気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

(車輌目次表紙)ヴァイキング水産高校 ノイバウファールツォイク

2023年02月28日 | ガールズ&パンツァー

  使用キット  ドラゴン (商品コードCH6690)

  制作期間   2022年2月11日~13日、3月8日

  製作記事   その1 その2 その3 その4 その5 完成です!!

  総評・備考
 ノイバウファールツォイクは、第二次大戦前にドイツが開発し試作した多砲塔戦車の一種である。試作車2輌、実用試験車輌(増加試作車)3輌の5輌が造られたが、ガルパンに登場するのは後者のタイプである。最終章第2話にてヴァイキング水産高校チームのフラッグ車を務めるが、描画の関係からか外観に二、三の省略がみられて実車とはやや形状が異なっている。
 公式キットはプラッツから出ており(下のキット一覧の1)、その元キットはドラゴンの製品(下のキット一覧の2)である。適応キットはトランぺッターやアミュージングホビーからも出ているが、劇中車の外観および細部の形状はドラゴン製品に最も近い。劇中車特有の幾つかの省略に合わせるのも簡単な工作で済む。多砲塔戦車にしてはパーツ数も抑えられて組み立てが容易なので、初心者向けのキットとしてもおすすめである。

 

  公式および適応キット一覧(2023年2月現在) 黄帯が今回の使用キット  


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ゆるキャン△の聖地を行く27 その5  わに塚へ

2023年02月27日 | ゆるキャン△

 武田八幡宮を辞して、参道を引き返して県道12号線へ左折し北に進み、上図の「わに塚のサクラ駐車場」に入りました。ゆるキャンの聖地スポットの一つで、「わに塚」の北東約100メートルに位置します。

 

 「わに塚のサクラ駐車場」の景色です。原作コミック第13巻40ページ1コマ目のアングルです。手前に停まっている青い車が今日利用したレンタカーのマツダⅡです。
 実は、この時の駐車位置を、作中で各務原姉妹が停めたラシーンと同じにしようと考えていましたが、既に白い軽に占領されていたので果たせませんでした。

 

 「わに塚のサクラ駐車場」の西に由緒ありげな神社があります。原作コミック第13巻40ページ1コマ目にも描かれているので気になっていて、これも武田氏関連の神社かな、と考えて立ち寄ってみました。石鳥居が小さくて、身をかがめないとくぐれない点は武田八幡宮の鳥居と同じでした。

 

 ですが、案内板の説明を読んで、武田氏関連のものではなく、もっと古い古代からの神社であることを知りました。要約すれば、日本武尊(やまとたける)の子で当地に封ぜられて甲斐の国を治めた武田王を祀ったことに始まる神社、ということです。武田廣神社は、その武田王の館の跡と伝えられ、「桜の御所」と呼ばれていたそうです。

 そして武田王が亡くなると、近くの塚に埋葬されたのですが、その塚が現在の「わに塚」にあたります。そして館跡には霊廟が建立され、これが後に武田廣神社となったものです。戦国期には武田信玄が諏訪神をここに合祀しており、そのために現地では諏訪神社とも呼ばれています。

 武田王については、「古事記」や「日本書紀」などの公刊史記には名が見えませんが、神道系の歴史書である「先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)」では日本武尊と弟橘媛(おとたちばなひめ)の子とされ、「古史古伝」のひとつ「ホツマツタヱ」では日本武尊と尾張国の宮簀媛(美夜受比売、みやずひめ)の子とされています。いずれも日本武尊の子とする点は共通しますので、元になる何らかの確かな記録または伝承があったのでしょう。

 

 武田廣神社付近より、「わに塚のサクラ駐車場」越しに南西方向を見ました。ちょうど私が停めたレンタカーの奥に一本の丸く繁った大木が見えました。それが「わに塚」のサクラでした。

 

 デジカメの望遠モードで撮影しました。付近一帯では最も大きな木であるようで、目立っています。「わに塚のサクラ駐車場」からは農道を利用した散策路をたどって行けます。

 

 その「わに塚」まで歩いていきました。散策路は車も通れますが、農業専用道なので一般車は通行禁止になっています。

 

 「わに塚」の脇に立つ新旧の案内板の新しい方です。八ヶ岳をバックにした桜の開花期の写真が貼ってあります。

 

 サクラの大木を見上げました。春の開花期の素晴らしさがリアルに想像出来ました。伝承ではここが武田王の墳墓であることになっていますが、実際に古墳のような丸い丘状の小山があり、古墳であるのかもしれませんが、その頂に上図のサクラが立っています。
 地元韮崎市では、桜の名所の一つとして紹介しており、古墳の可能性については一顧だにしていないようです。  (続く)

 

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プラウダ選抜 カチューシャ義勇軍 T-60(リボンの武者版) 作ります !!  その6

2023年02月26日 | ガルパン模型制作記

 ステップ8およびステップ9にてエンジンを組み立てます。ステップ10にて車体側壁およびインテリアの組み付けを行ないます。エンジン以下のインテリアの各パーツは塗装しながら組み立ててゆきます。

 

 ステップ8からのエンジンの組み立ては、関連パーツをランナーに付けたまま塗装することから始めました。パーツを切り出してしまうと、持ち手が無いので塗りにくいからです。

 

 配色は自由に決めてメタリック系やブラックで塗り分けました。ガルパンの女子高校生たちが使用する、整備も行き届いてカラフルなエンジン、という設定です。

 

