気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

ゆるキャン△の聖地を行く33 その8  滝沢ダムの下へ

2023年09月30日 | ゆるキャン△

 「大島屋」を出て、三峰神社の正参道筋を戻りましたが、分岐の上にもう一軒の売店兼食事処の建物「山麓亭」がありましたので、立ち寄って土産物を幾つか買いました。正式名称が「お犬茶屋山麓亭」なのですが、「お犬」とは三峰神社の守護神のことかとお店の人に尋ねたところ、「そうです、山犬様です」と答えてきました。

 江戸期までの日本人は、ニホンオオカミを「山犬」と呼んで他の犬とは区別していた事が、奈良県や岡山県の山間部の記録や伝承などで伺えますが、ここ埼玉県秩父においても同様だったのだろうな、と納得しました。

 三峰神社においては、祭神の日本武尊が秩父を訪れた際に、ニホンオオカミが道案内をつとめたと伝えて、祭神の眷属としてオオカミを祀っています。別伝では、三峰山中興の祖、天台宗系の山岳修験者だったとされる月観道満が初めて三峰山に来た際にもニホンオオカミが道案内を務め、やがて月観道満になついて群れで月観道満を護ったといいます。月観道満が三峰山の復興をなすべく全国各地へ行脚し、帰ってくると必ずオオカミたちが出迎えたそうです。

 これと似たような話を、奈良に住んでいた頃に大台ケ原登山に行った時に聞きました。奈良の秘境とされる大台ケ原を開いた神道系修験者の古川嵩(ふるかわかさむ)が初めて大台ケ原に入った際に、ニホンオオカミの夫婦が道案内をし、仲良くなって山の洞窟で共同生活をしたといいます。古川嵩はニホンオオカミの雄を「剛太(ごうた)」、雌を「えい子」と名付けて可愛がり、彼が山の中を跋渉する際にはニホンオオカミの夫婦も一緒であったため、熊や他の獣が絶対に近づかなかった、ということです。日本の百獣の王だったニホンオオカミが古川嵩を護っていたわけですから当然ですね・・・。

 これとよく似た話は、奈良県の吉野地方に多く伝わっていて、伝記本や証言集も幾つかまとめられています。これらに共通する内容は、ニホンオオカミは人間を護ってくれた、というものです。ニホンオオカミが生きていた頃は、村で飼っていた獰猛な土佐犬でさえ、夜にオオカミの遠吠えを聞いただけで怯え、怖がって村人に家の中へ入れてくれと泣き喚いたほどで、他の獣たちは勿論、大きな熊でさえも逃げ出していった、ということです。それで田畑の作物が食い荒らされることもなかったため、農業安全の神様として「山犬様」を祀ったケースも少なくなかったそうです。

 また、人間が山の中で道に迷い、オオカミに出会ってしまったが、オオカミは人間に近寄ってある方向を向いて吠え、里までの道案内をしてくれた、という話は結構多かったようで、「送りオオカミ」という言葉もそこからきています。オオカミは人間に危害を加えるどころか、人々を護り、導いてくれる有り難い存在でした。道案内された人々は、お礼として必ず塩を玄関口の外に積んでおいたそうです。オオカミがそれを舐めにきて、山では摂れない塩分を補給して帰って行った、ということです。

 オオカミを漢字で描くと「狼」ですが、その字の意味は「良い獣」です。日本人が「狼」と表記したところに、ニホンオオカミの本質が良く表れていると思います。三峰神社の守護神となっている点も、かつて秩父山系に生息していたニホンオオカミが、三峰山の信仰に関わる人々を護ってくれた歴史にちなむのでしょう。

 

 三峰神社には12時過ぎまで滞在しました。そののち駐車場に戻って車に乗り、もと来た県道278号線を引き返して下山、上図の二瀬ダムを渡りました。その手前で信号待ちをしていた際に撮りましたが、志摩リンはもう少し上の方のカーブ辺りから同じ二瀬ダムを見ていたシーンが描かれます。

 

 このシーンですね。同じカーブを私も走りましたが、車を停めて同じアングルを撮るのは無理でした。前にも後ろにも車がいたのと、車を停められるような場所が全く無かったからです。

 

 信号待ちをしていた際に撮った、秩父湖の景色です。

 

 信号待ちしていた場所の前方の景色です。二瀬ダムの上の道路が一車線しかないため、信号にしたがって交互に通る形になっていますが、信号の青の点灯時間が短くて、数台が通っただけで直ぐに赤になってしまいます。土日祝日の大渋滞の原因の一つが、この二瀬ダム通行区間の信号だろうと思います。

 

 で、上の標識の左の「栃本」が、今回甲府から移動してきたルート上の集落の名前で、これから行くのは右の「秩父甲府」方面への国道140号線でした。国道140号線は秩父往還とも呼ばれ、次の分岐で甲府方面へ左折しました。

 

 12時31分、上図の地点に着いて、標識にしたがって左へ折れ、広い駐車場へと下りました。

 

 広い駐車場には車が一台も無く、上には国道140号線の大きなループ橋、奥には滝沢ダムが見えました。

 

 その奥へ道路は続いていますが、上図のように車止めが設けてあって、車は進入禁止となっていました。作中で志摩リンもここに来ていますが、原付ビーノですから奥の道路へ入っていけたようで、その先の広場まで行ってダムの写真を撮っています。
 ですが、私はそこまで行けませんので、どうしたものか、と考えました。滝沢ダムまではまだ距離があり、歩いて行くと時間がかかりそうなので、ダムの方から回ることにするか、と決めました。

 

 この下流広場の駐車場、車で埋まる時はあるのだろうか、と思いました。奥の山肌に見える白いコンクリートの線が、走って来た国道140号線です。

 

 近くに案内板がありましたので、現在地周辺の地理を確かめるべく近寄りました。

 

 これで見ると、志摩リンが行った滝沢ダム下流広場とは、ダムの真下にあたるエリアだと分かります。私の居る位置が右の「現在地」で、300メートル以上離れています。往復で600メートルなら、ちょっと歩けば行けるな、と思いつつ、隣の滝沢ダム案内板を見ると・・・。

 

 上図によって、ダム真下の歩行者ルートつまり下流広場エリアまで、ダム堰堤上からエレベーターで行けることに気付きました。そうか、志摩リンが行こうとして「ぐぬぬ」となったエレベーターはこれか、と気付きました。

 その場で滝沢ダム管理事務所に電話で問い合わせて、この日はエレベーターが利用出来る事を確認しました。よし、これで下流広場へはダム上からエレベーターで行ける、と思いました。とりあえず車に戻って、上の滝沢ダムまで行くことにしました。

 

 志摩リンは、エレベーターが使えなかったために国道140号線を下へ降りてループ橋を渡り、私が居る地点まで来てそれからダムの真下まで移動したわけです。
 そのルートは上のマップでも把握出来ましたが、それ以上にびっくりしたのは、ループ橋の名称が「雷電廿六木橋」であることでした。読みは「らいでんとどろきばし」です。すげえ名前だなあ、雷がとどろく中を走るってわけか、と感心してしまいました。  (続く)

 

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魅惑の醍醐寺4 醍醐寺北門付近

2023年09月29日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 理性院を辞して、総門前の道に出て左、北へと進んでみた。現在の醍醐寺境内地の北限となっている、北門まで行ってみたくなったからである。

 

 創建以来の醍醐寺伽藍には、東、西、南に門があって正式に東大門、西大門、南大門と呼ばれたが、北の門については史料上に名が見えないので、格式ある門が設けられなかった可能性が高い。有ったとしても、通用門程度の施設にとどまっていたかもしれない。

 現在は、上図のような状態で二本の柱が建てられるのみで「北門」とされているが、昔からこのようなシンプルな施設だったのではないか、と思う。醍醐寺境内地の北は皇族の陵墓地が並ぶので、現在のように北へと伸びる道が存在していたかは不明である。

 

