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日刊イオ

月刊イオがおくる日刊編集後記

今年も始まりました

2013-09-21 08:32:24 | (淑)のブログ
 イオ10月号はお手元に届きましたか?
 毎号イオが出来上がったら、自分が担当した記事の取材相手や協力してくれた方に掲載誌を送っているのですが、発刊から数日経ってご本人からお礼のメールや電話などをいただくと、ほっと一安心します。

 イオ編集部は現在、2014年度の企画会議を進めています(2014と打ち込んだだけでなんだか現実味をおびます。汗)。私はまだ3回目ですが、あぁもうこの時期が来たのか、という感じです。毎年この時期は会議三昧で、午前午後をまたいで会議室に缶詰め…という日も少なくないです。加えて11月号の制作と並行しているので、9月は連休が多くてうれしい!やっほー!なんて浮かれている場合じゃありません。

 当ブログで何度か紹介されたかと思いますが、イオの年間企画会議は2チームに分かれてそれぞれがイオ一冊分の企画案を作成し、それをたたかわせます。つい先日チーム分けが発表されました。
 新連載を立案するにあたって、去年一昨年とみんなが考えた企画案を振り返ってみると、「あ~こんなのあったあった」「この連載やってみたかったな~」などと思い出深いです。中には「これはないな…」というトホホなものも(笑)。
 毎号の企画会議もそうですが、こうした議論の場は編集部員7人個々の関心事や問題意識が垣間見れて勉強にもなります。チームごとに作成された企画案のプレゼン時は、これは(◯)さんの発案かな? これは(×)さんっぽい…なんて心の中でつぶやきながら発表を聞くのが楽しくもあります。今年はどんな企画たちが議論のテーブルに上がるのでしょう。

 企画案もそうですが、年間企画会議においてもっとも大事なのは雑誌の一年間の方向性を定めることです。それが、同胞社会の緊要な課題をキャッチし、ニーズに応え、先行く議題を問題提起するための骨幹になります。
 先日行われた埼玉での民族フォーラムには良くも悪くも思うところが多々ありましたが、誰かが「民族フォーラムは同胞社会の平均値のようなもの」と言っていたのを聞いて、イオはどこに「いる」のかなとふと思いました。
 すべての人の胸を打ち、すべての人の共感を呼ぶ、なんてことは土台無理なことですが、いかにして同胞と同胞、同胞と日本人をつなぐのか、この難題に向き合いながらイオ編集部なりの答えを持って、新しいイオをたくさんの方に届けたいと思います。
 ともあれ足りない頭を雑巾を絞るようにようにひねって読者をうならすような企画を立てたいものです。

 さて、今日は都内某所にある知人の写真スタジオでとある撮影に臨みます。スタジオなんて滅多と行く機会がないのでワクワクしています。私はカメラマンさんとモデルさんのアシスタント役です。慣れない現場でうまく立ち回れるかちょっと心配ですががんばります。(淑)

同胞高齢者福祉

2013-09-14 08:33:32 | (淑)のブログ
 イオ10月号がもうすぐ出来上がります。
 最新号の特集は「同胞福祉」です。福祉の特集は2009年以来なので4年ぶり。その頃からどのような前進があり、また新たに浮き上がっている課題がなんなのか、福祉の現場を取材しました。私は09年時の制作には携わっていないので新鮮な気持ちで取り組みました。

 私が主に担当したのは高齢者福祉の問題です。2025年には65歳以上の老年人口が推定3500万人の超高齢化社会を迎えると言われていますが、主要因となっているのが団塊世代の高齢化で、この世代にあたる2世世代の介護問題は、今後どうなっていくのか、という点に注目していました。

 取材に当たった現場では、確かにここ数年で2世の利用者もちらほら見られるようになったものの、もっぱら後期高齢である1世の介護の充実化が喫緊の課題だというのが率直な実感でした。
 足立区のデイサービス朝日では登録者の57人中、2世は7、8人。最年少は69歳とのこと。ちなみにスタッフの中にも同じ2世の69歳がいました。そのスタッフは「◯◯さん、私と同級生なの」と笑って話していましたね。
 一般的に「老年」の定義は65歳以上を指しますが、中には元気で働いている人も大勢いらっしゃいます。高齢者福祉を考える上で、「高齢者とは誰なのか?」ということもまず考える必要があると思います。