 次々にパーツを塗り、切り出して組み立てました。

 

 ステップ9までの組み立てが完了しました。なかなか良い雰囲気です。

 

 反対側からみたところです。各パーツを塗り分けてあると、戦車のエンジンというより自動車のエンジンのように見えますが、それでいいと思います。カラフルで見やすいので、たぶん整備もしやすいでしょうから。

 

 左に長いレバーのAb10が目立っていますが、後の組み立て途中にて車体天板に干渉して折れてしまい、その後に短く作り直しています。

 

 ステップ10に進みました。小さなパーツは無くさないように円形トレイに入れて並べました。

 

 組み立て途中の状態です。右側側壁を組み付け、消火器などを取り付けました。

 

 操縦席の斜め手前に並ぶ2個の箱は、おそらくバッテリーだろうと思います。  (続く)

 

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宇治巡礼17 平等院多宝塔跡

2023年02月25日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 平等院境内の南側の宇治川西岸一帯は、府立宇治公園として整備されています。宇治川の「塔の島」に通じる喜撰橋へと続く交差点が宇治公園の南限となっていますが、その交差点のすぐ北側に園地の一部が「よりみち公園」の名で整備されています。
 「よりみち」とは平等院の開基である藤原頼通の名にちなんでいると思われているそうですが、実際には「寄り道」と書くらしいので、藤原頼通とは関係ないのかもしれません。

 その「よりみち公園」の中に、上図の復元基壇があります。現地はかつては平等院の境内地に含まれており、摂関家の建立した諸堂が甍を並べていましたが、復元基壇は諸堂の東端に位置した多宝塔のそれに該当します。康平四年(1061)に四条宮藤原寛子が寄進建立した建物です。

 

 復元基壇の横にある案内説明板です。基壇の上に建っていたのは、諸史料で「多宝塔」と記される、上図の復元イラストの「宝塔」と呼ばれる建物でした。

 「多宝塔」および「宝塔」は仏教寺院の伽藍の塔婆にあたる建物です。平安時代の平等院には塔が二基あり、ひとつは康平四年(1061)に四条宮藤原寛子が寄進建立した「多宝塔」、もうひとつは長承二年(1133)に藤原忠実が寄進建立した「多宝塔」ですが、後者は平等院境内地の北側にあったようなので、平等院境内地の東南にあたる現在地の「多宝塔」跡とは別であることが分かります。

 

 こちらの藤原寛子建立の「多宝塔」は、遺跡自体は平成5年の発掘調査で一部が検出され、平成6年の二次調査で遺構の全容が解明されました。遺物等から平等院創建後間もない時期のものと判明し、史料や古文献などにおいて該当する建物が藤原寛子建立の「多宝塔」しか無いために確定したものです。

 

 そして上図の円形基壇の規模からみて、裳階が付かない多宝塔、つまり宝塔形式の建物であった可能性が指摘されています。いま現存する宝塔の建築は全て裳階が付くので、外見上は二層に見えますが、藤原寛子建立の「多宝塔」は一層であったことになります。

 

 「多宝塔」の復元図です。御覧の通りの「宝塔」形式ですが、日本においては建築よりも工芸品の遺品がきわめて多く知られています。建築のほうは平安時代でもあまり建てられなかったようで、中世までの現存遺構も天文二十五年(1556)の埼玉慈光寺開山塔(国重要文化財)が唯一です。

 なので、藤原寛子建立の「多宝塔」は当時でも珍しかった筈です。藤原寛子といえば、藤原摂関家の出ながらも素朴な性格であったらしく、素直な明るい気質と英明さを兼ね備え、風流を好み、新しいもの好きで、仏教に深く傾倒したことで知られますが、そういった彼女の「新しいもの好き」によって、当時でも稀な宝塔形式のデザインが選択されたのでしょうか。

 この藤原寛子建立の「多宝塔」は、鎌倉時代まで存続していたようです。 鎌倉時代の公卿、勘解由小路兼仲(かでのこうじかねなか)の日記である「勘仲記」の建治二年(1276)七月二十四日条によれば、時の摂政鷹司兼平(たかつかさかねひら)が平等院に行き、経蔵西側の大湯屋御所から「塔」に立ち寄ったとあります。これが、史料上における藤原寛子建立の「多宝塔」に関する最後の記載なので、それ以降に廃絶したようです。

 平等院の塔頭である浄土院および最勝院が所蔵する江戸時代の「平等院境内古図」計4幅には、現在の位置に基壇様の建物跡が描かれており、当時は塔跡も遺跡として認識されていたようです。

 

 平等院多宝塔跡がある宇治公園(よりみち公園)の地図です。平等院多宝塔跡は、創建以降の平等院に甍を競った華麗な諸堂のうち、現存する鳳凰堂を除けば、遺構が確認された唯一の建物です。
 遺跡は、現在では府立宇治公園の一角になっていて、平等院から宇治川の「塔の島」に通じる喜撰橋へ行く途中の「よりみち公園」にあります。すぐ隣に観光駐車場がありますので、アクセスも容易です。

 

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(車輌目次表紙)九四式六輪自動貨車

2023年02月24日 | ガールズ&パンツァー

  使用キット  ファインモールド  (商品コードFM31)

  制作期間   2022年2月1日~2日、3月8日

  製作記事   その1 その2 その3 その4 完成です!!

