気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

苫小牧メイプル学園 Mk.Ⅵ軽戦車 作ります!! その6

2022年03月31日 | ガルパン模型制作記

 ステップ16では砲塔を組み立てます。作中車ではかなり細部が省略されており、エッチングパーツP9、P13、P17、P22を組み合わせる部品も不要です。該当する部品は、コミック第8巻の63ページ2コマ目や72ページ3コマ目の描写にも見当たりません。

 

 組み立てるパーツ、部品です。これらを組み合わせます。

 

 作中車の砲塔部分の描写を改めて確認しましょう。前述のようにP17以下に該当する部品はなく、前照灯のハンドルも省かれています。さらに砲塔後端のアンテナ基部ですが、その取り付け位置がガイド図の指示位置よりも下にあります。アンテナに関しては本体の改造も行ないますので、基部の取り付けも後で行ないます。

 

 とりあえず、組み付けられる部分は全て取り付けました。上図左下にあるライト用円環のパーツD19は不要と判断して取り付けませんでした。

 

 ステップ17で砲塔のハッチ類などを組み付けます。P4は作中車にありませんので不要です。
 ステップ18で砲塔を車体にセットします。組み立てガイド図ではステップ18がラストになりますが、さらにガルパン仕様への追加工作が続きますので、作業工程はまだ終わりません。

 

 ステップ17で組み立てる部品群です。ハッチのD21、D22、D23、D24はピットマルチ使用によって開閉自在とする予定です。

 

 組み上がりました。独特の形状がなかなかに印象的です。

 

 ステップ18で、砲塔を車体にセットしました。

 

 車体のサイズに対して砲塔が大きくみえる、頭デッカチな姿が面白いです。組み立てガイドの図ではここで組み立てが終わりますが、ガルパンの作中車に仕上げるには更に追加工作が三ヶ所で必要となります。

 

 追加工作の一つ目は、上図のように左右のフェンダーの前端を延ばすことです。一応キットにもパーツは含まれていますが、形状が異なるので改造が必要となり、ステップ18の完了後に行なうことにしていました。
 御覧のように、作中車の左右のフェンダー前端は独特の形状に造られています。これに合わせます。

 

 保管してあったフェンダー前端のパーツC5とC6です。これらの形状を改造します。オリジナルでは側面リブが上に付きますが、作中車では下に付きます。

 

 御覧のような形状です。側面のリブが下向きに付き、かつエッジが取ってあります。ごく一般的なフェンダー前端の形に描かれています。

 

 他のシーンでも、御覧のように前端が長く下に伸びているのが見えます。

 

 パーツC5およびC6の側面上のリブを丁寧に切り取って下に移植し、角を少しヤスってエッジをとりました。

 

 これでガルパン仕様への追加工作の一つ目が完了しました。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アハトゥンク・ガールズ&パンツァー3 「最終章」第1話~第3話編

2022年03月30日 | ガールズ&パンツァー

 去る2月17日に発売されました「アハトゥンク・ガールズ&パンツァー」の3冊目です。「最終章」シリーズの第1話から第3話までの登場車輌を収録しています。

 ということは、第4話から第6話までの登場車輌を収録した4冊目が出る、ということですかね?第4話以降にも新たに出てくる車輌が幾つかあるということですかね・・・?
 この本は発売日を完全に忘れていて、予約もしていませんでしたが、新たなガルパン仲間のS氏が買ってきたのを見て思い出して、その数日後に河原町の丸善にて買いました。

 従来、この「アハトゥンク・ガールズ&パンツァー」は自身のガルパン模型の参考資料として利用しており、1冊目も2冊目も大いに活用していましたが、今回の3冊目はどうも使用する機会がないので、しばらく本棚に仕舞ったままになりそうです。
 というのは、最近の私のガルパン車輌の製作対象がコミック版の作中車になっていて、今回の3冊目には収録されていない車輌ばかりであるからです。アニメの劇中車に関しては既に制作を終えているか、2冊目までに収録される車輌が対象であるかのいずれかであるからです。
 ちなみに今年2022年に入ってから製作したガルパン車輌のプラモは、今回記事公開日の3月30日時点で22輌を数えますが、うち17輌がコミック版の作中車でした。

 現時点においても「リボンの武者」の作中車を幾つか製作していますが、出来ればこうしたコミック版車輌の「アハトゥンク・ガールズ&パンツァー」も刊行していただければ、と希望します。
 なにしろコミック版だけでも「リボンの武者」の他に「リトルアーミー」「激闘マジノ戦ですっ」「フェイズエリカ」「フェイズエリカのこぼれ話」「プラウダ戦記」「樅の木と鉄の羽の魔女」等、豊富にありますから、それらの作中車を全部収録すれば、なかなかのボリュームの一冊になることは間違いありません。

 いかがでしょうかね、大日本絵画さん。

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く37 その23 「水戸城大手門です!!」

2022年03月29日 | 大洗巡礼記

 水戸城二の丸角櫓の見学にて印象に残った展示品がありました。上図の壁の構造を示した模型です。御覧の通り、漆喰壁の製造方法を段階的に再現して表示してあり、これはおそらく戦国期の土壁の製造法を発展させたものと推測されます。

 

 説明板を読むと、1から4までの工程がありますが、このうち3までが戦国期の手法を受け継いでいるのではないかと思います。戦国後期に鉄砲が使われ出してから、弾が貫通しやすい板壁から貫通しにくい土壁への変換が全国的に行われたのではないか、とする論考を以前に読んだ記憶がありますが、その土壁への変換は、寺院建築の土壁の技法が参考にされているのではないか、と個人的に思っています。

 

 そもそも、江戸期の城郭建築とくに櫓などが漆喰壁を常用するようになると、技法のうえのみならず外観的にも寺院建築とほとんど変わらなくなってきます。

 日本の建築において最も歴史が長いのが神社建築、次いで寺院建築なので、室町期にやっと始まった城郭建築が先行する建築技法を参考にして、なるべく堅牢な、そして耐久性もあるものを造ろうとすると、寺院建築しか選択肢が無かった筈です。構造的には貧弱なゆえに、式年造替(しきねんぞうたい)の名目で何度も建て替えが必須となる神社建築の技法では防御戦に耐えうる城郭建築は造れないからです。

 

 二の丸角櫓から大手門へ移動しました。以前の訪問時には土塁の残存部しか無かった大手口が、御覧のように大手門だけでなく塀も高土塁もセットで復元され、見応えある大手虎口の重厚な構えを甦らせていました。明治期の古写真が参考になったのでしょうが、江戸期の雰囲気がリアルに味わえます。

