気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

ゆるキャン△の聖地を行く35 その7  みずがき山自然公園管理棟

2023年11月30日 | ゆるキャン△

 みずがき山自然公園の西側には、ロッジ風の管理棟とキャンプ場があります。原作コミック第12巻97ページ3コマ目のアングルです。

 

 このシーンですね。作中では「瑞牆山キャンプ場」となっていますが、実際にはみずがき山自然公園のキャンプサイトということです。ロッジ風の管理棟は、キャンプサイトの管理棟にあたり、館内には農林産物活用体験室、研修室や食堂があり、また売店では地元の農産物などの販売を行っています。

 

 ちなみにみずがき山自然公園は、平成十三年(2001)5月20日に開催された「第52回全国植樹祭」の主会場として作られた所で、その跡地約1,1ヘクタールの再活用を目指して自然公園としたものです。瑞牆山の西麓、標高1500メートルに位置しており、夏でも涼しいためにキャンプ場は山梨県でも指折りの人気を誇るそうです。

 

 とりあえず、管理棟へ向かいました。駐車場を横切っていく途中で、既視感のある上図のアングルの景色を見つけました。

 

 このシーンですね。原作コミック第12巻98ページ3コマ目です。大垣千明が「電波もバッチリじゃん ここ」と言っていますが、実際にはドコモのみであるようです。私の携帯およびタブレットはauですが、瑞牆山エリアは殆ど圏外でWi-Fiも使えませんでした。

 

 管理棟に近づいても電波が来ませんでした。ま、ここでネット検索とかするわけではないので、あまり気になりませんでした。

 

 管理棟の手前にて。ここも既視感がありましたが、なにか違和感も感じました。

 

 原作コミック第12巻99ページ1コマ目のアングルでしたが、作中では管理棟の周囲に林立する木が描かれていないのでした。管理棟の建物の全容を見せるための省略でしょうか。ベンチや自販機はそのまま忠実に描かれています。

 

 管理棟の玄関をくぐると、主屋の内部空間はまるまる販売コーナーになっていました。農林産物活用体験室、研修室や食堂は奥のほうにあるようでした。

 

 ここみずがき山自然公園は、人里離れた山奥にあるため、ここの売店はコンビニ的な使われ方をしているそうで、特にキャンプ場の利用者にとっては食材も飲料水もキャンプ用品も薪も売っているために重宝がられているそうです。このアングルで原作コミック第12巻99ページ2コマ目に出ています。

 

 このシーンですね。奥の大きな暖炉もカウンターもそのままでした。
 みずがき山自然公園の公式案内情報はこちら。  (続く)

 

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知波単学園 九七式中戦車(名倉車) 作ります!! その2

2023年11月29日 | ガルパン模型制作記

 ステップ4では、下部車体の組み立ての続きを行ないます。足回りのサスペンションが中心です。前照灯のパーツD61は形が異なりますので作中車のそれに近いG1に差し替えます。車体前面のA20の星章と銘板のモールドを削り取る指示がありますが、これは中国人民解放軍車輌に仕上げるための工程なので、日本軍車輌に仕上げる今回の製作では削り取らないでおきます。
 またA18とA19ではA18を選びます。ピストルポートは全て閉状態であるためです。

 

 組み立て前の状態。

 

 組み上がりました。

 

 次の工程に進んでパーツを切り出して準備しました。

 

 組み上がりました。前に作った久保田車と同じ工程なので、組み立てガイドを見なくても覚えていてスムーズに進みました。同じ車輌のキットを連続で作るのは、組み立ての段取りを覚えているために、全体作業量が削減出来て楽に感じます。塗装するうえでもまとめて行なうので、塗装時間が短縮出来ますし、塗料の節約にもなります。

 

 ステップ5では車輪類を組み付けます。私の製作では車輪は全て塗装後に組み付けますので、ここでは車輪以外のパーツを取り付けます。

 

 ということで、車輪以外のパーツを取り付けるべく準備しました。

 

 組み上がりました。このサスペンションダンパーの組み立てに関しても、今回のドラゴンのキットは楽に出来たという感触があります。パーツの肉厚があるため、タミヤやファインモールドのようにパーツが華奢で破損の危険におびえることがありませんでした。この精神的負荷の差というのは、プラモデルの製作においてはけっこう重要だったりします。

 

 ステップ6から車体の組み立てに入ります。上下の車体を組み合わせ、左右のフェンダーを取り付け、排気管を組み立てます。この段階で一気に車体が形になってきます。
 このガイド図ではF1とF17の表記が逆です。またA38、MA3、MA4、MA15、MA16は劇中車に見えませんので不要です。

 

 組み立て前の状態。

 

 組み上がった状態。

 

 排気管カバーはエッチングパーツですが、治具を使って難なく成形してセットしました。

 

 ステップ7ではエンジンフードの範囲を組み立てます。エッチングパーツのMA11、MA12は完成後は見えなくなるので省きます。

 

 パーツを切り出す際に、次のステップ8のパーツの一部も一緒に切り出して保管しました。

 

 組み上がりました。  (続く)

 

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伏見歴史散歩10 藤森神社

2023年11月28日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 栄春寺の旧伏見城惣構え土塁を見た後、そのまま旧奈良街道を北上し、約600メートルほど走って、上図の藤森神社の西口に着きました。
 ですが、この西口は徒歩参拝者のみの出入口であるようでした。車やバイクは北側から入ることをあらかじめ調べていたので、北へ回って京都教育大学の西門前の北口から入り、駐輪場に原付ビーノを停めました。

 

 駐輪場は境内地の西側にありましたので、西口の参道に回って鳥居からの石畳道を進み、上図の拝殿前に出ました。こういうところか、と辺りを見回しました。

 実は、この藤森神社に参拝するのは今回が初めてでした。今まで何度か旧奈良街道を走って横を通り過ぎていたのですが、なかなか立ち寄る機会がなかったのでした。今回の伏見歴史散歩のコースの前半にて、伏見稲荷大社に寄った際に、その境内地がもとはこの藤森神社の前身のひとつ藤尾社の鎮座地であったことを知り、その藤尾社をも訪ねてみようと思いついて、ようやくこの神社に参った次第でした。

 

 参拝の目的はもう一つありました。この藤森神社には、貴重な社殿建築遺構が三棟も伝わっており、二棟は国の重要文化財、もう一棟は京都府指定文化財になっています。それらの建物の歴史的価値が大変なものなので、一度拝見しておこうと考えたわけです。