  総評・備考
 九四式六輪自動貨車は、1930年代に日本陸軍が開発、採用したトラック(自動貨車)の一種である。ガルパンにおいてはテレビシリーズ第12話の決勝戦のラストのワンシーンにて登場している。試合で履帯を破損し失ったⅣ号戦車H型仕様を牽引しているが、所属元は不明である。なお実車はガソリンエンジン型の他にディーゼルエンジン型も開発されているが、外見上は同じであるため、劇中車がいずれであるかは不明である。
 適応キットはファインモールドの製品が唯一で、運転台の形式によって箱型運転台タイプと幌型運転台タイプの2種類に分類されるが、劇中車は幌型運転台タイプである。ガルパン独自の要素も無いので、ストレート組みにて再現製作が楽しめる。

 

  公式および適応キット一覧(2023年2月現在) 黄帯が今回の使用キット  


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ゆるキャン△の聖地を行く27 その4  武田八幡宮の本殿と若宮社

2023年02月23日 | ゆるキャン△

 韮崎市の武田八幡宮の続きです。拝殿の右脇から本殿を見上げた後、左脇へと移動しました。境内左側に上へと登る道があることに気付いたからです。回り込んでみると、本殿の建つ高台へと登る道がありました。

 

 登りきると、本殿の左側の玉垣の横に着きました。玉垣を通して本殿とその横の摂社若宮八幡宮の建物がよく見えました。

 

 本殿を見ました。八幡宮の本殿は八幡造とそれ以外に大別されますが、ここの建物は三間社流造という形式です。正面に三つの扉を持ち、檜皮葺の屋根が正面に流れています。室町期の建築にしては木割が雄大で装飾的意匠にも優れ、武田氏全盛期の気風が感じられます。

 

 本殿の説明板です。色々と専門用語も交えて細かく解説してありますが、ちょっと長いので読むのに疲れてしまいます。案内板は専門書ではありませんから、もう少し平易な文章で分かり易く簡潔に述べて欲しいところです。

 

 本殿の右隣には若宮八幡宮の社殿が建ちます。社伝によれば、甲斐武田氏初代武田信義の弟または叔父とされる武田遠光が承久二年(1220)に造営したとされますが、現在の社殿は鎌倉時代のものではなく、様式や手法からみて本殿より下る時期、戦国時代末期から江戸時代初期頃の建物と推定されます。

 おそらく、甲斐武田氏の滅亡後に甲斐国主となった徳川家康が、天正十一年(1583)に社領を安堵し、平岩親吉に命じて当社の造営を行なった際に建て直したものであろう、と思います。

 ところで、武田遠光といえば、甲斐国巨麻郡加賀美郷(現在の南アルプス市辺り)一帯に所在する加々美荘を本領とした甲斐武田氏の重鎮です。加賀美遠光の名のほうでよく知られています。源氏の弓矢の名手として知られ、時の高倉天皇に召されて宮中の怪異を鎮めるべく「鳴弦の儀(めいげんのぎ)」を執行しました。鳴弦の儀とは、魔気や邪気を祓うべく、弓に矢をつがえずに弦を引き、音を鳴らすことにより気を祓う魔除けの儀礼ですが、これによって怪異が治まったので、褒賞として不動明王像と近江国志賀郡を下賜されたといいます。

 その不動明王像が、いまも身延町の大聖寺に伝わって国の重要文化財に指定されています。私は昔に一度拝観したことがありますが、京都仏師による優れた作域を示す、皇室や藤原摂関家の造立仏像クラスの超一級品でした。平安時代の天才画師と謳われた飛鳥寺玄朝の様風を立体化したような隙の無い完璧な十九観の彫像遺品でした。もとは宮中の清涼殿に祀られていたのを下賜されたと伝わりますが、この伝承は本物でしょう。

 ちなみに、その加賀美遠光の三男の光行が、南部氏の祖たる南部光行です。ゆるキャンの聖地のひとつ「道の駅なんぶ」にある騎馬武者の銅像のひとです。

 

 若宮八幡宮の説明板です。

 

 再度本殿を見ていて、その屋根の棟木を飾る鬼瓦の中央に鬼の面が貼り付けられているのに気付きました。身延町の大聖寺本堂の鬼瓦にも似たような鬼の面が付いていてそちらは大笑いの面相なのですが、こちらの鬼は厳めしい形相です。まさに鬼瓦、です。

 

 境内の脇にあった遺跡説明板。境内地の南の丘上にある白山城という中世戦国期の山城遺跡を紹介しています。武田信義によって武田館を護る要害として築かれ、烽火台として使用されたと伝わりますが、実際の縄張りは戦国期の本格的なものなので、武田信玄の時期にも整備維持されていたのでしょうか。

 

 武田八幡宮、なかなか良い神社でした。甲斐武田氏が氏神として崇める以前から、当地の古社として知られた神社です。
 社伝や古文献によれば創建は九世紀代で、なんらかの事情によって宇佐神宮または石清水八幡宮の分霊を勧請し、地元武田郷の地名を冠して武田八幡宮と称したといいます。個人的にはそのあたりの歴史的背景にも興味があったのですが、現地にはそれに関する説明資料は見当たりませんでした。

 ただ、現地の住所が韮崎市神山町北宮地で、古代からの神南備の地名に多い「神山」や「宮地」の表記が含まれるので、古代から続く地域の地主神的な存在であったのではないか、と推測します。  (続く)