 北門から引き返して南へと歩いた。左手には上図のように土塁状の高まりが続いているが、これはかなり古くからの施設であるらしい。その内側には、江戸期の「山城名勝志」に「下醍醐寺四十九院アリ」と述べられる四十九の子院のうちの二つが存在していたという。

 

 その二つの子院とは、11世紀後半期から12世紀前半期にかけての頃に建てられた蓮蔵院、13世紀前半期に建てられた地蔵院、を指す。上図の広大な跡地の手前が地蔵院跡、その奥が蓮蔵院跡にあたる。その奥に見える鳥居は醍醐寺のかつての鎮守とされた長尾天満宮のそれである。

 

 御覧のように、一帯の木は全て伐採され、長尾天満宮の参道筋までが広々として見渡せる。その奥の金堂の屋根も見えるが、この状態は発掘調査前の様子なのかな、と思った。それにしては何も事前公表の情報または資料が見当たらないので、なぜ広範囲にわたって伐採されているのかは分からなかった。

 

 三宝院の唐門の前まで戻った。この門は豊臣秀吉が「醍醐の花見」を催した翌年の慶長四年(1599)に建てられたもので、桃山時代を代表する形式と意匠を示す。「菊」と「五七の桐」の4つの大きな紋には金箔が施されており、これは表も裏も同じである。

 

 駐車場へ引き返す途中で、霊宝館の門前にある立て看板の案内に気付いた。

 

 この日は霊宝館の庭園と仏像展示館が無料で公開されているのであった。これはラッキーだな、と思って立ち寄ることにした。

 

 醍醐寺の霊宝館は、公立博物館なみの立派な施設群で知られ、中には醍醐寺文化財研究所も含まれる。九世紀の上醍醐創建以来の長い歴史にともなう膨大な寺宝、文化財群の調査保存、収蔵展示を担う施設であり、京都の古寺の霊宝館としては最大の規模とされる。昔は古い建物だったが、近年に大幅な建て直しが行われて見違えるようになった。

 

 この日は霊宝館の本館および主展示館は閉められており、南側奥の上図の仏像収蔵庫だけが公開されていた。醍醐寺に伝わる古代からの仏像の主な遺品がおさめられており、私にとっては大学生の頃から学び、調べて見慣れた像ばかりであった。平成10年に訪れて以来だったが、仏像のいずれも変わらぬ表情と姿とを保ち、私だけが年を取って変わったかなあ、と思い知らされたのみであった。

 しかし、醍醐寺が私にとっては京都の平安時代の歴史を実感させる第一の魅惑の古刹である点は変わらない。その尽きせぬ魅力を、京都に居る今の時期にこそ、一度は追いかけてみるべきかもしれない、と改めて思う。若い頃から何度も歩いた上下の伽藍を再び巡って、現在の私なりに色々考察してみるのも面白いな、と考えて、とりあえずは醍醐寺のレポートを「魅惑の醍醐寺」と題して綴り始めている次第である。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く33 その7  大島屋のわらじカツ丼

2023年09月28日 | ゆるキャン△

 三峰神社鳥居前の「大島屋」にて昼食休憩をとりました。上図の座敷席につきました。

 

 原作コミックの作中で志摩リンがついていたのも座敷席で、窓ガラス越しに秩父山系の景色が見えるのも同じでした。

 

 私の位置は座敷の一番奥でしたから、右横を見るとこんな感じでした。上図右手前の長机が、志摩リンの居た席であるようです。

 

 作中での室内の描写はこんな感じで、ゆるキャン特有の広域ワイドレンズのような切り取り方で描かれますが、実際の状況をほぼ忠実に写し取っています。

 

 で、今回注文した、「大島屋」名物メニューの「わらじカツ丼」。本当にわらじサイズのカツが2枚、コミックの描写そのままに出てきました。

 

 原作コミックの作中でもほぼ一致する外見です。味噌汁と漬物がついて1100円ですが、これは安いと思います。

 

 下の御飯が全然見えない大きなわらじカツですが、実は厚みがなくてハムのように薄いのです。

 

 志摩リンの感想でも、私が思ったのと同じ内容が述べられています。すごいボリュームに見えたけれど、ハムカツぐらいの薄さに伸ばしてあるので、あれっ、と思いましたが、薄いので食べやすくて、サクサク感も強めでした。

 

 大きくて薄いので、ワラジのようであるわけですね。だから「わらじカツ丼」なのだな、と納得しました。カツが薄いので熱がよく通って、そのぶんカツの旨味も濃くなっているのです。それを2枚もいただくのですから、けっこう食べごたえがありました。美味しくいただきました。

 

 精算時に見た、お店のメニュー一覧です。どうやら、主力はそば、うどんであるようで、ご飯ものが「わらじカツ丼」と「カレーライス」の2種類だけでした。
 それでお店のおばさんに「人気のメニューはどれですか」と聞きましたら、「季節によりますわねえ、いまの暑い時期は「ざるそば」がよくいけますわね」との答えでした。「わらじカツ丼」は、価格が一番高い事もあって、まあそこそこに、との事でした。

 

 物販コーナーで、嫁さん向けのお土産を幾つか買いました。現地はサツマイモやジャガイモの産地が近いためか、ポテト関連の品が目立ちました。志摩リンの見た「みそポテト」は、ジャガイモを七輪で炙った後に天ぷらにして揚げて、味噌をつけて売るものなので、常時販売する商品には含まれていないそうです。

 

 嫁さんも私も大好きな蕎麦が豊富にありましたので、上図に見える3種類を全て買いました。嫁さんは管理栄養士なので普段の食事の材料には細かい配慮を施す傾向がありますが、この種の特産物系の食材には目がなくて何でもオーケー、というところがあります。が、私なりに裏面のラベルの記載もきちんと読んで、余計な添加物などが含まれていないものを選びました。

 

 志摩リンが見て悩んだ「みそポテト」は、実際に秩父エリアのB級グルメなので、地元の屋台専門の業者が時々出張販売で回っては祭礼やイベント時に売るケースが殆どだそうです。なので、大島屋でも他の売店でもあまり扱っていない、との事でした。
 ゆるキャン巡礼で訪れて「みそポテト」に出会えるかどうかは、屋台が出ているかどうかによるわけです。

 

 その代り、店先には上図のみそポテトチップもありました。秩父B級グルメの金文字が目立っていました。原料の「借金なし味噌」とは、秩父地域の在来種である「借金なし大豆」を用いた味噌のことです。

 「借金なし大豆」とは、植えれば植えるほど実がなり、借金を返すことができた、という縁起の良い大豆で、ほのかな甘みが特徴です。 昔ながらの製法で作っているため、麹が残っていたりして風味も味わいがあるそうです。それをジャガイモの天ぷらに付けて食べるのが「みそポテト」であるわけです。

 志摩リンは「どんな味なんだこれ」と言っていますが、私自身は、京都丹波の豆麹味噌に近いんだろうな、と想像しました。今までに全国各地で色んな味噌を味わってきていますが、味噌にマズイものは無い、日本人の伝統食であるのだから、どこでも味に磨きがかかっている、と思います。
 だから、「みそポテト」も旨いのだろうな、と思いますが、残念ながら今回は実食の機会がありませんでした。  (続く)

 

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サンダース大学付属高校 M4A1シャーマン76mm砲搭載型 作ります!! その2

2023年09月27日 | ガルパン模型制作記

 ステップ7では車体下部を組み立てます。ステップ8にてエアクリーナーを組み立て、ステップ9にて車体背面に取り付けます。ここではステップ7にてガルパン仕様への追加工作を行ないます。

 

 ステップ7で組み立てる車体下部のパーツ類です。御覧のとおり箱組みとなります。このうちの背面部にあたるパーツE4にて外側の穴を埋める指示がありますが、不要パーツのE7を活用して、まず組み付けて不要部分をカットする、という方法で穴を埋めました。
 さらにガルパン仕様への追加工作として、E4のハッチ口の左右にある三角の突起をカットしました。劇中車にはこの三角の突起が無いからです。