 まずは京都府指定文化財の一棟を見ることにして、その建物である上図の藤森神社本殿に向かいました。

 

 参拝直前に、脇の上図の文化財指定標識を確かめました。御覧のように「旧御所賢所」とあります。江戸期の宝暦五年(1755)に京都御所の皇居内侍所仮殿として造営されたもので、現存の棟札によって明和四年(1767)に移建されています。中御門天皇より藤森神社に下賜されたもので、現存する賢所(内侍所)としては最古の例として知られています。

 

 その賢所の建物の西半分を神殿となし、御覧のように三間に分けて東殿・中央・西殿の三座をお祀りしています。このうちの東殿が、もとは伏見稲荷大社の境内地にあった藤尾社にあたり、崇道尽敬皇帝(舎人親王)を祭神として祀っています。

 続いて中央の間には、元からこの地に祀られていた三韓征伐にまつわる7柱が祀られています。素盞嗚命、別雷命、日本武命、応神天皇、神功皇后、武内宿禰、仁徳天皇です。
 西殿は、平安期の延暦十九年(800)に早良親王を祀る神社として塚本(現在の東福寺近辺)の地に創建されたのを、室町期の文明二年(1470)に藤森神社に合祀したものです。

 総じて、皇室系の祭神を祀る神社であることが分かります。京都御所の皇居内侍所の建物を下賜されたのも、そうした由緒と祭神の格によるものであったわけです。

 

 本殿前にて礼拝した直後に、本殿の賢所の建物の様子を覗き込んだのですが、神前の左右に立派な獅子・狛犬の一対が配置されているのに驚かされました。平安期以来の古式を踏襲しているようで、向かって左の上図の吽形が狛犬です。頭上に角があるので間違いありません。

 

 そして向かって右には、上図の阿形の獅子が見えました。いずれも青緑とおぼしき色で塗られ、眉やタテガミや尻尾などの毛の部分が茶色に塗られています。こんな立派な獅子、狛犬の彫像は京都でもなかなか見られませんので、双眼鏡を出してしばらく観察しました。

 藤森神社には平安期の狛犬一対が伝わって国の重要文化財に指定されていますが、現在は京都国立博物館に預託されています。上図の本殿にあるほうは江戸期の特徴を示すので、本殿の下賜移築の際に古式にのっとって新造されたものかと思われます。

 

 本殿を西側から見ました。神社の神殿というには、全然それらしくない造りの外観です。もとは旧御所の賢所をそのまま移してきて本殿として使用しているようで、神殿への建て替え改造は最小限にとどめられているようです。

 

 本殿の背後に、二棟の国重要文化財の社殿があるということなので、見に行きました。西側から回ったので、一番西に建つ上図の建物が最初に目に入りました。近づいてみて、あ、これは違う、と気付きました。

 

 この社殿は天満宮でした。建物も江戸期のもので、文化財指定標識もありませんでした。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く35 その6  みずがき山自然公園

2023年11月27日 | ゆるキャン△

 神戸トンネルを抜けて県道610号線を北東へしばらく進み、黒森集落の横で上図の分岐に至りました。黄色の行先標識にしたがって右折し、釜瀬川沿いの森林のなかの林道を道なりに走りました。一般的にはクリスタルラインと呼ばれますが、正式名称は本谷釜瀬林道といいます。

 

 その本谷釜瀬林道を10分ほどくねくねと辿り、方向的には南東へと進みましたが、最初の分岐は直進、次の辻は左が未舗装なので直進しました。そして三つ目の上図の分岐路に着いて、ああここか、と気付いて車を路側に寄せて停めました。
 この分岐点が、原作コミック第12巻96ページ5コマ目に描かれています。

 

 左のコマですね。作中では大垣千明、犬山あおい、斉藤恵那の3人が瑞牆山荘から北進してみずがき山キャンプ場を目指していますから、この分岐点以外にルートがありません。
 私はこの時は逆方向から林道を進んで、3人とは逆回りでたどっていたため、みずがき山自然公園へ先に行って、その次に瑞牆山荘へ行きました。

 

 分岐点の西側に立つオレンジ色の行先標識です。作中画のアングルとは反対側にあるので、作中には描かれませんが、これが目印として分かりやすいです。ほかの分岐路にはこのオレンジ色の行先標識はありませんから、作中の分岐路を目指すには、林道の西側にこの標識があるかどうかを確かめれば良いです。

 

 分岐路からみずがき林道に進んで3分ほどで、上図の広い駐車場に着きました。東に瑞牆山の連峰を望む、みずがき山自然公園地区の観光駐車場です。一般観光客とキャンプ場利用客の双方が利用出来ますが、オートキャンプ場利用の方はキャンプ場のサイトまで車を乗り入れていました。

 

 駐車場から東は一段高くなっていて、階段を登りながら振り返ると、上図の景色が広がりました。駐車場の西にロッジ風の管理棟があり、その周囲がキャンプ場およびオートキャンプ場になっています。

 

 東の段へあがると、御覧のとおりの芝生広場が東の瑞牆山連峰を背景として広がっていました。おお、ここか、と気付きました。

 

 原作コミック第12巻110ページ2コマ目のアングルですね。大垣千明ら3人がチェアを置いてグランピングを楽しんでいた場所でした。作中では広々とした平坦面が描かれていますが、実際に広いのでした。

 

 実際の広場もめちゃくちゃ広くて、サッカー場と野球場を入れてもまだ余裕がありそうなくらいの規模でした。

 

 芝生広場の西側は、御覧のように一段低くなっていて、その低い平坦面だけでも相当な面積がありました。最初はここいらがキャンプ場なのかと思いましたが、実際には自然公園の芝生広場という位置付けでありました。

 

 東の瑞牆山連峰も、あまり見たことがないゴツゴツした岩塊の連なりで、奇異奇観の語句がピッタリくるような、一種異様な山容を横たえて、どこか不気味さをも漂わせていました。この山々が人気の登山コースとして有名であるそうです。瑞牆山荘近くの登山口から登って連峰を縦走し、みずがき山自然公園の横に降りるルートがよく利用されているそうです。

 

 とりあえず、記念の自撮り。ゆるキャンの聖地は、いわゆる秘境スポットが少なくなく、行くまでの道のりが長かったり道が狭くて大変だったりするのが普通ですから、現地にたどり着いての最初の感想は、遠かった、やっと来た、二度と来られないかもしれないな、の類にまとまります。