 介護保険制度が施行された2000年以降、総聯では同胞高齢者福祉への取り組みが本格的に始まりました。日本各地にデイサービスセンターが開設されましたが、それから13年。高齢化は進み、現場ではさらなるサービスの拡充が求められているようでした。その内容は本誌でご覧ください。
 高齢化に伴い介護を必要とする人々が爆発的に増えれば、支援する側も相応の人口が要することは想像にたやすいですが、将来を見据えるとその量的なニーズは現在とは比にならない、と関係者は話していました。10月号を通して、普段の生活で介護とは少し遠いところにいる人にも、現場で奮闘する人たちの情熱が伝わり、関心につながればと思います。

 余談ですが、我が家における高齢化を考えると、2年後に迎える父の還暦が目下の関心事です。父は白髪こそ増えてきましたが、還暦だなんて信じられません。
 特集では高齢者だけでなく幅広く福祉の問題を扱っているので、ぜひ手にとって読んでください。(淑)

朝鮮人虐殺から90年の現在は

2013-09-07 09:00:00 | (淑)のブログ
 昨日のブログでも書かれていましたが、今年関東大震災から90年という節目を迎え、関東をはじめ日本各地で同胞や日本の市民団体などが主体となったさまざまな取り組みが行われています。私もこの間いくつか取材させていただきました。

 先週土曜、東京・千代田区の明治大学駒河台キャンパスで行われたシンポジウムは、関東大震災朝鮮人虐殺問題に長年携わってきた研究者や弁護士、活動家などが、近年の関東大震災の研究成果を紹介するとともに、多様な論点から関東大震災の諸問題の解決を探る意義深い議論の場でした。
 シンポジウムでは多くの方が80周年当時と90周年現在の社会状況の変化について言及していました。
 同実行委員会の一人である坂本昇さんは、歴史の歪曲や風化を防ぐために追悼式などが毎年各地で行われてきたが、この10年間で歴史の歪曲が本格的に始まったとし、メディアと右派政治家が一体となって関東大震災の史実の「是正」を進めていると指摘していました。

 強制連行や日本軍「慰安婦」問題、南京大虐殺と同様に、関東大震災朝鮮人虐殺に関しても、東京都・横浜市の「副読本」から関東大震災朝鮮人虐殺の文言が消されるなど、教材の恣意的な書き換えが始まっています。90年を迎えてもなお真相究明に向かうどころか歴史認識は「後退」しているとしかいえません。

 また、そのような歴史歪曲の動きや、現在の日本における朝鮮人に対する根深い差別意識、昨今噴出する多民族への排他性・暴力性は、関東大震災当時、朝鮮人虐殺の国家責任及び民衆責任が曖昧にされたことと深く関連しているとの認識のもと、国家責任を問う視点の重要性も、シンポジウムでは繰り返し強調されました。
 一方、明治学院大学の鄭栄桓准教授は、解放直後の在日朝鮮人運動においては国家責任を追及する議論が語られていたにもかかわらずそれが頓挫した要因は朝鮮半島の分断状況にあるとし、冷戦・分断体制の中で捉えていく視点が必要不可欠だと話していました。

 同実行委員会の田中正敬事務局長は、90年という年月は「分岐点だ」と話しており、それは、虐殺の体験者がほとんどいなくなっているという事実への危機感からでした。

 「私は体験者から直接話を聞いてきた。日本人として問題の解決に向けて活動するのは私の意地だ。人から歴史を学んできた自分が次の語り部となって、伝え続けていかなければならないと思っている」

 上記はシンポジウムの終わりに西崎雅夫さん(「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」)がおっしゃった言葉です。同会では 追悼碑の建立に、虐殺現場のフィールドワークを続けるなど証言の収集・保存に取り組んできました(詳しくは月刊イオ9月号「関東大震災朝鮮人虐殺から90年 語り部たちを追う」参照)。「後退」し続ける歴史認識に「待った」をかけられるのは、このような地道な取り組みや、不当な主張に対して一つひとつ批判していく作業なんだと改めて思います。
 今日9月7日も、15時から荒川河川敷にて犠牲者を追悼する会(詳細 http://moon.ap.teacup.com/housenka/)が行われます。ぜひご参加ください。(淑)

