気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

伏見城の面影15 南禅寺金地院大方丈から

2024年07月18日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 南禅寺金地院の本堂にあたる大方丈の横へ回りました。U氏が「やっぱり規模が大きすぎるな。伏見城の縄張図で規模を調べてきたんだが、本丸や二の丸って今の二条城よりも狭いのな。それなのにこの建物は二条城の書院建築より大きいな」と言いました。

 確かにその通りかもしれません。加えて、上図の外観の建築様式は完全に江戸期のそれでしたから、江戸期に現地で新たに造営された建物だろうと思います。近年の研究では、寛永四年(1627)に以心崇伝によって建立されたものとみられていますが、それが正解でしょう。

 なので、この大方丈が伏見城からの移築とする寺伝は、ただの伝承にすぎないか、もしくは、移築の計画だけで終わったか、移築されたが規模が小さかったために現在の大方丈に建て直された、のいずれかの経緯を反映しているのかもしれません。

 

 大方丈の右側には中興開基の以心崇伝を祀る上図の開山堂があります。江戸期において開山の像は方丈内部の仏間に安置される形式が一般的ですが、金地院の場合はこのように開山堂が別に建てられており、鎌倉期以来の禅寺の古いスタイルが踏襲されています。また、かつては大方丈の他に小方丈もあって、その小方丈がいま正伝寺に移築されて今に伝わりますが、この大方丈と小方丈の併置も古いスタイルです。

 金地院は、もとは室町幕府第4代将軍足利義持が応永年間(1394~1428)に、南禅寺第68世の大業徳基を開山として洛北の鷹ケ峯に創建したと伝えており、それを江戸初期に以心崇伝が中興して現在地に移した経緯があります。いまの金地院が示す古いスタイルは、鷹ケ峯に創建された前身寺院の構えを受け継いでいるのかもしれません。

 

 大方丈の前面に庭園「鶴亀の庭」の白砂が広がります。 寛永九年(1632)に以心崇伝が徳川家光を迎えるために小堀遠州政一に作庭させたものであり、造営時には全国の大名からたくさんの名石が寄進されたといいます。

 小堀遠州は周知のように江戸期を代表する作庭家で、全国各地に小堀遠州の作と伝える庭園がたくさんありますが、大部分は伝承に過ぎず、ここ金地院庭園のように史料のうえで小堀遠州の作庭であることが確かめられる事例は唯一であるそうです。

 

 大方丈の内部を見学しました。上図の前縁部以外は撮影禁止でした。桁行十一間、梁間七間の大きな規模ですが、平面形式は典型的な禅院方丈の六間取りとなっています。前列中央の奥が仏間で、本尊の地蔵菩薩像を安置しています。

 東側の奥にある「富貴の間」は、奥を一段高めて上段を設け、床および違棚、付書院を設け、帳台構を付して天井を折上げ格天井としています。各室の襖や障子腰板の障壁画に狩野派の作です。格式の高い部屋であり、葵紋をあしらった飾金具が使用されていて、武家御殿の大広間を彷彿とさせる室空間になっています。
 このような「富貴の間」がある点も、禅院方丈としては極めて異例の造りですが、おそらくは徳川将軍家の御成を迎えるためであったのでしょう。

 

「要するにだ、ここ金地院は京都における徳川家の重要拠点でもあったわけだ、神君家康公の遺言による三ヶ所の東照宮の一つがここだし、それを遥拝する仏殿としての機能も併せ持った方丈は、将軍家の御成があっても良いように高い格式で造られてる。庭園は小堀遠州、障壁画は狩野探幽、当代一流の名人による仕事だ。最初の頃は伏見城の書院を移して使ったかもしれんが、徳川家の菩提寺となった知恩院の壮大さに比べりゃ、小さかったんだろうな、そこで寛永四年に新たに大きな建物を造営した、と、こういう流れかもしれんぞ」

 U氏がそう話しましたが、それで合っているのではないかと思います。ここに伽藍を建設し始めた時には伏見城からの移築による大小の方丈があったのかもしれませんが、徳川家の拠点に相応しい大方丈を新たに造営するにあたって両方とも撤去、小方丈のみが正伝寺に移された、と考えれば、金地院方丈が伏見城からの移築とされる寺伝とも符合します。

 

 大方丈を出て、拝観順路を進んで明智門へと向かいました。これで金地院境内を一巡したことになります。

 

 近づいてくる明智門を見つつ、U氏が言いました。

「そういえば、徳川家の拠点である金地院の中門が、明智光秀の寄進門というのも、なんか不思議な組み合わせだな」
「あれはもとの門が豊国神社へ移されたんで、明治期に大徳寺から買い取って移したものやからな」
「あっ、そうか、そうだった。この前見てきたあの唐門がここにあったわけか」
「せや」
「それもなんかすげえ景色だったのと違うかね。国宝の三大唐門のひとつだぞ」
「せやな」

 

 金地院を辞して、参道を北へ進んで上図の門をくぐりました。南禅寺主参道に面するこの門も金地院の建物で、下乗門と呼ばれます。金地院一山の総門にあたり、参詣者はここで馬や輿から降りて門をくぐる習わしでした。

 

 金地院下乗門から右に曲がって南禅寺主参道に進むと、やがて上図の門が見えてきました。U氏が「よし、あれだな」と気合を入れ直していました。かつて伏見城内にあった武家屋敷の門であったもので、慶長六年(1601)に南禅寺に寄進移築されたものです。  (続く)

 

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伏見城の面影14 南禅寺金地院東照宮から大方丈へ

2024年07月14日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 金地院東照宮の拝殿の縁側に置かれていた案内文の立札です。U氏はいつものように三度くりかえして読んでいました。

 

 そして拝殿の軒下を見上げつつ、「疎垂木(まばらだるき)だな」と言いました。神社建築の垂木形式としては簡素のほうに属しますが、ここの建物では簡素化というよりも、総黒漆塗りの黒い外観に独特のアクセントをつけるために意図的に採用されているように思われます。

 

 貫の上の黒い板壁には円環形の浮彫レリーフが懸けてありますが、もとは金泥の下地に彩色を施していましたから、黒漆の上では夜空の月のように輝いて見えたことでしょう。

 

 モチーフは鳳凰のようです。かなり剥落していますが、もとは色とりどりに塗られて鮮やかな姿であったと思われます。徳川政権の初期にて庇護した社寺の建築装飾はだいたいこのようなタイプです。日光東照宮しかり、妙義神社しかり、三峰神社しかり、です。

 

 ですが、徳川政権の関与した社寺建築においても、この拝殿のような漆黒の建物は稀です。背後の石の間や本殿が極彩色であるのとは対照的です。何らかの意図があったものと推測されますが、基本的には神仏習合期の神社の仏教的な建物形式になっていることに着目すべきでしょう。

 

 背後の石の間や本殿は、御覧のように朱柱の一般的な社殿建築の姿を示しています。拝殿と同じく寛永五年(1628)の建立で、国の重要文化財に指定されています。

 

 石の間を見ました。このように、拝殿と本殿の間の石の間を建物として構成し、拝殿と本殿とに繋いで造る形式を「石の間造り」といいます。石の間自体は本来は土間であって、平安期には既にみられたようですが、建物がつく形式となったのは安土桃山期からのようです。慶長四年(1599)に京都阿弥陀ヶ峰に建てられた豊国神社が「石の間造り」の古い例であったとされています。

 京都で似たような「石の間造り」の現存例を挙げるとすれば、北野天満宮社殿が思い浮かびます。

 

 続いて本殿を見ました。拝観順路からはちょっと離れているので、双眼鏡で見たりしましたが、典型的な江戸初期の極彩色の社殿建築です。桃山期の流行をそのまま踏襲しているように見えますが、意匠的には形式化の兆しがほの見えます。木組みなどに施された彩色の基本デザインは、平安期以来の伝統的な繧繝(うんげん)の系譜上にあります。

 

 本殿の横から土塀の小さな出入口を抜けて下へ石段を降りると、正面に開山堂の側面部が迫ってきますが、その右手に視線を向けると上図の大方丈が見えてきました。

 

 U氏が立ち止まり、私を振り返って問いかけてきました。

 「右京大夫、あの大方丈が、もと伏見城の書院だったと寺では伝えてるわけだが、どう思う?」
 「どうも、違うんじゃないかな・・・」
 「やっぱり、そう思うか」
 「ああ、規模的には大きすぎるんじゃないかって気がする。桃山期までの書院造はだいたい複数の建物を連ねるからね、二条城二の丸御殿みたいに。伏見城の書院も幾つか並んでたタイプだから、個々の建物は小さかったと思うんで・・・。でもあの大方丈は、規模が大きいし屋根も高い、あれで空間的には一つの書院として完結してる。江戸期の禅寺の一般的な方丈のタイプやな・・・」
 「俺もあれは一個の書院方丈で、江戸期の新造の建物かなと思う。この前見てきた正伝寺の方丈な、もとはここにあったんだろ?それを正伝寺へ移築したのは、あの大方丈を建てるためだったんじゃないかと思う」
 「そう、そう」

 意見が一致したところで、再び歩き出して、大方丈へと歩み寄りました。  (続く)

 

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伏見城の面影13 南禅寺金地院の東照宮

2024年07月10日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 南禅寺金地院の拝観順路は、明智門から左に折れて上図の弁天池の東から南に回って、南の高台に鎮座する東照宮へと続いていました。

 