 

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プラウダ選抜 カチューシャ義勇軍 T-60(リボンの武者版) 作ります !!  その5

2023年02月22日 | ガルパン模型制作記

 ステップ3からステップ5までの工程をまとめて進めました。パーツに色を塗りながら組み立てるので、塗料が乾くまで待つ必要があり、ステップ毎に進めるとなかなか組み立てが捗らないからです。複数のステップのパーツをまとめて塗っておいて、それが乾くまで別のパーツを組み立てるか塗る、という段取りで進めました。

 

 操縦席と前輪の変換器部分、フットペダル類が組み上がった状態です。この時点でステップ4までの工程は完了しており、ステップ5の組み立てを進めつつ、ステップ6とステップ7のパーツの塗装を行なっていました。

 

 ステップ5の途中の状態です。操縦席のシートはプラウダ高校チームの基本イメージである白と赤に合わせて、赤く塗りました。白い冬季車体に赤い校章マークが付いているあのイメージです。

 

 変換器の仕上がりはこんな感じにまとまりました。基本的には動く、回る部品をメタリック系のシルバーやクロームメタルで塗り分けました。

 

 今回のキットの製作では車体の天板パーツもガイドの指示通りに接着固定しますので、完成後のインテリア部分は砲塔ターレット部やエンジン点検ハッチなどの開口部から覗き見る形になります。それで、今回は記録の意味でインテリアの製作途中の状態を各アングルから撮っています。

 

 操縦席の背後にある非常時の脱出用ハッチをグロスブラックで塗りました。

 

 ステップ6で取り付ける操作レバー類は、シルバーやフラットブラックで塗り分けました。

 

 操作レバー類を組み付けました。

 

 ステップ6からステップ7にかけての作業状態です。

 

 ステップ7で取り付けるパーツ類です。

 

 ステップ7が完了したところです。この範囲の組み立てはここで一段落し、次のステップ8からはエンジンの組み立てに移ります。  (続く)

 

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宇治巡礼16 浮島十三重石塔

2023年02月21日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 宇治平等院の真東、宇治川の中に細長く横たわる中州状の島があります。「塔の島」といい、鎌倉時代に築かれた人工の島です。別に「浮島」「浮舟ノ島」とも呼ばれます。北の橘島と中島橋でつながって宇治公園の園地になっており、宇治川の東岸とは朝霧橋で、西岸とは橘橋および喜撰橋で結ばれており、観光客の定番コースとしても親しまれています。

 

 この「塔の島」は平等院と宇治神社および宇治上神社をめぐる観光散策コースの中間点にあたり、宇治川の清流を間近に望んで四囲の景色も楽しめる人気スポットとして知られます。

 上図は平等院の南側から喜撰橋を経て「塔の島」を見たところで、鎌倉時代以来何度も発生した宇治川の氾濫にもよく耐えてきた二段の高い護岸石垣が島の周囲を覆っています。

 

 「塔の島」の名前は、島の中央に上図の十三重石塔が建っていることに因みます。十三重石塔は高さ15.2メートル、鎌倉時代の弘安九年(1286)11月に西大寺の僧叡尊によって建立されたもので、現存する近世までの石造塔婆としては日本最大最高の遺品です。国の重要文化財に指定されており、指定名称は「浮島十三重石塔」で、これが石塔の正式名称です。

 

 この十三重石塔は、叡尊による宇治橋の修造事業に関連して建立されたものです。その目的は、宇治橋修造に際して上流に舟を模した形の人工島を築いて放生会を修する祈祷の場とすること、および、宇治川で漁撈される魚霊の供養と宇治橋の安全を祈念すること、でした。

 この十三重石塔が建つ「塔の島」は、宇治川の流れを宇治橋の手前で受け止めて和らげる役目を果たしており、古代以来のたびたびの氾濫で宇治橋が破壊され流されてきた経緯をふまえて、橋へのダメージを少しでも抑えるために中州状の分離帯を設けて激流時の流れを左右にさばく機能をもっていました。

 それで、鎌倉時代以降の度々の宇治川の大氾濫に「塔の島」はびくともせずに耐えてきましたが、十三重石塔のほうは激流に流されてしまったことが数度に及び、その都度建て直しが行われました。
 しかし、江戸時代後期の宝暦六年(1756)の宇治川の氾濫は未曾有の規模であったため、石塔は倒されて川底の泥砂に深く埋もれてしまい、再興が不可能となってしまいました。

 ですが、宇治の人々にとって宇治川のランドマークともいうべき十三重石塔が無いのは耐えられない、ということで明治三十八年(1905)に復興が発願され、二年後から宇治川の水流をせき止めて発掘作業が行われました。それによって九重目の笠石と相輪以外が川底より発見され、その翌年の明治四十一年(1908)に九重目の笠石と相輪を新たに制作して補った上で石塔が再建されました。
 その後、元々の九重目の笠石と相輪も宇治川で発見されましたが、既に石塔は再建を終えていたので、それらは興聖寺に引き取られて現在は本堂の前庭に保管されています。

 

 なので、現在の浮島十三重石塔の九重目の笠石と相輪だけが明治期の補作になります。下から見上げると、九重目の笠石だけが真新しいのが分かります。

 上図のように、基礎の台石には1000字を超える建立縁起の銘文、初層の石芯には金剛界四仏の梵字が刻まれています。第一重の笠石の裏には薄く垂木型が刻まれています。笠石のそれそれには欠けや傷がみられて、氾濫で幾度も流された歴史を如実に伝えています。

 

 浮島十三重石塔の地図です。塔の建っている「塔の島」は北の「橘島」とあわせて宇治公園になっています。

 

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(車輌目次表紙)苫小牧メイプル学園 Mk.Ⅵ軽戦車(リボンの武者版)

2023年02月20日 | ガールズ&パンツァー

  使用キット  バルカンスケールモデル (商品コード56008)

  制作期間   2022年1月22日~31日、3月8日

  製作記事   その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 完成です!!