久しぶりに筆を取りました。

2013-08-31 09:00:00 | (淑)のブログ
 小中高大と続けてきた書道ですが、社会人になって一旦お教室をお休みした以後、すっかり筆不精になっていました。
 今回はひょんなことから知人に頼まれ、思いがけない依頼がうれしくて二つ返事で引き受けましたが、よくよく考えてみれば習字道具一式は書道の先生宅に預けたまま。幸い墨汁は家に余りがあったので、文具店で半紙と手頃な小筆を一本購入。硯の代わりに少し深みのあるお皿、文鎮はテレビのリモコン、下敷きは古新聞といったなんとも不格好ではありますが、環境は整ったのでいざ。

 しかし書き始めると安物の筆なのでまぁ筆先が割れる割れる。昔からそんなときに決まって浮かぶのが、<글 못한 놈 붓 고른다>(弘法筆を選ばず)という朝鮮のことわざです。これを心の中で何度も復唱しては自分を戒め(笑)、一筆書いては筆先を整え、一筆書いては…を繰り返し、めげずに書き続けました。依頼された字体は行書体でしたし、それほど難しい文字ではなかったので、さっと書けるだろうと甘く見ていましたが、ご無沙汰すぎてすっかり忘れていました。書道にゴールなどないということを。たくさんあった半紙がみるみるなくなっていきました。でもこの飽くなき作業が好きだったなと、そんな気持ちも思い出しました。

 私が今回書いた字は、素人目にはきっと達筆に見えるんだと思います。決して慢心ではなく、そうでなければ習字に費やした膨大な時間と努力が泣きます(汗)。しかし当人としては技術ももちろんそうですが、それ以上に起筆や運筆などの筆法の誤りを含め良し悪しを判断する批評眼が失われていると感じました。学生のころのようにきっちり毎週は通えずとも、定期的にちゃんとした指導を受けたいものです。
 何に関しても共通して言えることですが、やはり「継続は力なり」ということにつきます。文章を書くことも然り、ただひたすら修練あるのみですね。

 しかしながら、依頼されたあの意味深な文言が一体何に使われるのか? 使途も聞かずに書いておきながら、いまさら気になっています。(淑)

8.14日本軍「慰安婦」メモリアル・デーに際して

2013-08-24 09:00:00 | (淑)のブログ
 8月14日の第1回日本軍「慰安婦」メモリアル・デーを前後して、日本をはじめ韓国、台湾、インドネシア、アメリカ、ドイツ、オランダなど世界各国でさまざまな連帯行動が行われました。私も東京ウィメンズプラザ・ホールで開かれた国際シンポジウム(11日)と、新宿で行われたデモ行進(14日)に足を運びました。

 11日、国際シンポジウムには350人が集い、会場内には各国の日本軍「慰安婦」被害者らの肖像や被害者らの絵が掲げられていました。
 

 1部ではフィリピンから来日したサバイバー、エステリータ・デイさん(83)が、14歳で日本軍の駐屯所に連行され性奴隷を強いられ、長年夫にも子どもにも言えず苦しんできた自身の被害を証言し、被害が二度と繰り返されないよう日本政府に対し謝罪と賠償、歴史教科書への記載を訴えました。

 声を震わせ、涙を拭いながら証言するエステリータさんの隣で、支えるように向き合っていたのがフィリピンの支援組織「リラ・ピリピーナ」のレチルダ・エクストレマドゥラさんでした。レチルダさんはフィリピンにおける被害と運動の現状を報告し、「日本市民が立ち上がれば日本政府も動かざるを得ない。日本市民が国内で運動を進めてほしい」と締めくくりました。
 2部では元国連安保理議長のアンワウル・チャウドリーさんが基調講演を行い、韓国から来日した挺対協の尹美香代表、京都大学の岡真理さんがそれぞれ発言し、その後討論が行われました。
    
