気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

紫野大徳寺1 龍源院へ

2022年05月31日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2021年11月20日、水戸の友人U氏に誘われて、大徳寺へ行きました。昔から古都巡りが趣味で、それが高じて京都の芸大に通うまでになったU氏は、その後も年に4、5回ほど京都、奈良への旅を繰り返して楽しんでいました。芸大の同期生の私が奈良市に住んでいた頃は、私のバイクを借りて奈良巡りをメインにし、奈良県内の殆どの史跡や古社寺を回っていました。そのパターンが定着して、私の各地への異動に合わせてその地域の史跡文化財を回るというケースが続きましたから、私が前の会社を退職して京都市に凱旋移住した2019年以降は、もっぱら京都巡りに照準を定めているようでした。

 ですが、U氏の京都巡りは、本人に言わせると「まだ11回しかやってない」そうで、奈良巡りの「通算117回」の十分の一以下であるそうです。そのせいか、私が京都市に落ち着いてからはやたらに張り切って京都巡りに精を出し始め、学生時代を懐かしむかのように、北白川や銀閣寺道、修学院などの思い出の地を回っていましたが、それも一段落した2021年からは、未訪の古社寺を訪ねることを主目的に据えたようで、わざわざ詳細な未訪地リストを作成して送ってきたのでした。

 その未訪地リストの四番目が、今回の大徳寺でした。一番目は仁和寺、二番目は龍安寺、三番目は天龍寺となっていましたが、それらは私の訪問レポート「龍と仁と天と」シリーズの記事を参考にして行ってきたというので、四番目の大徳寺が今回の訪問地となったのは自然な成り行きでした。
 ですが、大徳寺は私自身も殆ど未訪地であって、今回U氏が提案した秋の塔頭公開の各公開箇所の全てが未訪でありました。その事を言うと「そんなら君も来い、いつまでも未訪にしてるわけにはいかないだろ、この機会に一緒に学ぼうぜ」と誘ってきたのでした。

 かくして前日に水戸からの夜行バスで京都入りし、拙宅に一泊したU氏と共に、大徳寺各塔頭公開時間の9時前に現地に着くように計画して、地下鉄で北大路駅まで行き、そこのバスターミナルから市バスに乗って上図のバス停「大徳寺前」で降りたのでした。

 

 バス停は、大徳寺境内の南を通る北大路通の東側にあり、御覧のように歩いて北大路通を北へ渡れば、すぐに大徳寺境内地の外郭土塀のもとに着きます。
 参拝順路は、本来ならば一山の総玄関口にあたる東側の総門からスタートするようでしたが、U氏の計画したコースでは南側の中門からであったので、なぜ南門と言わずに中門と言うのだろう、と不思議に思いつつも、張り切って歩くU氏に続いてそちらへ向かいました。

 

 ですが、南側へ行こうとしたところでU氏が「隅っこに門があるぞ」と指さして立ち止まりました。境内地の南東隅に上図の門が建っていました。名前が「梶井門」であるので、ああ、かつての梶井門跡御所の門というのはこれか、と思い当りましたが、私と違ってU氏は大徳寺の概要すらまだ知らなかったらしく、「なんだろ、開かずの門みたいだが?古い門なのかな?」と色々呟いていました。

 それで、この辺りが大徳寺創建以前に存在したという「円融院」の旧地であること、その「円融院」は平安中期に天台座主の円融房良真が住して梶井門主を名乗ったこと、梶井の名は「円融院」にあった名井の水を加地水となした由緒にちなむこと、「円融院」の所領が船岡山までを含む広い範囲にあったこと、大徳寺が「円融院」の所領地の北側に創建されたこと、などを簡単に説明しました。

 円融院、というのは以前に龍安寺へ行った際に事前学習で読んだ資料にあった名前で、龍安寺の位置にかつてあった円融天皇ゆかりの寺院の「円融寺」と同一であるとされています。
 しかし、一説では別々の寺であるとされていて、ちょっと興味を持って調べたことがあります。諸史料をあたったところ、大徳寺の寺史である「宝林外史」や「宝林編年略記」に「円融院」の名が頻出することを知りましたが、「宝林外史」では「円融院」と「円融寺」を同一視しているのに対し、「宝林編年略記」では円融天皇ゆかりの「円融寺」と梶井門跡ゆかりの「円融院」とを明確に区別しているのに驚かされた記憶があります。
 同じ大徳寺の二つの史料で内容が異なるのは不思議ですが、仔細に検討してみると、「円融寺」と「円融院」は所在地が異なる上に成立時期も重ならないので、別々の寺であると述べる「宝林編年略記」の記載をおさえておくのが適当だろうと思います。

 U氏がしきりに門の年代を知りたがっていたので、とりあえず「室町期以降」と答えておきました。梶井門跡の御所は応仁の乱にて焼失して円融院の寺籍は大原三千院に移されたため、御所の再建があったならばそれ以降になる、梶井門跡自体は江戸期まで存続したから、こちらの門も成立下限は江戸期になるかな、と考えたからでした。

 しかし、個人的には門の時期よりも門の痛み具合が気になりました。老朽化のためか屋根の右側が下がって屋根全体が歪み、その直下の組物もギリギリ耐えているといった風情でした。文化財指定を受けていないので、修理をするならば寺の完全負担になります。昨今の情勢下においては厳しいだろうな、と思いました。

 

 それから南側の土塀に沿って西へ進みました。

 

 南側の出入口である中門へ向かいました。U氏が「おい、南にあるのに中門だってさ。なんで南門じゃねえんだろうなあ」と先ほど私自身が疑問に思ったことをそのまま呟いてきました。
 それで気になって後日調べましたが、大徳寺の資料類にも中門の呼称の由来についての記載は見当たりませんでした。個人的には、梶井門から入った場合の境内中枢部への連絡路上に位置することによって「中門」としているのでは、と推測しています。

 ただ、大徳寺関係の公刊資料類や専門書、文化財報告書類では「中門」とあるのに対し、一般向けの観光ガイドや歴史書類の最近の刊行物においては「南門」と記されるケースが散見されます。そのほうが分かり易いからでしょうか。

 

 先に見た梶井門を内側から見ました。この広い区域が、かつての梶井門跡御所の北側の空間の一部であったようです。御所の中枢部は船岡山の東側にあったそうで、江戸期にはその園池が「御池」と呼ばれて残っていたそうです。現地の字名も「御所田」ですから大体の位置関係は把握出来ます。

 

 中門をくぐって中に進みました。塔頭の甍と門と土塀が朝の静寂に包まれて並んでいます。U氏が「一般観光のスタート地点になってる総門から入るとさ、たぶん人影もあるだろうし、折角だから京都の古刹の朝を味わうなら静かなところから入るべきだな、なあ」と上機嫌でした。なるほど、それで中門からの参拝コースを計画したのか、と納得しました。

 

 時計を見ると9時3分でした。この秋の大徳寺塔頭公開の時間帯は寺院によって9時からと10時からとがありましたが、こちらの龍源院は9時からでした。もともと常時拝観可能な塔頭のひとつですので、特別公開期間でなくても見学出来ます。