  総評・備考
 Mk.VI軽戦車は、第二次大戦前にイギリスで開発された軽戦車である。ガルパンではコミック「リボンの武者」にて苫小牧メイプル学園の保有車として登場する。史実では5種類のバリエーションが存在したが、苫小牧メイプル学園の保有車はB型およびC型の2種類が描かれ、強襲戦車競技の試合にはB型が使用されている。
 適応キットはバルカンスケールモデルの製品が唯一で、B型およびC型、B型の北アフリカ仕様の3種類のキットがリリースされている。強襲戦車競技の試合に出たB型は北アフリカ仕様の外観を示すので、下のキット一覧の3があれば、ほぼストレートに組み立てて不要なパーツを省くだけで作中車を再現出来る。下のキット一覧の1を使用した場合はボックスの自作追加など二、三の小改造が必要になる。

 

  公式および適応キット一覧(2023年2月現在) 黄帯が今回の使用キット  


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ゆるキャン△の聖地を行く27 その3  武田八幡宮にて

2023年02月19日 | ゆるキャン△

 武田八幡宮の門前の脇に、上図の何かの石造物があるので近寄ってみました。武田氏ゆかりの遺品かな、と最初は思いましたが、違いました。

 

 これは一石百観音石像と呼ばれるものでした。一枚の石に百体の観音像を並べて彫ったもので、具体的には西国三十三観音霊場、東国三十三観音霊場、秩父三十四観音霊場の合計100ヶ所の百体の本尊が彫られています。これを拝むと一度で100ヶ所の霊場を参拝したことになるわけです。

 この種の一石多尊石像は江戸期に流行して各地に類似の遺品が点在しますが、100ヶ所の霊場の百の本尊観音像をまとめた例はあまり知られず、珍しい遺品といえます。銘文より、江戸時代の宝永六年(1709)に造立されたことが分かります。韮崎市の有形文化財に指定されています。

 

 この一石百観音像は高さ約1.7メートル、頂部に阿弥陀三尊像の種字を刻み、その下に西国三十三観音霊場、東国三十三観音霊場、秩父三十四観音霊場の本尊を模した小観音像を100体、七段に分けて並べて浮き彫りにて表しています。
 もとは現地の北約500メートルに位置した玉保寺に建立されたものでしたが、明治の廃仏毀釈で玉保寺が廃寺になったため、明治十七年(1884)に武田八幡宮の神宮寺跡に移され、さらに現在地に移されました。
 

 傍らの案内板です。

 

 改めて武田八幡宮の神前に進みました。上図は石像の三ノ鳥居と随神門です。三ノ鳥居は小型で人がくぐれるような大きさではなく、神前の標識として建てられたもので、参道は鳥居の左右脇から登って随神門の左右脇を通る形になっています。随神門も中央の間口を通る形式ではなく、その石積み基壇には階段がありません。

 つまり、鳥居も随神門も礼拝対象として左右から拝むものであり、古代の神域にて建物の中を通らずに周りを通って祭祀を行った方法の名残をとどめていると思われます。全国的にも珍しい構えであり、甲斐武田氏が崇める以前はかなりの古い神社であったことがうかかえます。

 

 武田八幡宮の案内板です。私自身はここは初めての訪問でした。昔、甲府の歴史観光同好の団体に参加していた時期にもここには未訪のままだったからです。というより、韮崎市エリアに行く機会が無かったのでしたが、今回やっと来られたわけです。

 なので、上図の案内板の説明文もきちんと二度読んで、これから参拝する武田八幡宮の諸社殿の名称と概要を把握しました。

 

 随神門の裏からは長い石段が上の神楽殿の平場まで続きます。

 

 神楽殿の平場に着きました。武田八幡宮には氏子衆によって神楽団が組まれているそうで、毎年秋の例大祭にて、昔から受け継がれてきた多数の舞が奉納されているそうです。
 神楽殿の左側の高台には、神撰殿とみられる建物があります。

 

 神楽殿の横を過ぎてさらに石段を登り、拝殿の前に着きました。一礼して横に回り、上図の本殿を見上げました。高い玉垣に囲まれているので屋根しか見えませんでしたが、その玉垣の左右が切れているのを確かめたので、後で側に登って見てみようと思いつつ、まずはこの位置から仰いで一礼しました。

 この本殿は、鎌倉時代に甲斐武田氏の初代信義が寄進した建物が痛んだため、戦国時代の天文十年(1541)に武田信虎、信玄父子が再建したものです。戦国大名武田氏の全盛期に建てられた貴重な遺構であり、国の重要文化財に指定されています。
 そして令和元年には、約400年ぶりに屋根の葺き替えを行なったそうで、一見するとまだ新しい建物のように見えてしまいます。  (続く)

 

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プラウダ選抜 カチューシャ義勇軍 T-60(リボンの武者版) 作ります !!  その4