 弁天池の東側で、道が僅かに登り坂になっていました。U氏が「東照宮が金地院のなかで一番高い位置にあるってことは、江戸期までの神仏習合形態のなかでいうと、東照宮が主で金地院はそれに属する神宮寺の位置にあったんだろうな」と言いました。

 

 金地院が東照宮の神宮寺であったかどうかは、徳川家の公式史料にも以心崇伝(いしん すうでん)の「本光國師日記」にも記載が見られないので分かりませんが、上図の金地院方丈を江戸期の古絵図にて「御祈祷殿」と記していますので、方丈が東照宮の遥拝施設としての役目も併せ持っていて、金地院と東照宮がワンセットの宗教的空間に置かれていた歴史をうかがわせます。

 

 道の突き当りから左には、上図の東照宮の山門にあたる楼門が見えました。先に前を通って見た建物です。

 

 反対側の右に進み、上図の石畳の参道を北へたどりました。

 

 程なく上図の東照宮門をくぐりました。東照宮門の破風屋根は傷んで要修理状態のようで、応急的に防水シートで覆われていました。

 

 東照宮門をくぐり、上図の拝殿の前に進みました。U氏が「こりゃすげぇな、総黒漆塗りの仏教式の拝殿じゃないか、こういうの初めて見たな」と感動の声を上げました。
 御覧のように、神社の一般的な拝殿の建物の形式ではなく、神仏習合期の仏教式の拝殿建築としての姿を示しています。京都でもなかなか見られない、貴重な神仏習合期の建築遺構です。

 

 その正面の破風の真下の壁には、神仏習合期の堂宇には一般的に掛けられていた懸仏(かけぼとけ)の円盤が見えました。U氏が「懸仏が普通にかかってるじゃんか、おー、初めてみたぞ。神仏習合の状態を保ってるなんてすげえなあ」と言いました。

 懸仏とは、神仏習合期において、神社の鏡に現れた本地仏像の姿を表したものです。江戸期までは各地の社寺の社殿や仏堂などに普通に掛けられていたもので、明治期の神仏分離にて分離撤去または破却廃棄の対象となって多くの遺品が失われてしまいました。いま現存する遺品の多くは、神仏分離政策が停止された後に場所を移して祀ったか、倉庫などに仕舞われて再び使用されなかったものが殆どです。

 

 ここ金地院東照宮の懸仏は、寛永五年(1628)の創建以来の状態をそのまま保っているようです。明治の神仏分離期にも撤去されなかったもののようですが、それはここの東照宮が江戸幕府徳川氏の創設した三東照宮の一にあたる重要な神社であったことが関係していたのかもしれません。

 周知のように、徳川家康の遺言によって創建が指示された東照宮は三ヶ所あります。江戸幕府の公式史料である「徳川実紀」に収められた家康の元和二年(1616)4月2日の遺言を原文で読みますと、「(遺体は)久能山に納め奉り、御法会は江戸増上寺にて行はれ、霊牌は三州(三河国)大樹寺に置れ、御周忌終て後下野国日光山へ小堂を営造して祭奠すべし。京都には南禅寺中金地院へ小堂をいとなみ、所司代はじめ武家の輩進拝せしむべし」とあります。

 すなわち、遺体を久能山東照宮におさめよ、周忌後に日光東照宮へ位牌を移せ、京都では南禅寺の金地院に小堂を営んで東照宮とせよ、という意味です。そして金地院の東照宮には江戸期を通じて京都所司代の番所が置かれ、創建当初は日光東照宮と比されていましたから、徳川政権の重要な祭祀拠点であったことがうかがえます。

 

 その家康の遺言に従って創建された「南禅寺中金地院」の「小堂」がいまも現存しているわけですから、この拝殿や奥の本殿は江戸幕府草創期の宗教施策の様相を如実に物語っているわけです。国の重要文化財に指定されていますが、国宝に昇格してもおかしくないと思います。

 

 拝殿の内部を見ました。天井には狩野探幽の筆による「鳴龍」が描かれています。以心崇伝の「本光國師日記」寛永七年(1630)三月十二日条に「狩野采女へ状遣ス。拝殿之龍杉しやうし絵之義申遣ス」とあって、拝殿の龍と杉障子の絵を狩野探幽に依頼したことが分かります。そのうちの「龍」が上図の「鳴龍」ですが、杉障子の絵のほうは奥にあるのか、暗がりでよく見えませんでした。

 また、上図のように拝殿内部の欄間には土佐光起の画、青蓮院宮尊純法親王の書になる「三十六歌仙」額が掲げられています。  (続く)

 

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伏見城の面影12 南禅寺金地院の明智門

2024年07月06日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 南禅寺金地院の山門をくぐり、右脇の拝観受付で拝観料を払った後、U氏が「さあ、まずはあれだな」と上図の庫裏に向かって左手に建つ門の建物を指差しました・

 

 U氏が指さした門の建物です。境内地の中門としての位置にあります。
「あれだ、あれがもと大徳寺の、現在の唐門の位置にあったという明智光秀の寄進門だな・・・」
「うん」

 

 傍らの説明板にも、天正十年(1582)に明智光秀が大徳寺に寄進建立し、明治元年(1868)に南禅寺金地院の現在地に移築した旨が書かれてありました。

 去る5月に大徳寺の特別公開に行った折、この明智門が移築されて後に移されてきた国宝の唐門をU氏と共に見ましたが、その際にガイドの方が「もとはここに明智光秀が寄進した唐門があって明智門と呼ばれていました」と説明していました。そのときの記事はこちら

 

 「これがもとは大徳寺方丈の唐門だったわけか。なんかえらく質素にみえるな」
 「ああ、いまの豪華絢爛な国宝の唐門とは全然違うね。むしろこっちのほうが、大徳寺方丈の佇まいには相応しいね」  
 「そりゃそうだろう、光秀ほどの文化教養人ならばこそ、大徳寺方丈との調和を重視してこういう設えにまとめたわけだ」
 「そういうことやね」

 

 「ただ、規模的にはこっちがちょっと小さいのと違うかな」
 「やっぱりそう思うかね。僕もそれを思ったんよ」
 「この柱とかも、華奢という感じで細いな」
 「まあ、あっちの現在の唐門はもとは聚楽第の門やったと伝わるし、本質的には城郭向けの門やったから部材も太くて堅牢なんやろうな」
 「うむ」

 

 「こっちのは、いかにも寺院中枢部の唐門という雰囲気だな」
 「せやな」
 「彩色の痕跡とか、無いみたいだな。素木づくりの門だったのかな」
 「だろうね、胡粉の痕もまったく見えへんし、大徳寺方丈の正門にあたる唐門だったから、装飾意匠は最低限におさえて目立たなくしてるしね」

 

 「門扉も丁寧にしっかり造られてるね」
 「上部が連子窓になってるの、当初からの状態のまんまなんだろうかね・・・」
 「ん?・・・ああ、なるほど。大徳寺方丈の唐門やった時は連子窓やなかった可能性があるな。基本的に方丈の玄関門は板戸で内部が見えないように造るからね・・・」
 「だろう?ここへ移築してからさ、ここは中に庭園とかあるだろ、そういうのが門を閉じててもある程度見えるように連子窓に改造したのと違うかね?」
 「その可能性はあるな・・・。よし、調べてみる。この門の修理報告書とか出ていれば、詳細は分かる筈」

 

 「屋根裏の木組みだけに装飾の彫り物が施されてるぞ。本当に目立たない、最低限の装飾だ」
 「こういうのが戦国期当時の粋ってもんやったかもしれん。もしくは光秀の美意識やったかもしれん」
 「うむ。派手好みの秀吉とは対照的やな。桃山建築の豪華絢爛さは秀吉個人の好みからきてるんだろうな」
 「信長の時期にも贅沢な建物はあっただろうけど、細部まで色とりどり、ピカピカってのは安土城でも無かったらしいからね。信長のオシャレの感覚は品格があるって感じ。秀吉のオシャレは農民が贅沢な羽織着て単純に喜んでる感じ」
 「まさしく」

 

 明智門をくぐって内側から見ました。太陽の位置の関係で、正面から見ると逆光になったので、内側から見ると上図のように綺麗に見えました。前後とも同じ形の唐破風屋根なので、棟瓦も前後に載せられています。

 

 唐門の内側に広がる庭園の園池です。寛永九年(1632)に崇伝が徳川家光を迎えるために小堀遠州に作庭させたもので「鶴亀の庭」と呼ばれます。国の特別名勝に指定されています。隣には弁天池があります。

 

 明智門は、その「鶴亀の庭」および弁天池を一巡する散策路の起点に位置しており、左手に進むのが拝観順路となっているので、先に弁天池の周りをまわって東照宮に行き、そこから方丈へと回って「鶴亀の庭」を見る、という流れになります。

 

 U氏が唐破風の上の棟瓦を見、スマホで撮っていましたので、私も同じように撮りました。撮影後もU氏がしばらく見上げていたので、横から問いかけました。

 「水戸の・・・、もしかして、明智氏の桔梗紋があるかどうかを確かめたのか」
 「実は、そうなんだ。でもあの通り、桔梗紋は無いなあ・・・」
 「もとは大徳寺に寄進した門だから、普通は大徳寺の寺紋になるのと違うか。いまは南禅寺金地院に在るから、その寺紋に換えられるやろうし・・・」
 「そう、そうなんだな。でも今は寺紋すら入ってない。普遍的な三つ巴紋だ」
 「でも、寄進建立の当初の棟瓦かどうかは分からんぞ。移築してるんなら、小修理というか改造も受けてるだろうし」
 「そういうことだな・・・」