 

 龍源院の玄関口にあたる表門です。檜皮葺の切妻造四脚門です。龍源院は、寺伝によれば開創を文亀二年(1502)とし、大徳寺の塔頭では最古の例となります。永正年間(1504~1520)に客殿が造営されていますので、この表門も同時期の建立、沽券状などの記載から永正十四年(1517)頃の建立とされています。室町後期の門建築の典型例として国重要文化財に指定されています。

 

 門の脇の説明板です。U氏はこういう説明文の類は真剣に読み、理解を深めるために二度読みを必ずします。難しい箇所になると三度読みに及ぶことがあります。文献や史料を正しく理解し解釈するには最適の正しい姿勢です。共に京都の芸大で学んでいた頃からずっとそのスタンスなので、そういう癖というか習慣になっているのでしょう。見習うべき良い習慣です。

 

 表門にかかっている龍源院の標札。U氏が「チョークでしろーく書いて・・・」と妙な節で詩吟っぽく呟いていましたが、この標札の寺号はチョークではなくて胡粉(ごふん)で書いてあるのでしょう。

 

 U氏がしばらく観察し、「いかにも京都らしい優美で繊細な曲線造りの意匠だな」と表現していた欄間の連子です。正式には「欄間波形連子(らんまなみがたれんじ)」と呼ばれ、室町期以降の社寺建築や宮廷公家建築で多く見られます。もちろん、大徳寺山内にも同時期の建築遺構が幾つかありますから、この種の意匠は他の塔頭の建築でも見られます。  (続く)

 

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(車輌目次表紙)聖グロリアーナ女学院 マチルダⅡ(劇場版)

2022年05月30日 | ガールズ&パンツァー

  使用キット  タミヤ ミリタリーミニチュアNo.300 (商品コード35300)

  制作期間   2020年9月11日~10月25日

  製作記事   その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 その8 その9 その10 その11 その12 完成です!!

  総評・備考
 第二次大戦中のイギリス戦車の1/35スケールキットは、他国の戦車に比べて少ないとされるが、マチルダⅡも例外ではない。ガルパンにも登場して各試合で活躍するが、残念ながら公式キットは未だに出ていない。キットそのものがタミヤとICMからあわせて4種類しか出ておらず、入手が容易なのはタミヤの新キットのみとされる。
 ガルパンの劇中車はテレビ版仕様と劇場版以降の仕様とに分かれるため、どちらを作るかで適応キットも分かれる。今回は劇場版仕様にて製作したが、その適応キットはタミヤの新キット(下のキット一覧の2)である。テレビ版仕様の適応キットはタミヤの旧キット(下のキット一覧の1)とされる。いずれも劇中車に仕上げるには多少の改造や追加工作を必要とするが、全体的には劇場版仕様のほうがキットとの相違点も少なくて作業量も少ない。劇中車が付ける牽引ホールドのパーツはいずれのキットにも入っていないため、他キットからの転用に頼らざるを得ない。初心者向けではないが、あえてチャレンジすることで得られる経験値は大きいだろう。 

  公式および適応キット一覧(2022年5月現在) 黄帯が今回の使用キット  


目次へ

 

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BC自由学園 第五共和制小隊 M22ローカスト(リボンの武者版) 作ります!! その1

2022年05月29日 | ガルパン模型制作記

 ガルパンのコミック版に登場するBC自由学園チームの車輌をこれまでに4輌作りました。内訳は「フェイズエリカのこぼれ話」に出ている車輌が3輌(M5A1、オチキスH39×2)、「リボンの武者」に出ている車輌が1輌(ルノーR35)ですが、実は最も作りたかった車輌のキットがなかなか入手出来なかったために、これらの4輌を先に製作しました。

 その直後に、図ったかのようなタイミングで、最も作りたかった車輌のキットが揃いました。上図の「リボンの武者」に登場するBC自由学園チーム選抜の「第五共和制小隊」のM22ローカスト軽戦車でした。作中ではボルドーが率いる3輌のチームで、黒森峰女学園選抜「シュバルツバルト戦闘団」との対戦試合にて別働隊として活躍しています。

 

 作中ではBC自由学園チームが使用していますが、サンダース大付属高校チームからのレンドリースによって戦力に加わっているアメリカ軽車輌である旨が、「リボンの武者」第1巻76ページ、107ページのアリサのセリフによって知られています。
 M4シャーマン中戦車を小型にしたような感じの可愛らしい車輌で、個人的にBC自由学園チームの使用車輌のなかで一番気に入っていますが、残念ながらアニメ版には出ていません。したがって「リボンの武者」の作中車仕様にて再現製作してみることにしました。

 

 この「第五共和制小隊」のM22ローカスト3輌は、興味深いことに作中での描写が1輌ごとに異なっているようです。1輌は上図のようにBC自由学園チームの校章マークを砲塔左右に付けていますが、普通に自チームのマークを付けているのはこの1輌だけです。

 

 そしてこちらの2輌目はマークが全然見えません。他の登場シーンでもマークがありませんでした。さらに、操縦手ハッチの形状から英軍向け仕様のM22であることが分かります。適応キットもブロンコモデルから米軍仕様とともに英軍仕様も発売されていますので、作中の1輌目も2輌目も再現可能であるわけです。

 

 続いて上図が3輌目、ボルドーの搭乗車と見られますが、面白い事に砲塔左右につくマークがサンダース大付属高校チームの校章のままになっています。サンダース大付属高校チームからのレンドリースである件もこの描写によって確かめられますが、マークをそのままにしているのは、いずれ返却が決まっている車輌だからでしょうか。

 かくして三者三様ならぬ三車三様の外観をみせるM22の「第五共和制小隊」ですが、面白いので3輌とも作ってみることにしました。冒頭にて、キットが揃いました、と書きましたが、その通り、ブロンコモデルの35161番(英軍仕様)が1個、35162番(米軍仕様)が2個、あわせて3個のキットを買い揃えたのでした。
 適応キットはブロンコモデルの品が唯一で、もともと模型店でも通販サイトでもあまり見かけない希少キットであるため、1個を確保するのにも手間がかかり、35162番のほうがなかなか手に入らなかったりしたのですが、先月にやっと3個目がサークル仲間からの譲渡によって得られた次第でした。

 

 3輌を順に作りましたが、使用したキット35161番(英軍仕様)と35162番(米軍仕様)の作中車再現製作における相違点は操縦手ハッチの形状のみでパーツも1個だけです。あとは全て同じパーツを同じ工程にて組み立てたため、今回の製作レポートでは1輌目の分だけを取り上げて綴ることにしました。そして完成後の記事にて3輌の姿をそれぞれ紹介する、という流れで取り組むことにしました。

 1輌目は、前掲の作中シーンにて紹介した、BC自由学園チームの校章マークを砲塔左右に付ける車輌です。操縦手ハッチの形状が米軍仕様であるので、使用キットは上図の35162番(米軍仕様)となりました。

 