2023年02月18日 | ガルパン模型制作記

 T-60の1輌目、ズベズダのキットの組み立てが完了しましたので、2輌目を上図のミニアートのキットにて組み立てる作業に入りました。ミニアートのT-60のキットは幾つか出ていますが、「リボンの武者」の作中車がT-60Aの前期型にあたって増加装甲は無し、砲塔は角型、転輪はディスク型、等の特徴を示しますので、その唯一の適応キットである上図の製品(商品コードMA35215)を利用しました。三年ほど前に神戸三宮の中古ショップで2000円ぐらいで買った品です。

 

 中身はミニアートのスタンダードである細かいパーツ割り、不必要なほどに分割されて数も手間もかかります。前のズベズダキットの大まかさとは対照的です。しかもフルインテリアキットですから、余計にパーツが多くて作業工程も増えています。ですが、今回はインテリアを丁寧に作ってカラフルに綺麗に仕上げる、というテーマで気長に取り組むことにしました。

 

 組み立てガイドは御覧のように良質紙を用いた冊子形式になっています。流石に東欧では最高級クラスと評されるウクライナの製品だけあって、品質も日本製品より良い感じが漂います。

 

 組み立てガイドの図も見やすく、分かり易いです。サイズがA4なので、開くとA3のワイド図面になります。ドラゴンの縦長の大きなガイドよりも扱いやすいです。日本のメーカーのガイド図はB4以下の小さなサイズが主流ですが、これぐらいに大きくして貰いたいものです。

 

 ステップ1からステップ7までの図です。インテリアの組み立てで、主に前輪の駆動部と操縦装置を組み立てます。

 

 ステップ1で組み立てる車体底部のパーツ群です。

 

 今回はインテリアを綺麗に塗装してガルパンの車輌らしくカラフルに仕上げますので、パーツの殆どを塗ってから組み立てていきました。塗装ツールはカラーマーカー、ポスカ、ガンダムマーカー、アクリルガッシュ、アキーラ等を色に応じて自在に使い、混ぜたりもしましたので、色の数も必然的に多くなりました。どんな色を使ったかを書き並べると文章が煩雑になりますので、今回は画像にてカラーを御覧いただくことにします。

 

 ステップ1が完了した状態です。車体底部の床面のホワイトは、試しにアキーラで塗って見ましたが、ミスターカラーのホワイトと大して変わらない発色に落ち着きました。水性絵具ながらも油性絵具の性質も併せ持つアキーラは、ほぼ無臭ですので室内でミスターカラーの代わりに使えます。

 

 ステップ2に進みました。

 

 あわせてステップ3の工程を前倒しして操縦席も先に組み立てました。

 

 パーツごとに細かく塗り分けてみるとどのように仕上がるか、という実験的試行も兼ねて塗装を進めました。ガルパンの戦車ですから、史実の実車通りの地味なミリタリー系カラーで覆い尽くす必要はありません。女子高生が乙女の嗜みとして扱う戦車らしい、小奇麗でカラフルな色彩にまとまれば良い、と考えました。

 その意味で、偉大なる大洗のドナテルロこと梅原屋のNさんの精密な金工細工のような仕上げはとても参考になりました。御本人の言葉を借りれば「カーモデルのカラフルでメカニカルな感じ」のインテリア仕上げこそ、私のイメージするガルパン車輌内部の雰囲気に最も近い具体例であったからです。同時に、さらにピカピカ感が加われば、と考えました。

 それで、上図の機関部のパーツ類はとにかくメタリック系のカラーを多用して塗り分けました。細かいパーツが多いため、ポスカやガンダムマーカー等の細筆ペンがとにかく重宝しました。  (続く)

 

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宇治巡礼15 白川地蔵院

2023年02月17日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 白川谷にあった平等院の奥ノ院の白川金色院は、明治の廃仏毀釈で廃寺となって現在は広大な遺跡となっていますが、かつての安置仏像の一部が、遺跡近くの地蔵院という浄土宗の寺に所蔵されています。

 白川金色院跡の惣門より表道に出て、右に約100メートルほど進むと右の宅地内に入る路地があり、それを進んで次の辻で左折すると、地蔵院への山門への路地道になります。その突き当りが上図の景色です。

 

 山門脇に立つ文化財所蔵標識です。地蔵院の宝庫にかつての白川金色院の安置仏像の一部が収められており、それらの実年代が奈良時代から平安時代にわたるので、時期表記も「奈良平安時代」となっています。明治の廃仏毀釈にて白川金色院が廃寺となったときに建物は取り壊されましたが、残存していた仏像や什器類はこちらの地蔵院に引き取られ、現在は地蔵院の所有となっています。

 なので、平成2年秋に初めて白川金色院跡を訪ねて行った際に、こちらの地蔵院にもあらかじめ見学の予約を入れておいて訪ねました。白川金色院の安置仏像の一部を拝観して、その素晴らしい作域に、かつての白川金色院の有様を偲ぶことが出来ました。

 康和四年(1102)に四条宮藤原寛子が創建した白川金色院の本尊は文殊菩薩で、それを安置する本堂の文殊堂は金箔を用いて金色に仕上げた華麗なものであったと「白川別所金色院勧進状」に記されますが、その文殊菩薩像は残念ながら失われています。それと同時期の作とみられる木造の阿弥陀如来立像と観音菩薩坐像の2躯がいまに伝わってともに国の重要文化財に指定されています。