 討論では、日本軍「慰安婦」メモリアル・デーを国連記念日にすることの意義や、ネーミング(メモリアル・デーにはまだ正式な名前がない)について、具体的な運動の方法など多様に話し合われました。
 尹美香代表は「この運動は、度重なる政治家による妄言や安倍政権による河野談話見直しなど歴史歪曲の動きに対し、制御装置として、再発防止装置として働くはずだ。例えば韓国、台湾、日本、フィリピンなど各国で日本軍『慰安婦』メモリアル・デーを国連デーとする決議を採択する運動を進めてはどうか」と話していました。
 岡真理さんは、国連デーに定められたパレスチナの記念日を例に挙げながら、「毎年国連においてレセプションが開かれているが、最悪を更新し続けているパレスチナの現状を考えれば、記念日が国連の単なるアリバイ証明になっていると考えざるを得ない。国連記念日に定めることによって実際に『何が実現されているのか』を問うことが大切だ」と主張しました。

 一方、14日、新宿で行われたデモ行進には250人が参加。午後6時半、参加者らは柏木公園を出発し、ネオン光る真夏の新宿の街を「日本軍『慰安婦』メモリアル・デーを国連記念日に!」「日本政府は事実を認めろ!」「謝罪と賠償を!」などシュプレヒコールを叫びながら行進しました。

 デモ行進は、歩道フェンスを挟んで終始「在特会」と対峙するような形で進みました。そこには警官らはデモの隊列を圧制し、他方マスコミは在特会に群がる、という不気味な構図がありました。それが日本の民主主義の状況を物語っていたように思えます。
 

 シンポジウムの日、尹美香代表が真っ先に話したのは、日本軍「慰安婦」被害者である李容女さんの訃報でした。シンポジウムの当日の午前2時に亡くなられたそうです。87歳でした。
 またシンポジウムには、フィリピンからもう一人のロラ、ピラール・フィリアスさんが来日する予定でしたが体調不良のため急遽来日を中止し、シンポジウムにはビデオメッセージが寄せられました。

 さらに支援者のレチルダさんのお話の中で、フィリピンで名乗り出た被害者174名中、73名が他界し、現在101名がご存命であること、高齢や認知症などさまざまな理由によりその中でも活動が可能なのは10名にも満たないという現状を知りました。どの国においても証言者の減少は等しく、被害者の存命のうちの被害回復が急がれる切迫した現状を思い知らされました。



 昨年12月、韓国、台湾、フィリピンの日本軍「慰安婦」被害者と各国の支援者が一堂に集まったアジア連帯会議において日本軍「慰安婦」メモリアル・デーに定められた8月14日は、1991年に金学順さんが勇気ある告発をした日として多くの人に記憶されています。それはその後の運動においてきわめて重要な出来事であったことは間違いありません。
 しかし同時に、1991年よりももっと前の1970年代、被害者の誰もが名乗り出られなかった時代に、自らの被害を証言した女性が沖縄にいたことを想起しなければなりません。冷戦と分断状況下、東アジアの矛盾の中で当時も今も奉奇さんの存在は不可視化されていると思えてならないのです。奉奇さんの存在を、そして生前奉奇さんが総聯の支援者との出会いの中で朝鮮半島の統一を願っていたことを、同じ在日朝鮮人である私たちがしかと記憶し、伝えていかなければならないと、在日朝鮮人の一人として痛みを持って感じています。(淑)

8月14日「日本軍『慰安婦』メモリアル・デー」を国連記念日に

2013-08-09 21:12:03 | (淑)のブログ
 8月14日は、1991年に金学順ハルモニが日本軍「慰安婦」被害者として名乗り出られた日です。
 被害女性らの沈黙を破り、日本政府の責任を問い始めるきっかけとなった8月14日を「日本軍『慰安婦』メモリアル・デー」とし、国連の公式記念日にしようという運動が韓国を中心に高まっています。第1回目となる日本軍「慰安婦」メモリアル・デーは折りしも水曜日。この日でソウル・日本大使館前でのデモは1087回目を数えます。
 この日を前後し、韓国や日本各地をはじめ、世界各国で様々な連帯行動が企画されています。明日、東京ウィメンズプラザ・ホールで開かれる国際シンポジウムには、フィリピンから2名のサバイバーが来日され証言されます。また、14日の第1回日本軍「慰安婦」メモリアル・デーには、18時から新宿アルタ前でのアクションも予定されています。
 さらに北南共同の動きも見られます。報道によると、朝鮮の「朝鮮日本軍性奴隷および強制連行被害者問題対策委員会(朝対委)」は今月29日、日本軍「慰安婦」問題に関する討論会の開催を「韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)」に提案したそうです。
http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2013/08/04/0200000000AJP20130804000900882.HTML