 中身はブロンコモデルらしく細かいパーツ割で数も多めです。履帯は恐怖の連結式ですが、直線部分は一体成型でワンパーツとなっているのは幸いでした。

 

 組み立てガイドはブロンコモデルならばでのA4サイズ見開き、一部はカラー印刷という贅沢なものです。

 

 大きくて見やすいガイド図です。コミック「リボンの武者」第5巻をわざわざ置いたのは、大きさ比較のためもありますが、今回紹介した「第五共和制小隊」3輌の必死の戦いぶりが描かれていて、作中車の各アングルの様子がよく分かるからです。したがって今回の再現製作の一番の参考資料となりました。

 

 ステップ1およびステップ2では車内のインテリア組み立てが中心ですが、インテリアといってもエンジンは無く、操縦席周りが最低限に再現されるのみで過半の部品は省略される中途半端なものなので、割り切ってインテリア関係は不要としました。
 なので、ステップ2はスルーし、ステップ1でも外回りのパーツだけを組み付けます。

 

 ステップ1で組み付けるパーツのひとつ、車体底面にある脱出用ハッチのD6です。

 

 D6を取り付けました。付けないと車体底部に脱出口が開いたままになります。

 

 そして車体前端の牽引ホールドのパーツB19およびB21です。

 

 組み付けてステップ1が完了しました。ステップ2は不要で飛ばしますので、次の作業はステップ3からになります。  (続く)

 

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北山鹿苑寺7 旧鹿苑寺みち

2022年05月28日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 鹿苑寺東口より、いま俗に「金閣寺道」と呼ばれる上図の鞍馬口通りを東へ進みました。足利義満の北山殿の時期には総門は南にあって、いまも敷地神社(わら天神)の西に「衣笠総門町」の地名にて由緒が伝えられています。総門の次に東門を通って北山殿の御所空間へ入ったことが西園寺公衡の日記「公衡公記」記載の「北山殿南屋宸殿指図」等から知られます。この構えが北山殿を鹿苑寺となして後にも引き継がれ、やがて南の総門が廃されて東口が総門となり、江戸期の伽藍整備期に至ったとされています。

 それで江戸期には現在と同じく総門が東に向かう配置に定まり、参道も東に向かい、門前集落が東の紙屋川沿いに形成されていました。正保二年(1645)九月に幕府の命令で作成された「北山鹿苑寺境内之図」にも、その様子が明確に描かれています。
 その東への参道および当時は「大北山村」と呼ばれた門前集落の道が、現在もほぼ残されているのかどうかを、これから実際にたどってみることにしました。

 

 鹿苑寺の東口から「金閣寺道」つまり鞍馬口通を降りて、上図の西大路通との交差点に出ました。付近に市バス停「金閣寺道」があり、観光客の大半はそこから金閣を目指して登ってゆきます。鹿苑寺参道はさらに東へと続きますが、上図中央に見える鞍馬口通がそれにあたります。

 

 西大路通を東へ渡って、上図の鞍馬口通を100メートルほど進みました。「北山鹿苑寺境内之図」ではこの道に沿って紙屋川からの支流が水路となって通り、そのまま門前集落まで続いています。門前集落の生活用水路の役目を果たしていたようです。その支流水路は、現在では市街地化して痕跡すら残っていませんでした。

 

 鞍馬口通を100メートルほど進むと、西大路通から三つ目の辻に着きます。現在は交差点になっていますが、江戸期は一本道で右に曲がって上図の南への下り坂道へ続くのみでした。
 この南への下り坂道が「大北山村」と呼ばれた門前集落のメインルートで、「北山鹿苑寺境内之図」ではこの道の両側に並ぶ民家の列が描かれます。その周辺は寺領の田畑が広がっていて、現在の市街地の地割が当時の田畑の畝などの境界線をほぼなぞっているのが現況地図との比較観察によって知られます。

 

 南への下り道は、やがて登り坂に転じます。これを登り切って進むと左手に上図の緑地が続きます。地図で見ると衣笠南道公園となっていますが、すぐ西に花山天皇紙屋上陵がありますので、昔はその関連園地であったのかもしれませんが、詳細は不明です。
 現在の公園は戦前の昭和12年に整備されたようで、紙屋川西岸の段丘上に造成されていて、階段を降りて下の広場に行く形になっています。もとは衣笠南通児童公園といったそうなので、いま歩いている上図の道は衣笠南通であるようです。「北山鹿苑寺境内之図」ではこの辺りは門前集落の外れになるようで、道が南の三叉路および「高橋」まで続きます。

 

 その南の三叉路に出ました。東西に通るのが蘆山寺通で、上図奥に架かる橋が「北山鹿苑寺境内之図」にも描かれる「高橋」の後身です。紙屋川に架かるこの橋が、鹿苑寺領の南東隅にあたっていたようで、高橋から西へ通る現在の蘆山寺通が、鹿苑寺領の南の境界線にあたっていたようです。

 

 「高橋」をいったん東へ渡って振り返ったところです。現在は、この橋を境目にして西を蘆山寺通、東を寺之内通と呼んでいます。

 

 江戸期まで「高橋」と呼ばれた橋の現在の名称は「寺之内橋」です。寺之内通の西端にあたっていて、ここから東へ進めば寺之内通ですが、室町期には上京地区への主要幹線路の一つとして機能していた重要なルートでした。鹿苑寺の門前道はここから枝分かれしているのであって、おそらくは足利義満の北山殿の時期に上京地区との連絡路として設けられた道を踏襲しているのではないか、と思います。

 

 橋から紙屋川を見下ろして、かなりの高低差があるのに驚きました。さきに見た衣笠南道公園が紙屋川西岸の段丘の上に位置していましたから、その高低差がそのまま南へと続いているわけです。

 見ていて、この深さが室町期からのものであるならば、これは天然の水濠だな、と気付きました。鹿苑寺領の東の深い谷川なので、そのまま室町幕府の時期には北山殿の防御線としても機能したのだろう、足利義満がこの地に目をつけたのは、防御性にも優れた扇状地状の地形であるうえに東を紙屋川が区切っていて、いざという時に守りやすいからだったのだろう、と推定しました。

 そもそも、足利義満は源氏の棟梁にして武門の統領たる征夷大将軍でありました。その重要な拠点を北山に据えたのも、単に風光明媚で知られた西園寺家の北山第だから、という理由では無かった筈です。当時の京都の中心街であった上京地区と連絡出来る要地で、地形的に攻めるに難く護るに易い場所を探して北山第を選んだのに相違ありません。

 

 「北山鹿苑寺境内之図」に描かれる門前への道の探索は「高橋」つまり現在の寺之内橋で終了しました。室町期からの道かどうかは分かりませんが、江戸期の門前集落「大北山村」を通る東口への道は、いまも位置をとどめて機能していることを確認しました。

 それで満足したので、帰りのバスに乗る前の時間つぶしに、上図の敷地神社(わら天神)にお詣りして鹿苑寺散策の成就を報告しておきました。この神社も「北山鹿苑寺境内之図」に「北山天神之森」と記されて社殿が描かれているからでした。  (了)

 

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(車輌目次表紙)プラウダ高校 T34-85(2号車)

2022年05月27日 | ガールズ&パンツァー

  使用キット  AFVクラブ (商品コードFV35S55)

  制作期間   2018年6月16日~6月22日

  製作記事   その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 完成です!!