 

 組み上がりました。

 

 底面を上にして、各所にズレや隙間が生じていないかを確認しました。

 

 続いて下部車体の各所に取り付ける小部品を準備しました。

 

 ガイド図の指示に沿って、順に取り付けてゆきました。

 

 組み上がりました。背面のハッチも仕上がりました。ここでふと思ったのは、インテリアパーツのエンジンとかが有れば、このハッチも開閉自在にしただろうな、ということでした。

 ガルパン車輌の適応キットのなかには、内部も作りこめるフルインテリアキットが幾つかあります。個人的にフルインテリアキットに興味があるので、これまでに幾つかの車輌をフルインテリア仕上げで作っています。多くは軽戦車ですが、中戦車以上もプラウダ高校チームのT-34を作りました。

 今後の予定としては黒森峰女学園チームの戦車をフルインテリア仕上げで作りますが、それとは別に、サンダース大付属高校チームの車輌も1輌ぐらいは作ってみたい気がします。しかし、その公式キットおよび適応キットには、残念ながらフルインテリアキットが出ていません。そもそも、米軍戦車の1/35スケールのフルインテリアキットは、ライフィールドモデルのM3A3ぐらいしか出ていません。

 

ステップ8に進み、エアクリーナーを組み立てました。

 

 ステップ9にて、エアクリーナーを車体背面に組み付けました。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く33 その6  三峰神社鳥居前の大島屋へ

2023年09月26日 | ゆるキャン△

 三峰神社の奥宮遥拝殿からの景色です。右に聳えるゴツゴツした山が、奥宮が鎮座する標高1329メートルの妙法ヶ岳です。奥宮までは参拝用の登山道が通じていて、約1時間で登れるそうですが、険しい山道や岩の急斜面に鎖が備え付けてある鎖場もあって、登山用の装備で行くことが勧められています。

 似たような登山ルートの霊山として、鳥取県の三仏寺を思い出しました。20代後半の頃、鳥取市に住んでいた時期に、麓の境内地へは何度か行きましたが、奥の院である投入堂までの遥拝登山は一度だけしか体験していません。山道が険しいのと、鎖場が幾つかあるのと、悪天候や雨天の後は立ち入り禁止になるため、なかなか機会が得られなかったからです。そして本格的な登山装備で登りましたが、それでも何度か危ないポイントがあって怖い思いをしました。
 その記憶を辿りつつ、ここ三峰神社奥宮への登山の大変さも似たようなものだろうな、と思いました。

 

 奥宮遥拝殿から引き返して参道筋へと向かいました。鳥居の奥に随身門が見えました。よく見ると、上図の鳥居はこちらが本来の正面であったことが扁額の向きで分かります。本来はここから三峰神社境内地に入っていたのか、と理解しました。

 上図には写っていませんが、鳥居の手前右側にかつての表参道の山道がとりついていて、それが昭和の初め頃までの正参道であったため、参詣者の大半はこちらから境内に入っていたそうです。現在も参拝登山道として使われていて、登山客が何人か登ってきていました。

 なので、現在の三ツ鳥居が建つ正参道は、戦後に観光駐車場が設けられてからのルートであるのか、と推測しました。後で三峰山博物館にて話を伺ったところ、いま観光駐車場となっている地域には、江戸期までは神社の奉仕田畑や社家が並んでいた、との事でした。現在の三ツ鳥居は戦後の建立だが、それ以前の古い木造の鳥居がやや奥にずれた位置にあったそうで、つまりは神社に奉仕する人々の道の通用門であったらしい、ということでした。

 

 なので、現在の三ツ鳥居が新しい感じがするのも納得出来ました。柱裏の奉納銘文を確かめると、昭和42年の寄進建立とありました。寄進元は横浜の三峰講のひとつ「魚又講」である事も分かりました。鳥居前の「お犬様」ことオオカミ像も同時期のものかと思いましたが、台座の奉納碑文には昭和45年の建立とありました。

 つまりは戦後に現在の観光駐車場が整備されて、参詣者の大半がそちらから入るようになって正参道が奥宮遥拝殿脇からの旧ルートよりこちらに変更になった後に、この三ッ鳥居とオオカミ像が相次いで寄進建立された、という経緯であったようです。
 だから、現在は地形的にもいったん登ってから左折して下って随身門に至るという、神社にはあまり見られない変則的な参道コースになっているわけです。

 

 三峰山博物館に立ち寄ってかつて諸建築に祀られていた仏像等を見学しました。三峰山博物館は、秩父宮ゆかりの建物ということもあって内部は撮影禁止でした。それで、外観も撮り忘れましたが、まあ良いか、でした。その代わりに、上図のごとく三ツ鳥居の前にて記念の自撮りをやりました。それだけでもう、大満足でした。

 三峰神社、大変に興味深くて面白く、そして心が洗われる清浄の聖域でした。ゆるキャン聖地巡礼でなくても行く価値は大いにあります。関東では人気のパワースポットだというのも、境内に居る間はずっと不思議な「気」に包まれていた感じを強く持ったので、よく理解出来ました。仏教で言うところの「山中他界」の好例でありましょう。

 

 鳥居前の売店、大島屋に立ち寄って昼食休憩をとることにしました。志摩リンもここに立ち寄っているからです。

 

 志摩リンが見つけた名物「みそポテト」の販売コーナーはお休みでしたが、上図のように作中そのままの外観でした。

 

 内部は手前が物販コーナー、奥が食事処になっています。入って正面の奥は御覧のようにテーブル席が並びます。

 

 そして左奥には座敷席があります。志摩リンが食事をとったのも座敷席なので、そちらへ移動しました。

 

 座敷席の外にはベランダがあり、そこにもテーブル席が設けられています。秩父山系の景色を眺めながら食事が楽しめます。

 

 ですが、この日は気温が高めであったためか、ベランダのテーブル席はガラガラで、客の殆どは室内のテーブル席についていました。そこが、室内エアコンに近い範囲であったからでしょう。  (続く)

 

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魅惑の醍醐寺3 醍醐寺理性院にて

2023年09月25日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 醍醐寺理性院の今回の特別公開は、本堂と客殿のみに限られ、上図の客殿から西の建築群は含まれなかった。それで見学はだいたい客殿が中心となっていて、拝観客の多くが客殿に集まっていて、順に係員の説明を聞いていた。

 

 というのは、客殿の四つの部屋のなかで最高格式をもつ上図の「上段之間」の障壁画が、近年の研究によって狩野探幽の筆であることが確定しており、普段は公開されないその現存遺品を見られる稀有の機会であったからである。

 理性院はふだんは非公開であるため、その客殿に狩野探幽の障壁画が伝存している事自体があまり知られていない。私自身は醍醐寺の最高バイブルとされる岩波書店の「醍醐寺大観」全3巻を一時期所蔵して、醍醐寺へ拝観に行く度に予習のために常に開いて読んでいたため、理性院のことも、客殿に残る狩野探幽の障壁画のことも、一応は知っていた。だが、実際に見ることが出来たのは今回が初めてであった。

 

 理性院は、三宝院の北に隣接する醍醐寺子院の一つで、真言宗醍醐派の別格本山である。もと醍醐五門跡の一つとして、小野六流中の理性院流の本寺でもあり、山内有数の子院の一つとして知られている。

 

 その創建は、醍醐寺の根本文献史料である「醍醐寺新要録」によれば、賢覚法眼(1080~1156)が父親の賢圓威儀師の住房を寺としたのに始まるという。つまりは12世紀前半の頃であるが、当時の寺地は、醍醐寺内の別の場所にあったらしい。江戸期に現在地に移転し、その際に本堂と客殿が再建されたという流れであるらしい。

 

 本堂の外回りを回った。江戸期には「太元堂」と呼ばれたといい、上図のように仏堂というより住房建築のような形式で造られ、室町期以降に多い障子と格子板の組み合わせで南辺が仕切られる。