 最近、韓国では、第二次世界大戦中にビルマとシンガポールの「慰安所」で働いた朝鮮人男性の日記が見つかり、「慰安所」従業員の日記の発見は日韓で初めてとのことで注目されています。日記には「慰安所」と日本軍との密接な関係を暴露する記述が多数あり、「慰安婦」否定論者を論破する上でも貴重な資料と言えます。

 国内外で波紋を呼んだ橋下発言から3ヵ月。参院選で日本維新の会は大敗を喫したものの、依然として責任を追及せず悠々と公職に居座ることを許容する日本。尊厳回復のたたかいは続きます。(淑)

■国際シンポジウム 戦時性暴力被害者から変革の主体へ
 歴史のねつ造は許さない!
 日本軍「慰安婦」メモリアル・デーを国連記念日に!!

 とき:2013年8月11日(日)
10:30 開 場
11:00~フィリンピンから日本軍「慰安婦」被害者証言
12:00~休憩
13:00~国際シンポジウム
16:30 閉 会
 場所:東京ウィメンズプラザ・ホール(渋谷駅徒歩12分、表参道駅徒歩7分)
 参加費:1000円
 主催:日本軍「慰安婦」問題解決全国行動 8・14を国連記念日にしよう! キャンペーン


■第1回 日本軍「慰安婦」メモリアル・デー@東京
 とき:2013年8月14日(水)18:00pm
 場所:新宿東口 アルタ前

半年ぶりの出張

2013-08-03 09:00:00 | (淑)のブログ
 近畿・中国地方に出張に行ってきました。広島から東京へ戻る新幹線の中でこれを書いています。京都を出て、今滋賀県あたりでしょうか。
 地方出張は1月以来、半年ぶり。今回は1週間、大阪、兵庫、広島で全部で8件取材してきました。

 スタートは生野初級学校の納涼モイムでした。8・15を前後して日本各地の同胞コミュニティで開かれる夏のお祭りは、東京では「夜会」と親しまれていますが、大阪では「納涼モイム」と言うのが主流みたいです。私も母校で開かれる夜会に毎年欠かさず参加していますが、他の地域に参加したのは今回が初めて。日本最大の在日同胞の集住地域である生野区だけあって、毎年1200人くらい集まるそうです。屋台の数も、地元の夜会の倍以上ありました。
 グラウンドを歩きまわって写真を撮ってたら、生野の同胞たちからやれビールだ、かき氷だ、アイスクリームにタコせん(久しぶりに食べました)、枝豆、唐揚げ…と、いろいろと与えてもらいました(笑)。夜会のクライマックスといえば朝鮮歌舞団の民謡メドレーで広がるチュムパン(踊りの輪)ですが、生野では歌舞団ではなく、歌の上手ないち同胞がマイクを握って盛り上げていました。運動場が広いためステージからは距離のある屋台でも、仕事をしながらオッケチュムするオモニたちの姿が印象的でした。取るに足らない小さな出来事や光景、何気ない会話から見える「地域の色」があるから楽しい。8月号の特集で朝鮮半島南半部の各道の特徴を紹介する企画がありましたが、日本各地の同胞コミュニティバージョンを作っても面白いかもしれません。

 出張に行くと、毎日新しい場所に赴き、毎日新しい人と出会います。生野だけでなく、今回もたくさんの同胞との出会いがありました。地方で在日同胞と出会うと必ず、人生でこの人ともう一度会えるだろうか、と思います。今さっき出会って、もう二度と会わないかもしれない、それなのに同胞という共通項だけで温かく迎えてくれる。同胞コミュニティが全国にあるということを人々との関わりで直に感じることができます。

