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日刊イオ

月刊イオがおくる日刊編集後記

趣味に生きる30代、体の悩み

2016-11-08 10:00:00 | (麗)のブログ
最近、以前にも増して実感するのが「1人暮らしが楽しい」ということ。
趣味に囲まれているいまの生活がかなり楽しい。
性格上、家で特になにもしなくても1日潰せるし、ひとことも声を発さない時がほとんどで、休みの日はずっと家でダラダラ過ごす。
好きなドラマや映画を見たり漫画を読んだり…。そんな毎日を続けていると、ますます外に出なくなった。

仕事で椅子に座ってパソコン作業をし、家でも椅子に座ってパソコン作業(ネットサーフィン)をする毎日。
そんな椅子にばかり座っている日々を過ごしていると、先月あたりからついに腰を悪くした。
たまにだが、歩くと「うっ!」と思わず声が出てしまいそうになるくらいの、電気が走るような激痛。
青ざめた顔で「腰 歩くと痛い」だとか「腰痛 痛み 症状」だとか検索している。
「ふーん…関節痛の人は大変だな。でも自分には関係ないや」とぼーっと見ていた腰痛のCMがもはや他人事ではなくなってきた。

いままでなかった体の痛みも、これから増えていくのかと思うととても厄介。
ぞっとするような痛みが、腰だけではなく至るところに来たら怖くてたまらないので、早めに対処しなくてはと思いつつ、趣味の方に全力を注いでしまっている自分がいる。

オタクなので家に帰ってから趣味を楽しむのがもはや「本業」と化している自分にとって、まさに「体が資本」。
趣味を楽しんでやっていくためにはいつまでも健康でいたい。
ましてや30代に入ったからには、健康のことも真剣に考えていかなくては…。(麗)

ハルモニと紡績工場

2016-11-07 10:00:00 | (理)のブログ
 「こっくりさん」、「大学時代にやった二人芝居」、「新宿駅の地下道に精通しており同級生から『もぐら』というあだ名で呼ばれていたこと」、「ギターとうろこ雲」、「霊感のある友達」、「仙台での大乱闘」、「体育の先生」、「大塚駅での二人暮らし」…etc. これは、私の両親の青春時代のエピソードたちだ。何度も聞いてきた話もあれば、実はあまり具体的な内容は知らないものもある。

 自分の両親の昔の話というのは面白くて、この他にも記憶に残っている話はたくさんあるのだが、そういえば祖父母の話はほとんど知らないということに先日、気がついた。たまたま父方のハルモニの弟さんとお話しする機会があった時、「ヌナ(姉さん)は紡績工場で働いていて…」という言葉を聞いて驚いた。

 取材の中でだけ聞いていた「紡績工場」。自分のハルモニもそこに従事していたのか…。今まで見えていなかったハルモニの苦労の片鱗を初めて見た気がした。考えてみれば当たり前のことなのに、在日朝鮮人の歴史と身内の自分史が重なるということを今さらながら実感した。植物や畑の作物を育てるのが好きで、よく食べて、カラオケがうまくて、高齢になっても実家のお店を手伝っている、私が知っているハルモニがハルモニのすべてだと思っていた。そんな単純な自分にもびっくりした。

 生まれはどこか、10代の時期をどこで過ごしたのか、仕事は何をしたのか、ハラボジとはどこで出会ったのか…。母方も含め、これから少しずつハルモニの昔の話を聞いていこうと思う。残念ながらハラボジは二人とも亡くなっているので直接に話を聞くことは叶わないが、ハルモニを通して、その人となりや歩んできた道を知りたい。聞きためた話をいつか小さな冊子にまとめてプレゼントしたら喜ぶだろうか。(理)

祖母を見送りながら

2016-11-04 10:00:00 | (愛)のブログ
先日、祖母が急逝しました。
92歳でした。
高齢なため、頭の片隅にはいつかはという思いもありましたが、
やはりこういったことに直面すると
人の生は死と隣り合わせなのだな、と痛感しました。


私が高校から寄宿舎に入るまでは、祖父母とはずっと一緒に暮らしていたので祖母との思い出はたくさんあります。
困難な時代を生き抜いてきた祖母は、素朴な食材を美味しい食べ物に変身させるのがとても上手でした。
春にはヨモギでヨモギ餅を、
夏には、畑で取れた野菜で漬物を、
秋には、お友達ときのこを採りに行き、それで天ぷらや味噌汁を。
冬には、ストーブの上でお手製の味噌を載せた焼おにぎりを。
そのどれも、祖母にしか作れない味で、本当に美味しかった思い出があります。
祖父のお客様などが訪ねてきても、誰にでも惜しみなく美味しいものを作っては振る舞う、そんな祖母でした。

祖母は日本人ですが、1世である祖父と結婚しました。
7人きょうだいの長女で、当時は家族からも反対されたと聞きますが、
祖父とともに苦しい時代を生き抜いて、立派に生計を立てるようになってからはきょうだいたちをも助け、次第に認められていったそうです。

朝鮮語を話すことはできずとも、子からは「オモニ」、孫たちからは「ハンメ」と呼ばれ、
祖父の歌に合わせてオッケチュムを踊り、お祝いごとにはチョゴリを着て、韓国ドラマを楽しんでみていました。
施設に入ってからも、訪ねていくと「元気か? いっぱい食べるんだよ」と、逆に私たちの心配をしてくれた祖母でした。
祖母を見送りながら、祖母と過ごした日々が思い出されました。