 

 令和元年9月に復元なった大手門の裏側です。西面して建つので、午前中は内側にあかるく日があたります。

 

 開け放たれた門口の向こうには、堀切をまたぐ大手橋を経て藩校の弘道館の現存建築群が望まれました。

 

 大手門をくぐっていったん大手橋まで行ってみました。この大手橋は、前回の訪問時に行った時と同じ状態でした。大手門がまだ無かった頃でしたので、大手虎口もスーッと通っただけで二の丸展示館へ直行した記憶があります。

 

 今回は、立派な大手門が水戸藩の正式な門としての格式と威容を示して建っていました。説明ガイドによれば、水戸藩成立直後に、それまで在った佐竹氏建立の門を建て替えて江戸初期の様式で一新したものであろう、とされています。

 

 確かに構造的には古式で、戦国期の櫓門の手法も受け継がれているようです。門口は防御性を重視して狭くとり、両脇の潜り戸も設け、板壁を張った姿がいかにも古式を思わせます。個人的には、奈良県の大和郡山城の追手門に似た雰囲気があるな、と思いました。

 

 珍しかったのは上図の両脇の瓦塀(かわらべい)と呼ばれる一種の練塀(ねりべい)でした。瓦塀はもともと寺院の土塀の一形態として平安期から存在し、現存遺構は鎌倉末期頃からのものが多いです。

 京都では大徳寺や天龍寺や本隆寺、今宮神社など各地の寺社で色々な瓦塀が見られますが、城郭において瓦塀を見たのは、私の記憶の限りでは和歌山城ぐらいで、他には全然思い当りません。
 なので、この水戸城大手門の復元瓦塀は、規模も大きいことによって必見のものと言えましょう。

 

 そしてU氏のいつもの決め台詞、「水戸藩28万4千石の・・・」が。

 彼の先祖は、遠くは笠間氏の分流と伝わり、江戸期には水戸藩の勘定奉行も務めた階級の上級武士であったといい、江戸期の屋敷地はいまのJR水戸駅北口バスターミナルの西側にあったそうです。
 それで、先祖は水戸在住だったのか、と聞いた事がありますが、答えは「江戸に常住してて、職務によって三か月ほど水戸に滞在したようだ」でした。その水戸の屋敷地からは、この大手門はちょっと見えにくかったかもしれませんが、二の丸角櫓は見えた筈です。

 

 大手門の脇から、下のかつての堀切の底の車道、県道232号線に連絡する階段道があります。そこを降りました。

 

 この県道232号線が通る堀切が、かつての水戸城の二の丸と三の丸とを隔てる防御線でした。いまでは宅地化によって三の丸側がかなり削られてしまいましたが、それでも大堀切の面影は残っていました。

 

 大手門前の大手橋を下から見ました。その規模が、そのまま二の丸と三の丸とを隔てる堀切の規模を端的に物語っています。これを見て今回の水戸城跡散策は終了となり、あとは駅までU氏と雑談をしながら降りてゆきました。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

苫小牧メイプル学園 Mk.Ⅵ軽戦車 作ります!! その5

2022年03月28日 | ガルパン模型制作記

 ステップ11では、右側フェンダー上の組み立てを行ないます。上図の左がプラパーツのみでの組み立て工程なので、それに従います。

 

 エッチングパーツを使いませんので、プラパーツ4つを組むだけで済みます。

 

 組み上がりました。

 

 ステップ12では排気管や背面部の各パーツを組み付けます。ここでは一部にエッチングパーツが含まれますので、瞬間接着剤も用意して進めます。

 

 まず背面部の各パーツを組み付けます。ナンバープレートのようですが、作中車にも見られますので、ガイド図の通りに組み付けてゆきます。

 

 組み上がりました。細かいパーツを無くさないように慎重に扱って丁寧にひとつひとつ取り付けてゆくので、根気が要りました。

 

 続いて排気管の組み立てです。これは楽に出来ます。

 

 組み上がりました。車体への取り付けは塗装後に行う予定です。それまで保管しておきます。

 

 ステップ13では発煙筒やアンテナを組み立てます。発煙筒はそのまま組みますが、アンテナは作中車のそれと形状が異なるので、後で改造することにしました。アンテナ線のD35はなぜか作中車には見えませんので不要としました。
 ステップでは砲塔右側につく前照灯を組み立てます。作中車の前照灯は細部が省略されており、エッチングパーツのP10、P15、P16、P22にあたる部品は見えませんので不要となります。またレンズ部も大きいので、D19は付けないことにしました。レンズのクリアパーツもF2では小さいので、ウェーブのHアイズのクリアパーツから適当なサイズのものを転用します。
 ステップ15は、武装の機関砲と同軸機銃の組み立てです。これはガイドの通りに進めます。

 

 ステップ13から15までの工程を上図のようにまとめて行ないました。上図右端上にみえる丸いクリアパーツは、作中車の仕様にあわせて調達したウェーブのHアイズのクリアパーツです。

 

 組み上がりました。このうちアンテナ基部のD5は作中車のより小さいため、いったん組んでおいて後で改造することにしました。作中車はあちこちが省略気味で描かれており、一部のパーツはなぜか形状を変えてあるので、今回のキットにおいても色々とガルパン仕様への変更や追加作業が加わるのでした。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

苫小牧メイプル学園 Mk.Ⅵ軽戦車 作ります!! その4

2022年03月27日 | ガルパン模型制作記

 ステップ7およびステップ8では、車輪を取り付けて履帯を組み立てます。履帯は、車輪への巻き付け部分を組み立て、それから直線部分を繋いでゆきます。私の製作では前後の車輪巻き付け部分、上下の直線部分の4つに分割して組み立てます。

 

 車輪を車体に取り付けました。車体側のダボ穴は半円形になっていますが、サスペンションを固定して接着したために転輪の並びがややずれていて、そのまま差し込むと転輪の片側が浮いてしまいました。そこで車体側のダボ穴をピンバイスで円形にくり抜いて、転輪の軸部を差し込みました。そうすることで転輪の全てが接地しました。

 

 今回の車輌の複雑すぎる組み立て工程は、なかなかうまくいかなかったと思います。一応、一列に並んで歪みもなく接地しましたが、車輪同士の間隔がやや詰まったようです。外見上はあまり分からない程度の差異ですので、このまま先に進みました。

 

 履帯を組み立てます。誘導輪に巻きつける部分から始めました。

 

 小さなパーツですので、紛失しないように、上図の綿棒ケースの蓋をトレイ代わりにしてパーツをまとめました。

 