 U氏はちょっと残念そうに、上げていた視線を下ろしました。おそらく、明智光秀建立の確かなしるしを、断片でもいいから、捉えたかったのに違いありません。  (続く)

 

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伏見城の面影11 南禅寺金地院へ

2024年07月02日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2024年2月3日、水戸の友人U氏と二度目の旧伏見城移築建築巡りに出かけました。前回の解散時にU氏が「次は長楽寺だな。来年の春ぐらいに必ず行こうぜ」と話していたのですが、その長楽寺よりもちょっと気になる寺がある、というので、今回はその寺、南禅寺金地院へと向かいました。

 朝9時、いつものように祇園四条のカプセルホテルに前泊してきたU氏と、上図の地下鉄蹴上駅にて待ち合わせました。向こうは30分ほど早く来たとかで、上の蹴上インクライン跡を見物してきたところだ、と言いました。

 

 蹴上駅から三条通を少し下ったところにある、「ねじりまんぼ」と呼ばれるレンガ造りの蹴上トンネルをくぐりました。U氏は「南禅寺へ行くならこのトンネルを通っていくと気分が出るな」と楽しそうに言いました。

 

 トンネルを抜けて南禅寺の旧境内地の路地を進みました。左手には智水庵の白い土塀が続いていました。智水庵は南禅寺界隈別荘庭園群の一つで、加賀藩家老の横山家出身で明治・大正時代の金沢を代表する実業家の一人であった横山隆興の京都別邸であったところです。

 

 そして右手には何有荘(かいうそう)の門が見えました。これも南禅寺界隈別荘庭園群の一つで、明治になって廃された南禅寺塔頭の跡地に築造されている約六千坪の大庭園です。明治三十八年(1905)に染色事業や映画興行で有名な実業家である稲畑勝太郎が所有し、最初は「和楽庵」と名付けましたが、その没後の昭和二十八年(1953)に宝酒造中興の祖である大宮庫吉が買い取って名を「何有荘」と改め、現在に至っています。

 

 続いて左手には南禅寺塔頭であった大寧院、法華終寺の境内地が生垣に囲まれて見えました。これも南禅寺界隈別荘庭園群の一つで、庭園は茶道藪内家の十一代当主竹窓紹智氏による作庭です。長らく非公開でしたが、2019年春から期間限定で公開され、現在は春と秋の二度の公開期間が設定されているようですが、U氏も私もまだ入ったことがありません。

 

 大寧院、法華終寺の境内地の北隣には、上図の金地院東照宮の楼門が建っていました。徳川家康の遺言で建てられた三ヶ所の東照宮の一つで、家康の遺髪と念持仏を祀っています。南禅寺金地院の境内地に含まれるため、拝観は金地院と一括で行われています。

 

 その金地院の山門が見えてきました。

 

 南禅寺金地院の山門です。U氏が「ついにやってきたぞ」と嬉しそうに言いました。

 今回のコースを長楽寺からこちらに変更したのは、前回のラストであった正伝寺本堂の見学後、正伝寺本堂が旧伏見城より南禅寺金地院に移築され、それが正伝寺に再び移築された経緯を調べたU氏が「最初に移築されたのが南禅寺金地院ならば、何か痕跡が残ってるのかもしれんな」と言い出し、「ちょっと気になるなあ」と何度も繰り返したからでした。

 

 確かに、正伝寺の寺伝によれば旧伏見城の書院の建物を南禅寺金地院に移して、大方丈および小方丈としたうちの小方丈を後に正伝寺に移して本堂および方丈にした、といいます。大方丈のほうはそのまま南禅寺に有って現在に至っているということになりますが、それが本当ならば、南禅寺金地院大方丈も旧伏見城の遺構である、ということになります。

 南禅寺金地院の寺伝でも、いま国重要文化財の大方丈に関して、金地院を中興した以心崇伝(いしん すうでん 金地院崇伝)が慶長十六年(1611)に将軍徳川家光から伏見城の一部を賜って移築したもの、と伝えています。

 しかし、慶長十六年当時の将軍は徳川秀忠であるので話が合わず、しかも現在の大方丈には移築の痕跡がみられないそうです。以心崇伝本人の日記である国重要文化財の「本光国師日記」には大方丈造営の顛末が細かく記されており、寛永四年(1627)に建立されたものと推定されています。

 それでU氏が「ちょっと気になるなあ」と話していたわけですが、同様に私も気になっていたのでした。  (続く)

 

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栂ノ尾高山寺5 高山寺境内より

2024年05月28日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 嫁さんが「ちょっと待って」と言ったので振り返ると、上図の閉じられた中門のほうを指さしていました。

「あの門から入ってここの春日住吉の神様を拝んでいた、ってことですね」
「ん?ああ、そういうことやな・・・。ただし、この建物が現在地に移されたんは明治期なんで、それ以前の構えをそのまま踏襲しているかは分からんけどな」
「あ、そうでしたね、移築されてるんだっけ・・・」
「基本的には以前の位置、つまりは金堂と御廟の中間の、いま朱塗りの鎮守社があるやろ、あれは多分、この建物を移築した後で、神仏分離で外へ移した春日住吉の神様を祀るために、元の位置に建てたんと違うかな。確認はしてねえけど、たぶんそうやないかなと思う」
「なるほどー」

 

 続いて嫁さんは、再び石水院西面のもと内陣だった空間を見て「これは神仏習合の時代の名残なんですね」と言いました。

「そういうこと。他にはあんまり無い遺構や。昔は他の寺でもこういうお堂が在ったかもしれんけど、いま現存してるのはこの石水院だけや」
「だから貴重な価値があって国宝になってるわけですねー」
「それもあるやろうけど、中興開山の明恵上人以来の唯一の残存建築遺構、というのも大きな理由やろな」
「なるほど、はい」

 

 続いて「そういえば、もとここに祀ってた春日住吉の神様ってどんなんなんですか?いまも現存してるんですか?」と聞いてきました。

「うん、現存してるよ。いまも高山寺にある。以前に特別展で「高山寺の至宝」ってのをやったときに春日神と住吉神の影像も出品されとった。鎌倉期から南北朝期あたりの絵画作品や」
「あ、絵なんですか、彫刻かと思ってた」
「御影像、というんでこれは画像になる。彫刻やったら御像とか御正躰、と呼ぶ」
「ふーん、昔の人はちゃんと呼び分けてたんですねー」

 

 かくして石水院の見学を終え、山門より退出しました。

 

 それから嫁さんが「表参道のほうも歩いてみたい」と言うので、石水院の門前から横に進んで上図の表参道に行きました。表というだけあって幅も広くて立派な石段の参道です。私自身の過去の二度の参拝も、こちらから登ったのでしたが、以前はもっと鬱蒼とした森に覆われていましたから、今回の印象は全く違いました。

 

 表参道筋から石水院の方角を振り返りました。

 

 石水院の杮葺きの屋根と白い土塀が林間に望まれました。昔のままの景色であり、そのエリアに台風被害が及んでいないことが分かりました。
 嫁さんも「いい雰囲気ですねえ、自然に囲まれた素朴な住庵って感じ」とスマホを向けていました。

 

 表参道を一通り歩いて、また裏参道に戻って石水院の白い土塀の下を歩きました。

 

 そして行きに登ってきた石水院南面の崖面の石垣の連なりの中を降りました。途中で上図の連絡路の石段を嫁さんが指さして「これ登ったら石水院の南側に行けるわけですよね」と言いました。つまりは裏口であり、非常時の避難路としても機能したのでしょう。

 

 しかし、何度見ても立派な石垣です。中世期のものか、近世期以降のものかは分かりませんが、少なくとも石水院が現在地に移築された明治期の造成ではないようです。積み方が古式で、一見すると乱雑に見えますが、崩れないように要所要所で石をしっかりと組み合わせて石垣全体の強度を計算して積んでいることがうかがえます。

 こうした石垣を盛んに造っていたのが戦国期ですから、おそらくこの石垣も似たような時期に整備されて現在の状態になったものかと推定しています。

 

 なので、離れたところから見ると、石垣の重なりが見事なほどに決まっていて、崖面をしっかりと固定していることが分かります。高山寺の境内地でなかったら、これは戦国期の城郭かと思ってしまうような造りです。高山寺の隠れた見どころの一つだと思います。

 

 かくして下に降りてバス停に向かい、思った以上に楽しく興味深かった三度目の高山寺詣りを終えました。嫁さんも、念願だった金堂の初公開を見られて上機嫌でした。

 来週もどっかへ行きたい、と言うので、じゃあ南禅寺あたりはどうかな、と提案しました。即座に笑顔で頷いた嫁さんでした。どうもこの頃は、模型よりもなぜか古社寺巡りに熱中しているモケジョさんでした。  (了)

 

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栂ノ尾高山寺4 高山寺石水院

2024年05月23日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 高山寺石水院の続きです。嫁さんといったん西側の庇の拝所と内陣を覗いたのち、拝観順路に戻って上図の堂背面の廻り廊を進みました。

 嫁さんが「後ろにも戸口があるんですね、藤原時代の住宅は後口から入るのが普通でしたから、鎌倉時代のこのお堂も造りは住宅風ということで、伝統的に後口がついてるわけですよね」と言いました。そうやな、と返しておきました。