  総評・備考
 第二次大戦中のソ連を代表するT34中戦車は、ガルパンにおいてもT34-76およびT34-85がプラウダ高校の中心戦力として活躍する。T34-85の劇中車は、1944年から1945年にかけて国営第183ウラル戦車工場にて生産されたタイプの1944年型に該当する。その適応キット(下のキット一覧の11)を公式キット化した製品(下のキット一覧の1および2)が発売されているが、1は廃番となっているので、2を買えば最低限の改造でガルパンの雰囲気に仕上げることが出来る。
 適応キットも複数のメーカーから幾つか出ているが、劇中車に合わせて作る場合には砲塔形状および溶接線を合わせ、転輪のタイプを二段ディスク型に合わせる必要があるほか、車体各所の細かい特徴を全て合わせる作業が追加される。なかでもタミヤの製品(下のキット一覧の6)は劇中車のモデルであろうとされるほどに近似しており、ストレート組みでも劇中車をほぼ再現出来る。公式キットの5番目(下のキット一覧の5)やAFVクラブの製品(下のキット一覧の19)はフルインテリアキットで内部構造もすべて再現されている。今回はAFVクラブの製品(下のキット一覧の19)を使用して製作した。他にミニアートからも新製品が連出しているが、殆どは砲塔形状などが異なる国営第112クラスノヤ・ソルモヴォ工場での生産タイプであるため、下のキット一覧には載せていない。

  公式および適応キット一覧(2022年5月現在) 黄帯が今回の使用キット  


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BC自由学園 オチキスH39軽戦車(2輌目)(フェイズエリカのこぼれ話版) 作ります!! その3

2022年05月26日 | ガルパン模型制作記

 ステップ13では主砲の組み立て、ステップ14ではキューポラの組み立て、ステップ15では砲塔内部の組み立て、ステップ16では砲塔の組み立てを行ないます。このうちステップ14はドイツ軍式キューポラの組み立てなので飛ばしまして、後でフランス軍式の丸い頂部をジャンクパーツで作ります。

 

 ステップ13で組み立てる主砲のパーツ群です。ガイド図のD24は正しくはD41ですが、不要パーツなのでここでは使いませんでした。

 

 組み上がりました。パーツD20は付けても意味が無いので、ここでは不要としました。

 

 ステップ15で組み立てる砲塔内部のパーツ類です。

 

 主砲もセットして組み上がりました。後部のハッチは開閉自在ですが、乗員フィギュアが無ければあまり開閉する機会も無さそうです。

 

 ステップ16に進みました。砲塔の組み立てに入り、キットに付いているドイツ式キューポラを不要として本来のフランス式頂部をジャンクパーツから作りました。上図右下の丸いパーツがそれで、ドラゴンのドイツ戦車の機銃マウントのパーツが丁度良い大きさでした。

 

 組み上がりました。

 

 ステップ17で砲塔を車体にセットします。ステップ18で予備転輪架を組み立てますが、作中車は転輪架が無くて転輪を直接車体背面に留めていますので、それに合わせます。ステップ19は今回の製作とは無関係ですので飛ばします。

 

 ステップ17で、砲塔を車体にセットしました。

 

 ステップ18で予備転輪を組み付けます。作中車に合わせて転輪架D18は不要とし、積載品パーツのD19も不要としました。

 

 御覧のようにピンバイスで車体背面中央に穴をあけて、転輪留め軸のD13が挿し込めるようにしました。

 

 作中車の状態に合わせて予備転輪を仮組みしました。取り付けは塗装後に行ないます。

 

 以上で、塗装前の組み立て作業が全て完了しました。車外装備品類は塗装後の取り付けまで保管しておきます。  (続く)

 

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北山鹿苑寺6 不動堂と大塔跡

2022年05月25日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 茶室の夕佳亭を辞して、同じ高台上の北東隅に位置する上図の不動堂に行きました。鹿苑寺で観光の名所になっている舎利殿(金閣)にたいして、不動堂は信仰の名所としていまも多くの参詣者を集めています。本尊の鎌倉前期頃の石造不動明王像は秘仏で開扉されたことがなく、最近は平成15年に像を安置する石室の調査が実施されていますが、その際にも一般公開はされなかったと聞きます。
 国内でも屈指の作域を示す石造不動像の名品として図版等に写真が紹介されていますが、出来ることなら、一度でいいから直に御姿を拝してみたいものです。

 この秘仏石像とは別に、堂内脇壇にはもう一躯、木造の不動明王像が祀られていました。これも鎌倉前期に遡る遺品で、秘仏石像よりも古い時期の成立になります。かつての西園寺不動堂の本尊として嘉禄元年(1225)十月に造立されたことが藤原定家の「明月記」に記録されており、西園寺伝来の像として本尊阿弥陀如来像(現西園寺本堂本尊)、妙音堂妙音天像(現白雲神社本殿御神体)とともに知られています。
 この木造不動明王像は、いまは本寺相国寺の承天閣美術館に移されて時々常設展示に出ていますので、御覧になった方も少なくないでしょう。

 

 不動堂の背後には御覧のような断崖がそそり立ちます。樹木に覆われてあまり目立ちませんが、不動堂の建つ平坦地はもともと背後の不動山の南麓斜面を削って造成したため、その周囲は急斜面および崖となっています。その真下の奥まった所に不動堂が建っています。

 

 断崖の下には、上図の「独鈷井」と刻まれた石標があり、その周囲に大きな石が並びます。かつて不動堂の横にあった滝の跡とされています。発掘調査未実施のエリアであるため、遺跡の詳細はまだ分かっていませんが、西園寺北山第の頃から存在したという「龍門滝」の痕跡ではないかとする説もあるようです。

 本来、不動明王信仰の拠点には滝や水流が付きもので、滝に打たれる修行場が不動堂に接している事例は全国各地にありますから、ここの滝跡も不動堂との関連にて理解しても良さそうに思います。

 

 不動堂の脇、南側に回りました。不動堂そのものは西園寺家の北山第に既に存在し、足利義満が北山殿を造営して後に鹿苑寺が創建された時点でも舎利殿(金閣)、護摩堂と共に不動堂があったといいます。足利義教、足利義政ら歴代将軍の不動堂への参詣記録も残されており、さらに文明七年(1475)六月には内大臣三条西実隆も訪れて日記「実隆公記」に「詣石室之不動、仏龕■舎」と記しています。

 これらの記録から、室町期の鹿苑寺において不動堂が現在とあまり変わらない状態で貴顕の信仰を集めていた事が伺えます。不動堂は本尊秘仏石造不動明王像を安置する石室と、木造瓦葺き建物の礼堂とで成り立っており、上図のように両者はくっついているので一体化して見えます。これを不動堂と総称している形です。