 ここみずがき山自然公園は、大井川最奥の畑薙大吊橋までのルートに比べれば、道がまだ広くて走りやすいのでマシですが、距離的にはこちらの方が長かった気がして、到着後の疲労感はちょっとしたものがありました。大垣千明たちはバスと徒歩で来ているのですから、大したものだなあ、若いパワーにはかなわないな、と感心してしまいました。  (続く)

 

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知波単学園 九七式中戦車(名倉車) 作ります!! その1

2023年11月26日 | ガルパン模型制作記

 上図は、ガルパンファンなら誰でも知っている、知波単学園チームの斥候担当の名倉節子です。隠密のように偵察をそつなくこなして、相手チームの動向を正確に把握して報告するあたり、同チームにおいては知性派タイプに分類される優秀なメンバーであるようです。

 

 その名倉節子の搭乗車は、大洗女子学園チームの試合開始直後の上図のジャングルへの進撃シーンにおいて、右手前に見られます。車体にマーキングされる黄帯が、僚車とは異なってエンジンフード上で二つに分かれるのが特徴です。

 

 上図でも、砲塔右側面の黄帯の下部がやや広がる独特の引かれ方になっているのが確認出来ます。劇場版の段階で知られていた同チームの迷彩パターンのA、Bの2種のいずれにも該当しませんので、最終章で新たに追加設定されたパターンであることが分かります。
 つまりはCであるのでしょうが、公式設定資料の「アハトゥンク・ガールズ&パンツァー3」での迷彩パターンバリエーションの項においては「名倉節子搭乗車輌」の名で掲載されています。

 

 試合中に斥候役を務めて密林の中から本体に合流した際の名倉車です。車体前面に流れる黄帯が僚車よりも太く引かれているので、識別が容易です。隠密偵察任務の担当車輌であることを周囲にも示すための描き分けであろうか、と推測します。

 

 本隊に合流している時の名倉車は、周知のように新砲塔タイプのチームの一員として、大体はチーム一番槍の玉田環の指揮下にて連携行動をとっています。撃破は得ていないものの、大洗女子学園の動きに相当の牽制、プレッシャーをかけるような動きや射撃が見られますので、練度の高さがうかがえます。

 

 名倉車は、最終章第2話の終盤の渓谷への転落シーンにも登場して玉田車と隣り合わせになっており、続く第3話でも終盤まで健在でした。ですが、西絹代隊長以下と同じく、相手チームの主力車輌を追撃かつ撃破することに熱中しすぎて、隙を突かれてしまったことは周知の通りです。

 

 その名倉車を、上図のドラゴンのキットにて再現製作します。第二次大戦後に中国人民解放軍に接収されて長く運用され、戦功を讃えて「功臣号」と名付けられた個体のキットです。実車は現在は中国人民革命軍事博物館に展示されており、キットはその現存車輌を中国人民解放軍90周年の記念版として発売されています。

 

 中身です。このキットはドラゴンの定番製品ではなく、ホビコレでの限定販売品としてスポット生産された品であるので、市場への流通数も限られていると聞きます。私自身は劇場版の知波単学園チームの活躍ぶりに感動した直後に、たまたま中古ショップで3000円で売っているのを見つけて衝動買いしたのを、ずっと手元に置いていました。

 それを、久保田りん搭乗車とともにセットで製作することにして、久しぶりに引っ張り出して開封しました。車体は久保田車とほぼ共通のパーツで構成され、旧型車体としてのパーツがランナー単位で添えられています。砲塔部分はファインモールドのパーツを使用しています。

 

 組み立てガイドです。ドラゴンの一般的な縦長のスタイルです。キットには中国人民解放軍仕様に仕上げるためのエッチングパーツが含まれていますが、今回は知波単学園チームの日本軍車輌のスタイルに仕上げますので、エッチングパーツの大多数は不要となります。

 

 ステップ1で車体上部を組み立てます。ステップ2で車輪類を組み立てます。機銃マウントはA33を使います。ピストルポートは閉状態であるためです。
 また車体ハッチのD51は、劇中車では無いので隙間も埋めて取っ手のD19も付けませんが、タミヤやファインモールドのキットとの唯一の識別点とするために、わざと完全には埋めずにハッチの輪郭線を僅かに残しておきます。

 

 ステップ1で組み立てる車体上部のパーツ類です。先に組み立てた久保田車は新型車体なので、名倉車の旧型車体とは一部のパーツが異なりますが、組み立ての段取りそのものはほぼ共通です。

 

 組み上がりました。ハッチのD51は御覧のように隙間をやや残した感じでパテ埋めしました。塗装後は迷彩に覆われて見えにくくなると思いますが、ここが以前に作ったタミヤやファインモールドのキットとの唯一の識別点となります。

 

 ステップ2に進んで車輪類のパーツを切り出して準備しました。

 

 組み上がりました。知波単学園チームの迷彩パターンにおいては車輪も三つのカラーで塗り分けますので、塗装するまでは上図の状態にて分けて保管しました。

 

 ステップ3では、車体下部をなどを組み立てます。この部分は先に作った久保田車と共通です。

 

 車体下部のパーツ類です。二度目になると、もうガイドを見なくてもスラスラと組み立てられます。

 

 組み上がりました。  (続く)

 

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伏見歴史散歩9 栄春寺の旧伏見城土塁と石垣

2023年11月25日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 伏見の栄春寺の境内地は、本堂以下の諸建物がある南側エリアと墓地の北側エリアとに分かれます。そして北側エリアは一段高くなっていて、一番高いところで約10メートルほどになるようです。

 上図は墓地への階段の途中から南側エリアをみたところで、ちょうど視線が本堂の屋根の大棟あたりに近づいています。そのあと更に階段を登りましたので、一番高い場所では本堂の屋根よりも上に視線があがりました。

 

 墓地全体が高い幅広の土塁の上にあるので周囲の見晴らしがよく、旧伏見城の惣構えの土塁がいかに高く築かれていたかが実感出来ました。規模的には京都市内にある御土居よりもやや大きいかな、という感じですが、墓地化によって上部はやや削られているので、当初はもう少し高さがあったものと推測されます。

 墓地の南側、つまり本堂や観音堂の背後にあたる範囲には、上図のように石垣が二、三段ほどみられます。

 