 石水院は、中世期の住宅風建物に一般的な方四間の規模であり、西側の一間は「蜜経蔵」とよばれる経蔵と春日・住吉両神を祀る内陣になっています。あとの三間分が住宅風になりますが、その中央の一間を上図のように二枚の戸口としています。
 もとはこの三間分も経蔵であって「顕経蔵」と呼ばれましたが、江戸期の寛永十四年(1637)に現在の状態に改造されています。しかし、経蔵本来の、経典を皆で読んで学習する場としての機能は変わらなかったようです。

 

 角を曲がって東面に進みました。御覧のように東面の四間のうち南からの三間が蔀戸となって開閉出来ます。上半分は跳ね上げ戸、下半分は取り外して手前に置いてありました。このように戸を外したり開けたりして、採光状況を自在に設定出来るようになっているのが、中世期の日本の堂宇建築の一般的な様相でした。

 石水院の建物は、明恵上人の頃に金堂の東に建てられた東経蔵を後に現在地に移築したもので、高山寺中興以来残る唯一の遺構です。現在の内部空間は東経蔵が建てられた当時のままではありませんが、平面規模や柱間などの基本構造は変わっていないようなので、経典の蔵と経典の読経の場としての機能もそのまま受け継がれているものと思われます。

 

 南側は軒下より傾斜面となり、裏参道のある崖面にあたり、石垣が幾重にも積まれています。高台の南端に位置しますので、南側の約180度の眺望は良く、御室川をはさんで南の周山の山並みも望まれます。

 

 南側の正面中央に懸かる額は、建永元年(1206)11月、明恵上人が34歳の時に後鳥羽上皇から栂尾の地を与えられた際に下賜された勅額です。「日出先照高山之寺」と書かれています。

 「日出先照高山」は「華厳経」の中の句で「日、出でて、まず高き山を照らす」と読み、「朝日が昇って、真っ先に照らされるのは高い山の頂上だ」という意味です。これが高山寺の寺名の由来であり、この勅額を下された建永元年がいまの高山寺の創建年とされています。

 

 石水院の内部です。御覧のように床の間が作られて書院風に仕立ててあります。建物自体は経蔵であって「顕経蔵」と呼ばれましたが、単なる蔵ではなくて住僧が出入りして経典を学ぶ空間をともなった建物であったようで、それを江戸期の寛永十四年(1637)に現在の状態に改造しています。

 石水院は、もとは中興開山の明恵上人の住房であったところで、度々の災害にて壊滅し、再建を繰り返しています。現在の建物はかつての東経蔵で、これを石水院の跡地に移して石水院の名を継がせていたのを、明治二十二年(1889)に現在地に移築して現在に至ります。
 現在地に移される前は、金堂と明恵上人御廟の間に位置していましたから、いま金堂の東に朱色の鎮守社が建っているあたりに在ったようです。

 

 内陣だった部屋から西を見ました。かつては春日・住吉両神の御影を内陣に祀り、上図の「落板敷」と呼ばれる半開放式の庇部分を拝所としていた様子がうかがえます。

 

 西村虚空さんが彫って奉納した善財童子像の後ろ姿が可愛らしいので、嫁さんがスマホで何枚も撮っていました。

 

 その善財童子像の正面観。西村虚空さんは尺八の名手として知られましたが、彫刻家としても非凡な才能の持ち主であったことが分かります。

 

 「落板敷」の部分は、東経蔵が創建された時には無かったようです。東経蔵に春日・住吉両神の御影を祀るようになったのは、建長五年(1253)撰の「高山寺縁起」によれば、文暦二年(1235)からでした。高山寺に入って明恵に師事し華厳教学を学んだ喜海上人の日記によると、春日・住吉両神の奉安は、猪隈関白こと藤原家実の発願によるもの、となっています。その際に拝所の「落板敷」の部分を追加したのでしょう。

 高山寺は華厳宗の寺院で、藤原一門の氏寺である興福寺とは密接な関係があり、同時に春日神とも繫がりがあって、春日大社の鎮座する大和国三笠山の奥之院として位置づけられていました。高山寺の春日神は生身の御影像として篤く崇められていたため、興福寺別当に補せられた者は、必ず高山寺石水院に参拝して神前に報告しなければならない決まりであったといいます。

 

 なので、上図の「落板敷」が拝所として整えられたのも、藤原家実の発願によるものであったことになります。その後は時々春日・住吉両神の開帳が行われ、興福寺の一乗院および大乗院がこれを取り仕切った経緯が諸史料にうかがえます。
 開帳の前後には建物のメンテナンスも行われ、度々の修理が施されていますが、それらの積み重ねが、この貴重な建築遺構を現在に伝えせしめたわけです。

 

 西面の拝所の外側へ回りました。嫁さんが「蟇股のデザインがなんか良いな、これ唐草紋ですかね」と小声で聞いてきましたが、

 

 厳密には唐草紋ではなく、和様にアレンジされた草花紋でしたが、あまり類例のないデザインでした。透かし彫りである点も、鎌倉期の建築意匠にしては珍しいほうだと思います。

 ですが、似たようなデザインの装飾文様をどこかで見かけた気がして、どこの何という建物のそれであったかを何とか思い出そうとしているうちに、「そろそろ行きましょ」と嫁さんに背中をつつかれ、先へ進みました。
 が、嫁さんが「ちょっと待って」と腕を引いたので、前に出しかけた足を停めて振り返りました。  (続く)

 

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栂ノ尾高山寺3 高山寺石水院へ

2024年05月18日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 高山寺の金堂と茶園を見た後は、国宝の石水院に向かいました。もと来た参道の一番南側に位置しますので、境内地の南端にあたります。行きで登った急な階段、重なる石垣の列は、石水院の敷地の南側の崖面にあたります。

 

 石水院は、寺では五所堂とも呼ばれています。高山寺の中興開山である明恵上人の住房跡と伝えており、現存の建物は鎌倉期の遺構で、もとは東経蔵として金堂の東にあったものです。安貞二年(1228)の洪水で石水院が流されて無くなったため、その後に東経蔵が新たな石水院として整備され、春日明神・住吉明神を祀る場所としても機能していました。それを、明治二十二年(1889)に現在地に移築し、現在に至っています。

 上図は石水院の山門です。これをくぐって中に入りました。

 

 山門を入ると、正面に上図の中門があります。左脇に丁石(ちょうせき)が建てられており、かつての参詣道の終点にあたっていたことを伺わせます。

 丁石とは、寺社への参詣道に沿ってほぼ1丁(109メートル)ごとに立てられた道標のことで、石水院がかつて春日明神・住吉明神を祀る場所として知られ、中世から近世にかけて多くの信者や参拝客がやってきた歴史をしのばせます。

 現在は中門は閉鎖されています。かつては石水院の西面の内陣の春日明神・住吉明神の拝所への入口として機能していましたが、明治期の神仏分離によって春日明神・住吉明神が他へ移られていますので、西面の内陣は改造されて一つの部屋になっています。それに伴って中門も閉じられたわけです。

 

 石水院の案内説明板です。

 

 五所堂に隣接する客殿・庫裏部分の建物です。拝観受付があり、そこから中に入って五所堂に回ります。高山寺においては五所堂とこの客殿・庫裏を合わせて石水院と称しているようです。

 

 庫裏から廊下で五所堂へと向かいました。御覧のように五所堂は南に正面を向けていて、庫裏はその北側に隣接していますので、庫裏からは五所堂の背面の姿が見えます。

 もとは東経蔵として建てられたので、本来は経蔵としての姿であるはずですが、高山寺のそれは住宅風の外観を示します。背面も上図のような雅な杮(こけら)葺きの入母屋造で、寺院の小型の仏堂のような雰囲気があります。内部は住宅風に造られており、鎌倉期初期の寝殿造の特徴を残している点でも貴重な建築遺構として、国宝に指定されています。

 

 客殿からの通廊は五所堂の廻縁の北西隅に連絡していますので、右側には上図のように西側の庇と前庭、中門からかつての拝所へ通じる石畳道が見えます。

 

 通廊の突き当り、五所堂の北西隅の柱に掛けられた「国宝 石水院」の木札。大きめのサイズの分厚い板で作られ、なにか誇らしげに掛けられています。国宝の国の字が旧字体なので、戦前からの木札でしょうか。

 

 拝観順路とは逆方向でしたが、嫁さんが「ちょっと覗いてみます」と言って西側の「落板敷」と呼ばれる板間を見ましたので、つられて私も覗き込みましたが、以前と変わらぬかつての拝所の空間が保たれているだけでした。

 

 西面の様子です。中央の間口内がかつての内陣で、そこに明治期の神仏分離以前まで春日明神・住吉明神の神影が祀られていたのでした。それを拝むための拝所がこの広い「落板敷」です。

 神仏分離にて春日明神・住吉明神が他へ移された後は、その代わりのように、上図の小さな善財童子像が安置されていますが、内陣ではなく、拝所の「落板敷」のほうに置かれています。

 これは、明恵上人が華厳宗の僧であり、根本経典である華厳経にて求法の旅が語られる善財童子を敬愛したという伝承に基づいています。

 石水院の前身である、明恵上人の庵室には、壁に善財五十五善知識の絵が掛けられ、善財童子の木像が置かれていたと伝わります。それを再現すべく、普化宗の虚無僧で木彫をよくした西村虚空(にしむら こくう)さんが石水院に滞在した時期に製作したのが、いまの小さな善財童子像です。