 

 不動堂の奥に位置する石室部分を見ました。この石室に礼堂部分がぴったりとくっつけられており、石室は礼堂内陣から拝む形式になっています。石室本体は、壁面に刻まれた銘文中に「康永」や「文和」などの鎌倉期の元号がみられることから、その時期より前に造られたものと考えられています。

 当時の西園寺家は、北山第西園寺を創建した西園寺公経(きんつね)より七代後の西園寺実俊(さねとし)が当主であり、康永の頃には三位中将、文和の頃には内大臣や右大臣を歴任しています。この西園寺実俊の後に西園寺家は衰えて北山第も荒廃に向かっていきました。
 不動堂石室には、京都では産出しない貴重な石で現在でも遺品が稀な緑色片岩の一メートル以上の巨石が多用されており、よほどの財力が無いと造れません。西園寺実俊の時期に可能であったかはわかりませんが、それ以前の西園寺当主のいずれかであれば、もっと財力があった筈ですから、その頃に現在の石室が築かれたものと思われます。

 なお不動堂はその後荒廃して一時は廃れたようで、鹿苑寺第三世鳳林承章(ほうりんしょうしょう)の「隔蓂記(かくめいき)」によれば、戦国期の天正年間(1573~1592)に宇喜多秀家が寄進して再建、さらに江戸期の正保二年(1645)に幕府からの修理奉加料が銀子で納められています。
 したがって、現在の不動堂は宇喜多秀家による再建の堂を江戸期に修理したものであることが分かります。

 

 不動堂を辞して、裏手の売店横の門から拝観有料区域の外に出て上図の長い階段を降りました。この階段の長さからも、不動堂のある高台が鹿苑寺境内の最高所であることが実感出来ます。

 

 それから参道横の休憩所の横にある、上図の大きな土壇を見に行きました。規模は約40メートル四方で、平成28年に塔の屋根上を飾る九輪の大型の断片が出土して、北山殿に足利義満が建てた七重塔「北山大塔」の基壇跡であることがほぼ確定した場所です。
 現在は境内外遊路の一部になっていて園路が通り、北側と東側は観光駐車場になっています。それで駐車場から直接寺の総門に行けるようにと、上図の園路が土壇の上にも通されているのですが、これは文化財保護の観点にたてば明らかな遺跡破壊にあたるのが残念なところです。

 

 観光駐車場の側から土壇を見ました。長年の間に表土が流れ落ちて相当の変改が見られますが、もともと高い土壇であったためか、土台状の高まり自体はなお保たれています。既に発掘調査も実施されて遺構の範囲が確定しており、出土した九輪断片から推定復元されるその直径が2メートル以上になる事も知られています。

 現在の日本に現存する木造層塔の最高は、東寺つまり教王護国寺の五重塔(基壇よりの高さ56メートル)で、その九輪の直径は約1.6メートル、基壇は約19メートル四方を測ります。「北山大塔」は九輪の推定直径が2メートル以上、基壇が約40メートル四方なので、教王護国寺の五重塔より大きくて高かったことは間違いありません。
 一説では、高さ100メートル余りの木瓦葺き(木製の瓦で屋根を造る、現存建築の例は中尊寺金色堂)の塔建築であったと推定されていますが、それは遺跡地から瓦がほとんど出ていない事実にもとづくのでしょう。

 北山大塔は、足利義満が応永十年(1403)に相国寺に創建した七重大塔が落雷で焼失したため、翌年に北山殿の一角に場所を移して同規模で再建したものに当たります。山科教言の日記「教言卿記」の応永十二年六月条に心柱の立柱の儀式のことが記され、三年後の応永十五年(1408)年二月十二日には塔安置本尊像の検討のために教王護国寺へ調査に出向いていますから、塔の建築は完成間近であったようです。

 しかし、伏見宮貞成親王の日記「看聞日記」の応永二十三年(1416)正月条に「北山大塔七重。為雷火炎上云々。雷三度落懸。僧俗番匠等捨身雖打消。遂以焼失。併天魔所為勿論也。」とあってこれも落雷で焼失したことが分かります。しかも「造営未終功之處又焼失」とありますので、未完成のままに焼失したわけです。

 その巨大な土壇遺構については現状は従来からの園路のままですが、将来的には重点史跡に含めて基壇復元展示する案でも出ているのか、その範囲調査と周辺保持への施策が継続されていると聞きます。足利義満が果たせなかった壮大な夢のひとつの跡ですから、現状のようなただの園路ではなく、しかるべき状態で保全を図っていただきたいと思います。

 

 参道に戻って東口を出ました。一般の観光客ならばこれで金閣寺観光は終了となりますが、私にはあと一つの探索テーマがここからスタートするので、これで鹿苑寺散策は終了、ではありませんでした。  (続く)

 

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(車輌目次表紙)プラウダ高校 BM-13カチューシャ

2022年05月24日 | ガールズ&パンツァー

  使用キット  トランぺッター (商品コード01003)をベースに改造

  制作期間   2018年2月1日~2月21日

  製作記事   その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 その8 その9 その10 その11 完成です!!

  総評・備考
 第二次世界大戦においてソ連軍が開発、使用した世界最初の自走式多連装ロケット砲は、俗にカチューシャと呼ばれていたが制式名はBM-8およびBM-13であった。ガルパンの同型車輌はBM-13のほうで、プラウダ高校チームにて移動用車輌として使われ、隊長カチューシャと副隊長ノンナの初登場シーンに出ている。公式キットは無く、適応キットも長らく存在しなかったが、2021年にトランぺッターよりほぼ劇中車の姿の適応キットが発売された。BM-8を改良したBM-13Nのランチャー強化型であるBM-13NMであるが、これは劇中車のモデルとされるベオグラード軍事博物館の展示車輌をそのままキット化しており、ストレートに組むだけでガルパンの雰囲気を味わうことが出来よう。
 当方の製作はトランぺッター製品の発売前の2018年に行った。劇中車のトラック部分がZiL-157であるのでトランぺッターの同車のキット(商品コード01003)をベースとして荷台を撤去、ZiS-151トラック制作の際に使用したズベズダのキットから外してあったロケットランチャーユニットを転用してニコイチで再現した。その製作過程については製作記事を参照されたい。

  公式および適応キット一覧(2022年5月現在) 


目次へ

 

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BC自由学園 オチキスH39軽戦車(2輌目)(フェイズエリカのこぼれ話版) 作ります!! その2

2022年05月23日 | ガルパン模型制作記

 ステップ4では下部転輪を取り付けます。誘導輪はスポーク入りのA17ではなく、作中車の形状に合わせたディスク型のA13を使用します。ステップ5では履帯をはめ込みますが、私の製作では塗装後に行ないます。

 

 ステップ4の組み立て前の状況です。

 

 組み立てが完了した状態です。

 

 ステップ6および7は車内インテリアパーツの製作ですが、今回の車輌はハッチ類を全て閉めて接着固定しますので、インテリア関連は不要とし、これらのステップは飛ばします。