 

 内部は撮影禁止であったので、外観を撮るにとどめたが、それでも見どころは多かった。古式の要素が色濃く、室町期の建築の残り香を見ているような気分であったが、実際には江戸期の慶長十七年(1612)の建立である。

 

 本堂内部は後世の改変が加えられているものの、真言密教の修法空間を最低限必要な規模にて整備している。秘仏の大元帥明王を安置する厨子は、唐破風屋根をもつ宮殿形であり、その前に護摩壇が置かれる。内陣は三間に分かれて、東の間には不動明王坐像が安置される。

 この不動明王坐像は、平成元年に文化庁の重要社寺調査により平安期12世紀代の遺品であることが判明し、ただちに重要文化財に指定されている。

 

 本堂を出て客殿に戻る際に、撮った図。嵯峨大覚寺の伽藍のミニチュア版だな、と感じたほどに雰囲気がよく似ているのは、同じ真言宗の寺だからだろうか。

 

 山門を辞して一度振り返ると、前から少し気になっていた、奥の二階建ての建物が見えた。客殿の拝観時にも奥に見えていたので、おそらくは理性院の関連建築だろうと思われるが、詳細は不明である。

 

 醍醐寺の境内においては、近年のコンクリート施設関連を除けば、二階建ての建物というのは他に無いので、とにかく目立つ。あの二階に登ったら、醍醐寺境内一円を見渡せて綺麗な景色が見られるだろうな、と思った。御覧のように雨戸が閉じられているので、普段は使われていないようであるが、それにしても気になる建物であった。  (続く)

 

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サンダース大学付属高校 M4A1シャーマン76mm砲搭載型 作ります!! その1

2023年09月24日 | ガルパン模型制作記

 私のサンダース大付属高校チーム車輌製作の14輌目は、上図のアスカモデルのM4A1シャーマンにしました。アリサ搭乗車の劇場版仕様で、最終章でもそのまま出ています。
 アリサ搭乗車に関しては、既に2016年7月に劇場版仕様を、2017年12月にテレビ版仕様を作りましたので、アニメ版の2種類の仕様は再現し終えているのですが、アスカモデル製品の公式キットを作ってみたくなったので、今回チャレンジしてみることにしました。

 私の製作においてはサンダース大付属高校チームのシャーマン系列は7輌を仕上げましたが、シャーマン愛に溢れたメーカーとして知られるアスカモデルのキットを使用したのは1輌のみでした。もっと色々アスカモデルのキットを試そうと計画していた身としては、それがちょっと心残りでした。
 なので、2022年4月に中古ショップでたまたま上図のキットを見つけ、2000円で購入して、これでアスカモデルのキットを楽しもうと考えたわけでした。

 

 中身は、アスカモデルの一般的な部品構成としてキット専用のランナーと共用パーツのランナーが入っており、他車輌との共用パーツは、単品で販売されているものと同じです。ガルパンのサンダース大付属高校チームの車輌の再現には欠かせない重要なパーツが色々含まれますので、以前から重宝しています。

 

 プラッツ発の公式キットですので、説明書および組み立てガイドの表紙は、いつものガルパンコミック1ページです。

 

 今回のキットは、だいたい劇場版の劇中車準拠ですが、細部はガルパン仕様での相違点が幾つかあります。制作の段取りは2016年7月に劇場版仕様を製作した際の流れとほぼ同じになりますので、ガルパン仕様への追加工作もほぼ共通となります。

 ステップ1ではベルト式履帯を作ります。ステップ2からステップ4までは車輪類の組み立てを行ないます。全てガイドの指示通りに進めます。

 

 ステップ1の履帯の組み立ては後送りにして、ステップ2からステップ4までの工程をまとめて行うことから始めました。関連のパーツを全て切り出して並べて準備しました。

 

 一気に組み上げました。ガルパンのシャーマン系列は足回りがほぼ共通ですので、タミヤやドラゴンのキットで作っても作りは同じです。アスカモデルのパーツは精巧でパーツも細分化されていますが、組み立てそのものはスムーズに進みます。

 

 ステップ5ではボギーを組み立てます。ガイド図では発砲ゴムシートとスペーサーAの選択制になっていますが、サスペンションを固定したいので、スペーサーAを使用します。
 ステップ6ではデファレンシャルカバーを組み立てます。

 

 ステップ5で組み立てるボギーの各部品です。一見すると難しそうなパーツ構成ですが、何度も作っているので慣れています。コツさえ掴めれば、そんなに難しくはありません。

 

 慣れれば、1個を仕上げるのに1分もかかりません。

 

 全6個のボギーが仕上がりました。左右で向きが異なるので、間違えないように並べて保管しました。

 

 ステップ6で組み立てるデファレンシャルカバーのパーツ群です。デファレンシャルカバーという専門用語は、実はアスカモデルのキットで2016年8月に初めて作ったシャーマン・ファイアフライ(劇場版仕様)の製作時にガイド図にて知りました。そういう専門用語は、他社キットのガイド図ではなかなか見かけないからです。

 アスカモデルのガイドでは、普通にシャーマン系列の各部の名称が出ていて参考になります。タミヤやドラゴンの説明ガイド図にはない、アスカモデル製品の魅力の一つです。流石にシャーマン愛に溢れるメーカーさんです。

 

 組み上がりました。細かいパーツでも組み付けやすく、楽に仕上げられるのも、アスカモデル製品の魅力の一つです。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く33 その5  三峰神社の奥宮遥拝所

2023年09月23日 | ゆるキャン△

 三峰神社境内の諸建築を見てゆくなかで、特に印象に残ったのが上図の国常立神社の建物でした。江戸期の宝暦十一年(1761)に別当寺院観音院高雲寺の護摩堂として再建され、本地堂とも呼ばれて本尊の不動明王像を祀っていました。神仏分離の際には建物の用途を変更したのみで、仏像は降ろして蔵にしまい、堂内に神棚を設けて神社の型式となり、いまに至っています。

 

 国常立神社の南には、小さな祠がずらりと並びます。摂末社であり、名札を見てゆくと日本武神社、伊勢神宮、月讀神社、猿田彦神社、塞神社、鎮火神社、厳島神社、琴平神社、屋船神社、稲荷神社、浅間神社、菅原神社、諏訪神社、金鑽神社、安房神社、御井神社、祓戸神社、春日神社、八幡宮、秩父神社、大山祇神社とあって、日本中の代表的な神社が集まっているのでした。

 その南端に大きな上図の社殿があり、現在は東照宮となっています。三峰神社を崇拝した徳川家が寛永元年(1624)に徳川家康を祭神として祀ったのに始まりますが、その社殿の上舎は、室町期に月観道満によって再建された旧本殿の建物を転用しています。三峰神社に現存する最古の建築遺構として、埼玉県の有形文化財に指定されています。

 現在の本殿は、遠くから見ても大きく見えますが、実際に旧本殿よりも大きく造られています。逆に旧本殿はこじんまりとしていて、建物も意匠もシンプルです。室町期当時の三峰神社が質素であった様子をうかがわせますが、江戸期の再建事業による現在の建築群がいかに徳川家好みの豪華さに包まれているかがよく理解出来ます。

 

 東照宮を過ぎるともとの参道筋の辻に着きますが、そこから分かれて上図の奥宮遥拝殿への石段を登りました。この範囲はゆるキャン原作コミックにも登場し、志摩リンが石段を駈け下りるシーンが描かれます。

 

 上図の右のコマですね。ゆるキャンコミックに登場した三峰神社関連の施設は、三ツ鳥居とこの奥宮遥拝殿の二ヶ所だけです。随身門から拝殿、本殿に至る建築群はなぜか描かれていません。

 

 とりあえず、志摩リンが見た景色を見ておこうと、奥宮遥拝殿に登りました。

 

 遥拝殿は、御覧のようにコンクリート造の展望所形式に造られています。

 

 殿内に進みました。奥宮は、三峰山の南東の妙法ケ岳(標高1329メートル)の山頂に鎮座しており、遥拝殿の正面口から奥に見える山のコブ部分にあたります。

 

 その妙法ケ岳のコブ状の山頂が望まれました。ここから登山道が通じていて、1時間ほど山道を登れば奥宮の祠に着くそうです。

 

 同じアングルで志摩リンも奥宮の山を見ています。

 

 この日は晴れていたので、遠くまで見渡せました。

 

 志摩リンも、同じ景色を眺めていました。彼女は、三峰神社に限らず、これまでにも色んな所で、高いところや展望所などで景色を眺めていますね。そういうのが好きな性格なんでしょうね。

 

 いい景色です。立ち止まって5分ぐらい眺めていましたが、吹き上がってくる山の風が涼しくて気持ち良く、同時に俗世間の垢にまみれた自身が洗われてゆくような気分になりました。  (続く)

 

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黒森峰女学園 ティーガーⅡ(ポルシェ砲塔)(フェイズエリカ仕様) 完成です!!