 西村虚空さんは尺八の演奏家として有名な方で、私も平成の始めに京都の演奏会で直に拝聴したことがあります。中国の神境の老貴人を思わせる仙人のような独特の風貌にも驚かされましたが、その尺八の凛として清浄たる音色に感動させられた思い出があります。平成十四年まで健在であったと聞きましたので、京都の方で西村虚空さんを覚えておられる方は大勢いらっしゃることでしょう。

 

 その西村虚空さんがここに滞在していた時期、毎日の尺八修業の合間に眺めていたであろう境内地の景色は、いまも変わっていないのでしょう。

 2018年の台風被害による大量の倒木は、金堂付近のエリアと表参道に沿った区域にて顕著であったそうですが、ここ石水院の範囲では倒木がほとんど無かったと聞いているからです。  (続く)

 

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栂ノ尾高山寺2 高山寺金堂

2024年05月13日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 高山寺の中興の祖であり、実質的な開基である明恵上人こと明恵房高弁の御廟にお参りした後、登って来た長い石段を降りて参道へ引き返しました。

 

 それから参道を道なりに奥へと進むと、左にカーブしてまもなく上図の鎮守社と金堂が見えてきました。嫁さんが「綺麗に直ったんですねえ」と言いました。

 高山寺金堂は、2018年に台風による境内林の大規模な倒木によって直撃を受け、棟木や小屋梁や向拝桁が折れ、枓栱や蟇股は割れ、建物全体も衝撃で後方に傾いてしまったので、2019年から修理を受け、2022年5月に落成しています。今回の初の特別公開は、その修理完成を記念しての特別企画でした。

 

 私自身も過去の二度の拝観でこの金堂の外観を見ていますが、その頃はこの辺りも鬱蒼とした林になっていて、薄暗い中に薄汚れたお堂が見えると言った風情でした。

 今回はその鬱蒼とした林が台風でなぎ倒され、特に樹齢200年から400年のような大木が300本近くも倒れるという大きな被害があった後の状況であり、2022年までの復旧整備事業でさらに周辺の木も危険防止のために伐採したそうなので、結果的に境内地の風景が見違えるほどに明るくなっていました。

 

 金堂の建物自体も、どこに被害を受けたのかが全然分からないほどの丁寧かつ完璧な修理を受けていて、これが5年前に半壊同然となって傾きかけたとは思えないほどでした。見事な修理の好例と言えましょう。

 

 靴を脱いで縁側にあがりました。嫁さんはこの時を楽しみにしていただけに、テンションが高止まり状態で、建物のあちこちをスマホで何枚も撮り、「中に入りましょ」と小声で嬉しそうに言い、建物の細部を観察していた私の腕を引っ張ってゆくのでした。

 

 建物自体は室町期の様相を示しており、もとは双ヶ丘(ならびがおか)にあった仁和寺の院家のひとつ真光院の堂宇であったといいます。江戸期の寛永十一年(1634)に現地へ移築されたそうです。要するに仁和寺の系列の建築で、舟肘木(ふなひじき)や蔀戸(しとみど)などに門跡寺院らしい気品が漂います。

 したがって、仁和寺の歴史を知る上でも重要な建築ですが、いまだに文化財未指定なのですから、ちょっと不思議な気がします。

 

 金堂の内部は撮影禁止でしたので、写真は外観のみにとどまりました。本尊の釈迦如来坐像も同じく初公開でしたので、私も初めて見ましたが、平安時代の古様を模倣して造られた室町期の遺品でした。金堂と共に仁和寺真光院から移したものといいますので、高山寺本来の仏像ではないわけです。

 もとの金堂は、明恵上人が承久元年(1219)に建立し、堂内の安置仏像は当時の慶派仏師のトップである運慶とその息子の湛慶があたりました。すなわち釈迦三尊像が運慶、四天王像が湛慶の作であったといいます。現存していれば、間違いなく国宝に指定されているでしょう。

 なお、現存する仏像群は全て東京および京都の国立博物館に寄託されています。そのなかに湛慶作とされる木造善妙神(ぜんみょうしん)立像および木造白光神(びゃっこうしん)立像があり、ともに国の重要文化財に指定されています。いずれも京都国立博物館などで何度か拝見していますが、いずれも見事な出来であり、かつての金堂の仏像群の素晴らしさが察せられます。

 

 金堂を見た後は、参道を引き返して、嫁さんが「宇治茶の発祥の地ですよ」という、上図の「日本最古之茶園」を見ました。

 

 「日本最古之茶園」の案内説明板です。宇治市の上林記念館でも、似たような説明を聞いた記憶がありますが、要するに京都で最初にお茶の栽培を行なったのがここ高山寺で、その茶苗を明恵上人が宇治へ移植したのが宇治茶の始まりであるということになっています。

 それが全国に広まったということですから、例えば大和茶も静岡茶も鹿児島茶も三重茶も、ここ高山寺発祥の宇治茶から分かれて行ったことになります。  (続く)

 

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栂ノ尾高山寺1 栂ノ尾の古刹へ

2024年05月08日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2023年11月11日、嫁さんが高山寺に行きたいというので、昼から出かけました。地下鉄東西線に乗って太秦天神川駅まで行き、そのバスターミナルから上図の市バス8系統に乗り、終点の「栂ノ尾」で降りました。「栂ノ尾」は「とがのお」と読みます。

 この時期、紅葉のピークは過ぎていましたが、山々にはまだ赤や黄の色彩が残り、もともと人気の観光地だけに賑わっていました。バスも満員でしたが、手前の「高雄」バス停で大部分が降りていきました。高雄の神護寺が紅葉スポットの人気ナンバーワンであるのは、昔も今も変わらないようです。

 

 バス停となっている広場の横に、上図の高山寺裏参道の入り口がありました。が、私自身は「あれ?」と思って立ち止まりました。嫁さんも同じように立ち止まり、横から訊いてきました。

「どうしたんです?なにかあるんですか?」
「いや、高山寺の参道って、こんなんやったかなあ、と思って・・・。ゆるやかな階段道やったような記憶があるんでね・・・」
「これは裏参道ってありますよ、表参道が別にあるみたいですね。そっちのほうが記憶にあるんじゃないですか?」
「かもしれない。高山寺に来たのは随分久しぶりの事やからね」
「前回はいつ来られたんですか?」
「造形大(京都造形芸術大学・現在の京都芸術大学)に通ってた頃やから、2000年頃やな。平成12年頃か」
「すると23年前ですかー、大昔ですねえ」

 高山寺に参ったのは、その平成12年頃の前は大学時代の昭和62年だけであった。近くの神護寺へは特別開扉などで10回ぐらい参っているが、こちらの高山寺は、仏教彫刻史専攻であった私が関心を寄せていた彫刻遺品の全てを京都や奈良の国立博物館へ委託しており、見るべき文化財が石水院しかなかった事もあって、あまり関心が向かず、2回しか訪れなかったのでした。

 それで今回は三度目の参拝となりましたが、以前の2回の参拝時の記憶がかすれ気味になっているため、初めて来たような感覚がありました。嫁さんは丹波の人なので、この辺りには昔からよく来ていたそうで、「わりと色々思い出がありますよ」と話していました。

 

 裏参道をそのまま進むと、折り返して急な石段になりますが、その突き当りに上図の案内板と史跡石標が立っていました。

 

 案内板です。嫁さんが読んでいて、「創建が宝亀五年、って天平時代ですよね、そういえば高山寺の一番古い仏像って天平時代のものですよね」と訊いてきました。

「あれは違うね。もとは丹波の金輪寺の本尊やったの、ここ高山寺の明恵さん(明恵房高弁・明恵上人)が金輪寺が荒れ寺になっていたのを再興した際に、ボロボロだった本尊の薬師三尊像を高山寺に引き取って、それが今に伝わってるの」
「ふーん、そうなのですかー、金輪寺って丹波のどこにあるんですか」
「確か、宮前町やったかな、修験道のお寺やで。本山修験宗やったかな」
「あー、神尾山のお寺ですね、行ったことあるかも」

 

 それからの石段道は、上図のとおり崖面に何段にも築かれた石垣の塁線に沿ってジグザグに登る急な道でした。まるでどこかの戦国期の山城跡へ登って行くような感じで、嫁さんは「こういうのって風情がありますよねえ」と楽しんでいましたが、こちらはハアハア、ゼイゼイの繰り返しでした。

 

 急な石段道の途中の景色。石垣に囲まれて幾つかの平坦面があり、東屋などが置かれていますが、付近はなぜか立ち入り禁止になっていました。苔庭の保護と、安全対策のためでしょうか。

 

 石段道を登り切って平坦な参道になったところで、上図の大きな境内案内図を見ました。実際の地形を無視して広い平坦地に伽藍が広がっているように描かれています。
 嫁さんが「さっきの急な石垣と階段の道のところ、適当に端折ってるですよ、下の車道が青いんで川に見えましたよ」と笑っていました。

 

 近くには上図の新しい案内説明板もありました。平成6年に境内地が世界文化遺産に登録されたことをうけて文化庁が設置したものです。

 

 そして今回、嫁さんが高山寺行きを言いだした理由である、金堂の初公開にともなう参拝順路への案内板がありました。高山寺の金堂はずっと非公開とされ、これまでに特別公開されたことも無く、私自身もこれまでの2度の参拝で金堂だけは全然見ていませんでした。

 それが2023年秋に初めて公開されたのですから、古社寺が大好きな嫁さんが見たいと言い出すのも必然であり、私も興味を持って共にやってきた次第でした。

 

 金堂へは、裏参道をずっと登って行く形になりました。左右に連なる石積みは、かっての堂宇や塔頭、子院の跡地であり、昔の高山寺が広大な敷地内に多くの堂塔建築を並べて栄えていた歴史をしのばせます。