 いずれも現在は京都国立博物館に寄託されていて、常設展示にて一度だけお目にかかったことがあります。でも、初めて行った時に地蔵院宝庫で見学した際の感動がまだ鮮やかだったせいか、博物館で見かけた時は「ああ、こっちに居るのか」程度の感慨にとどまったのを今でも覚えています。

 

 地蔵院は、山号を朝日山といい、寺伝によれば戦国時代の弘治年間(1555~1558)に浄土僧の長柱によって現地白川村の惣堂としての地蔵堂が建立されたのに始まると伝わります。当初の本尊も地蔵菩薩であったと思われますが、現在は白川金色院の旧仏であった木造阿弥陀如来立像があてられているようです。
 その木造阿弥陀如来立像が京都国立博物館に寄託されている現在、内陣の本尊仏壇は空になっているのだろうかと思いますが、今回の久しぶりの訪問では留守であったため、確かめることは出来ませんでした。

 平成2年秋に初めて訪れた時は、地蔵院も白川金色院ゆかりの坊院の後身なのだろうかと思っていましたが、御住職に会って話を伺ったところ、前述の通り白川村の惣堂として創建された寺で、隣の白川金色院とは無関係だった旨を教えられました。明治の廃仏毀釈で白川金色院が廃寺となった折、当地にある唯一の寺が地蔵院であった関係で、白川金色院の残存仏像や什器類を引き取って今も守り伝えている、とのお話でした。

 

 その時に御住職に上図の宝庫に案内されて、かつての白川金色院の安置仏像や什器の一部を拝見しました。土蔵のような造りの宝庫の扉が開かれて、中の電灯がパッと点けられて麗しい仏像たちの姿が浮かび上がった時の踊るような興奮と感動を、30年余り経った今でもよく憶えています。

 当時の私は藤原時代仏像彫刻史専攻でしたから、藤原時代十二世紀代の木造の阿弥陀如来立像と観音菩薩坐像の2躯を特に念入りに見学したのでしたが、他の白川金色院旧仏であった銅造の小仏像4躯、阿弥陀如来及び脇侍像、阿閦如来(あしゅくにょらい)立像、釈迦如来坐像、大威徳明王騎牛像も丁寧に見た記憶があります。

 このうち、阿弥陀如来及び脇侍像および阿閦如来(あしゅくにょらい)立像は奈良時代、釈迦如来坐像は平安時代初期頃の遺品で、いずれも白川金色院創建より前の造立になるので、四条宮藤原寛子が念持仏として祀っていたのを白川金色院創建後におさめた可能性が考えられます。そして大威徳明王騎牛像は藤原時代十二世紀の遺品で、これは白川金色院創建後に、当時宮廷や藤原一門にて流行していた大威徳明王への信仰によって造立されたものと思われます。これらも重要かつ貴重な白川金色院ゆかりの仏像でした。

 以上の仏像群の印象が余りにも素晴らしかったため、白川金色院という寺のイメージもより鮮やかになりました。平等院の仏像群との関連性にも興味がわいてきて、一度詳しく調べて論文にまとめようかと考えました。それで、翌年の平成3年の4月に地蔵院を再訪して、再度の見学に望みましたが、その際に今度は銅造の小仏像4躯のほうに重点を置いて熱心に観察したものでした。

 その4躯の銅造仏像のうち、阿弥陀如来及び脇侍像をのぞく3躯が、私が再訪して一か月後の平成3年5月に盗難にあい、今も行方知れずなのは、実に残念なことです。残った仏像が全て京都国立博物館に寄託されたのもそのためでしたが、おかげで白川金色院の遺跡と旧仏像とを共に現地で見学するという機会は、永遠に失われてしまったわけです。

 平成3年といえば、30年余りの昔です。その頃の白川金色院跡や地蔵院はまったくの無名の存在でした。世間一般には知られず、研究者でも名前を聞いた程度の方が多かったと聞きます。実際に現地へ行って見て調べた恩師の井上正先生や私などは、珍しい部類に属した筈です。
 なので、盗難にあった3躯の銅造仏像を盗難事件の一か月前に拝観した私は、ひょっとすると3躯の銅造仏像を間近に見た最後の見学者であったのかもしれません。

 

 地蔵院の地図です。白川金色院跡の北東約120メートルに位置します。地蔵院所蔵の旧白川金色院仏像は、現在は京都国立博物館に寄託されており、時々常設展示に出ていると聞きますが、いつ出品されるかは事前には分かりませんので、見る事が出来たら幸運でしょう。

 

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(車輌目次表紙)チーム「鬼」九四式軽装甲車2輌(リボンの武者版)

2023年02月16日 | ガールズ&パンツァー



  使用キット  ファインモールド 公式キット  (商品コード41113)

  制作期間   2022年1月10日~19日、3月17日

  製作記事   その1 その2 その3 その4 その5 その6 完成です!!