 組み上がった状態です。この状態で塗装工程まで保管しておきました。

 

 続いて直線部分の組み立てを行ないます。これは一体成型のパーツが殆どなので、簡単に出来ました。

 

 左右の上下の直線部分が組み上がりました。この状態で塗装工程まで保管しておきました。

 

 ステップ9では左右のフェンダーを組み付けます。

 

 組み付ける前の状態です。

 

 組み上がった状態です。軽戦車にしてはかなり横幅があるという印象を受けました。

 

 ステップ10では車体各所の部品や装備品などを組み立てます。細部のパーツはエッチングパーツでの選択も可能になっていますが、プラパーツでも細部がよく出来ているキットですので、極力エッチングパーツは使わないようにしました。他の「リボンの武者」の作中車も殆どエッチングパーツ無しで作っていますので、それとの外見上の統一をはかるという面もありました。

 ここでの注意点は、キットには無くて作中車には存在する左フェンダー上の雑具箱を後で追加するため、該当位置の装備品を除外する事、フェンダー前端部の形状が作中車と異なるので後で改造する、の2つになります。除外して不要になる装備品はC8とC14で、それらの留め具のC7、C9、C29も不要です。
 また消火器のC12、クランクロッドのC11、ジャッキ台のD38およびD39は塗装後に取り付けます。

 

 なので、ガイド図は細かくびっしりと描きこまれていますが、プラパーツでの組み立て作業だけに絞れば、参照すべき図の範囲も絞られてゆき、作業も思ったよりシンプルに進みました。上図がステップ10にて取り付けるプラパーツの全てでした。フェンダー前端部のC5およびC6は、改造を伴うので後のステップに回しました。

 

 全てのパーツを組み付けました。エッチングパーツを使わなくても、それなりの外観に仕上がっていました。改めてコミックを開くと、作中車も細部が割合に省略されて描かれていることに気付きましたので、この程度で充分だろうと思います。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く37 その22 「水戸城二の丸隅櫓です!!」

2022年03月26日 | 大洗巡礼記

 二の丸展示館にて水戸城全体模型を見学した後、時間になったので二の丸角櫓に向かいました。公開時間は9時30分からなので、それまで二の丸展示館にて展示品を全部見ておいたわけです。
 上図のように、玄関口のような門があり、これが9時30分前に開かれます。それまでは閉まっているので、水戸城跡の各所を回るにあたっては、9時30分から二の丸角櫓、それ以外はその前後に見る、というスケジュールが一般的になるでしょう。

 

 玄関口脇の説明板です。

 

 さらに、二の丸御殿の南側にあった御三階の説明板も見ました。現在、御三階の場所は見学可能範囲の外にあって見られないからです。昔は水戸第三高校の敷地内に裏門から入って見学が出来たそうですが、いまでは学校施設の敷地に立ち入る事自体がタブーになっていますから、U氏の言うように「三高を移転させるか、特別な措置によって立ち入り見学可能にしてもらわないと、御三階の場所に行けない」のでした。

 

 現状でも二の丸角櫓への見学用通路は水戸第三高校の敷地内を通っているため、御覧のような目隠し塀が両側に設けられています。

 

 通路を通って二の丸の南側に出ると、復元された土塀の内側のスペースに至ります。

 

 その先に、復元なった二の丸角櫓が見えてきます。塁線上の一段高く盛られた櫓台上に、二層の角櫓と北および東の多聞櫓を連結した形式の建物が建てられています。

 

 内側には窓が一切ありません。二方向の多聞櫓の端に出入口が設けられるのみです。
 水戸城にはもともと4つの櫓がありました。本丸の南西角櫓と北西各櫓、下の丸の浄光寺門横の角櫓、そしてこの二の丸角櫓、です。本丸の北西角櫓をのぞく3つの櫓が水戸城の南側つまり城下町側に配置されているため、城下から見上げた城の外観を意識して造られていることが伺えます。天守の代用とされた御三階も南側に寄っています。

 

 平成22年からの発掘調査で出土した、建立当時の礎石です。一部は復元櫓の基礎に再利用されているそうです。

 

 二の丸角櫓の中に入りました。見学客出入口は北側の北多聞櫓の出入口があてられていて、奥まで行って戻ってくる形の見学順路になっていました。御覧のように、北多聞櫓の内部は休憩室およびパネル展示室になっていました。奥の間口の向こうが角櫓です。

 

 角櫓の内部です。塁線の隅に位置して二層に造られます。二層目への階段もありますが、二層目は公開範囲外でした。窓からは水戸駅方面の眺めがよくききました。

 

 角櫓から奥へ進んで東多聞櫓の中に進みました。内部空間はここまでで、奥まで行って折り返します。

 

 左手に古そうな大きな戸板のようなものが立てかけてありました。板の一部に丹とみられる朱色の顔料が僅かにとどめられています。かつての櫓の残存部材かな、と思いましたが・・・。

 

 説明板によれば、他所の寺に伝わっていた、かつての大手門の門扉と伝えるものでした。坂東市にあったというのがちょっと意外でしたが、この門扉が発見されて水戸市に寄贈されたことが、今回の大手門および二の丸角櫓の復元事業の発端になったそうですから、意義の大きな伝存文化財であったわけです。

 

 ですが、大手門の門扉にしては小さいので、城内のいずれかの門の扉であったのではないかとされているようです。
 しかし、U氏はそれに否定的で、何度も首を傾げていました。

「これはさ、伝承通りの大手門の部材で、もとは脇の潜り戸の門扉だったのと違うかな、そうじゃなければ、門扉の板を再利用して寺の山門の扉に転用していたんだろうな・・・。星野はどう思う?」
「その可能性も有り得るね・・・」

 その可能性は、門扉の板の一部にいまものこる丹とみられる朱色の顔料に示されている、と感じたのでした。水戸城の建築は白木のままだったそうなので、丹の色は寺の門だったときの名残かもしれないな、と考えました。
 伝承通りであれば、大手門の門扉は大きいですから、潜り戸の扉であったかはともかく、寺の山門にそのまま使うのは無理があった筈です。部材をいったんばらして、寺の山門の扉に合わせて造り直し、寺院建築の標準カラーである丹色に塗って使用したのではないか、と推測したのでした。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(車輌目次表紙)山梨楯無高校ムカデさんチーム 九七式軽装甲車テケ(リボンの武者版)

2022年03月25日 | ガールズ&パンツァー

  使用キット  ファインモールド 公式キット (商品コード41104

  制作期間   2019年11月27日~12月12日

  製作記事   その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 その8 完成です!!