 それにしても広島からだとさすがに遠い。一眠りして、ブログを書き終えてもまだ着きません。(淑)

ソウル高等法院が新日鉄に賠償判決

2013-07-27 09:00:00 | (淑)のブログ
 去る7月10日、韓国ソウル高等法院は植民地時代に強制労働をさせられた被害者に対する旧新日本製鉄(現・新日鉄住金)の損害賠償の責任を認め、一人当たり1億ウォンの支払いを命じる原告勝訴の判決を言い渡した。
 この訴訟は昨年5月24日の大法院(日本における最高裁に相当)判決を受けた差し戻し審であり、大法院判決に基づき「日本の支配下での強制動員を不法と見る韓国憲法の核心の価値と衝突し、侵略戦争を認めない世界の文明国家の共通価値や日本国憲法にも反する」と指摘し、新日鉄の主張をすべて斥けた。

 報道によると、新日鉄は「徴用者等の問題を完全かつ最終的に解決した日韓請求権協定、すなわち国家間の正式の合意を否定する不当な判決であり、誠に遺憾」とし、上告するとしており、日本政府も10日の記者会見で、同様に日韓請求権協定で解決済みとの見解をあらためて表明した。

 請求権をめぐる問題について、判決では次のようにのべている。

 …日本の国家権力が関与した反人道的不法行為や植民地支配に直結した不法行為に因る損害賠償請求権が、請求権協定の適用対象に含まれたと見るのは難しい点等に照らしてみれば、上の原告らの損害賠償請求権に対しては、請求権協定で個人請求権が消滅しなかったのは勿論であり、大韓民国の外交保護権も放棄されなかったとみるのが相当である。

 戦後補償問題で韓国の裁判所が日本企業に賠償を命じたのは初。韓国では同様の訴訟がほかに4件あり、この度の判決は他の訴訟にも少なくない影響を与えるといえる。7月30日には釜山高等法院でも三菱重工事件の判決が言い渡される。
 また、植民地支配からの解放後、韓国においては軍事独裁政権下で長きにわたって不問にされてきた日本の植民地支配責任を問い直すものとしても、この度の判決は画期的といえる。
 植民地支配したアジアの被害国はもとより、米議会が安部政権に代表される歴史修正主義に懸念を示すなど、昨今国際的な批判はますます高まっている。被害者らの年齢が優に80、90歳を過ぎている今、日本による植民地支配のすべての被害者らの被害回復が一刻も早く実現されるよう、このたびの判決が足がかりとなることを期待したい。(淑)

在日同胞にとってのコヒャンとは

2013-07-20 09:00:00 | (淑)のブログ
 これまで出会った南の友人らから、「コヒャン(故郷)はどこ?」と問われることが何度かありました。
 私のコヒャンは全羅北道の北東に位置する茂朱なのですが、そう伝えると同世代の友人らは決まって「짱!(サイコー!)」と答えてくれます。
 なんでも茂朱は「韓国のアルペン」と呼ばれるほど豊かな自然があふれ、ホタルの生息地として有名なんだそう。そう話しながら目を輝かせる友人らの表情から、どんなに美しい場所なのだろう、とまだ見ぬふるさとの景色を想像してみます。

 茂朱ではありませんが、全羅北道中部の全州には一度だけ訪れました。2002年、高校3年生のころです。6・15以降に開かれた新しい歴史の流れの中で実現した在日同胞学生のソウル・全州公演でした。
 その経験は、私の30年にも満たない人生の中で最も大切にしている財産の一つであり、その分言葉にするのも難しいのですが、これについては機会があればきちんと整理して書ければと思っています。
 ただ、当時在日同胞学生の代表として南を訪問すると聞かされたとき先立ったのは、喜び以上に「申し訳なさ」の感情でした。
 南北分断の状況下で総聯系の同胞らの故郷訪問が困難な中、当時、私の家族や親戚の中にも誰一人として南を訪れた人はいませんでしたし、何より故郷を見ずに他界した外祖父や外祖母、ひいては多くの1世同胞たちを差し置いて3、4世の自分たちが行くことの意味に、高校生ながら責任の重さを感じたのをよく覚えています…。