  総評・備考
 九四式軽装甲車は、1930年代に日本陸軍が開発した装甲車の一種であり、最前線で弾薬等の危険物を運ぶ牽引車として開発され、物資を積載し牽引する専用トレーラーとして採用された車輌である。前期型と後期型とがあるが、ガルパンにおいては前期型がコミック「リボンの武者」にてチーム「鬼」の搭乗車として登場し、九七式自動砲を用いた「鬼」独自の武装改造強化が図られて「スーパー改」と「無人砲塔化仕様」の2種類が強襲戦車競技の試合に参戦している。
 その「スーパー改」と「無人砲塔化仕様」の2種類の車輌がファインモールドより2輌セットで公式キット化(下のキット一覧の1)されており、2輌ともストレート組みで作中車を再現出来るほか、本来の九四式軽装甲車の姿に仕上げることも可能である。元キットもファインモールド製品(下のキット一覧の2)である。

  公式および適応キット一覧(2023年2月現在) 黄帯が今回の使用キット  


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ゆるキャン△の聖地を行く27 その2  赤坂台ドラゴンパークから武田八幡宮へ

2023年02月15日 | ゆるキャン△

 赤坂台総合公園ドラゴンパークは、甲斐市竜王338番地に所在しますが、利用している住民層は甲斐市よりも甲府市や韮崎市からの方々が相当の割合を占めると聞きます。確かにこれだけの広さがある総合公園は、公園緑地が多い山梨県でも稀です。
 上図は、原作コミック第13巻62ページ3コマ目のアングルです。各務原姉妹の花見昼食の場所がここでした。

 

 上図手前の地面に引かれる黒い帯線が、芝生広場の東縁を示しています。その手前が樹木の並ぶ周縁帯で、遊歩道などが配置されています。各務原姉妹は奥の展望塔の横から遊歩道を通ってここに来たのでしょう。

 

 引き返して南側の「ピクニック広場」の横を通った際に、上図の景色を見ていて、あっ、と気付きました。

 

 富士山が見えました。この日は曇り時々晴れという天気で、ドラゴンパークに居る時間帯は殆ど曇りでしたが、それでも富士山が見えたので嬉しくなりました。

 

 遊歩道を引き返して、この辺りかな、と探して見つけた景色です。原作コミック第13巻63ページ1コマ目のアングルです。

 

 赤坂台ドラゴンパークには9時47分まで居ました。この日は午後から天気が崩れるとの予報でしたので、なるべく巡礼コースを早めに回ろう、と考えて次のスポットへ急ぎました。

 

 次の聖地スポットは、各務原姉妹が赤坂台ドラゴンパークの前に立ち寄った韮崎市の「わに塚」ですが、そこへの途中に上図の武田八幡宮が位置しているので、先に見に行くことにしました。

 釜無川沿いの国道20号線を北西に進み、韮崎市役所の前を過ぎてすぐの交差点「武田橋北詰」で左折、武田橋を渡りました。武田橋からの県道602号線を道なりにたどり、その終点まで行くと、上図の武田八幡宮への参道に入りました。黒っぽく見える立派な鳥居は、二の鳥居にあたります。

 

 県道602号線の終点が武田八幡宮でした。戦国武田氏の菱紋と、武田軍団の朱備えを思わせる真っ赤な社号標が印象的でした。一段高く石垣を積んだ上には、随神門と呼ばれる楼閣造りの門が建っています。

 

 門前より、もと来た県道602号線を振り返りました。ここも南アルプスの裾野に位置するのでかなり標高があり、御覧のように韮崎市街も遠方に白っぽい細い線のように望まれました。

 この韮崎のかつては武田郷と呼ばれた地こそ、甲斐武田氏の故郷にあたります。鎌倉時代の保延六年(1140)、源氏の新羅三郎義光の曾孫の龍光丸が十三歳の折、ここ武田八幡宮の神前で元服して武田太郎源信義と名乗りました。これが甲斐武田氏の初代となり、その居館はその東麓に構えられました。武田信義は武田八幡宮を篤くうやまい、社殿や什宝を寄進して保護に努め、武田家の氏神として尊崇しました。

 この武田信義から数えて16代目が有名な武田信玄ですが、ゆるキャン世界においては、原作コミック第14巻60ページ2コマ目のように、大垣千明が武田信玄になりきっている場合があるようです。  (続く)

 

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プラウダ選抜 カチューシャ義勇軍 T-60(リボンの武者版) 作ります !!  その3

2023年02月14日 | ガルパン模型制作記

 ズベズダのT-60キット制作の続きです。車体上面の組み立てを進めました。上図の3個のパーツのうち、右の2個、A14とA15の取り付け位置が図では分かりにくかったので、後で製作するミニアートのキットの説明書と図面を参考にしました。

 

 組み上がりました。

 

 ステップ4からは砲塔の組み立てになります。ステップ5、ステップ6、ステップ7までの一連のパーツを全て切り出して準備し、まとめて一気に組み立てました。

 

 組み上がった状態です。砲塔のハッチも接着固定しました。次に製作するミニアートの2輌目にて砲塔のハッチを開閉自在とする予定なので、この1輌目は閉じておけば良いだろう、と判断したからでした。

 

 ステップ8でベルト式履帯パーツを繋ぎます。ステップ9で仕上げの組み立てを行ないますが、細部のパーツB20、B33、B34、B36については次のミニアートキットの仕上げ状態になるべく合わせるため、この段階では取り付けを保留にしておきます。

 

 履帯パーツの組み立てを行なった後、ラストのステップ9に進みました。左右のフェンダーを組み付けます。

 

 組み上がりました。

 

 砲塔をセットしました。細部のパーツは前述の通り保留として保管しました。これで1輌目のズベズダ製品の組み立てが完了しましたので、次回からは2輌目のミニアート製品の組み立てに進みます。  (続く)

 

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