  総評・備考
 ガルパンコミック「リボンの武者」に登場する、主人公の山梨楯無高校ムカデさんチームは、九七式軽装甲車テケ単独のチームである。戦車に乗り込む鶴姫しずか及び松風鈴、事務方の遠藤はるかの3人で構成され、緒戦を戦った。強襲戦車競技イベント「大鍋」大会に参加して第1回戦でフライング・タンカースチームを破り、第2回戦では赤組に属して徹夜の激闘を経験し、対鬼さんチーム任務部隊にも参加した。続いて北海道名寄市での対ボンプル高校戦では「ムカデさんチーム連合」に参加し、茨城県大洗町での対大洗女子学園戦では「強襲戦車競技連合」に参戦した。
 ムカデさんチームの九七式軽装甲車テケは、ファインモールドから出ていた製品(下のキット一覧の2)をそのまま公式キット化しており(下のキット一覧の1)、2022年2月現在でも店頭、通販の双方で入手可能である。小型でパーツが細かくて組み立ても手間取るかもしれないが、作中車準拠であるために改造や修正は不要であり、作業全体の難度はさほどに高くない。

  公式および適応キット一覧(2021年10月現在) 黄帯が今回の使用キット  


目次へ

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

苫小牧メイプル学園 Mk.Ⅵ軽戦車 作ります!! その3

2022年03月24日 | ガルパン模型制作記

 ステップ5およびステップ6にて足回りを組み立てます。今回のキットの最も重要かつ難しい部分で、御覧のとおり組み立てガイド図もパーツ数の多さによって細かくなって、ちょっと読みづらくなってきています。ここは作業スピードを落として一つ一つ丁寧に、慎重に組んでゆく姿勢が求められるでしょう。
 ステップ5では左側の車輪、ステップ6では右側の車輪を組みますが、手順は同じです。

 

 転輪の組み立てにとりかかりました。上図の6つのパーツを組み合わせます。

 

 組み合わせましたが、まだ接着していません。仮組みの状態のままで金属パーツの組み込みに進みます。

 

 金属パーツの棒とスプリングを上図のように組み合わせますが、これがなかなかに難しくて手間取りました。特にスプリングは弾力がありますから、はずみでピョーンと飛んでいってしまったり・・・。一番厄介だったのは棒の両端に付けるパーツB3で、0.5ミリ以下のサイズなのでピンセットでつまむのも一苦労でした。ちょっと気を抜くとポロリ、ピーンとどこかへ転がってそのまま帰らぬ客ならぬパーツとなるのでした。5個ぐらいは失いました。
 それで、パーツB3は取り付けを諦めて、他のパーツで代替することにしまして、その取り付けは後に回しました。

 

 この調子で次々に転輪を組みましたが、とにかく大変な作業でした。小さいパーツばかりなのと、金属パーツを使うので瞬間接着剤を併用しなければならず、接着そのものを間違ってやり直したりする箇所もたびたびでした。

 

 御覧のように、金属の棒とスプリングを大量に扱うので、保管にも気を使いましたが、1個は紛失しました。

 

 スプリングを使うので、転輪のサスアームは可動に出来るわけですが、そのために接着不要になっている箇所が、作業中に外れたりしてバラバラになることも珍しくありませんでした。バラバラになると、全てが最初からやり直しになってしまうのでした。

 

 そんな繰り返しを、4つもこなすので、とにかく気力と忍耐力とが求められました。すぐに「キィーッ!」と叫んでちゃぶ台返しに及ぶような短気の方には勤まらない作業の連続でした。織田信長さんには間違いなく無理だろうな・・・。

 

 ひたすら、耐えて耐えて、ミスを繰り返さないようにして、前回よりはうまく組み立ててゆくように心がける、という流れでした。

 

 四つ目の転輪セットの組み立て前には、コーヒーを淹れて20分ほど休憩し、折れそうになっていた心を休めました。20分でしたが、200分は休みたい気分でした。

 

 気合を入れ直して組み上げた四つ目の転輪セットです。ここでもパーツを4個飛ばして失いました。妖怪パーツ隠しが存在するかどうかは、もうどうでもよくなっていて、とうに探す気力は無くなっていました。とりあえず、ジャンクパーツから似たようなのを見繕って補完するにとどめました。

 

 苦闘3時間の後、ようやく左右の転輪が全て仕上がりました。向きが逆になっているので混同しないように、メモ用紙にパーツ番号を記して並べて保管しました。いままでのガルパン車輌キットの足回り部分の中で最も大変だった、と思います。
 それまではブロンコモデルのテトラークの足回りが一番大変だったのでしたが、今回のバルカンスケールモデルのこれが一番になりました。絶対に二度と作りたくない難キットのキングです。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く37 その21 「水戸城の模型です!!」

2022年03月23日 | 大洗巡礼記

 二ノ丸御殿の往時の姿は、二の丸展示館にある水戸城の全体模型を見れば理解出来ます。そこで二の丸展示館へ向かおうとしたところ、U氏が「待て」と制して右を指さしました。上図の玄関口が開いていました。

 

 二中見晴らし台、とは何か、とU氏を振り返って訊くと、「この北側は水戸第二中学校なんで二中だな、その敷地の脇にある見晴らし台をそう呼んでる。杉山坂を見下ろす塁線上の展望所だな」と答えてきました。

「塁線上にあるってことは、櫓とかがあった位置か」
「いや、櫓は無かったと思う。縄張り図だと土塀がずっと続いてる位置になる」
「すると、水戸城の歴史とは無関係なのか」
「まあ、そうだ。確か天覧記恩之碑というのが建っててさ、昭和四年だったかな、ここいらで陸軍が特別演習をやった際に天皇が御覧になったという場所らしいんだな」
「そうか。そういえば水戸の陸軍の配置部隊名は?」
「歩兵第二連隊だよ」
「えっ、じゃあ、中川大佐の・・・?」
「・・・そうだ。連隊長は中川州男大佐。二階級特進されて中将だけどな」
「ペリリューか・・・」
「うん・・・」

 しばらく、二人とも沈黙しました。

 

 かつて水戸に営舎を置いた歩兵第二連隊は、太平洋戦争にて第十四師団に所属してパラオ方面に出張、その主力はペリリュー島の守備を任されて歩兵第十五連隊とともに1万余の兵力を擁し、昭和19年9月から進攻してきた米軍第一海兵師団以下5万4千の精鋭を迎え撃ちました。激戦は11月まで続き、米軍側は1万4千の死傷者を出して第一海兵師団は壊滅的打撃を受けましたが、日本軍の歩兵第二連隊も連隊長中川州男大佐以下1万が戦死して玉砕、生き残りは僅かに446名であったといいます。