 

 奥に行くと地形が平坦になり、左右の建物跡や敷地跡が広くなってきました。境内地の中心地域に入ったようでした。

 

 途中の右手には上図の「明恵上人 御廟」の札がありました。高山寺の開基である明恵上人こと明恵房高弁の墓所です。お参りしていこうか、と嫁さんに尋ねると「うん」と頷いて後を付いてきました。

 

 石段を登り切って、柵に囲まれた御廟を拝所より拝みました。

 高山寺の中興の祖にして開基である明恵上人こと明恵房高弁は、鎌倉時代の華厳宗の僧でした。出身は紀伊国有田郡(現・和歌山県有田川町)で、父は伊勢平氏系の伊藤党の武士平重国、母は紀州の豪族湯浅氏の娘であったといいます。幼時に両親を亡くし、9歳で生家を離れ、母方の叔父に当たる神護寺の僧・上覚のもとで仏門に入り、以降は華厳宗の復興に努めました。
 建永元年(1206)11月、34歳の時に後鳥羽上皇から栂尾の地を与えられ、また寺名のもとになった「日出先照高山之寺」の勅額を下賜されました。この時をもって高山寺が創立されたといいます。  (続く)

 

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伏見城の面影10 正伝寺境内にて

2024年05月03日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 正伝寺本堂の妻飾りの懸魚に徳川葵の紋を確認したことで、その徳川期伏見城御成殿としての由緒がほぼ確定しました。残る問題は、御成殿とともに伏見城より移築された御前殿のことでした。正伝寺においては仏殿にあたる法堂として使用されたそうです。

 本堂を退出する際に、受付にてその法堂のあった場所を尋ねたら、本堂の一段下の前にある平坦地の中央、と教えられました。鐘楼が建ってる場所の奥、ということでした。

 

 本堂の一段下の平坦地に向かいました。上図の通り、鐘楼が見えました。

 

 鐘楼の近くに行きました。明治期に建て直されたものだそうです。

 

 「鐘楼が建ってる場所の奥、というと、この辺りか」とU氏が周囲を見回し、連絡通路が左の傾斜面に付けられているのを確かめつつ、言いました。上図の、鐘楼の斜め後ろ、奥に見える本堂の前にあたる位置でした。
 伽藍の中心軸線に沿った位置であるうえ、他にそれらしい広い平坦地がありませんでしたので、消去法的にこの場所に絞り込まれました。

 かつて建っていた法堂は、江戸期に建て直された後、明治期に東山の長楽寺に売却されて、現在は長楽寺の本堂になっています。その長楽寺の名に、U氏は敏感に反応しました。

「長楽寺だと?円山公園の奥の?」
「知ってるんかね」
「ああ、水戸藩の京都における本国寺党の志士たちの墓所がある。一度お参りに行ったな」
「それは初耳や。水戸藩士の墓所があるのか・・・」
「なんだ、星野は知らなかったのか。長楽寺に行った事はないのか」
「いや、大学生の頃に一度行った。国重要文化財の一遍上人彫像を見学に行ったの」
「なるほど、仏教彫刻史専攻としては見ておかないといけない文化財資料だもんな」
「もう30年以上昔なんで、本堂とかも全然記憶が無いねん、水戸藩士の墓所ってのは本堂の横とかにあるの?」
「横じゃなくて裏山のちょっと高い場所にある。少し山道を登らないと行けない」
「それは、たぶん登ってないと思う」
「そうだろうな、星野は一遍上人の像だけ見て満足して帰ったんと違うか」
「うん」

 それで、現時点では長楽寺の本堂がちょっと気になる、江戸期に建て直されたというが、伏見城からの移築建築の面影があるかどうかを、いずれ見に行く積りだ、と話しましたら、U氏も「必ず同道する。決まったら連絡をくれ」と応じてきました。

 

 それから、Uが言うままに、法堂跡の左手の傾斜面に付けられた通路階段を登ってみました。その通路は本堂方丈の唐門へと通じていました。

 

「つまり、法堂が仏殿だった頃は、今本堂になってるこの御殿は方丈、つまりは客殿として使われてたのかもしれんな」
「そうやろうな」
「明治期に何らかの事情で法堂が売却されて長楽寺へ移転して、そのあとは方丈が本堂の仏殿となって今に至る、と、こういうわけだな」
「そうやろうな」

 

 唐門の建物については、江戸期の再建、という以外に情報がありませんでした。江戸期に法堂が建て直されたのに伴ってこれも建て直されているのかもしれません。

 

 建物の様式そのものは古式に倣ったようで、つまりは室町期の建物を模したかのような有様でした。もとの唐門が室町期の建物だったのかもしれませんが、寺伝においても詳しい事は分かっていないようです。

 

 唐門に繋がる土塀は割合に低いタイプでしたので、あまり背が高いほうではないU氏や私でも、背伸びをすれば塀の中がよく見えました。初めて伏見城御成殿だった建物の優雅な全容を見る事が出来ました。

「これが御成殿だったとすると、いまの建物にゃ式台や通廊の施設が無いから、それに付属する御前殿があったというのは納得出来るな」
「せやな」
「御前殿というから、御成殿の前につく殿舎なわけで、玄関とかがあって、そこから廊下で御成殿へ繋がってて、将軍家は式台から廊下で奥の上の間へ御成りになる、と、こういうわけだ」
「そういうイメージでええんやないかな」

 かくして、かつての伏見城の御成殿と御前殿が、ともに正伝寺に移築され、一方は方丈、もう一方は法堂として使われた、という流れが明快に推定出来ました。伏見城の面影が、いまなお確かに見て取れるのでした。

 

 なので、思った以上の成果があったと思います。二人とも大満足で参道石段を降りてゆきました。

 

 参道筋の通用門の脇に、上図の鎮守社とみられる朱塗りの社殿が鎮座していました。寺の総門と同じく東を向いています。正伝寺が弘安五年(1282)に再興された際、賀茂社社家の森経久が援助したといいますから、もともとこの地は賀茂社の所有地であったのかもしれません。

 現地の地名も西賀茂ですから、もとは賀茂社の末社の境内地であったのかもしれませんが、そうであれば、その社殿の由緒がいまもこの朱塗りの社殿に受け継がれているのでしょう。

 

 境内社から山門へと抜ける途中にあった、中世期の石塔。五輪塔や灯籠などの幾つかの石造品のパーツの寄せ集めでした。他にも似たようなパーツが林間に点在していましたので、中世期には墓地なども営まれていたのでしょう。

 

 山門を出て、門前にて二人揃って向き直り、寺の方角に一礼しました。

 時刻は11時41分でした。市バスで北大路バスターミナルまで戻り、イオンモール北大路の食堂街にて昼食をとり、それから地下鉄で京都駅まで移動し、15時過ぎの新幹線で帰るU氏を改札口まで見送りました。

「次は長楽寺だな。来年の春ぐらいに必ず行こうぜ。水戸藩士の墓所も案内してやる」
「長楽寺だけ?他に行きたい所はないんかね」
「伏見城の移築建築、まだあるんなら、見に行きたいな。どこにある?」
「養源院や」
「あ、養源院か。三十三間堂の向かいだったか。まだ行ってないな・・・」
「なら長楽寺と養源院で決めとこう。あともう一ヶ所ぐらい考えとくわ」
「宜しく頼む」

 ということで、握手して解散したのでした。  (続く)

 

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伏見城の面影9 伏見城御成殿の面影

2024年04月28日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 正伝寺の庭園を見ながら一休みした後、「さて」とU氏が縁側から立ち上がりました。くるりと後ろへ向いて本堂の内部へ入っていきました。私も後に続きました。

 

 本堂内の一番奥の間にあたる上図の部屋の仕切り襖の前まで行くと、U氏は「問題はあれだな」と開け放たれた襖の間の奥に見える黒漆塗りの材に金具が鈍く光る立派な障壁画の並びを指さしました。

 

「星野は、あれをどう思うかね?」
「帳台構(ちょうだいがまえ)やろ」
「やっぱりそう見るか」
「それ以外に有り得んよ、どこから見ても帳台構やな」
「つまりは徳川家だな」
「そうやろうな」

 御殿の書院造の三大特徴、とされるものがあります。違棚(ちがいだな)、押板床(おしいたどこ)、付書院(つけしょいん)を指しますが、徳川将軍家が関わる御殿の書院造においてはもう一つ、帳台構(ちょうだいがまえ)が加わります。武家の書院においては俗に「武者隠し」とも呼ばれます。将軍を護衛する近侍が不測の事態に備えて帳台構の内側に控えていたからです。

 正伝寺本堂の奥の間の奥室にいまも残る上図の帳台構は、形式や意匠が慶長八年(1603)に着工した二条城の黒書院や大広間の上の間のそれによく似ています。徳川将軍家が御成りになった際に坐する上段の間にしかない施設であり、時期的にも慶長七年(1602)再建の徳川期伏見城の御成殿の帳台構として違和感なく理解出来ます。

 ちなみに正伝寺本堂は、慶長年間(1596~1614)の建立といい、伏見城の御成殿として建てられたものと寺伝でも伝えますから、時系列的にも矛盾はありません。伏見城の廃城に際して南禅寺の塔頭金地院(こんちいん)の小方丈として移築され、それが承応二年(1653)に金地院から正伝寺へ移築されて本堂とされ、現在に至っています。

 

