ってビーノを返却したのが14時17分のことでした。この日は定休日でお店も閉まっていて、朝の貸し出し手続きの際に説明された通りに、返却の連絡を電話で入れました。指示された場所にビーノのキーを入れて、返却は完了となりました。

 

 お世話になったな、志摩リンビーノ。

 

 今回の利用時に、色々と不具合が見られたので、それらを後で連絡して報告しておきました。走り出すとすぐに水温警告灯が点滅する、赤信号などで停止すると途端にエンストする、片方のブレーキが弱くてほとんど効かない、等でした。

 もともと中古車をレストアしたものなので、そうした不具合はある意味仕方のないことだったと思いますが、お店の方は「ご指摘ありがとうございます。ご心配をおかけしてしまいすみませんでした。安全走行できるように点検し直しますね」と答えて下さいました。話によるとエイブのほうにも何かしらの不具合が発見されたそうで、2台とも再点検してきっちり直します、との事でした。

 

 なので、再度ここでレンタル利用する機会があったら、そのときは調子が良くなっている事でしょう。再び乗って、井川や畑薙まで行けたらな、と思います。

 

 ところで、朝にはビーノと並んでいたエイブの姿がどこにも見当たりませんでした。私と同じようにレンタル利用している方がどこかを走っているのだろうか、と思いましたが・・・。

 

 斜め向かいの「カフェうえまる」の店先に展示されていました。

 

 こんな感じで置かれてありました。後で知ったのですが、「カーケア中原」が定休日のときは、ビーノやエイブを向かいの「カフェうえまる」の店先にて展示している、ということでした。つまり、エイブのほうはこの日はレンタルされていなかったわけでした。

 次回の機会には、こっちのエイブを利用するのもいいな、畑薙まで行くなら燃費の良さそうなこっちの方が良いかもしれないな、と考えたりしました。

 

 千頭駅前に戻り、向かいの「川根物産店」にて前回もいただいた川根茶ソフトを買いまして・・・。

 

 東の大井川堤防上、原作コミック第10巻97ページ4コマ目で志摩リンが腰かけていた位置に座って、食べました。時刻は14時24分、帰りの列車の時刻まで18分しかありませんでした。

 上図の左奥に見える橋は、県道77号線の川根大橋です。千頭駅周辺のガソリンスタンドは2ヶ所とも大井川の東側に位置するので、ガソリンを補給するなら川根大橋を渡って行く必要があります。

 

 14時42分発の列車に乗るや、疲れが出たのかストンと寝てしまいました。目が覚めたら新金谷駅を発車したところでした。その数分後の15時57分に金谷駅に到着、トーマスフェアからの大勢の帰り客の波に押されるようにして下車しました。乗ってきた列車は、上図の旧南海電鉄21000系ズームカーでした。

 

 隣のJR金谷駅からは16時14分の普通列車に乗って掛川まで移動、16時36分発の新幹線こだまに乗り換えました。さらに名古屋で17時41分発ののぞみに乗り換えましたが、いずれの席においてもウトウトしっぱなしでした。

 やっぱり、夏の暑さのなかを原付バイクで接岨峡長島公園までの往復、述べ4時間近く走り、さらに八橋小道の約2キロを歩くというのは相当の気力、体力が必要だったのでした。18時15分に京都駅に着くまでも熟睡していて、危うく乗り過ごすところでした。

 なので、さらに井川や畑薙まで行くのがどれだけの気力体力を要するかは、容易に想像がつきました。今回の巡礼コースは、畑薙までの片道距離の半分以下であったのですから、次の巡礼計画は慎重に練る必要があるなあ、と思いました。いつかまた、大井川鉄道エリアへは、必ず行く積りなので、楽しみもまだまだ一杯あることでしょう。

 以上で巡礼三日目のレポートを大井川吊橋巡り八橋小道編として括って終わります。  (了)

 

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