2023年09月22日 | ガルパン模型制作記

 ガイド図にしたがっての組み立て工程を終えた後、追加工作をひとつ行ないました。

 

 作中車にも見える、赤円内のライトコードが今回のキットではモールドすら省かれていますので、真鍮線にて再現します。

 

 追加工作を終えました。このライトコードは史実の車輌にも普通にあったものですから、再現したほうが見栄えがします。 

 

 砲塔を仮にセットして回したところ、後ろの左右の網目部分に少しひっかかるのを知りました。網目に用いたアイロン当てのメッシュが凸凹しているのが原因でしたので、砲塔底面とともにヤスリがけ調整をして、滑らかに旋回するまでにしました。

 

 塗装作業に入りました。作中車はコミック版のカラーページにてアニメ版の劇中車と同じカラーであることが分かっていますが、コミック版「フェイズエリカ」の作中車であることを示すべく、今まで作ってきた「フェイズエリカ」の車輌群と同じカラーに統一することにしました。
 それで、ミスターカラー13番のニュートラルグレーで車体と車輪を吹き付け塗装しました。ベルト式の履帯は28番の黒鉄色で塗りました。

 

 ベルト式履帯パーツを車輪に組み付けました。

 

 左右のフェンダーカバーを取り付けました。

 

 車体右側面のガルパン仕様の留め具の列に欠けが無いか確かめました。

 

 車外装備品類を塗りました。木製部分を43番のウッドブラウン、金属部分を28番の黒鉄色で塗り分けました。

 

 左側面の車外装備品類を取り付けました。

 

 右側の車外装備品類を取り付けました。車外装備品類を取り付け状況は、アニメの劇中車もコミックの作中車も共通しています。

 

 背面部の車外装備品類を取り付けました。このうちのジャッキは、押しこむだけでしっかりと固定されましたので、接着はしないでおきました。だから取り外す事も出来ます。

 

 車体前面の機銃を28番の黒鉄色で塗りました。

 

 作中車は砲塔左右側面に校章マークを付けています。砲塔の形状により、左右非対称の位置にあります。上図は右側面の校章マークを貼り付けたところです。

 

 左側面の校章マークは、御覧のようにキューポラの起伏部分より前に付きます。作中車のカットを幾つか見て位置を確かめて、貼りました。

 

 最後に、つや消しクリアを薄く吹き付けました。

 

 コミック版のティーガーⅡもなかなかいいですね。アニメ版の劇中車は角張ったヘンシェル砲塔に予備履帯をぶら下げていますので武骨な印象がありますが、こちらのポルシェ砲塔は曲線および曲面に覆われてスマートに見えます。

 

 かくして、黒森峰女学園チームのティーガーⅡ(ポルシェ砲塔)がコミック「フェイズエリカ」仕様にて完成しました。製作期間は2022年10月28日から11月2日までの5日で、組み立てを4日、塗装を1日で仕上げました。

 今回はタミヤのキットを使用しましたので、組み立ても追加工作も楽でした。塗装カラーもあえて「フェイズエリカ」のグレー系統にしてアニメ版劇中車とは異なるタイプであることを視覚化しました。史実のドイツ軍のティーガーⅡにもグレー系の塗装色であったものが少なくなかったと聞きますから、それはそれでアリだな、と思いました。

 黒森峰女学園チームのティーガーⅡは、こうしてアニメ版のヘンシェル砲塔タイプ、コミック版のポルシェ砲塔タイプを揃えるに至りましたが、計画ではもう1輌、アニメ版のヘンシェル砲塔タイプを作ることになっています。いつになるかは分かりませんが、最終章シリーズの第6話が公開されてアニメシリーズが完結するまでには仕上げたいと思います。

 

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ゆるキャン△の聖地を行く33 その4  三峰神社の諸建築

2023年09月21日 | ゆるキャン△

 三峰神社の拝殿です。御覧の通りの豪華絢爛さで、その極彩色の建物自体が最近では若い方々の間でパワースポットと見なされて、境内の神木とともに人気を集めていると聞きます。
 特に女性の間では、綺麗なものを見てお祈りすると綺麗になれる、という特有の信仰というか迷信があると聞きますので、三峰神社がデートスポットとしても人気になっているのも頷けます。

 ところで、志摩リンはこの拝殿にてお詣りしている筈なのですが・・・、原作コミックには描写がありません。

 

 三峰神社の案内文です。この説明では祭神については分かりますが、なぜオオカミに護られているのかは言及が無いので物足りません。それとも、オオカミのことを書くのは、もしかしてタブー?

 

 しかし、江戸期の建築にしてはピカピカで保存状態が非常に良いのに驚きました。最近に復元修理工事をしているのでは、と思って後日調べたところ、平成14年に中興山主の月観道満の入山500年を記念しての事業として各建築の漆塗り替えおよび改修を行っている、ということでありました。

 月観道満は、天台宗系の修験者であったらしいのですが、南北朝期に南朝方の新田氏に組みしたことによって足利氏の弾圧を受けて荒廃していた三峰神社を再建した方です。彼は27年の歳月をかけて復興祈願の全国行脚を行なって資金を集め、朽ち果てていた本殿以下の諸建築を再建しました。その時の建物は、本殿を除いて江戸期に全て造り替えられたため、いまに残る古建築は、月観道満の復興勧進による旧本殿のみとなっています。
 その旧本殿は、現在は境内の南側にある東照宮の上舎となっており、参道の続きに面していて見られるので、後で見ておこうと思いました。

 

 拝殿の横の詰所にあった、西武秩父駅行きの急行バスの時刻表です。三峰神社へは、西武秩父駅から急行バスが連絡しているため、私自身も最初に三峰神社への巡礼を計画した時には西武秩父まで鉄道を利用して神社へは急行バスで行こうかと考えたのでした。

 でも、関西から行くと、新幹線でいったん東京か品川あたりまで行って、それから池袋まで行って西武秩父行きの特急に乗る、という流れになって、西武秩父までの移動だけで四時間以上を要します。三峰神社まで行くのに半日はかかってしまうのです。それで、甲府からのレンタカー利用での2時間ドライブ案に落ち着いた次第です。

 

 北側の小教院付近から拝殿あたりを見ました。二本の立派な古い神木が並立して空に聳え、一段下の右に手水舎、奥に神楽殿が見えます。

 

 小教院は、建物自体は江戸期の元文四年(1739)の再建ですが、内部は明治初頭の文明開化のなごりを残すアンティーク茶亭になっており、平成3年に改修工事が行われてよりお洒落な喫茶店になっています。この日も大勢の方々で満席になっており、写真を撮るのも憚られたので建物すら撮影しませんでした。

 それで、小教院を辞して、拝殿の反対側へと向かいました。

 

 再び拝殿の下を通り、建物を見上げました。

 

 ぐるりと回りました。拝殿の奥の本殿が見え始めました。

 