ひとつ私の中で心残りなのは、祖母の若い頃の話をもっとちゃんと聞いて、残しておけばよかったということ。
戦争前後を生き抜いてきた祖母の話しは、きっと後世に残すべき事柄で溢れていただろうに、
祖母の口から少し聞いたことはあるものの、曖昧な記憶しかなく、ちゃんとした形で残すことはできませんでした。
祖母の部屋には、赤ちゃんのころ、母親と撮った写真が飾られています。
年代物の着物に身を包んでいる写真には、その時代の匂いすら感じられます。


在日朝鮮人たちが歩んできた個人史は、その方が何も語らず亡くなってしまえば、もう後に残すことも難しくなります。
個人史にこそ、人々の感情や想い、いまの時代に学ぶべきものがたくさんあると思うのに…。
そういった考えから、来年度からは個人史を語ってもらう「私のオモニ」(仮)というエッセイも新しく始まる予定です。

たくさんの人たちの個人史がイオという雑誌の中で、生き生きと語られれば、と思います。(愛)

朝鮮学校への弾圧、韓国の支援者が抗議

2016-11-02 10:10:00 | (S)のブログ


 10月28日、韓国の「ウリハッキョと子どもたちを守る市民の会」などの代表12人が、文科省を直接訪れ、日本政府の朝鮮学校差別に反対する要請文を提出した。

 要請文では、今年3月29日に文科省が地方自治体に出した朝鮮学校への補助金停止を促す通知について、「日本政府が今後も在日朝鮮人に対する差別と弾圧の政策を持続・強化し、民族教育の内容に難癖をつけ、朝鮮学校に対する差別政策を持続するという意志」の表れだと非難した。
 また、在日朝鮮人の歴史的経緯や、日本政府に出されている国連勧告についても指摘し、一日も早く朝鮮学校生徒たちに高校無償化を適用すること、学生たちを威嚇する右翼団体に対して規制処置をとることなどを訴えた。
 
 「私たちは朝鮮学校差別反対、高校無償化制度適用を要求する在日同胞と良心ある日本社会の動きに積極的に連帯し、韓国社会でこれをより一層拡散させていく。日本政府の蛮行を大々的に知らせ、朝鮮学校に関する裁判が勝利することができるように力を集める。私たちは私たちの同胞に対する日本政府の継続する差別をこれ以上、座視しない」

 これに対応した文部科学省修学支援室国際課の担当者は、補助金の支給は地方自治体に任せていると繰り返した。
 また、「3.29通知」を出した理由について、政治状況を配慮し国としてのスタンスを示す必要があったと説明。これに対しては、「それこそ教育と政治を絡めた朝鮮学校への差別だ」と批判の声が上がった。


 要請が終わると、韓国の支援者たちは、文科省前で行われていた金曜行動に参加。雨が降りしきる中、朝大生たちと共に不当な弾圧へ反対の声をあげた。

 韓国支援者の1人は、「あまりにも心が痛い。息子、娘のような朝鮮学校の子どもたちに申し訳ないという言葉しか出てこない」と話しながら、参加者たちを激励した。

 朝大生が歌を歌う姿に、涙を浮かべる韓国支援者の姿も見えた。

 この日、金曜行動に参加した朝大生の1人は、「この活動を続ける中で葛藤もあるが、韓国や日本の方が共に闘ってくれているようすをこうして直接見ると、自分たちだけではないということ、運動が連帯の中で行われていることを感じられた。自分たちの役割、闘う意味を改めて考えさせた」と語っていた。(S)

大学生の前で

2016-11-01 10:00:00 | (瑛)のブログ

 先日、イオ編集部のお世話になっているC先生からの依頼で都内の大学で話をしてきた。

2006年にイオ編集部で出版した「日本の中の外国人学校」や朝鮮学校について話をしてほしいとのこと、100枚近くの写真をスライドで見せながら、外国人学校で学ぶ子どもたちの様子や保護者の思いを伝えた。人前で話すことは、正直苦手だが、外国人学校が身近にない人に少しでも知ってもらえればと思い…。

とくに意識したのは高校無償化のこと。聴衆の大学生と同じ年頃の朝鮮高校生たちが、就職や進学にハンディがあることを恐れず、原告に加わり、裁判を闘っていることを知ってほしかったし、親の色々な都合で日本に暮らすことになったネパールや南米の子どもたちが4畳半の狭い部屋で毎日毎日勉強していて、運動場すらない環境の中で育っていることも、知ってほしかった。もちろん、これが決して不幸なことではなく、日本学校に通うより、ベストな選択ではないか、ということも。

 私は小学校から大学まで朝鮮学校に通った者。聞いている学生の多くは、日本で生まれ育ち、日本の学校に通った人。海外で暮らした経験を持つ子は、外国人学校へのイメージが違うはず。とにかく、日本で「北朝鮮=朝鮮学校」のメディア戦略が功を奏するなか、そこでイメージが止まっている人が大多数だろう…色々なことを思いながら原稿を準備した。

 伝わったか、伝わらなかったかは、正直わからない。話し終えた後、一人の女子学生が「高校無償化裁判の情報は、どこを見たらわかるのですか?」と聞いてくれた。11月号のイオの「裁判記」を見てほしいと伝え、イオを渡す。その姿に、1年前の寒い日、文部科学省前の金曜行動に来ていた中学生を思いだした。

 講演前に学生たちへの問いを2つ準備してほしい、といわれ、その問いへの書きこみを見る。ある男子学生の感想(下記)が印象深く、帰り道に何度も思い返す。

「…自分のルーツを知ることは寄り所、自分を認識するために必要なことだと思う。それを奪われる意識を持つ現状があるというのは、とても恐ろしい。いつまで奪う存在でいればいいのかと感じた。差別をする国が行う教育の中で、差別をちゃんと考えられる人が育つのか、とても疑問だ」

 機会を与えてくれたC先生に感謝。(瑛)