 ですが、本堂内部の空間構成を見ると、御覧のようにもとは前の間、中の間、奥の間の三室であったのが、上図のように中央に仕切りが入れられて襖が追加され、六室に改められていることが分かります。それに伴って中の間の奥室を仏壇としていますから、この内部空間の変化は、城郭の御殿から寺院の方丈へ改造した結果であろうと理解出来ます。

 前述のように、二度の移築を経ていますから、いずれかの移築の際に改造されたのでしょう。個人的には正伝寺への移築の時に改造したのだろう、と推測しています。上図の前の間の奥室には、本来は奥の間に帳台構とセットで造られていたであろう違棚と押板床が見えます。改造の際に移設したのでしょう。

 なぜかというと、伏見城御成殿であった頃は前の間、中の間、奥の間の三室構成で、奥の間に将軍の御成りの座が設けられましたから、その奥の間に違棚と押板床と帳台構がセットで揃っていた筈です。臣下は前の間から中の間に進んで将軍の謁見にのぞみましたから、その動線は前の間から中の間へと縦の一本になります。

 これが寺院方丈となった場合、中の間に仏壇を設ける必要がありますから、建物の正面も南向きに変更され、動線は縁側からの横線にかわり、前の間、中の間、奥の間はそれぞれ右の間、中の間、左の間に変わります。それぞれの奥の空間は北側に設定されますが、三室のままだと奥室が出来ないため、中央を仕切って襖を入れ、右の間、中の間、左の間のいずれも前室と奥室に分割し、現在の六室構成となっていった流れです。

 そうなると、もとは奥の間にあった違棚と押板床と帳台構のセットも、位置を変更する必要があります。帳台構は空間変更後は左の間の奥室に位置するのでそのままでも良いですが、違棚と押板床は前室に含まれるために違和感が出てしまいます。中の間の奥室は仏壇ですから、右の間の奥室に違棚と押板床を移設し、奥室の格式の設えを維持した、というように解釈出来ます。

 なので、この建物は外観はあまり変化がなさそうですが、内部空間はかなり変えられているものと理解します。

 

 ちなみに本堂の建物が、徳川期伏見城の建物であったことは、上図の釘隠しの金具などを見れば分かります。御覧のように徳川家の葵紋が打たれています。
 最初から寺院方丈として建てられたのであれば、紋は寺のそれになりますから、この点だけでも徳川家が建てた建物だということが分かります。

 

 杉戸の引手には、菊紋が打たれています。正伝寺が元亨三年(1323)に後醍醐天皇より勅願寺の綸旨を賜り、室町期にも皇室の帰依を受けた歴史を示しています。この場合は徳川家の葵紋はありませんが、興味深いのは、そうした引手の意匠が、同じ伏見城からの移築と伝わる南禅寺金地院の大方丈のそれによく似ている点です。

 正伝寺本堂も、現在地に移築される前は南禅寺金地院にありましたから、引手の意匠が似ているのはむしろ当然かもしれません。

 

 私と共に堂内各所の飾り金具を見て回っていたU氏が「これ、確かな証拠だよな」と嬉しそうに言いつつ、蔀戸の金具を指しました。

 

 徳川家の葵紋が打たれています。それも徳川宗家つまり将軍家の紋です。周知のように同じ徳川家でも将軍家、御三家のそれぞれで葵紋の形が異なります。水戸家ならば水戸家の葵紋があり、細部が上図の宗家の紋とは違うそうです。

 

 その後、U氏が上図の額装の説明文らしきものを指して「これ読んでみ、面白いぞ」と言いました。昔の新聞記事の切り抜きのようで、読んでみたら、この本堂の縁側の天井に張られているいわゆる「伏見城の血天井」の血痕の検査の経緯が述べられていました。鑑定したのは科警研、つまり警察庁の科学警察研究所で、血痕の血液型のみが判明した、という内容でした。

 つまりは本物の血痕であったわけです。慶長五年(1600)6月の伏見城合戦で西軍4万の攻撃を受けて落城、自刃した城代鳥居元忠以下徳川の武士たちのそれです。U氏が「徳川家の礎となりて果敢に散ったもののふの霊に黙礼」と言い、私も頭を垂れて祈ったのは、自然な成り行きでした。

 

 本堂を退出した後、U氏が「建物の外観にも何か徳川家の証しが残されてるのかな」と言うので、「武家の殿舎だったのならば、大抵は屋根の瓦とかに家紋が入るけど、ここの屋根は杮葺きなんで、あとは妻飾りの懸魚ぐらいしかないかも」と答えました。

 

 それで、庫裏の前庭まで戻って、上図のように見える本堂の屋根の妻飾りに視線を移してみました。

 

「あ、あれか、まさに徳川葵だ」
「せやな」
 U氏は感動しつつ、ザックから双眼鏡を取り出して再度見上げていました。

 

 デジカメの望遠モードで撮りました。間違いなく徳川葵が彫られてあります。徳川期伏見城御成殿であったことの確かな証拠が、二度の移築と内部空間の改造を経てもなお、懸魚の紋章にとどめられているのに、感動してしまいました。二人ともしばらくその彫り物を見上げていました。  (続く)

 

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伏見城の面影8 正伝寺本堂へ

2024年04月23日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 西賀茂の正伝寺は、いまの京都では珍しい隠れ古寺の一つです。快晴の土日においても訪れる人は少なく、御覧のように紅葉に彩られた広い境内地にも人影はなく、静寂に包まれて悠久の時を刻んでいるかのようでした。

 

 その優雅とも静謐ともいえる佇まいに感動し、上機嫌になったU氏ですが、言葉を発することはなく、胸の中で深く感慨を保っているらしく、ただカメラを周囲に色々と向けては撮り、ファインダーの中の景色と、実際の視界とを同時に味わっているようでした。

 上図は庫裏で、その玄関が開け放たれてありました。あれを入れば拝観受付があるのか、と考えましたが違いました。横にみえる下駄箱の左手に通路があって、その奥に受付がありました。

 

 U氏が「あれだな」と上図の門と塀の奥に見える杮葺の建物を指しました。私も初めて見ましたが、間違いなくあの建物がめざす旧伏見城建築遺構だ、と直感的に悟りました。それほどに、寺院の建物らしくない外観であり、城郭の御殿の建物らしい雰囲気が濃厚にただよっていました。

 

 拝観受付で手続きをして、住職に案内されるままに通路を通って本堂である方丈の縁側にあがり、ふと南を見ると白砂の石庭を囲む白壁の土塀の向こうに、くっきりと比叡山が望まれました。U氏が「北嶺を借景にしてるとはなんと贅沢な・・・」と言いましたが、その後の言葉が絶えて聞こえませんでした。

 

 なぜかというと、噂に聞いた庭園が、御覧の通りのシンプルな白砂の石庭であったからです。向かって右手に唐門と丸い植え込みが並んで、海中の島々とその建物をシンボライズしていましたが、龍安寺や大覚寺や醍醐寺の石庭に比べると随分あっさりした構成でした。

 その簡素で分かりやすい庭園は、U氏にとっては予想外だったらしく、「これがデヴィッド・ボウイの・・・」と小声でやっとのように呟いていたところをみれば、かなり想像と違ったようでした。もっと苔むした、古びた侘び寂びの風情の佇まいをイメージしていたようです。

 私のほうは、南禅寺派の寺だからこんなものだろう、と考えていました。それよりも南禅寺派の寺であることが重要なのだ、と思い当って少し興奮してしまいました。だから伏見城からの移築建築が本堂になっているのか、と腑に落ちた思いでした。

 

 そうなると、この唐門ももしや伏見城からの・・・、と思ったりしましたが、流石にこれは後年の建物であるそうでした。江戸末期か明治頃に建て直したということですが、詳細は不明です。

 

 この「獅子の児渡しの庭」は、江戸初期に小堀遠州によって作庭されたと伝えますが、確証はありません。白砂に石を用いないのが特徴で、丸いサツキの刈り込みも、向かって右から七、五、三と配されています。いわゆる「七五三式」の枯山水の庭です。

 

 本堂である方丈の縁側の端の杉戸を見ました。かつての絵画が白い胡粉の痕跡のみとなっていました。何の絵だったんだろう、とU氏が言うので、揃って杉戸に近寄りました。

 

「近づいたら余計に分からんぞ、木目ばっかり目立って見えてくる」
「うん」

 

 外側も一応のぞいてみましたが、なにか草木っぽい絵の痕跡が白や黒のシミのように見えたのみでした。

 

 方丈内部の向かって左端の間です。御殿建築でいう上の間の空間にあたります。正伝寺に移築した際に中央に仕切りを入れて襖を入れたようで、欄間や天井にもかなりの改造や修理が加えられているのが見て取れました。伏見城にあった頃とは空間構成からして異なっているようです。

 

 ですが、いま東面する上図の縁側は、伏見城のいわゆる「血天井」がはめ込まれている他は改造の痕跡が見当たりませんでしたから、この廊下と軒先の外観はおそらく伏見城の殿舎のそれを保っているものと思われます。

 

 この本堂は、寺伝によれば、もとは伏見城本丸の御殿の御成殿であった建物で、伏見城の廃城後に南禅寺塔頭金地院に移築されて小方丈として使用されました。それがが承応二年(1653)に再び移築されて、南禅寺派の正伝寺の本堂とされ、現在に至っています。
 内部の障壁画は、作風等から狩野山楽一派の筆と推定され、国の重要文化財に指定されています。廊下のいわゆる「血天井」は、伏見城の戦いで伏見城が落城する際に自刃した鳥居元忠らの血痕が残った廊下の板を用いたものと伝わっています。