 本殿も拝殿と同じ建築意匠なので、一間社の規模ながらも勇壮な気分に満ちて建物も大きく感じられました。屋根を大きく造る春日造の型式を採っていることも、建物を大きく見せるのに役立っています。江戸期の寛文元年(1661)の建立で、それまで在った室町期の本殿に替わって新たに本殿とされたものです。

 

 まったく見事なものです。こんな贅沢な意匠の本殿建築は、日本の神社の中でもなかなか見ないですよ・・・。後で旧本殿の建物も見る予定でしたので、どう変わったのかを理解しておくべく、細部や意匠なども観察しました。

 

 こちらは神楽殿です。豪華な建物が多い三峰神社では、かえって少ない地味な建物ですが、造作や建築様式が江戸期とは違うので、近代つまり明治以降の建立だろうと推測しました。後で社務所で問い合わせたら、明治41年に奉納された建物だ、ということでした。

 

 本殿の南側に幾つかの建物が建ち並んでいます。上図の左が祖霊社、右奥が国常立神社といいます。いずれも江戸期の建築で、江戸期までの神仏混交の状態においては仏教系の堂宇であったものです。

 三峰神社は、明治の神仏分離までは京都の聖護院の直末に位置して天台系本山派修験の一大拠点であったため、神社に接して聖護院関連の別当寺院の堂宇がありましたが、それらは神仏分離に際しても撤去解体されることなく、建物もそのままで神社の施設に変更され、現在に至っています。なかなか類例を見ない、珍しいケースです。

 なので、上図の祖霊社は、もとは歓喜天堂、国常立神社はもとの護摩堂にあたります。そしていまの小教院がもとの別当寺院の本堂、先にくぐってきた随身門も、もとは仁王門と呼ばれていました。他に開山堂、行者堂があったといいますから、江戸期までの三峰神社は、仏教色が強かったようです。当時の本社は「三峰大権現」、別当寺院は「三峰山観音院高雲寺」と呼ばれました。

 したがって、江戸期まではそれぞれの建物に仏像も祀られていて、神仏分離後もそれらは処分されることなく神社にて大切に保管されてきたため、現在も境内にある三峰山博物館において拝見することが出来ますが、それもまた稀有のケースです。  (続く)

 

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魅惑の醍醐寺2 醍醐寺理性院へ

2023年09月20日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 醍醐寺の塔頭のひとつにして別格本山でもある理性院は、境内の北方、中心伽藍の仁王門前から北門へと通じる道の途中の西側に上図の総門を置く。今回は初めて特別公開の対象寺院となり、総門の脇に特別公開案内板が立てられていた。

 

 総門から中に入ると、やや下り坂になって石畳道が左手の山門(上図右)前まで続くが、正面には千体地蔵が祀られる。

 

 理性院は、普段は非公開だが、総門からこの千体地蔵までの区画だけは常時開放されているため、いつでも見学出来る。私自身もここまでは二度ほど来た記憶がある。

 

 千体地蔵は、理性院の本来の祭祀対象ではなく、先代住職が集めてここに祀ったものという。醍醐寺の内外から集めたものと思われるが、それにしても大変な数である。雑多な形や年代の様々な石仏が集められており、いずれも風化磨滅が激しいので、本来の尊容、尊名は分からない。それで現在は「千体地蔵」として、毎年十月の第三日曜に「千体地蔵供養」を行なうそうである。

 

 山門を初めてくぐるにあたり、一度立ち止まって一礼し、真言宗醍醐派の別格本山の寺格に敬意を表した。

 

 山門をくぐって右手の高台には上図の破風屋根の建物があった。聖天堂とのことで、今回の公開範囲には含まれなかった。

 

 正面には本堂があった。本尊が大元師明王で秘仏、と聞かされて懐かしい気分になった。奈良県奈良市に住んでいた頃は秋篠寺の近所で、秋篠寺の大元師明王のお堂によくお参りし、秘仏の大元師明王像を年に一度拝見したりしていたからである。

 だが、こちらの大元師明王は80年に一度の開帳であるという。次回は2065年だというが、私自身はもうこの世に居ないだろう。

 

 本堂の左手に上図の客殿がある。本堂とともに江戸期の再建で、その玄関式台が特別公開の拝観受付になっていた。係員の方が一人で受け持っておられた。

 

 式台の直上を見上げて上図の大きな蟇股に目が行き、蟇股の中央に彫られた紋様に気付いた。変わったデザインだなあ、としばらく見ていたが、よく見たら双鶴の意匠であった。家紋でいう「対い鶴」であり、これが理性院の寺紋なのだろうか、と思った。  (続く)

 

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ゆるキャンから始めたNゲージ その20  大井川鐡道井川線の列車を作る 下

2023年09月19日 | ゆるキャン△

 4輌の車体の組み立てが終わったので、塗装に移った。まずメタルプライマーを吹き付けて下地を作り、乾燥後に再度吹き付けた。そのグレーの部分の一部をそのまま塗装色として生かすためであった。具体的には窓枠と台車部分がグレー系の色なので、メタルプライマーの色をそのまま使うことにした。

 

 メタルプライマーの二度目の吹き付けの前に、機関車とクハ客車の運転台右側にバックミラーを追加した。プラ板と真鍮線を瞬間接着剤で取り付けた。実車でもかなり目立つので、再現したほうが違和感が少ないと考えた。

 

 斜め後ろから見た感じ。なんとかバックミラーと分かる程度の拙い出来だが、無いよりはマシである。

 

 機関車のほうにも、両側にバックミラーを追加した。

 

 機関車の運転台外面では更に細かいパーツ、ライトや解放テコも追加した。ライトは1/35スケール戦車プラモのパーツを転用し、解放テコはトミックスの分売パーツやカトーのASSYパーツからサイズが合うものを選んだ。

 

 今回の塗料はミスターカラーの水性エマルション塗料を使用した。1/35スケールのガルパン車輌のほうでも最近は水性塗料を使う機会が増えており、Nゲージ車輌にも使えるカラーが上図のように3色あったので、そのうちの3番レッド、11番つや消しホワイトを使用し、57番エアクラフトグレーもメタルプライマーのタッチアップ用にスタンバイした。

 

 井川線の車輌の塗装カラーは、現在のものも含めると時期ごとに3種類が知られる。現在の塗装カラーは、大井川鐡道が姉妹鉄道提携を結んでいるスイスのブリエンツ・ロートホルン鉄道の塗装カラーをモデルにしたものだそうで、見た目にもお洒落な感じであるので、私のNゲージ車輌も同じカラーでゆくことにした。まずはつや消しホワイトを塗っていった。

 

 続いてレッドを塗った。その際に屋根と窓枠はメタルプライマーのグレーをそのまま生かして残した。

 

 1/35スケールよりも小さな1/150スケールの塗装というのは、細かくて本当に疲れた。

 

 4輌をまとめて塗ったので、上図のように少しずつ仕上がっていった。

 

 クハ客車の運転台側の様子である。白のラインはマスキングテープで塗り分けた。

 

 機関車のDD20形は、御覧のように運転台側の細部も色々と追加工作し、三つのライトにはウェーブのクリアパーツを貼った。テールランプもプラ棒で再現し、それらしく塗った。

 

 続いて、車内インテリアのボックスシートの製作にとりかかった。アルナインから販売されている「Nゲージ普通車用ボックスシート」に2輌分のボックスシートが入っているが、井川線の車輌は小型であり、座席数も少ないので、そのパーツで3輌分の量がまかなえた。シートを青のポスカで塗り、あとは成形色のクリーム色をそのまま生かした。

 

 車両の窓ガラスは透明プラ板をカットして貼り付けた。

 

 窓ガラスが入ると、Nゲージの小さな車輌でもリアルに見えてくるのだった。

 

 車内シートを組み込んで底板も取り付け、台車もセットして仕上がったクハ客車。

 

 同じく客車Bタイプ。

 