 これらの石垣は、大半が江戸期に積み直したか、墓地化に伴って土塁斜面を補強するために設けたかのいずれかだろうと思われますが、一部には戦国期までの野面積み(のづらづみ)の様相がみられて、伏見城造営期のものが残されているように感じられます。

 上図は一番下の段の石垣で、本堂や庫裏の背後の裏庭に面した範囲のものです。積み方がどこか雑で、石も積み方も中世や近世のそれとはちょっと違うような印象を受けました。

 

 墓地の地面からみると、下に向かって二段ないしは三段に石垣が積まれていて、いわゆる土留め石垣の姿を示しています。上図は土塁南東側斜面の中央、二段目の石垣ですが、この辺りが古いのではないか、と思いました。

 

 同じ石垣を、今度は西側に回って見上げました。一帯は竹林になっていて、立ち入り禁止の区域にあたるため、近づいてみることは出来ませんでしたが、それでも上図のようによく見えました。

 

 全国各地の近世城郭の石垣とあんまり変わらない外観、雰囲気です。この下にも石垣がありますが、そちらは近代のもののようで、石積みの隙間にコンクリートが使われていました。

 

 デジカメの望遠モードで撮影してみました。これはどうみても古い石垣ですね・・・。墓地の東側斜面にも似たような雰囲気の石垣の一部が見えましたが、その周囲には水路が巡っています。この水路はかつての外濠の一部が土塁とセットで残っているもので、土塁の北側と東側にまわっています。

 なので、外濠に面した北側も見ようと考えて墓地の北端から見下ろしましたが、墓地化によって地形が変わっているようで、民家との境界線になっている外濠の名残の水路しか見えませんでした。

 ちなみに、現地は、伏見城の城郭エリアから見ると北西にあたり、城下町の北西の塁線の突出部に該当するようです。その東約300メートル地点では、2013年に発掘調査が行われて、ひな壇造成された整地層と惣構え土塁の南斜面、井戸、そして伊達家に関連すると見られる建物の遺構が検出されています。

 

 個人的には、墓地の南側斜面の中央、下から数えて二段目にあたる上図の石垣が、本来の土塁土留めのそれであって今に現存している可能性が高い、と考えます。

 

 現在、西側に通る旧奈良街道は、平安期以来の大和大路を踏襲していますが、伏見城築城期にはもう少し西側を通っていたようです。土塁は現在の栄春寺の北側で外濠とともに屈曲して北に張り出していたことが古絵図や京都市考古資料館発の調査資料類の図から知られますが、その場合でも、さきに見た上図の総門が、その土塁に関連してどこかに位置していて、門として機能した状況が想像されます。

 なので、現在の総門は建てられた当時からの位置ではなく、元は別の場所にあったものが移築されてここに至ったものと考えられます。

 

 西の旧奈良街道から土塁を見ました。最近に民家が撤去されたのか、御覧のように土塁の断面が分かる状態になっていたのは幸運でした。下から一段、二段、三段と、ひな壇状に段差を設けて築かれていて、その段差面の裾部に石垣が積まれて土留めの役目を果たしています。上図でも右側(南側)の二段目に石積みの一部が崩れかけた状態で残っていますが、古い部分であるのかは識別出来ませんでした。

 土塁の規模は、左の三階建ての民家と比べると、現存部分だけでもかなりの大きさがあることが分かります。上は墓地になっていて、墓地化で削られた部分があったと思われますから、築かれた当初はもう少し高かったものと推測されます。

 京都市内の御土居が豊臣期に築かれて当時の京都の防御線ともなったのと同じく、豊臣期に築かれて伏見城の城下町の防御線となり、それが徳川期伏見城にも受け継がれたという、その土塁の唯一の現存部分です。御土居に似た雰囲気があるのも偶然ではありません。ともに同じ豊臣政権の土木事業によって築かれていますから、似ているのが当たり前です。

 旧伏見城の城郭部分の石垣や土塁は各所に残されていますが、城下町の惣構えの土塁は、一般的になかなか残らないので、一部だけでも現存している事自体が奇跡に近いです。その歴史的重要性のわりには、あまり知られていない遺構ですので、見てみる価値は大いにあるでしょう。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く35 その5  鹿鳴峡大橋と神戸トンネル

2023年11月24日 | ゆるキャン△

 ヨシヤーの湯からさらに移動して湖辺周遊路から県道610号線に出て、そのまま西へと降りました。そして上図の鹿鳴峡大橋を渡りました。渡ったところの西詰の北側にスペースがあったので、そこに車を停めて、歩いて鹿鳴峡大橋へ戻りました。

 

 なぜかというと、作中で大垣千明、犬山あおい、斉藤恵那がみずがき湖に着いた際のシーンが鹿鳴峡大橋から見たアングルではないか、と推測していたからです。
 作中の景色を見ると、塩川ダムの堤体が右側(西側)に描かれているので、北から見ないとそのような景色にならないだろう、と考えていたからです。実際に見たら、その推測が当たっていました。

 

 このシーンの景色が、そのまま実際に見えたのでした。原作コミック第12巻45ページ1コマ目です。作中画はいつもの広域ワイドビジョンにて描かれていますから、私のデジカメでは全景を捉える事が出来ませんでした。

 

 それでも、作中シーンの景観はそのまま味わえました。カメラを右に寄せて撮り、次いで左にずらして撮り、その2枚の画像を合わせると作中の場面に一致しました。

 

 上図が、カメラを右に寄せて撮った1枚。

 

 そしてこちらが左にずらして撮った1枚です。北側からみずがき湖の全体を俯瞰出来るポイントなので、さきに行った東岸の展望台からの景観とあわせれば、みずがき湖の全容を把握出来るわけです。

 

 このときの撮影地点は、鹿鳴峡大橋の中央から西寄りに20メートルほど降りた地点でした。橋そのものが東から西へと傾斜していますので、橋上の道は坂道になっています。

 5分ほど橋の上から景色を眺めた後、車に戻って道を引き返し、再び鹿鳴峡大橋を渡って東へ進みました。林のなかの県道160号線をゆるやかに登っていきました。

 

 林が途切れて視界がバッと開けたところに、上図の分岐路があり、左の県道160号線の本線上にはトンネルが見えました。ここだな、と気付いて車を右の分岐路の脇に寄せて停めました。

 