 

 見晴らし台から、上図の景色を遠くまで見渡しながら、U氏が呟くように言いました。
「この水戸平野で訓練し景色を胸に刻んだ将兵1万が、祖国の為に戦って散ったペリリューへ、星野は行ったんだっけな」
「ああ、国の戦跡巡拝遺骨収集団に参加して行った。平成五年の夏だったかな、あわせて70柱ほどの遺骨を拾って、千鳥ヶ淵に納めたよ」
「立派だ、実に立派な行いだ。歩兵第二連隊の英霊をよくぞ連れ帰ってくれた」
「・・・・」

 

 歩兵第二連隊の兵士たちが憩いの際に見上げたであろう、水戸城二の丸の大きなシイの老木を見上げました。自生と伝わり、樹齢は約400年余りとされていますから、関ケ原合戦の前後ぐらいに芽を出したということになるのでしょうか。

 当時の水戸はまだ佐竹義宣の支配下にあり、常陸国35万石の中心城下としての水戸もまだ整備中で、水戸城自体もまだ本丸地区のみであったとされています。現在の二の丸地域がどのようであったかはよく分かっていません。ただ、この自生のシイの木を残して伝えているぐらいですから、戦国末期までは自然のままの尾根地域だったのかもしれません。

 

 この大シイは、説明板にもあるように、水戸市の天然記念物に指定されています。

 

 大シイの下から北西方向へ100メートルほど歩いて、上図の二の丸展示館に着きました。ここが水戸城跡の観光ガイダンス施設となっていて、水戸城の全体模型も展示されています。

 

 早速、館内展示室中央の水戸城全体模型を見ました。さきほど見てきた本丸地区の範囲を見ました。
「この大手口にある門の位置はおかしいよな」
「推定模型やからしょうがないやん」
「それはそうだが、この推定の門の位置もおかしい。こんな構えの虎口があるもんかね」
「僕に文句を言わんといてくれんか・・・。お前が地元で水戸藩士の末裔なんやから、水戸藩の誇りにかけて文化財担当者にアドバイスしたらええのとちがうか・・・」
「俺にそんな権限は無い。むしろ星野が文化財行政にも関わってたんだから、それとなく助言すれば良かったんだよ」
「無茶を言うなよ、僕は水戸城跡関連の諸行政とは全く関わりが無いし、以前に協力していたのも県の悉皆調査のほうやったんやで」
「ああ、そうなのか・・・」

 

 続いて杉山門と杉山坂の範囲を見ました。
「杉山坂って、こんなんやったんやな」
「だろうな。坂道をまっすぐ登って塀に突き当たる。左に曲がって杉山門を通る。有事の際には門を固く閉めて坂を登ってくる敵を三方の塀の塁線上から迎え撃つ。杉が立ち並ぶことによって敵は城への視界が限られて死角が多くなる」
「うん、わかる」
「そこで、鉄砲三千挺を塀上に並べて撃ちまくる・・・」
「待て」
「なんだよ」
「水戸藩の鉄砲保有数は三千挺なんかね」
「いや、これは長篠の信長鉄砲隊の数だ」
「水戸とは関係あらへんやないか・・・」

 

 続いて二の丸の中心を占めた御殿の区域を見ました。
「なかなか立派なもんやね・・・」
「そうさ。なにしろ水戸藩28万4千石の城の御殿だからな」
「待て」
「なんだよ」
「水戸藩ってのは実収石高は35万石だったと聞いたんやけどね?」
「それは寛永検地の後の公称の石高だな。慶長の藩祖頼宣の頃は25万石、水戸家初代の頼房の時に元和の加増で28万4千石になったのさ。もっとも寛永以降も公称は28万石で通したらしい。実収もさ、35万石ということになってるが、実態の伴わない石直しを何度もやってるから、せいぜい30万石ぐらいがやっとだったという説もある」
「なんでや?石直しってのは、帳簿上の石高と実際の石高が合わなかった時に帳簿のほうを修正するんやろ?それを何度もやってて、なおかつ実収石高が35万石に満たないというのはどういうわけや」
「そりゃあ、水戸藩は御三家中で唯一の江戸定府になってたからだよ」
「江戸定府・・・、ああ、なるほど、そうか・・・価格差かあ」
「そう、星野なら分かるだろうけど、江戸と水戸との間の物価差が常にあるわけだ。藩主以下主な藩士は江戸常住だけど水戸にも屋敷とか職分があるから帳簿も二重になってしまうよな。しかし基準の物価は江戸に合わせてるから高いほうの値段で帳簿に書く。水戸の1石が江戸じゃ値上がってるから1.5石ぐらいで取引されてしまう。それで幕閣での公称石高は水戸中納言家としての格式にも繋がるから35万石となってるが、これは江戸の物価で計算しての数値だから、実際の水戸の石高はそれより少ないのが常態となる」
「ああ、よく分かるな、だから何度も石直しをやったわけか」
「そうだ。それでも物価が今と同じで上がり続けていたから、江戸と水戸との帳簿上の差はなかなか埋まらないわけ」
「そういうことやな・・・」

 

 二の丸御殿の一角には、当時は「御三階」と呼ばれた実質上の天守櫓が位置していました。昭和まで残っていましたが、太平洋戦争の空襲で焼失してしまいました。そのことが残念でならないのか、U氏はいつも「これの復原は水戸市民の悲願であるぞ」と言います。

「これは今回の復元事業では対象外やったのかね?」
「いや、最初の計画案では確か、御三階も復元しようかっていうね、意見もあった筈だよ。選択肢としては最上というか、シンボルの再興ということになるからな。でも位置が三高の敷地内にあたるんで、三高を立ち退かせないといけなくなる。そんな余裕は無かったところへコロナ流行でいっぺんにパアになった感がなくもない」
「なるほど」
「それにさ、今回の水戸城歴史的建造物復元整備事業というのも、二の丸角櫓の完成で完了ということになってる。市の財政面からも当分の間は次の整備事業というのは無理だ。大体、今回の復元工事だって予算の大半を市民からの寄付浄財でまかなってるんだぜ」
「それは聞いてる。大したもんやねえ。事業そのものも計画して発掘して建設して10年以上かかってるんやってね」
「そうだ、水戸藩28万4千石の誇りだぞ」

 

 御三階の南西の塁線の隅にU氏がさし指をすーっと移動させながら、「これから行く櫓はここだ」と言いました。

 