 DD20形機関車は、側面の5本の白い手摺もプラストラクトの0.3ミリ棒で追加し、キットに付いている5種のナンバープレートのうちの「DD202」を側面中央に貼り付けた。実車ではナンバープレートの真下に「IKAWA 」のネームが入っているが、その再現は難しかったので見送った。

 あとは、台車のガードと床下機器の追加工作になるが、台車の可動域が思ったよりも狭いため、あまりパーツを追加すると干渉して走行に支障をきたすかもしれないと思い、追加工作はいったん保留とした。

 

 かくして井川線の列車がアルナインの「とても簡単な」シリーズのキットにて4輌ぶん仕上がった。

 

 繋いでみたが、なかなかいい雰囲気であった。井川線の車輌は、他に初代機関車のDB1形と二代目機関車のDD100形を作る予定であるが、客車のほうもあと2、3輌は欲しいかな、と思った。アルナインのキットが見つかればまた買って組み立てるのも良し、他メーカーからの新製品が出るならば、そちらを買うのも良し、といったところである。

 次回は、現在も川根両国車両区にて健在である初代機関車のDB1形を、ワールド工芸の組み立てキットにて製作する予定である。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く33 その3  三峰神社にて

2023年09月18日 | ゆるキャン△

 三峰神社の三ツ鳥居をくぐって、上図の登り坂の参道を進みました。夏のさなかですが、境内地は標高1100メートルの高山上にあって涼しいのでした。林間を吹き通る風が心地よくて、これならいくらでも歩いて回れるな、と思いました。

 

 作中でもこの登り坂の参道がそのまま描かれています。参道の左手に見える三角屋根の建物は、神社の関連施設なのかなと思いましたが・・・。

 

 実際の建物に近寄ってみたら、かつての交番でした。三峰神社の境内には交番があったんだな、と感心しつつ中をのぞいてみると、何かの備品や箱が置いてあり、物置のような状態でした。建物もかなり古いようで、昭和の交番、といった雰囲気でした。

 

 交番の前を過ぎて左に曲がると、上図の門が見えました。随身門です。そこまでの参道は下り坂になっているので、この方向で合ってるのか、ちょっと迷いました。あの門をくぐってこちらに登ってくるのが正式な参道なのでは、と思ったからです。

 それで立ち止まりましたが、他の観光客や参詣客はみんな一様に下り坂を降りて行って門をくぐっていくので、それが正しい参詣順路なのだろうと察して、私も道を下りました。

 

 随身門に近づくと、右前に社号標が建ち、門前左右に守護神獣の一対が見えましたので、こちらが正面で参道はこのまま進めば良いのだと分かりました。

 しかし、鳥居から登って、また下って門をくぐるという体験は初めてでした。神社の境内は一般的に傾斜地にあってずっと登る形であるのが一般的ですが、ここ三峰神社の場合はいったん小ピークに登ってから下って境内の中枢部に入る形になっています。

 随身門にかかる大きな扁額には、「三峯山」の山号が雄渾な筆致で箔押しされています。門そのものは、江戸期の寛政四年(1792)の再建で、切妻造に軒唐破風を付けた大規模な八脚門です。徳川将軍家および紀伊徳川家の崇拝を受け、関東郡代伊奈家が直接の保護にあたった経緯により、東照宮のような豪華絢爛の造りをなして唐破風内には白鶴の彫刻をあしらっています。埼玉県の有形文化財に指定されています。

 

 随身門前の左右には狛犬ならぬオオカミが参道に睨みを利かせています。狛犬はあんまり迫力ありませんが、流石にオオカミは迫力があり、ちょっと怖い雰囲気です。江戸期までは山犬と呼ばれた、ニホンオオカミの姿です。

 

 まさしくオオカミですね。神社の門前のオオカミ像というのは初めて見ました。像自体は古いものではないけれど、境内の他の社にも同じようなオオカミの石像が侍っているのを見ましたから、ここでは狛犬ではなくてオオカミが神殿の結界を護っているわけです。

 このオオカミの像を志摩リンも見上げたのでしょうが、作中では描写がありません。

 

 随身門をくぐると道は平らになり、再び緩やかな登りに転じました。三峰山原生林の中は、左右のみならず頭上も深い樹葉の重なりに覆われて、緑のトンネルのようでした。

 

 道の終点で右に向くと、上図のように本殿以下中枢部への登り石段が続き、一番上に青銅製の鳥居が聳えていました。

 

 石段を登りきって青銅鳥居をくぐると、さらに一段高い所に拝殿が見えました。江戸期の寛政十二年(1800)の再建で本殿とワンセットで建てられて最も豪華な意匠に彩られます。壁面は朱塗り、柱は黒漆で磨き上げた、江戸期の最高格式の建築です。日光東照宮に続く、徳川家の全面支援による神社建築群の中枢部であります。

 そういえば、江戸期の三峰神社は、徳川家より十万石の格式を拝領して繁栄し、同石高の大名家に等しい扱いを受けたと言います。現存の建築群がみな立派で見どころが多いのも、そのためです。

 

 青銅鳥居の横にある案内板。八棟木灯台、って初めて聞くような名前・・・。手水舎(てみずや)には精巧な竜の彫刻・・・。

 

 青銅鳥居の左側の手水舎を見ると、本当に立派で精巧で、極彩色の竜の彫り物が見えました。これは凄いな、と感心して見とれてしまいました。彩色の鮮やかさが目立つのは、建物の屋根裏から柱までの建物部分が胡粉(ごふん)で白く塗られて下地のように仕立てられているからです。日光東照宮の建築の手法と共通しています。

 

 そして右側の八棟木灯台です。これまた豪華な木造の飾り灯台で、高さが六メートルに達します。この建築手法と規模の木造灯台は、西日本では見かけた記憶がありませんので、ものすごく珍しいなあ、と感動しました。屋根をのぞいて主軸部も塔身部も四方の神獣彫刻も全て朱塗りでまとめられ、各所に金の金具を配置して装飾するという贅沢さです。これだけでも相当な費用がかかっていることが分かります。三峰神社を関八州の守護と仰いで崇拝した徳川家の威信をかけての再建事業であったことが伺えます。

 

 拝殿に登りました。寛政十二年(1800)の再建で、建物の全ての部材と装飾が色とりどりに塗られて、文字通りの豪華絢爛といった状態に仕上がっています。本殿とセットで意匠も共通していますから、本殿もまたこういった贅沢な建物なのだと理解出来ます。

 日光東照宮といい、ここ三峰神社といい、江戸初期の徳川家関連の建築はこのような極彩色の贅沢な様相が一般的ですが、いずれにおいても、前政権の豊臣氏の豪華絢爛な建築群への対抗意識が明確に出ているなあ、と思います。

 不思議なのは、ゆるキャン原作コミックにおいては、志摩リンが参拝したであろう三峰神社の豪華な建築群は、随身門すら描かれていないということです。建物が登場したのは、奥之院遥拝所だけでした。
 作者のあfろ氏は、他の社寺、例えば久遠寺でも、光前寺でも、見附天神でも、主要建築群を殆ど描写せず、建物や門前などの一部などをさりげなく描き示す傾向がありますから、三峰神社に関しても同様なスタンスである、ということでしょうか。  (続く)

 

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魅惑の醍醐寺1 醍醐寺へ

2023年09月17日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2023年3月11日、久しぶりに醍醐寺へ出かけた。第57回「京の冬の旅」の特別公開が醍醐寺でも行われ、上図の如く三宝院と理性院が対象地となったからである。
 三宝院は以前にも何度か特別公開を行なっていて、私自身も二度行っているが、理性院は初めてであった。というか、「京の冬の旅」の特別公開企画にて理性院が対象となる事自体が初めてであった。

 それで大いに興味を持ち、嫁さんと行く予定でいたが、前日になって嫁さんが急な仕事で出られなくなり、当日は「一人でゆっくりと見学して楽しんで下さい」と送り出された。それで、原付のビーノに乗って出かけた。

 