 このシーンの場所です。原作コミック第12巻50ページ3コマ目のシーンです。作中で大垣千明、犬山あおい、斉藤恵那の三人が「ゴッドォ・・・」を繰り返した場所です。

 

 「ゴッドォ・・・」とは上図のトンネルの名前です。入り口の上の銘板に「神戸トンネル」とあります。

 

 神戸という字は一般的に「こうべ」と読まれやすいのですが、ここでは「ごうど」と読みます。大垣千明、犬山あおい、斉藤恵那の三人が「ゴッドォ・・・」と読んだのは間違いです。

 ちなみに岐阜県の安八郡に神戸町というのがあり、これも読みは「ごうど」です。三重県にもかつて神戸町があり、現在は鈴鹿市に吸収合併されていますが、こちらの読みは「かんべ」です。

 神戸という地名は意外にも全国各地にありまして、読みは「かんべ」が多いです。古代の令制における神社の封戸(ふこ)を神戸とも書いて「かんべ」と読ませたのが由来で、伊勢神宮系の神領や、神明神社を祀る地域によく見られるそうです。  (続く)

 

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知波単学園 九七式中戦車(久保田車) 作ります!! その5

2023年11月23日 | ガルパン模型制作記

 ステップ15およびステップ16にて砲塔を組み立てます。ステップ17にて砲塔を車体にセットします。その際に機銃架のC3を劇中車に合わせて横に向けます。

 

 ステップ15およびステップ16にて組み立てるパーツ群です。これまでに組み立てた各部品をここで全部組み合わせて砲塔の形に仕上げます。

 

 組み上がった状態での砲塔内部です。御覧のように細部まで見事に再現されていますが、再現されているのは砲塔内部だけで車体内部は空洞のままです。フルインテリアにするという選択肢はドラゴンには無かったのだろうか、と少し残念に思います。
 そもそも、日本軍戦車の完全なフルインテリアキットが未だに出ていないので、ドラゴンにはもう少し頑張っていただきたかったと思います。

 

 砲塔の外観を上から見ました。細部のモールドも綺麗でメリハリがあり、日本軍車輌特有の質感もほのかに感じられます。このあたりがタミヤやファインモールドの品には全く無い要素です。

 

 ステップ17に進んで砲塔を車体にセットしました。

 

 ステップ17で砲塔に取り付ける各部品です。

 

 このうち、シャベルと鶴嘴は塗装後に取り付けますので、ここでは仮組みして位置を確かめておきました。

 

 組み上がりました。ジャッキは仮組みしただけで、これも塗装後に取り付けます。

 

 機銃架のC3を劇中車に合わせて左に向けました。

 

 ラストのステップ18では履帯を組みます。今回のドラゴンのキットでは上部の履帯を曲げて加工しますが、形を整えるための治具がついていますので、組み立て作業そのものは楽に進みます。起動輪および誘導輪につく部分は一枚ずつのパーツを繋ぎますが、他は繋がった状態で成形されているパーツを組み付けるだけです。

 

 なので、連結式履帯が苦手な私でも、苦労することなくスムーズに組み上がりました。ファインモールドのキットでも履帯は似たようなパーツ構成になっていて、組み付けの段取りもほぼ同じでしたが、プラスチックの質が異なるようで、ドラゴンのパーツほどに接着剤のノリが良く無かった記憶があります。

 これで塗装前の組み立てが完了しました。塗装作業は、続いて製作する九七式中戦車新砲塔型(名倉車)と一緒にまとめて行なう予定です。  (続く)

 

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伏見歴史散歩8 栄春寺の旧伏見城城門

2023年11月22日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2023年11月3日、伏見エリア歴史散策の後半ルートを原付ビーノで回りました。春の4月22日に実施した御香宮から伏見稲荷大社までのルートの続きでした。この日も旧伏見城の遺構を見るのが主な目的でした。

 周知のように、豊臣期および徳川期の伏見城からの移築伝承をもつ建物は、京都市内だけでも三十ヶ所近くにのぼりますが、由来や様式からみて確かな建築遺構だけに絞ると半数以下の十四、五ヶ所になります。非公開の建物も少なくないので、いつでも見学出来るのは十ヶ所前後となります。全部が京都市内にありますから、いずれはそれらを回って連載で紹介しようかと考えています。

 その十ヶ所前後のうちの三ヶ所が、伏見城近辺のエリアに含まれます。春4月の伏見歴史散策では御香宮の旧大手門と源空寺の伝旧城門を見て回りましたので、今回は残る一ヶ所に行きました。上図の栄春寺でした。

 

 入り口の横にある案内説明板です。栄春寺は、伏見区桃山町丹下に所在する曹洞宗の寺院で、西を通る旧奈良街道に面しています。御覧のように、永禄十一年(1568)開創で、総門と墓地の惣構え土塁が伏見城の遺構とされています。

 

 旧奈良街道から境内地に入ってまっすぐ東に向かって進むと、上図の総門があります。寺そのものは本堂も観音堂も南向きに配置され、表門も南に向いていますので、山門にあたるこの総門だけが西向きになっているのには、ちょっと違和感を覚えます。

 

 南向きの寺の敷地のなかで、この総門だけが西向きなのは、中世戦国期からの旧奈良街道に面しているからですが、もう少し考えますと、この位置が本来の位置であって、寺の墓地に残る惣構え土塁との位置関係からみて、土塁に付属する通用門であった可能性も考えられます。

 ですが、大部分の城郭関係の門建築遺構がそうであるように、この総門も原位置からは移動していると受け止めるのが無難でしょう。元の位置については寺でも把握していないようで、関連する資料も情報も見当たりませんでした。

 

 近寄ってみて、すぐに古い建物だと感じました。柱や貫などの構造材ももちろんですが、上図の門扉もかなり古い状態のままで、由緒ある建物であるがゆえに大切に維持されてきたことを伺わせます。伏見城の遺構、とは豊臣期、徳川期の二通りありますが、この総門はどちらに相当するのでしょうか。

 

 屋根部分を見上げました。各所に修理や補修が入っているようで、少なくとも屋根の裏板や下地板は江戸期に取り替えられているようです。

 

 ですが、主構造材である左右の太い柱、それを上で繋ぐ太い頭貫は古いもののようです。頭貫の両端に木製の端飾りが見えるのは、追加補修なのかな、と思いましたが、双眼鏡で見ると彫り込みによる意匠のようにも見えて、よく分かりませんでした。
 ただ、このような木製の端飾りは、豊臣期でも徳川期でも多く見られ、当該時期の城郭関係の建物には多く見られますが、江戸期になると金属製が多くなってくるので、木製であるのは古いほうかな、と思います。