 この二の丸隅櫓です。今回の水戸城歴史的建造物復元整備事業のラストとして令和二年10月に竣工しました。
「この櫓が復元対象に選ばれたのは、もちろん城下町の大手筋から一番よく見える櫓で、かつ城下のシンボルとして江戸期を通じて親しまれた歴史があったからだな」
「待て」
「なんだよ」
「城下のシンボルってことは、他にはこういう櫓が無かったということかね?」
「まあ、そういうこともあっただろうな。水戸城の櫓の数は他の城に比べたら最低限でさ、本丸にだって櫓はひとつしか無かったし、石垣も無かったんだぞ・・・。御三家のなかじゃ一番地味だったんだ。尾張や紀伊みたいに立派な天守閣を構えることもせずに御三階で済ませてるしな」

 

 地味な城、というのはよく分かりました。模型で見ても石垣が表されていない土造りの素朴さが濃厚に感じられ、表玄関口にあたる大手門の構えすら地味に見えてしまいます。この大手門も復元されており、後で見に行く予定でしたから、この模型で江戸期の姿を捉えておくのは、よい予習になりました。

 

 そして大手門と堀切をはさんで西側には三の丸が広がります。大手門と向かい合う位置には藩校の弘道館の施設があります。この弘道館はいまも主要建築群が現存して国の重要文化財に指定され、一般公開されています。弘道館は以前にU氏の案内で行っています(見学記事はこちら)ので、今回の見学では立ち寄りませんでした。

 

 とにかく何度みても勉強になる水戸城全体模型でした。模型にあまり縁のない見学者でも楽しく見てゆくそうですから、模型好きの私には大変に楽しい展示品でありました。全国各地の城跡へ行くと、大体は現地の資料館などにこういった城の模型が置いてあるので、それらを見て回るのも個人的な楽しみの一つでした。

 ですが、地元の京都市の二条城においては、資料館はおろかガイダンス施設すら存在しませんから、全体模型も置いてありません。二条城の東向かいにあるANAクラウンプラザホテル京都に菓子職人が砂糖で作った全体模型がありますが、まだ見たことがないので、いずれ行かなければ、と思っています。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゆるキャン△の聖地を行く23 その13  近鉄車輌とジェームスたち

2022年03月22日 | ゆるキャン△

 千頭の「カフェうえまる」にてブルースムージーをいただいた後、店内のゆるキャンコーナーを見ました。地元の川根本町がゆるキャンブームにあやかって観光マップなどを刊行しており、作中に登場するこのお店もノリノリでブームに乗っかってポスター陳列やグッズ販売を行なっていました。

 

 今回はこのコースターのなでしこバージョンを購入しました。なにしろ豚串食べてる有名なシーンですから。

 

 コースターの原画のポスターは、欲しかったのですが非売品でした。このお店の限定メニューの「長島ダムカレー」が描写されており、まさにこのお店に飾られるべく描きおろされたポスターにみえますが、実際には原作コミック第11巻4ページの第58話トップ絵です。ただし、店内の描写は移転前の、もとは駅の北西に位置していた頃の状況になっています。

 

 このシャツも買おうかと思いましたが、いい年の当方には痛いかもしれない、と思い直してやめました。

 

 16時25分に店を退出し、千頭駅に向かいました。

 

 千頭駅前に着きました。帰りの列車は16時55分発なので、まだ30分ぐらいありました。

 

 近くのお店で前回も食べた川根茶ソフトクリームを購入し、食べつつ駅前をウロウロ・・・。

 

 この千頭駅の駅舎も、これで見納めだな・・・。ゆるキャン聖地の大井川エリア巡りが最奥の畑薙大吊橋までをクリアしてやっと完了したからね・・・。

 

 駅内の売店をのぞいた後、16時40分に改札を通ってホームに入りました。驚いたことに、いままで1番線に入っていた近鉄車輌が、このときは作中通りの3番線に停まっていました。最後の最後で、原作コミック第10巻126ページ4コマ目のアングルシーンをそのまま見られるとは思いませんでした。ラストのラッキーでしょうか。

 

 嬉しさのあまり、ホームを小走りに車輌の向こう側まで行って、上図のアングルで撮りました。ラスト巡礼の帰りの車輌が、我らが関西の近鉄車輌とは、いいぞ、いいじゃないですか、と大満足でした。

 

 反対側のトーマスファミリーも一緒に撮りました。相変わらずのパーシー、ヒロ、ジェームスの並びでした。ずうっとこのままの並びで静態展示されているのかな、と思ったのですが・・・。

 

 後日、赤いジェームスのみが、元のC56形44号機に戻って新金谷駅の機関区に戻っている画像をネットで見かけました。なるほどジェームスだけは動けるわけだ、と納得しました。

 その際に大井川鉄道公式サイトのプレリリースの一文を読んで、なるほどと感心しました。「大井川鐵道のトーマスやパーシーなどを紹介する場合、“機関車を改造した”、“顔をつけた”という表現はご遠慮ください」とあったからでした。
 確かに「きかんしゃトーマス」のオリジナルの世界観においては、トーマスはトーマスであって、ジェームスはジェームス以外の何ものでもありません。ファンの子供たちはそれが当たり前だと信じて楽しんでいるわけです。大井川鉄道の果てにあのソドー島があって、他の皆が揃っているんだ、と思い込んで楽しく遊んでいるわけです。元の機関車がどうのこうの、という考え方は余計な雑念だったな、と襟を正した次第でした。

 なので、ゆるキャンの作中の描写にトーマス達が一切出ていなかったのも、これで初めて理解出来たように思います。

 以上で、「ゆるキャン△の聖地をゆく23」の記述を完了しました。これにより、今回のレポート二部作(井川編、畑薙編)は完結となります。  (了)

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(車輌目次表紙)鹿児島竪琴高校 九五式軽戦車(リボンの武者版)

2022年03月21日 | ガールズ&パンツァー

  使用キット  ファインモールド  (商品コードFM16

  制作期間   2019年11月24日~11月30日

  製作記事   その1 その2 その3 その4 完成です!!