 

 ステップ8では車体上部の各所の部品を取り付けます。ステップ9では車体の上下および左右のフェンダーを貼り合わせます。全てガイドの指示通りに進めます。

 

 ステップ8の組み立て前のパーツ群です。今回の製作で最も作業量が多かった工程ですが、パーツが綺麗に組み合わさって楽に組み立てられるので、時間もそんなにかかりませんでした。

 

 組み上がりました。車外装備品のB17の鶴嘴とB18のシャベルは、塗装後の組み付けとします。

 

 ステップ9に進みました。ここで一気に車体が組み上がります。

 

 全くのズレも違和感もなくピッタリと綺麗に組み合わさって仕上がりました。流石はピットロード、キットの組み立て易さはタミヤ並みです。パーツの精度に関してはタミヤより上かもしれません。

 

 ステップ10では排気管を組み立てます。ステップ11およびステップ12では各所の部品を取り付けます。車外装備品類は全て塗装後の組み付けとして保管しておきます。

 

 作業はステップ10から12までの分をまとめて一気に進めました。パーツの半分近くが車外装備品でここでは取り付けずに保管する分だったからです。

 

 ステップ11の段階の仕上げ状況です。B8のハンマー、B25の斧、B23のクランクロッドの3点は仮組みして位置を作中車に合わせました。

 

 ステップ12で取り付けるパーツ類です。

 

 ステップ12の段階の仕上げ状況です。B24のワイヤーカッター、B19のパール2本、の2点は仮組みして位置を作中車に合わせました。  (続く)

 

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北山鹿苑寺5 安民沢と夕佳亭

2022年05月22日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 鹿苑寺境内の北側の高台に登りました。上図のように奥に池が見えますが、その池が安民沢と呼ばれる池で、北の大文字山からの出水や伏流水を受け止める鏡湖池の沈砂池としての機能を果たしています。もとは北山殿鹿苑寺の前身の西園寺家北山第の庭園の池であったものです。

 

 安民沢の周辺がかつての西園寺の旧境内地と推定され、発掘調査も行われましたが、「明月記」や「増鏡」などに描写される壮麗な伽藍堂塔の明確な遺構はまだ検出されておらず、池のみが鎌倉期の様相をとどめて今に伝わっています。

 

 池の東寄りに白蛇塚と呼ばれる中島があり、その中央には五輪塔の笠を五段に重ねて五重と成した石塔が建ちます。

 

 その石塔を望遠モードで撮りました。鎌倉期の石造遺品で、西園寺家の鎮守であった白蛇塚の祭祀にまつわる仏塔であったものと推定されますが、現在は塔の基部のみが残り、その上に五輪塔を載せて塔状に形を作ってあります。

 

 安民沢の南側、金閣や鏡湖池を見下ろす台地べりは上図のようにやや高く盛り上がっています。安民沢の溢れ水をせき止める堤防の役目を果たしたようで、水そのものは池の南東隅の水門および木樋(もくひ)と呼ばれる木製の導水施設から下の鏡湖池に流していました。これが室町期の北山殿の時期にも活きていたようで、安民沢から鏡湖池への流れがおおよそ復元出来ます。

 

 これが安民沢の南東隅の水門です。現在も機能していて、水路は近年に開渠形式に改められています。木樋(もくひ)は水門の下の池底に埋め戻されて保存されているので、いまは見ることが出来ません。

 

 安民沢から見学路をさらに登って北東の高台に登りました。夕佳亭の建つ場所です。その一角には足利義政遺愛の品と伝える手水鉢がありますが、これも俗伝でしょう。立札には富士形とありますが、富士の形によく似た自然石というのが実態に近いです。

 

 鹿苑寺の茶室、夕佳亭です。江戸期の鹿苑寺の「修理寄進帳」に「茶屋建立、金森宗和指図」と記されるのに該当します。明治初頭に焼失し、これを明治七年(1874)に再建したのが現在の建物です。元の建物は、鹿苑寺第三世の鳳林承章(ほうりん じょうしょう)が慶長十六年(1611)八月の住持着任後に行った鹿苑寺伽藍の修理整備事業において建てられたものとされています。

 鳳林承章(ほうりん じょうしょう)の日記「隔蓂記(かくめいき)」によれば、鹿苑寺堂舎の整備事業が書院の新築をもって一段落したのが寛永十三年(1636)四月のことでしたが、その九月に新築書院披露のために近衛信尋(このえのぶひろ 後陽成天皇の第四皇子で近衛信尹の養子、近衛家19代目当主)らを招いています。その際の近衛信尋のお供の一人が金森宗和であり、近衛信尋らは「茶屋」において接待を受けていますが、この「茶屋」が夕佳亭にあたるのかは分かっていません。
 ですが、その翌年に鳳林承章が当時有名であった医師半井琢庵(なからい たくあん)の賀茂柳芳軒の見事な庭園と茶屋を訪ねているのは示唆的です。完成間近の鹿苑寺整備事業に関して色々と参考にしていたのでしょう。

 

 そして四年後の寛永十九年(1642)11月、鹿苑寺整備事業完成の披露として、京都所司代板倉周防守重宗、淀藩主永井信濃守尚政ら幕府要人を招いての宴席が開かれ、鳳林承章が客人達を案内してもてなした経緯が「隔蓂記(かくめいき)」に綴られますが、その時に客人たちが「茶店」から境内地を遠望したことが知られます。原文で「到茶店、被遂遠覧」とあり、板倉重宗が「茶店之様子殊勝之由」を述べて感服したことが伺えます。

 この「茶店」が、境内地を「遠覧」出来る高台にあってその様子を京都所司代が「殊勝之由」と述べていることから、いまの夕佳亭の立地および奇特の構えを連想させて興味深いものがあります。六年前に金森宗和の訪問を受けてから、その影響によって鳳林承章が鹿苑寺整備事業の最終段階にて「茶店」を新造した可能性が考えられるからです。

 

 しかしながら、鳳林承章は「隔蓂記(かくめいき)」にて鹿苑寺の「茶屋」および「茶店」に関して具体的な詳述をしていないため、その外見や構造については全く分からず、夕佳亭そのものであったのか、その前身の建物であったのかは確かめようがありません。

 夕佳亭そのものが広く知られるようになるのは江戸中期からであり、秋里籬島(あきさと りとう)が著した「都林泉名勝図絵」の巻四の鹿苑寺庭園紹介の絵図には夕佳亭も細かく描かれて、上図の現況とほぼ変わらない外観が知られます。また国立国会図書館蔵の江戸期の「十八囲之図」にも鹿苑寺茶室の平面図が収録されており、夕佳亭の名は記されないものの、「金森宗和好、鹿苑寺二有之」とあって、内部空間構成も夕佳亭のそれと一致しています。

 

 夕佳亭は、現在は外観のみ見学可なので、内部空間は公開されておらず、上図の内部写真が建物の軒先に展示されています。建物の茶室部分が右に屈折しているので、土間からは全然見えないからです。