 

 再び門扉を見ました。門の堅牢さを確保するために、板ごとに釘を打って釘隠しをはめるので、釘隠しの列が上から下まで四段に並びます。蝶番の懸け金具も長く伸びて枠と板をしっかり固定し、力強さにあふれています。寺院の門の扉には似つかわしくない、耐久性が求められる実用本位の門扉です。城郭の門の扉としては、ごく一般的な造りです。

 

 ですが、門自体の規模は小型に属し、防御性も高くはありません。城郭の主要な門ではなく、それとは別の、通用門クラスの遺構と思われます。

 

 門扉の内側を見ました。閂(かんぬき)だけが新しく見えました。これは日々の開閉時に動かして使用する消耗品ですから、長い間使っていれば擦り減ったりヘタってきたりします。建立当初からの閂(かんぬき)がそのまま伝わっているケースは、寺院の門でもなかなかありませんので、消耗度が激しい城郭の門のそれが残っているのは稀です。

 

 典型的な二脚門ですので、上図の後ろの柱は控柱(ひかえばしら)に当たります。上部で屋根の後ろを支えているので、相当な負荷を受けて痛み易い部材になります。それで交換されたようで、上図の控柱とその上下の貫全てが新しい感じになっています。

 

 ともあれ、古い城郭系の門建築であることは間違いありません。伏見城の遺構、とされるのも単なる伝承ではなく、惣構えの土塁に近接する位置からみても、本物であると考えるのが自然でしょう。
 端的に言えば、伏見城の惣構えの門である、ということになりますが、豊臣期のものか、それとも徳川期のものかは、残念ながら分かりません。

 

 それで、今度は惣構えの土塁を見学することにして、境内地の西側の墓参道へと向かいました。上図の右奥の建物が本堂、左の小さな堂が観音堂で、それらの背後に墓地があります。
 その墓地が、かつての伏見城の惣構えの土塁にあたります。伏見城の惣構えの土塁が現存するのは、実はここだけですが、このことは意外にもあまり知られていないそうです。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く35 その4  ヨシャーの湯

2023年11月21日 | ゆるキャン△

 みずがき湖の展望台で景色を楽しんだ後、再び車に乗って上図の駐車場まで移動しました。東屋のある広場の横にスペースがあります。みずがき湖の北東の入り江の先に位置しています。

 

 広場からは、鹿鳴峡大橋がこのように見えましたので、みずがき湖の北東に居るのだと分かりました。すぐ下まで湖面が細長く伸びていて、入り江のようになっていました。

 

 広場の東屋の横から北へ行くと、上図のように下へ降りる長い石段が延びていました。みずがき湖の湖面べりの低地へと続いているようでした。下にはベンチのある芝生が見えました。

 

 石段を降りて芝生の広場に入り、また左へ階段を下りると、上図の湯桶と看板がありました。

 

 ここが原作コミック第12巻49ページに登場した「ヨシャーの湯」でした。看板によれば「ヨシャー」ではなくて「ヨシヤー」が正しい名称であるようです。地元では「よしあ」とも呼ばれるそうです。霊泉が「よし」や「あし」の中に湧きだしたのが語源であるようです。

 

 湯桶にチョロチョロと注がれ続ける鉱水は透明度が高くて綺麗でした。水温は約15度ぐらいだったろうか、暑いなかでは冷たくて気持ちがよいものでした。これでも温泉なので、温泉マニアの方々はこの湯桶に入って入浴されるのだとか。

 

 原作コミック第12巻49ページの2コマ目でもそのままの姿で出ています。湯桶の手前の縁が三角形に欠けている点まで忠実に描かれています。右の1コマ目のアングルも、そのまま現地で見られます。

 

 このアングルですね。客観的にみますと、山の中にある湧水地の一つであります。いまはダム湖の底に沈んだ旧塩川集落にて古くから鉱泉として親しまれてきたといい、現在は塩川ダム管理事務所が管理し保全に務めているそうです。

 ちなみにこの場所から下の段に行くと、湖面の縁につきますが、現地では水浴も釣りも禁止されています。  (続く)

 

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知波単学園 九七式中戦車(久保田車) 作ります!! その4

2023年11月20日 | ガルパン模型制作記

 ステップ12では車体の後部や背面部の各部品を取り付けます。背面部の組み立ては、ワイヤー未装備時と装備時とを選択しますが、劇中車はワイヤーを装備していますので、装備時の状態を選びます。またジャッキのパーツはD44を選びます。

 

 ステップ12で組み付けるパーツ類です。

 

 組み上がりました。ジャッキのみは塗装後に取り付けますので、別に保管しておきました。

 

 ジャッキの留め具のパーツF10も、無くさないようにきちんと確認して保管しました。ジャッキの右側にある小さな帯状のパーツがそれです。

 

 背面のワイヤー収納部はこの状態まで組み立てておきました。ワイヤー本体及び懸け具のパーツは塗装後に取り付ける予定です。

 

 ワイヤー本体及び懸け具のパーツ類です。これらを組み立てます。

 

 組み上がりました。懸け具は塗装後に組み付けますので、ここでは組まずに保管しました。

 

 ワイヤー本体を車体背面に仮組みした状態です。塗装後にこのようにセットし、懸け具や留め具などを取り付ける予定です。

 

 ステップ13からは砲塔の組み立てを行ないます。ステップ14では信号灯と内部のピストルポートを取り付けますが、パーツがそれぞれに二種類あって選択します。信号灯は無しとするのでパーツは収納状態のC6を選びます。ピストルポートは全て閉状態にするのでC17、C21、C27、C28を選びます。

 

 ステップ13とステップ14で組み立てるパーツ類です。まとめて一気に組み付けました。

 

 組み上がりました。砲塔内部もこのように再現しているのは今回のドラゴンのキットだけで、タミヤやファインモールドのキットでは砲塔内部のパーツがそもそもありません。  (続く)

 

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ゆるキャンから始めたNゲージ その24  大井川鐡道井川線のDB1形機関車を作る 下

2023年11月19日 | ゆるキャン△

 塗装前の組立が完了した、ワールド工芸の「KATO 8t」のキットである。大井川鐡道井川線の初代ディーゼル機関車として戦前から活躍したDB1形機関車の、現時点で唯一の適応キットとされる。