 醍醐寺には、2019年8月に京都に凱旋移住した直後に、報告を兼ねて一度参拝しているが、その時は仁王門の前で一礼して報告を述べたのみで退出しており、どこへも拝観に行かなかった。

 それで、今回が久しぶりの拝観見学となったわけであるが、醍醐寺は、私が京都で好きな古寺四ヶ所の一なので、大学時代から何度も訪れており、上下の伽藍とも境内全域をくまなく回っている。

 

 だから、上図の三宝院唐門(国宝)も馴染みの建物である。三宝院は常時公開されているために何度も入ったが、そのたびにこの唐門の内側も見ている。上図の外側よりも、内側から見たほうが面白い建物であることは余り知られていない。

 

 三宝院唐門は、以前は黒漆が剥落していて古色蒼然としていた印象があったが、平成23年(2011)に修理を受けて黒漆塗が施され、創建時の姿を取り戻した。いかにも桃山期の豪壮な門、という雰囲気である。

 

 この日は理性院だけを拝観する予定であったので、三宝院の門前は素通りして東の中心伽藍域への参道を進んだ。奥に仁王門が見えた。

 

 歩いて行くうちに、仁王門がだんだんと近づいてきて、ぐーっと大屋根の軒下が頭上に広がってくるさまが、昔から個人的に気に入っている。何故なのかは分からないが、とにかく仁王門に向き合う一瞬の心地よい緊張感というものが、たまらなく好きなのである。

 

 今回も、仁王門の真下で立ち止まり、頭上にぐーっと広がってくる大屋根の軒下を見上げた。見上げつつ、小さく一礼した。大学時代の昭和61年に初めて訪れた時から、毎回この所作を欠かしていないので、ここにくるとどうしても体が自然に動いてしまう。

 

 仁王門の左右に立つ金剛力士像は阿吽の二躯とも藤原期の基準作例として名高い。上図は向かって左の吽形。

 

 もとは南大門に祀られていた像で、長承三年(1134)に仏師の勢増と仁増によって造立された旨が銘文によって明らかである。

 

 向かって右の阿形。藤原期の仏像彫刻史を学んだ身にとっては、重要な参考資料の一つであり、その基調概説を恩師の井上正先生が書いておられたため、何度も読んで要点は全て把握している。

 

 日本に現存する藤原期の金剛力士像は少ないうえ、在銘の遺品ともなれば、京都府では他に峰定寺像が知られるのみである。そんななかでの、最古の在銘彫像として貴重な、醍醐寺仁王門の金剛力士像である。国の重要文化財に指定されている重要遺品だが、それが現在も仁王門の左右の開いた空間にて、風雨にさらされているのだから、個人的には本当に何とかして欲しいものだ、といつも思う。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く33 その2  三峰神社へ

2023年09月16日 | ゆるキャン△

 三峰神社の参拝駐車場に着きましたが、参拝路がどこからなのかが、ちよっと分からなくて周囲を見回しました。南側には上図の休憩所兼トイレがあり、その横にコンクリート造の階段がありましたので、その階段から登ろうかと考えました。

 

 駐車場は御覧のように広くて、この日は空いていましたが、土日祝や春秋のシーズンには参詣の観光客が大勢押し寄せて、駐車場は満杯となり、隣にある二ヶ所の臨時駐車場も埋まり、麓から登ってくる県道は大渋滞となって1時間も2時間も待たされることが多いそうです。

 なにしろ、三峰神社は関東地方では最強のパワースポットとして大変な人気があるそうです。オオカミが守護神として祀られているため、その神域の「気」を込めたという白いお守りが若い人々にも人気で、さらに縁結びの霊験もあるとしてカップルのデートスポットの第1位に挙げられていると聞きます。

 霊山仏閣に恵まれてパワースポットも豊富な近畿地方に住んでいる私にはあまりピンと来ませんが、山梨県でも静岡県でも富士山より三峰山のほうが御利益があると信じている方が少なくないそうです。江戸期に隆盛を極めた三峰講が広がった範囲が、いまの関東地方全域と中部地方の東半分であるとされていますから、その信仰がいまも続いているということでしょうか。

 そんな三峰神社がゆるキャンに登場したことで、今後はゆるキャンファンの巡礼も増えてゆくのでしょうが、秩父山系の山奥にあって車やバイクでも行くのが大変な標高1000メートルクラスの高山に鎮座することもあり、訪れるゆるキャンファンが劇的に増加するとは考えにくいです。
 今回、私自身も甲府から車で行く最短ルートを選択したにもかかわらず、移動に2時間近くかかりましたから、楽に行ける場所じゃないな、というのが正直な感想でした。

 

 参道入口付近にある上図の案内図に近寄って、三峰神社の境内地の概要を把握しました。三峰神社に関する良質のガイドはネット上でも殆ど見かけず、神社の公式サイトでも神社ならばでの、神社の由来をアピールするだけの大まかな説明のみにとどめられているため、参詣者の視点からの参考情報というのがなかなか分かりにくい傾向があると思います。

 

 私が居る現在地より、三峰神社の中枢部つまり本殿の区画までの距離がどのくらいあるのかを知りたかったのですが、案内図には距離も所要時間も書かれていませんでした。三峰山の山頂一帯が境内地だと聞いていましたから、ここから相当の距離を歩くのかもしれないな、と覚悟を決めました。

 

 コンクリート造の階段を登って上の参道にあがり、そのまま30メートルほど登って行くと、上図のような景色になり、奥に「大島屋」と書かれた看板が、妙に目立って見えてきました。青空と深緑の鮮やかな風景にはちょっとそぐわない、景観破壊の見本のような看板でした。

 

 その看板の下に、上図の建物がありました。「大島屋」とは、門前の売店兼食事処の屋号のようでした。その外観を見て、あ、志摩リンが三峰神社参拝後に昼食を食べたお店はここじゃないのか、と気付きました。ならば、私も帰りに立ち寄っていこう、と決めました。

 

 「大島屋」の前を過ぎれば、三峰神社の入口にあたる鳥居の前に至ります。おお、三ッ鳥居だな、と感動しました。もと奈良県民で三輪山の大神神社の三ッ鳥居に親しんでいる身としては、なにか懐かしいような感じがしました。

 

 社号標を確認しました。なるほど三峰の峰は、峯と書くのが正式なのか、と思いました。正参道、とあるので、ここがメインの参道筋であり、他にも幾つかの参道があるのだろうな、と察しました。
 江戸期の「三峰講」の信者は、武蔵、甲斐、信濃の三方向から登っていたと聞きますが、この三ツ鳥居がある正参道は武蔵方面に向いていますので、関東平野からの参詣道がメインとなっていた歴史を伺わせます。

 

 ここを、志摩リンも通ったのか・・・。志摩リンは、動物に関連のある社寺ばかり行くなあ・・・。長野県の光前寺、静岡県の見付天神、そしてここ三峰神社ですが、この三ヶ所に共通しているのは、山犬ことニホンオオカミと関わりがあるという点です。

 

 原作のカットでも御覧の通り、そのままの景観が描かれています。左の図は狛犬ならぬオオカミです。三峰神社はオオカミが護っているのです。かつてはニホンオオカミの一大生息地でもあった秩父山系の霊峰にふさわしい守護神の像です。

 

 実物のオオカミ像です。精悍にして威厳ある、かつての日本の百獣の王だったニホンオオカミの像です。他の神社では狛犬が守りますが、三峰神社はかつては天下無双のオオカミの山と怖れられた聖地でしたから、いまもオオカミに護られているわけです。なんと頼もしい守護神獣でしょうか。

 

 もと奈良県民として、吉野郡東吉野村のニホンオオカミの銅像にも何度か会いに行き、その標本も見学したことがありますから、こちらのオオカミの像は、なにか懐かしい存在に見えました。
 いまでは絶滅したとされている動物ですが、そうではなくて、どこかにひっそりと生き続けているんだよな、と思ってしまいます。  (続く)

 

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