 その代わり、本寺の相国寺の承天閣美術館に夕佳亭の実物大復元模型があり、こちらは江戸幕府老中松平定信の「楽翁起こし絵図」の一葉に「北山鹿苑寺二有之金森宗和好茶室建地割」と記された夕佳亭の起こし絵図とも違わない江戸期当時の状態を再現展示しています。これは奥の茶室部分も見られるように三方向からの見学が可能となっていますので、鹿苑寺の夕佳亭に関心をお持ちの方は参考までに見ておくことをおすすめします。

 

 夕佳亭の内部写真の横に並べて置かれる内部平面図です。土間から入る茶室と、右側に折れて進む奥の茶室とがありますが、奥の茶室は展望所も兼ねていたようで、三方の障子窓を開け放つと、眼下に金閣の屋根や鏡湖池の広がりが望まれます。それが、京都所司代板倉周防守重宗、淀藩主永井信濃守尚政ら幕府要人が、鳳林承章の接待時に「遠覧」した景色であったのでしょう。  (続く)

 

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(車輌目次表紙)プラウダ高校 ZiS151トラック

2022年05月21日 | ガールズ&パンツァー

  使用キット  ズベズダ (商品コードZV3521)をベースに改造

  制作期間   2017年11月2日~11月13日

  製作記事   その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 その8 完成です!!

  総評・備考
 ZiS151は第二次大戦後にソ連が製造した多目的トラックである。約1万台が生産されて幾つかの派生型も存在するが、ガルパンにおいてはプラウダ高校チームの移動用車輌として劇場版に登場している。公式キットは無く、適応キットもホビーボスとズベズダから出されているが、いずれも入手が困難である。
 それで今回は、トラック車台がZiS151のそれを用いるBM-13カチューシャのズベズダ製品(商品コードZV3521)を利用して、これのロケットランチャーユニットを外し、トランぺッターより発売されているZiL-157の荷台がZiS151のそれと共通であるのを活かして転用し、ニコイチで再現製作した。製作過程は製作記事を参照されたい。

  公式および適応キット一覧(2022年5月現在)  


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BC自由学園 オチキスH39軽戦車(2輌目)(フェイズエリカのこぼれ話版) 作ります!! その1

2022年05月20日 | ガルパン模型制作記

 ガルパン同人コミック「フェイズエリカのこぼれ話」に登場するBC自由学園チームの作中車をこれまでに2輌作りました。ボルドーの搭乗車M5A1スチュアート、ムールのオチキスH39でした。続けてもう1輌、作ってみたい車輌がありました。

 

 上図のアンドレの搭乗車、オチキスH39でした。

 

 このアンドレは、アニメ版の安藤に該当するキャラクターかもしれませんが、元ネタはアンドレ・マルローでしょうか。

 

 搭乗車のオチキスH39は、ほぼ全容が描かれて各アングルからの描写も豊富でしたので、模型での再現に必要な情報量が充分に得られました。

 

 オチキスH39そのものはムールの搭乗車をグンゼ産業のエレール製品で製作していましたが、手元にはもうひとつ、ヒットロード製品のキットがありましたので、作り比べての検証を兼ねて2輌目として製作することにしました。私のガルパン車輌制作の通算120作目にあたります。
 今回のキットはオチキスH39のドイツ軍仕様で、ロケットランチャーを装備した状態を再現していますが、ロケットランチャーを作らず、ドイツ軍仕様の特徴である砲塔上キューポラを外して本来のフランス軍仕様に戻せば、そのまま作中車になります。

 

 ピットロードのキットの扱い易さ、組み立て易さは既に数多くの軍艦艦艇キットにて熟知していましたので、この戦車のキットも楽に作れるのでは、と期待しました。果たしてその通りで、組み立てガイドも塗装見本図も見易いものでした。

 

 中身です。ピットロードのスタンダードともいえる滑らかな品質と精密な仕上がりの製品です。履帯のパーツも有り難い事に楽なベルト式でした。

 

 ステップ1でベルト式履帯を繋ぎます。ステップ2では転輪を組み立てます。

 

 ステップ1で仕上げた履帯です。瞬間接着剤で丁寧に繋ぎました。

 

 ステップ2で組み立てる転輪のパーツ群です。

 

 あっという間に組み上がりました。パーツの精度も良くて綺麗に組めますのでストレスを全く感じませんでした。

 

 ステップ3では、上部転輪などを取り付けます。

 

 ステップ3で取り付けるパーツ類です。

 

 組み上がりました。ここまで30分もかかっていませんので、楽なキットだなと思いました。  (続く)

 

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北山鹿苑寺4 失われた建築群

2022年05月19日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 鹿苑寺の建築群は、舎利殿の金閣、茶室の夕佳亭、北東高台の不動堂の3ヶ所をのぞいて普段は非公開になっています。本堂にあたる方丈とその付属建築である庫裏、大書院、小書院も然りですが、上図の大書院の北側の区画にも非公開の堂宇があります。これまでの発掘調査で北山殿当時の建物の遺構が3棟分検出されたエリアに建っており、額には「妙音堂」とあります。鹿苑寺の前身の西園寺の主要堂宇であった妙音堂の由緒を受け継いで近年に新築されたもののようです。

 ですが、個人的にはそのエリアで検出された北山殿当時の3棟の建物の遺構が気になります。南北の2棟の建物と両者をつなぐ渡廊です。かつての金閣と二階廊下で結ばれていたという天鏡閣、その北の泉殿にあたる可能性は無いのでしょうか。

 

 舎利殿つまり金閣の北側に回りました。一般見学路が最も金閣に近づく箇所です。最近の研究成果によれば、金閣そのものは原位置を動いていないようです。三層目は前述したように位置をずらして改造している可能性が指摘されますが、それよりも気になるのは、かつての金閣の周辺の状況がどうなっていたのか、という点です。

 

 現在は御覧のように池の水面が南と西にまわっています。発掘調査および電気探査による地中解析の結果によれば、かつては東にも池が回っていたことが明らかになっています。つまり、金閣は池に北から突き出した舌状の陸地の上に建って三方を水面に囲まれていたわけです。

 

 なので、天鏡閣との二階廊下を設けるとすれば、地形的にも北側からしか建てられないことが分かります。天鏡閣は金閣の北側にあったことが室町期の相国寺僧瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう)の「臥雲日件録抜尤」の文安五年(1448)八月十九日条に述べられており、原文を示すと「舎利殿北、有天鏡閣、複道与舎利殿相通・・・」となります。

 

 しかし、金閣の北側に広がる上図の松林の下の平坦地においては、度々の発掘調査においても明確な建物の遺構が検出されていません。
 創建当時の天鏡閣に入った公卿のひとり、権中納言山科教言(やましな のりとき)の日記「教言卿記」に「奥会所十五間(約30畳敷に相当)」と表現されるのが天鏡閣であるとすれば、その建築規模はかつてNHKが放送した復元CGでは九間五間となっていましたが、ほぼそれに近い大きな建物であったことになります。金閣の周囲に接する広い平坦面は北側にしか存在しませんから、そのような大きな建物を置くとすれば、上図の松林の範囲しか候補地が見出せません。