 右の白いのは鉄道ホビダスのきかんしゃトーマスのキットに付いていたラスティーのDB1形機関車だが、御覧のようにサイズが異なり、高さも長さも違っている。致命的なのは幅も違っていてサイズが狭いため、車輪がNゲージの線路にはまらない点であった。それでこの白い機関車についてはいずれ別の活用法を検討することにして、ひとまず箱に仕舞った。

 

 かくして上図の2輌は、現在も井川線の川根両国車両区にて健在であるDB8とDB9の再現として、塗装にとりかかることにした。

 

 参考にしたのは、上図の現役時代の塗装カラーをまとったDB9の写真である。千頭駅のホーム南側の転車台の上に載っている珍しい場面であるので、ネット上で見つけて、転車台の製作用の参考資料として保存している。以前に千頭駅を製作しているが、転車台だけはまだ未着手のままなので、いずれ作ろうと考えている。

 この写真によって、車体が赤色でクリーム色の帯が入り、屋根もクリーム色であり、足回りの軸部などが明るいグレーであることが分かる。このカラーに合わせることにした。

 

 サーフェイサーを薄く吹き付けた後、ミスターホビーの57番のエアクラフトグレーで上図のように下地を作った。その後、もう一度同じ色を薄く吹き付けた。足回りの軸部などはこの色のままに塗り分けておくことにした。

 

 クリーム色は、34番のクリームイエローと11番のつや消しホワイトを混ぜて作った。先に作ったDD100形機関車の帯のクリームよりは薄いカラーなので、ホワイトで彩度を低くして調整した。

 

 続いて赤色の部分を3番のレッドで塗った。最初はマスキングテープで塗り分けたが、小さいのでテープが剥がれやすく、塗料もテープ内に染みたりして失敗したため、筆塗りで塗り直した。

 ところが、翌日に川本氏が遊びにきた際に「これは違うで、屋根は赤やで」と指摘してきたので、驚いた。

 

 それで別の写真を検索して、上図のDB8の画像を見つけたが、確かに屋根は赤色であった。ただ、風雨にさらされて塗料が剥げ落ちて、下のクリーム色が露出している状態であった。川本氏によれば、クリーム色の上に赤色を重ねているから、上の赤色が剥げてくるとこうなる、ということであった。

 そういえば、同じツートンカラーのDD100形機関車のほうは屋根が赤色だったな、と思い出した。

 

 そこで屋根を赤色に塗り直した。

 

 塗装後に線路に「入線」させてみた。あー、ええ感じですね、可愛いですね、と嫁さんもスマホで撮影していた。

 

 カメラの高さを車輌に合わせると、上図のようにリアルに見えてくる。戦車も鉄道もこれは同じだな、と思った。

 

 川本氏によれば、DB1形機関車が現役で運用されていた頃は、客車だけでなく貨車のほうも色々と引いていたそうである。それで貨車も幾つか要るな、と考えて鉄道コレクションの第1弾の貨車セットを2つ、中古ショップで買ってきてあったので、DB1形機関車のついでに仕上げることにした。

 この貨車セット、商品名は「私鉄木造貸車 ワフ・ト」だが、大井川鐡道井川線のcワフ0形、cト100形とサイズおよび外観がほぼ同じなので、井川線のジオラマで使えると思って、後日さらに1セットを追加購入したので、DB1形機関車が牽引する最大6輌の貨物列車が再現出来ることになった。

 鉄道コレクションのパッケージに入っていた時点では車輪がプラスチック製なので、これを金属製の車輪に交換しておいた。上図はその交換後の姿である。

 

 かくして、DB1形機関車2輌も完成したので、大井川鐡道井川線の初代、2代目、3代目の現行形の三車種が揃った。残るは、各務原なでしこもアプトいちしろ駅にて「ブッピガン」を見物したアプト式電気機関車のED90形であるが、これは「ていくわん」のキットが完売し絶版となって久しい今となっては、どうにもならない。

 ただ、2024年4月からのゆるキャンのアニメ3期に大井川鐡道が登場して、井川線のアプト式列車も出ることが確実になったため、それを契機としてNゲージの井川線車輌の新製品がリリースされるかもしれない、という噂がある。

 そういえば、トミックスもカトーもグリーンマックスもマイクロエースも、大井川鐡道本線の車輌はそれぞれに出しているが、井川線の車輌は今に至るまで全然出していない。ゆるキャンのアニメ3期のブームにあやかって仕掛けてくる可能性が無いとは言えない。個人的には、期待せずに楽しみに待つことにしようと思う。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く35 その3  みずがき湖の展望台

2023年11月18日 | ゆるキャン△

 みずがき湖の周縁には車道が回っていて、散策路としても使われていますが、車で湖のまわりを一周することも出来ます。上図の向こう側に見える鹿鳴峡大橋がなかなか立派なので、ぐるりと回って一度渡ってみようと考えましたが、その思い付きが実は大正解でした。

 

 とりあえず、上図の展望台まで来ました。原作コミック第12巻48ページ1コマ目のアングルです。

 

 右のコマですね。展望台への入り口は、展望台を過ぎて反対側にありますので、歩きでも車でも展望台をいったん通り過ぎることになります。初めて展望台の建物に近づいた時に、入口が見当たらなくて「あれ?どこから入るんだ?」と思いました。

 

 私は車で移動してきたので、展望台入口の向かいの駐車場に車を停めました。上図のように、展望台への入り口は、展望台の北20メートルに位置していて、ちょっと離れています。横の道路から直接階段で上がって入れるようにしなかったのは、理由があったのでしょうか。

 

 展望台の内部です。意外と広々とした空間です。道路に面した部分にのみ壁が付けられ、あとの三方は御覧のように開放されていますので、みずがき湖の湖面と景色を180度の視界にて眺めることが出来ます。

 

 この角度が、だいたい原作コミック第12巻48ページ2コマ目のアングルになります。先に挙げた作中シーンの左のコマです。

 

 この展望台にて5分ほど景色を眺めて過ごしました。

 

 まさに、上のシーンの大垣千明、犬山あおいの気分でした。人工の湖もええもんやな、でした。

 

 展望台からみてほぼ正面には、上図の塩川ダムの堤体が見えました。前の作中シーンは広域ワイドビューの画なので、上図の塩川ダムの堤体もちゃんと描かれています。私のデジカメでは広域ワイドビュー撮影が出来ませんので、作中シーンと同じ範囲を二枚に分けて撮ることが時々あります。