  総評・備考
 ガルパンコミック「リボンの武者」に登場する鹿児島の竪琴高校チームは、ビルマ(現ミャンマー)テイストのチームであり戦車もビルマ軍が日本軍より貸与された車輌に合わせている。隊長のアウンは、強襲戦車競技イベント「大鍋」大会に参加して第1回戦でニーベルンゲンチームに敗れるものの、第2回戦では青組に属して徹夜の激闘を経験して最高ポイントを稼ぎ、大会での暫定優勝を飾った。続いて北海道名寄市での対ボンプル高校戦では「ムカデさんチーム連合」に参加、茨城県大洗町での対大洗女子学園戦では「強襲戦車競技連合」に参戦し、それぞれの試合でフラッグ車を務めた。
 アウン以下チームの搭乗車は九五式軽戦車で、知波単学園チームの福田車と同じく通常型の後期タイプであるようである。ファインモールド発の公式キット(下のキット一覧の1)をはじめ、タミヤやドラゴンから各種の適応キットが出ているが、今回の作中車の製作ではファインモールドの適応キットの一つ(下のキット一覧の2)を利用した。

 

  公式および適応キット一覧(2021年10月現在) 黄帯が今回の使用キット  


目次へ

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

苫小牧メイプル学園 Mk.Ⅵ軽戦車 作ります!! その2

2022年03月20日 | ガルパン模型制作記

 ステップ1では車体各所の部品を組み立てます。ステップ2では車体の各所に部品を組み付けます。この段階で車体の概形が大体出来上がってきます。今回のキットではオプションとしてエッチングパーツも大量にセットされていますが、それらは極力使わない方向で作業を進めます。
 なので、ステップ1にてパーツC4に付けるP12およびP21も不要です。そもそも作中車には該当パーツの描写が無いシーンが多いからです。さらにC26、C28もハッチを閉状態にするので不要です。
 またステップ2の図においてパーツD36とD37は逆になっているので注意が必要です。内部は作りませんので操縦席のD12およびD13は不要です。

 

 ステップ1で組み立てる各部品のパーツです。ハッチC4に付けるP12およびP21は不要でした。

 

 ハッチC4に付けるハンドルのP12およびP21は、上掲の「リボンの武者」コミック第8巻72ページ3コマ目の作中車のシーンでも見られません。作中車の登場場面はほかに第8巻の59ページ1コマ目、69ページ1コマ目、74ページ1コマ目、76ページ1コマ目、80ページ1コマ目などがありますが、69ページ1コマ目だけにハンドルのP12らしき描写が見られるのみで、他は全て描写されていません。それでP12およびP21は不要とした次第です。

 

 組み上がりました。

 

 ステップ2に進みました。パーツの切り出し準備中に、上図のパーツD36とD37がガイド図とは逆になっていることに気付きました。一度仮組みをしてみて、逆であることを確認しました。

 

 パーツD36とD37を逆にして組み付けました。これでピッタリでした。

 

 次のパーツを切り出して準備して、組み付けてゆきました。

 

 組み上がりました。

 

 ステップ2の作業が仕上がった状態です。変わった形状のサスペンションで、その取り付け位置も変わっています。

 

 ステップ3およびステップ4では車体を組み立てます。私の製作ではエッチングパーツをなるべく使用しませんので、P7やP22への置き換えは不要です。

 

 ステップ3の組み付けが完了した状態です。装備品や雑具を収納するラックのようです。

 

 ステップ4では、車体前面の操縦手ハッチの上下の開閉を選択出来ます。私の製作では閉状態にしました。

 

 なので、上図の3つのパーツC3、C24、C25は外から内側へ組み付ける変則的な接着となって、ちょっと手間取りました。

 

 なんとか組み付けた状態です。砲塔ターレットの穴からピンセットを差し込んでパーツを内側から押さえつつ接着しないと、ポロッと中に落ちてしまうのでした。それでC3、C24、C25をあらかじめ貼り合わせて一つのパーツにしてから組み付けを試みましたが、それでも二回失敗しました。
 そもそもガイド図に示される作業工程の手順に無理がありました。これらのハッチパーツの取り付けは、車体天板を貼る前のステップ2の段階で行なうべきだと思います。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く37 その20 「水戸城二の丸です!!」

2022年03月19日 | 大洗巡礼記

 水戸城本丸跡の薬医門の見学を終え、大手口の土塁を観察しつつ橋に戻り、左右の急な切岸面を見下ろしました。上図のごとく、攻めるに難く、守るに易い人工の絶壁の様相が、戦国末期からの様相をいまに伝えています。急斜面に成らすべくV字形に深く尾根を掘り下げて切る土木工事の実態がよくうかがえると同時に、その急斜面が500年余りの間ずっと崩れることなく維持されているのにも驚かされます。

 それもそのはず、当時の日本人は、山や崖の斜面が崩れる角度、崩れない角度というのを熟知していたようで、全国の数多くの戦国期城郭においてそれが共通して伺えます。この角度まで急傾斜に削って掘っても土が崩れないという、ギリギリの一線を遵守していたようで、その傾斜角度というのが、各地の戦国期城郭を回っていると共通項として体感されてくるのが興味深いです。おそらく、城郭の防御施設を造る際のマニュアルというか、指南書や口伝などが広く出回っていたのかもしれません。

 

 大手から橋を渡って、振り向いて大手口を撮影しました。本丸への出入口はこの大手虎口のほかには、東下の「下の丸」との連絡口しかありませんので、西隣の「二の丸」からの連絡路はこの橋以外にありませんでした。
 江戸期には木造の橋が架けられていましたが、最近の水戸城復元事業ではこの大手橋の復原にまでは至らなかったようです。なにしろ学校への通学路になっていますから、現在の鉄筋コンクリート造の橋のほうが堅牢で安全だ、という観点があるのでしょう。

 

 U氏が「二の丸地区もだいたいの復原事業が完了した、門もあれに見えるぞ」と指さしたので、その方向へカメラを向けました。その際の私の影が朝日に輝く石畳道の上に長く伸びました。

 

「ほう、これもさっき見た坂下門と似たような規模やね」
「そう、だいたいこういう規模で水戸城の城門の規格と言うかサイズが統一されてたみたいだな」
「これも高麗門やな」
「そう、ほとんどの門が高麗門のタイプだったみたいだ。江戸期の城門としてはポピュラーな形式だな」

 

 その高麗門の名前は杉山門でした。

 

 案内板によれば、この門を出ると城下町の杉山通りに繋がるため、杉山門の名がつけられたそうです。杉山の名は、水戸黄門こと徳川光圀が、この出入口の防御を兼ねた修景のために杉を植えて杉林を造らせたことに因みます。

 

 杉山通りが城の丘に達して裾から坂道になるのを、当時は杉山坂と呼んでいたようです。杉が林立して天然の防柵ともなり、さらに杉山坂のてっぺんは桝形となって土塁でクランク状に固められ、杉山門も塁線の折れの内側に西面して建っていたそうです。