 ですが、少し距離をとれば、先述の現妙音堂の建つエリアで検出された3棟の建物の遺構の存在が注目されます。そのいずれかが天鏡閣であると仮定すれば、金閣との二階廊下も50メートル以上の長さをもっていたことになりますが、それを示唆する遺構はまだ確認されていません。いまもなお、北山殿当時の建築群については不明の部分が多いです。

 

 なので、いま見られる各所の見学スポットも、水流や井戸や湧水がほとんどで、かつての北山殿の遺跡とは無関係です。

 

 こちらの巌下水も湧水の一つで、足利義満公お手洗いの水と言い伝えられているようですが、俗伝に過ぎないようです。

 

 こちらの龍門の滝も然りです。いまの安民沢の池の水が下の鏡湖池へと流れ落ちる水流の一つですが、室町期からのものではないようです。

 本来、龍門滝とは鹿苑寺の前身の西園寺の池庭に関連した滝の俗称で、これを実見した藤原定家の「明月記」に「四十五尺瀑布瀧」とあるのに相当する可能性が指摘されています。現在の不動堂の北側にある崖状の滝跡がその一部とされています。その西園寺当時の滝の流れは紙屋川を水源とし、明治期までは中島を有する大きな池であった、いま北山文庫の北に残る池に注いでいたようです。その流れに沿った地域にも、かつては北山殿の建物が幾つか並んでいたようですが、全ては歴史の彼方に消え去って不明になっています。

 

 見学路を進んで北側の高台へと登る途中に、上図の石仏群が集められて祀られる場所があります。石仏が鎌倉期の遺品であるので、北山殿造営以前の西園寺に関連した遺物とみられます。

 

 途中に上図の細い階段の通路がありました。かつての一般見学路として昭和50年代頃まで使われていたそうですが、観光客が激増してからは、現在の広い見学路に切り替えられたそうです。
 個人的には、この階段の高低差がけっこうあるのが気になります。御覧の通りの急斜面を斜めに階段が通っていますので、そのルートがあまり屈折せずにほぼ直線状になっています。その長さからも斜面の規模がうかがえますが、それが自然の地形では有り得ない急傾斜になっているのが興味深いです。

 足利義満は、北山殿造営にあたって山裾の傾斜地を切り崩して現在の鏡湖池エリアの広大な平坦面を確保したといわれます。それ以前の西園寺家の北山第の時期にもある程度の土木工事はなされていたと思われるのですが、北山殿の造営工事ではそれを上回る土木工事がなされたようです。
 なので、現在見られる上図の階段が通る急斜面は、西園寺時代のものなのか、それとも北山殿造営にともなう新たな工事によるものか、が出来れば知りたいとこです。どちらに該当するかで、現在の鹿苑寺境内域の成立状況への歴史的解釈が左右されるからです。  (続く)

 

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(車輌目次表紙)プラウダ高校 T34-76(2号車・フラッグ車)

2022年05月18日 | ガールズ&パンツァー

  使用キット  AFVクラブ (商品コードFV35144)

  制作期間   2016年12月14日~12月27日

  製作記事   その1 その2 その3 その4 その5 その6 完成です!!

  総評・備考
 第二次大戦中のソ連を代表するT34中戦車は、ガルパンにおいてもT34-76およびT34-85がプラウダ高校の中心戦力として活躍する。T34-76の劇中車は、1942年から1943年にかけて生産された「ナット」と呼ばれる六角形状の新型砲塔を使用するタイプの1943年型に該当する。「ナット」に良く似た六角形状の「フォルモチカ」と呼ばれる砲塔のタイプもあるが、劇中車の砲塔「ナット」は外周部と上面との間に継ぎ目があり、「フォルモチカ」には継ぎ目が無い。前者のキットでは砲塔と天板が別パーツになっており、後者のキットは砲塔が一体成型パーツになっているので、見分けるのは容易である。
 公式キット(下のキット一覧の1)は劇中車に形状がほぼ一致する1942年型のドラゴン製品(下のキット一覧の6)を用いており、転輪も劇中車仕様に合わせてあるので、最低限の改造でガルパンの雰囲気に仕上げることが出来る。
 適応キットも複数のメーカーから幾つか出ているが、劇中車に合わせて作る場合には砲塔形状と転輪のタイプを合わせる必要があるほか、車体各所の細かい特徴を全て合わせる作業が追加される。1943年型のキットが多く、中にはコマンダーキューボラ付きのものがあるが、これはコミック版「フェイズエリカ」に登場する継続高校チーム隊長トウコの搭乗車の型であるので、そちらの仕様で作ってみるのも面白いだろう。今回のフラッグ車の製作再現にあたって使用したAFVクラブのキット(下のキット一覧の10)はフルインテリアキットで、内部構造もすべて再現されている。

  公式および適応キット一覧(2022年5月現在) 黄帯が今回の使用キット  


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マジノ女学院 ルノーR35軽戦車(激闘!マジノ戦ですっ!!版) 作ります!! その3

2022年05月17日 | ガルパン模型制作記

 ステップ10は、今回の製作では不要となる積載品のパーツなので飛ばします。ステップ11では車体各所の部品を取り付けます。背面に付ける予備転輪の121番、右側フェンダー後方に付けるジャッキの124番、左側フェンダー前方に付けるクランクロッドの133番は塗装後に取り付ける予定です。

 

 ステップ11で組み付けるパーツ群です。

 

 予備転輪および車外装備品類を除いて全てのパーツを組み付けました。

 

 ステップ12では砲身を、ステップ13では砲塔を組み立てます。今回のグンゼのキットは砲身および砲塔を短砲身タイプと長砲身タイプのいずれか選んで作れます。ここでは長砲身タイプを作りますので、右のR39のガイド図に沿って作業を進めます。

 

 ステップ12で組み立てるピュトーSA38 33口径37ミリ砲のパーツです。

 

 組み上がりました。

 

 続いてステップ13に進みました。

 

 楽に組み上がりました。以前に同型車をホビーボスのキットで作りましたが、この小さな砲塔でさえも細かくパーツ割りされていて組み立てが手間取った記憶があります。

 

 ラストのステップ14です。御覧の通りの最終セットです。兵士フィギュアは不要でした。

 

 仕上がった状態です。やっぱりルノーR35の雰囲気は、キットが異なっても共通しています。

 

 後回しにしていたモデルカステン製の連結式履帯の組み立てに移りました。片側124枚という、苦行の始まりでした。

 

 20枚ずつ繋いで5本、そして6本目は24枚を繋ぎました。

 

 いよいよ、恐怖の履帯巻き付け作業です。

 

 履帯パーツに流し込んだ接着剤が乾燥して固まるまでに、上図のように車輪に仮に巻き付けて形を作り、テープで仮留めして、乾燥を待ちました。

 

 こんな感じで左右の履帯を組み上げて形を作りました。乾燥後に履帯を取り外して保管し、塗装後にまた組み付ける予定です。  (続く)

 

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