 なお、正伝寺には御成殿とは別にもう一棟、御前殿であった建物が伏見城より移築されたといいます。その建物は正伝寺にて仏堂として使用されましたが、寛文六年(1666)に新たに建て直されたということです。その建物を、明治二十三年(1890)に東山の長楽寺が購入して移築し、本堂として現在に至っています。  (続く)

 

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伏見城の面影7 正伝寺へ

2024年04月18日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2023年11月6日、水戸のU氏との京都歴史散策二日目は朝8時からスタートしました。北大路バスターミナルで待ち合わせて市バス1系統に乗り、上図の神光院前バス停で降りました。

 U氏が「この辺は初めて来たな。神光院って、京都の三大弘法のひとつだったよな」と言いました。
「へえ、そうなのか」
「なんだ、知らなかったんかね」
「京都に長く住んでても、知らない事は一杯あるからな」
「それもそうだ、あははは」

 

 この日訪ねたのは、北区西賀茂に所在する正伝寺でした。私がリクエストして今回の歴史散策スポットに加えたのでしたが、U氏も私もこれまで全然行った事のない寺でした。
 U氏もそれで色々調べたらしく、「この正伝寺っての、デヴィッド・ボウイのCMのロケ地だったらしいぞ、面白いなあ」と言いました。

 デヴィッド・ボウイは、周知のようにイングランド出身のロック歌手ですが、U氏や私の世代にとっては俳優のイメージも強く、YMOの坂本龍一と共演した「戦場のメリークリスマス」のジャック・セリアズ少佐の姿などがいまも印象に残っています。

 正伝寺には、「獅子の児渡しの庭」と呼ばれる京都市指定名勝の庭園があります。たびたび京都を訪れていたデヴィッド・ボウイは、正伝寺の庭園を特に気に入っていたそうで、宝酒造のテレビCMに起用された際、自ら正伝寺を撮影場所に希望し、その通りになったといいます。

 そんなに美しい庭園ならば、一度は見てみよう、というのも今回の正伝寺行きの理由の一つでありました。バス停から西へ進んで住宅地の中を、道標を確かめつつ上図の旧参道筋へと歩きました。

 

 門前に着きました。「おお、いいじゃん、いいじゃんか、この如何にも京の隠れ古寺、って風情がね」とU氏が嬉しそうに言い、門へ進もうとする私を左手で制しつつ、右手で右脇の寺号標を指しました。

 

 U氏が指した寺号標です。吉祥山正伝護国禅寺、と刻まれています。
「ほう、禅寺にしてはカッコいい正式名称だね。山号が吉祥山というのが素晴らしい。護国禅寺って奈良仏教のあれ、護国之寺とかみたいでカッコいいな」と上機嫌なU氏でした。

 

 門の左に立てられている案内説明板。例によって二回読んで「なるほど、本堂の方丈が伏見城の遺構であると伝えられてるわけか」と頷いていました。

 だから私もここをリクエストしたのでした。伏見城の建物が各地へ移された経緯を古文献などで色々と追っているうちに、南禅寺へ幾つかの建物が移された伝承につきあたり、とくに塔頭の金地院を介してさらに同じ南禅寺派に属するここ正伝寺に御成殿の建物が移築されたという件を知りました。
 この移築伝承には、さらにもう一ヶ所の寺院が含まれますが、それは後日の機会に回して、今回はここにやってきた次第でした。

 

 門にかかる表札には「正伝禅寺」とありますが、U氏は「これ上手な字なのかね、なんだか小学生の書道の作品みたいに見えるんだが」と、さりげなく凄い事を言っていました。

 

 ですが、門をくぐって中に進むと、U氏のテンションが再び上がりました。さっきよりも上機嫌になって「いいねえ、いいじゃん、この鬱蒼たる原生林のなかにひっそりと静まる境内地、あの小さな簡素な門。これですよ、こういうのが京の隠れ古寺、禅の古刹ってなもんだよなあ・・・」と熱っぽく語るのでした。

 

 門からの参道は左に折れてこの小さな門をくぐり、右に曲がって階段となっていました。この小さな門は近年に出来たもののようです。

 

 階段をあがると上図のまっすぐな道が林間の奥に伸びていました。なかなかいい雰囲気でした。山門から本堂までの距離が思ったよりもありそうなので、急がずにゆっくりと周囲の自然を眺めつつ歩きました。

 

 紅葉も綺麗でした。

 

 やがて道は再び長い階段となり、左手には苔むした石垣が二段ほど続いていました。U氏はますます雰囲気が気に入ったようで、「デヴィッド・ボウイは、正伝寺の庭園を特に気に入ってたそうだけどさ、実際は庭園だけじゃなくって、こういう境内地の雰囲気も好きだったんじゃないかねえ」と言いました。そうだろうな、と私も思いました。

 

 この石垣はおそらくは、かつて建ち並んでいた坊院か塔頭の区域のそれだろうと思います。

 この正伝寺は、鎌倉期の文永年間(1264~1275)に播磨国の禅僧の東巌慧安(とうがんえあん)が師の兀庵普寧(ごったん ふねい)を勧請開山として烏丸今出川に創建したのが始まりとされます。
 その後、寺は比叡山延暦寺の衆徒によって破却されましたが、弘安五年(1282)に賀茂社の社家・森経久の援助により現在地に移されて再興され、元亨三年(1323)には後醍醐天皇より勅願寺の綸旨を賜りました。室町期には天皇家および足利将軍家の帰依を受けましたが、応仁の乱の兵火により荒廃しました。

 それを復興したのが徳川家康で、江戸期には塔頭を五か寺有していたといいます。徳川家の支援により復興した寺が現在に至っていますので、本堂の方丈が伏見城の遺構であると伝えられるのも、おそらくは徳川期再建の伏見城の建物を廃城の際に移築した事例の一つだろう、と思われます。  (続く)

 

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伏見城の面影6 二尊院総門

2024年04月13日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 二尊院総門の続きです。門脇の立札によれば、慶長十九年(1614)に伏見城の薬医門を角倉了以が貰い受けて寄進移築したものとなっていますが、別の資料では慶長十八年(1613)の事となっています。
 つまりは一年の差がありますが、当時の状況を考え合わせると、おそらく慶長十八年は貰い受けた年、慶長十九年のほうは現地に移築した年ではないかと推測されます。

 

 建物は、いまは京都市指定有形文化財に指定されていますが、伏見城の門だったのであれば歴史的にも重要な建物ですから、国重要文化財になっていてもおかしくない、と思います。そのことはU氏も指摘していましたが、同時に「豊臣期の豪華な門に比べりゃ、こっちは地味で質素だからな、国重要文化財まではいかないかもしれんな」と話していました。

 

 確かに上図の妻飾(つまかざり)の懸魚(げぎょ)以外には全く装飾意匠が見当たりません。棟を支える両側の蟇股(かえるまた)も大きな一枚板であるのみでした。

 

 脇の潜戸(くぐりと)も御覧のように実用本位の造りで、飾りの類は一切みられません。部材も細くて、戦国期の門のような防御性の高い太い木が使われていませんでした。そういう点にも、江戸幕府開創期の平和な気分が伺えます。

 

 天井は御覧の通り、屋根裏まで見えました。屋根の垂木も間隔を開けた疎垂木(まばらだるき)のタイプです。

 

 とにかく質素ですが、必要最低限の構造、堅牢さは備えています。実用本位の門としてはこの程度が普通だったのかもしれませんが、同時に、この程度の構えであれば、城郭以外の寺院や屋敷などの門としても通用したのだろうな、と思います。

 

 門の左の柱には「九頭龍辨財天」の札が掛けられていました。本堂の隣に弁財天の化身である九頭龍大神・宇賀神を祀るお堂があるので、そこへの参詣客も多かった歴史が示されています。

 U氏が「そういやあ、弁財天っての、京都には結構多いよな」と私を振り返って言いました。確かに京都では色んな寺に弁財天が祀られていて、観光名所になっている所も少なくありません。
 思いつくだけでも、近くの天龍寺の慈済院の水摺福寿大弁財天、それから六波羅蜜寺の福寿弁財天、戒光寺の融通弁財天、伏見長建寺の八臂弁財天、本圀寺の九頭龍銭洗弁財天、出町妙音堂の青龍妙音弁財天などが挙げられます。

 

 とりあえず、二尊院総門の見学を終えました。本物の徳川期再建伏見城の城門の遺構ということで、充分に見応えはありました。

 

 この門は、近くでみるよりも、このように少し離れて見るほうが良い感じです。地味で質素とは言え、当時の城郭内の一級格の門でしたから、外観が重厚で力強く感じられるのも当然です。

 

 近くの上図の中国料理レストランの前でU氏が「おい、もう14時前になるぞ、夕食はまたどこかで食うとして、ちょっとここで軽くラーメンでも食べようか」と言いました。朝からずっと歩き回って見学してまわってばかりでしたから、私も異存はありませんでした。

 

 それで、上図のハーフサイズのラーメンをいただきました。ラーメンというより薄味の中華ソバという味わいでした。

 

 その後、もと来た道を引き返して嵐電で大宮まで行き、市バスで四条河原町へ移動して改めて夕食を共にし、祇園四条のU氏の宿の前にて解散しました。

 握手の際に、「ではまた明日。明日の一ヶ所がいちばん重要だからな、楽しみだな」と笑っていたU氏でした。  (続く)

 

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