 

 この展望台の内部空間は、御覧のように第65話の表紙にもなっています。大垣千明の自撮りアングルですが、かなりワイドに描いていますので、奥行きが長い感じになっていて、実際よりも大きな建物に見えてしまいます。

 

 記念に私も同じようなアングルで自撮りしました。どうしても笑ってしまって、ちょっとデジカメの角度を間違えてしまいましたので、やや斜めに写ってしまいました。  (続く)

 

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知波単学園 九七式中戦車(久保田車) 作ります!! その3

2023年11月17日 | ガルパン模型制作記

 ステップ8では車長用キューポラを組み立てます。ハッチ上の視察窓は閉状態にしますのでC15を選択します。
 ステップ9では砲塔背面の機銃を組み立てます。こちらも閉状態のC19を選択します。ステップ10では主砲を組み立てます。主砲の砲身はC33を選び、防盾部分はピストルポートが閉じた状態のC26を選択します。

 

 ステップ8で組み立てる車長用キューポラのパーツ群です。

 

 ハッチを開閉自在にするために未接着とし、それ以外は組み付けました。

 

 ステップ9で組み立てる砲塔背面の機銃のパーツ類です。

 

 組み上がりました。こちらの機銃もクルクルと回る可動状態に出来るのが良いです。

 

 ステップ10で組み立てる主砲関連のパーツ類です。

 

 組み上がりました。

 

 ステップ11では排気管、車体腹部やフェンダーなどを組み立てます。エッチングパーツもあちこちに付けますが、MA3、MA4、MA15、MA16は劇中車に見えませんので不要です。

 

 まずは左右の排気管と背面部分のパーツ類。

 

 組み上がりました。

 

 続いて車体の各部と左右のフェンダーのパーツ群。

 

 一気に組み上げました。ドラゴン製品ならばでの正確さ、精密さでキッチリと気持良いほどに組み合わさりました。

 

 フェンダーの取り付け部分もリアルに再現されています。

 

 排気管のメッシュカバーはエッチングパーツでした。ファインモールドのキットに入っていた治具を再活用して曲げ加工しました。

 

 排気管に組み付けました。  (続く)

 

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伏見歴史散歩7 伏見稲荷の松の下屋

2023年11月16日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 伏見稲荷大社の境内地の南側に位置する、松の下屋及びお茶屋は、もと神官の秦姓祠官松本家の居宅であったところです。今回の特別公開においては両方とも対象となっていたので、まず北側にあるお茶屋を見学することにして、上図のお茶屋への通用口へと向かいました。

 

 通用口をくぐるとすぐ右側に玄関口がありました。

 

 玄関口より左手には裾庭ごしにお茶屋の北縁などが見えました。玄関口から入ると土間廊の空間になっていて、そのまま真っ直ぐ進むと・・・。

 

 南側の松の下屋の前庇の下に出ました。突き当りは松の下屋の主屋の裾になりますから、それ以上は進めませんでした。お茶屋と松の下屋を連絡する通路空間が一切見当たらないことに気付き、だからそれぞれの玄関口が別々になっていたのか、と納得しました。

 

 引き返して再びお茶屋の土間廊に戻り、式台から内部の書院などを望みました。京都の古社寺にはよく見られる客殿の建物のそれに近い雰囲気でしたが、建具の飾り金具や柱の釘隠しなどに皇室系の意匠がみられました。

 

 それもそのはず、このお茶屋は江戸期の寛永十八年(1641)に、当時の院の非蔵人として仕えていた伏見稲荷社目代の羽倉延次が、後水尾上皇より御所の古御殿の一部を拝領して移したものです。

 躙口(にじりぐち)をもたない、いわゆる宮廷貴人好みの茶室で、書院式茶室の貴重な遺構とされています。宮廷風の書院造をベースにして随所に数寄屋造の意匠を巧みに取り入れてあり、もとは古御殿の奥書院あたりに接した茶室空間部分であったのだろうか、と拝察しました。

 

 外観は、江戸期の御殿建築らしい簡素だが上品かつ繊細なしつらえにてまとめられています。現在の京都御所の建築群よりも古い時期の遺構だけに、京都御所の建物には見られない古式な要素が随所に見られます。

 建物の構造は、身舎(もや)と玄関と車寄の三棟を干形に連接して一つの構えとなり、屋根は入母屋造りです。身舎(もや)は書院の七畳の上の間、八畳の下の間の二室からなり、菱格子の欄間を境にして設えが異なっています。上の間では、正面に張り出た一畳の本床、その左手の違い棚、右手の花頭窓のある書院の造りが見られます。

 このような、床、棚、書院を一ヶ所に集める構成は、書院造りの基本であり、茶屋としてはかなり堅い意匠で格調高い内部空間が実現されています。こうした傾向の遺構は数少なく貴重で、国の重要文化財に指定されています。

 

 お茶屋から庭園ごしに松の下屋を見ました。庭園に佇む風雅な二階建ての建物です。大正年間に建てられたものといい、当時の上流階級の和風住居建築の典型とされています。

 

 庭園をひととおり回りました。園路の上のピークには瑞芳軒と呼ばれる茶室の建物がありますが、今回は非公開でした。

 

 庭園を一周してお茶屋の脇に戻り、順路にしたがってお茶屋の東側を回って退出しました。

 

 表門の横にある案内説明板です。入る時に二回、出る際にもう一回読んで、見てきた建築群の全体像を把握しました。
 この時点で、時刻は15時44分になっていました。思ったよりも時間を費やしていたことに気付き、17時までに祇園四条へ戻れるように、少し足を早めました。

 

 伏見稲荷大社の楼門前に一礼して通り過ぎ、裏参道から出るべく北へ進みました。

 

 裏参道口付近から見た、二の鳥居と手水舎。

 

 裏参道は、外国人観光客で賑わっていました。なんで正参道から入らないんだろうな、そっちのほうが空いてて歩きやすいのにな、と思ったりしました。

 

 15時50分、京阪の伏見稲荷駅に戻りました。それから祇園四条へ向かい、この日の散策行程を終えました。

 ですが、この日の伏見エリア歴史散策は、計画したルートの半分にあたりましたので、後の半分をほぼ半年後の11月3日にたどりました。次回はその散策コースを紹介します。  (続く)

 

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