 

 現在の杉山坂です。本来はもっと狭い道でしたが、車道化に伴い拡張されています。

 

 なので、杉山坂のてっぺんの桝形も失われ、両袖の土塁も撤去されています。復元なった杉山門のみが、位置をやや東にずらしつつも、西面していた姿をそのまま甦らせています。
 この杉山門は、藩主の普段の在所である御殿の位置である二の丸に北側から直接出入りする唯一の門でしたから、防御のうえでも重視されたわけです。杉山門から二の丸御殿へ最短で行けるので、藩主もよく杉山門から出入りしたといいます。

 

 杉山門の向かいにも、復元された城門がありました。説明板らしきものが見えないので、近寄って探しましたが見当たらず、振り返ってU氏に「この門は?」と尋ねました。しかし、相手は肩をすくめ、首を傾げたのみでした。

 

「ここは三高の裏門だからな、復元事業にあたって外観を合わせただけじゃないかな・・・」
「三高って、水戸第三高校なのかここは」
「そう」
「すると第二高校も近くにあるんか?」
「そう。弘道館の向こう側にある。ここからはちょっと離れてるけどな」

 

 どうやら、この高麗門は本来の水戸城二の丸の門とは関係がないらしく、学校の裏門を復原事業に際して外観を江戸期の姿に合わせて改めたもののようです。門の名称表示や説明板が全く無かったのも、そのためでしょう。

 

 近くにあった二の丸の御殿跡の案内板です。現在は水戸第三高校の敷地になっているため、学校を移転させない限りはその範囲に気軽に立ち入りできません。なので、外側の土塀沿いにこの案内板を立てて説明しているのみです。
 ですが、U氏も私も、水戸城内最大の建築であった二の丸御殿に関しては、近くの二の丸展示館に行けばその全体模型が見られることを知っていました。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゆるキャン△の聖地を行く23 その12  千頭の豚串とスムージー

2022年03月18日 | ゆるキャン△

 千頭駅前のカーケア中原に帰り着いたのは14時40分でした。白樺荘を出てからの所要時間は1時間38分でした。帰りは全体的に下り坂になるのですが、カーブが多く細い道もあるので、行きとあまり変わらないタイムに落ち着きます。この日は日曜日でガソリンスタンドがどこも休みであるため、たてかえ清算をお願いしました。返却時に往復の走行距離を調べて貰い、8リットルぐらいかなということで、ガソリン代として1000円を支払いました。

 

 それから千頭駅にいったん時刻確認のために行く途中、右手に見えた上図の屋台が営業しているのを見つけました。

 

 ということは、各務原なでしこも味わった、あの「突然のBUTAKUSHI!!!!!!!!!!!」が味わえるわけです。前回までの巡礼行きでお目にかかれなかったあの豚串が食べられるわけです・・・!!
 いやっほおおおぉぉぉっっっ!!!最高だぜえええぇぇぇっっっ!!  (アホかお前は)

 

 一気にテンションが上がりまして、店頭へ小走りに行って大声で「2本ください!」と注文しました。老夫婦が同時に「はいよ」「ギュートン2本ですね」と応じて、今まさに焼き上がりつつある2本の串を炭火の上で回していました。

 なるほど、実際には牛と豚の両方セットでギュートンなわけか、と思い、訊ねてみたところ、「いやこれな、豚串っていうかネギマ牛豚串なんだけどよお、あいにく売切れましてな、ネギなしのギュートンしかないの」と笑っておられました。

 

 作中では「ジャンボ豚串」でしたが、実際には「ジャンボ牛豚串」で、ネギ無しですから、まるまる肉、肉、肉!なのでした。まったく最高じゃないですか・・・。1本550円なり。

 

 うわあおお・・・、これ絶対旨いやつだ・・・!

 

 めっちゃまじうま・・・!!これを食べるためだけに大井川鉄道に乗って千頭まで行く人が少なくないと聞きましたが、食べてみて大いに納得しました。
 とにかく濃厚な肉汁が、噛むたびにジュワワワーッと口の中に広がるのでした。タレもスパイスが効いて絶妙でした。これを2本食べますと、焼肉をガッツリ食ったのと変わらない満足感と幸福感に包まれます。ですが、お肉の脂の濃さがずうっと口に残るのでした。

 

 それで、まだ帰りの列車まで時間があったので、ちょっとサッパリした何かを飲みたくなり、近くのカフェうえまるに入りました。以前の巡礼にて長島ダムカレーをいただいたお店です。

 

 入り口の券売機前にて店員さんに、「こちらでおすすめの、さっばりできる飲み物は何ですか」と訊ねると、「スムージーはいかがでしょうか、ここでの特産のブルーベリーとか」と応じてきました。おお、ブルーベリーは好物なので、それいきます、と注文し、上図のブルーベリースムージー860円をいただきました。

 

 で、飲んでみましたが・・・・、うわあおお、まじうまっ!!  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(車輌目次表紙)愛媛ケバブハイスクール ルノーR35軽戦車(リボンの武者版)

2022年03月17日 | ガールズ&パンツァー

  使用キット  ホビーボス  (商品コード83806)

  制作期間   2019年11月6日~11月19日

  製作記事   その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 その8 完成です!!

  総評・備考
 ガルパンコミック「リボンの武者」に登場する愛媛ケバブハイスクールチームは、トルコテイストのチームであり戦車もトルコ軍が使用した車輌を用いる。隊長のボスポラスは、強襲戦車競技イベント「大鍋」大会に参加して第1回戦でガイ・フォークスチームに敗れるものの、第2回戦では桃組に属して徹夜の激闘を経験した。続いて北海道名寄市での対ボンプル高校戦では「ムカデさんチーム連合」に参加し、茨城県大洗町での対大洗女子学園戦では「強襲戦車競技連合」に参戦した。
 ボスポラス隊長以下の搭乗車は全てルノーR35軽戦車であり、第二次大戦中にトルコがフランスからルノーR35を購入して運用したことに因む。アニメ本編の最終章第2話でもマジノ女学院チームの所属車として登場しているが、公式キットはまだ出ていない。適応キットはタミヤ、エレール、ホビーボスから出ており、エレール製品はかつて日本ではグンゼ産業が販売していたので、グンゼ産業パッケージの品も中古市場で散見される。またホビーボス製品は数少ない軽戦車クラスのフルインテリアキットである。今回の作中車の再現製作に際しては、ホビーボス製品を利用した。

 

  公式および適応キット一覧(2022年2月現在) 黄帯が今回の使用キット  


目次へ

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする