日刊イオ

月刊イオがおくる日刊編集後記

トンネ暮らし

2019-02-13 10:00:00 | (理)のブログ

 2月7~10日の日程で福岡に行ってきた。連載「よってって!トンポトンネ」と9日に小倉で行われた「ハムケヘヨコンサート」の取材が目的だ。ともに4月号で紹介する。
 出張の際は各地の総聯本部や支部に協力をもらうのだが(取材ネタの提供、対象へのアポ、地域の案内などなど…)、今回は八幡支部にお世話になった。数日前から支部委員長と連絡をとり、いくつかやり取りを済ませて出発日を迎えた。

 当日の早朝、携帯に一通のショートメールが。



 知らない番号からだったが、八幡支部の固定電話に何度か電話をしていたため、もしや支部委員長が表示される番号をメモしておいてくれ、なおかつ当日の運行状況まで調べてわざわざ連絡をくれた…?と感動。



 すぐさま返信するとなぜかエラーが。



 あれっ?と思ったものの、先方の携帯の設定の問題だと納得し、とりあえず北九州空港への到着を祈って飛行機に搭乗した。

 飛行機は無事に北九州空港に着陸。報告するため先ほどの番号に電話をすると、電話が通じない旨を説明する音声ガイダンスが。ここでやっと、謎の番号の主がおそらくスターフライヤージェットのものだということに気づいた。個人が操作しているのかプログラムが利用者に一斉送信しているのかは不明だが、朝っぱらからシステムに対して人間臭いメールを送ってしまった…と自身を恥じた。

 そんなこんなで八幡支部へ。今回は穴生(あのお)分会を紹介するということで、支部委員長が車でトンネを案内してくれた。この地域はむかし朝鮮があった場所で、行政による区画整理のため多くの同胞が立ち退きせざるを得なくなった。代わりに建てられた団地に同胞たちが移り住み、生活が営まれていった。その後、団地を出て周辺に家を構える同胞が増えたが、地域の至るところでトンネの名残りが見てとれる。

 

 穴生地域には朝鮮学校もあったという。名前は八幡朝鮮初級学校(1960年に落成、上の写真は62年のもの。提供=北九州朝鮮初級学校)。この時代のトンネの風景について聞くと、とてもディープな話を聞くことができた。
 例えば、むかしトンネにはいくつもの大~きな鍋があって、冠婚葬祭のときにはその鍋でたくさんの料理を作り、長屋一帯に暮らす同胞たちみんなに振る舞われたとか、団地の同胞たちが集まり、広場に大きな白い布をかけて朝鮮映画の上映会をしたとか、団地の敷地内にちょっとでも警官が立ち寄ろうものなら、同胞たち全員で囲んで威嚇したとか(立ち退きさせられた経験があるため)…。

 私が(信じられない)というような反応をしていると、支部委員長が「いまの子どもたちには、こういうトンネの思い出ってピンと来ないでしょう」と言った。「分会の新年会とか花見とか、そういう季節ごとの集まりなんかがトンネの思い出として残るんやろうね」という言葉を聞いて、なるほどなと思った。
 トンネ自体が日常だった時代に比べれば、現在は少し距離があるのだろう。しかし、いまはいまで穴生分会の20、30代~60代同胞たちによる女子会があったり、70代以上の同胞たちが定期的に小旅行とランチをしたり、先ほど書いたように季節ごとの行事では老若男女の分会同胞たちが集まったりと、環境に沿ったトンネのかたちがある。

 「トンネの思い出は世代によって変わる」という言葉は印象的だった。これからも引き続き日本各地のトンネを取材し紹介していく一方で、トンネ自体が日常だった人々の話をもっとたくさん聞いて記録しておくことも大事だなと感じた。(理)

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