 8月号の特集では、8人の、2~4世の在日同胞たちにコヒャンに関するミニエッセイを綴ってもらいました。
 8人のコヒャンに対する思いはそれぞれですが、共通して感じ取れるのはコヒャンというものが1世の記憶の中にあるということです。さらにそこからは、コヒャンを自分自身の記憶として手繰り寄せようとする営み、努力が感じられます。
 異国で生まれ育った在日同胞にとってコヒャンとは、過去が記憶されている限定された「場所」ではなく、記憶を継承し未来につなげていく「こと」なのではないかと感じています。イオ8月号を手に、ぜひみなさんもコヒャンについて考えてみてください。(淑)

暑中お見舞いいつ出すの?

2013-07-13 09:00:00 | (淑)のブログ
 連日猛暑日が続いておりますが、みなさん体調など崩されていませんか?
 今週のイオブログでは2人もこの暑さについて取り上げるほど、みんな夏本番を前にすでにまいっているようです。
 私はというと、真冬生まれだからか元来夏は苦手でとにかく食欲が喪失します。対策として真夏がくる前に栄養を蓄えておくようにします。いつもよりたくさん食べるようにするくらいですが。つい昨日は、友人の「夏なんてビールが美味しいこと以外何もいいことない」なんていう言葉に大いにうなずきました。あ、それからかき氷も。

 ビールとかき氷以外に、なかなか夏のいいところを探せない私ですが、暑中お見舞いを送るのは好きです。
 季節の挨拶状としては年賀状はお馴染みですし、寒中見舞いは喪中や年賀状を出すのが遅れたときなど、儀礼的に活用されています。暑中お見舞いは出さなければいけないという決まりはないし、内容も形式にとらわれないで自由に書けるから魅力的です。それから出す人が少ないだけに、思いがけない便りは相手にも喜んでもらえますし、送り手の「送りたい」という気持ちも伝わる。人とのつながりを大事にする上でも良いコミュニケーションツールだと思います。
 ですが毎年、暑中お見舞いを送ろう!と思い立ったときには時すでに遅しで、結果残暑お見舞いになってしまう、というのが常です。年賀状はゆく年くる年の一大イベントの風物詩なので、忘れる、なんてことはありませんが、みなさんも暑中お見舞いはうっかりしがちじゃありませんか?
 そもそも、いつから暑中お見舞いで、いつを境に残暑お見舞いにシフトするのか? 今年は逃すまいと出状の時期をチェックしました。

 まず「暑中」とは、「小暑」 (7月7日ごろ~大暑までのおよそ15日間)と「大暑」 (7月23日ごろ~立秋までのおよそ15日間)をさしていて、この小暑と大暑を合わせた約30日間を「暑中」といいます。「暑中見舞い」は「暑中」の期間に出し、立秋を過ぎると、「残暑見舞い」になるわけです。
 したがって、暦の上では今年は7月7日ごろから8月7日ごろまでが暑中ですが、梅雨の最中はさすがに的外れなので、「暑中見舞い」は梅雨明け後から立秋までに出し、立秋を過ぎたら「残暑見舞い」にして、8月末までに届くようにします。

 つまり、
 「暑中お見舞いいつ出すの?」
 「今でしょ!」
 ということです。まさに。
 さっそく恩師や旧友、取材でお世話になった方に送るため、うだるような暑さを幾ばくか吹き飛ばしてくれるような爽やかな絵葉書でも探そうと思います。(淑)

友人の息子を抱きながら

2013-07-06 09:00:00 | (淑)のブログ
 先日、第一子を出産したばかりの友人宅へ生後1ヶ月の愛息子に会いに行ってきました。
 高校、大学と学生時代をともに過ごし、社会人になってからも職場こそ違えど同じ総聯の一活動家として多くの時間や経験を身近で共有してきた友人だけに、かのじょが母親業をこなす光景に最初はなかなか馴染めませんでした。
 友人らと交互に赤ちゃんを抱っこであやしながら、私が冗談混じりに「愛国歌」や「遊撃隊行進曲」「海岸砲兵の歌」なんかを子守唄として歌っていたら、友人の一人がこんなことを言っていました。
 「1世たちも私たちを抱きながら、この子たちが大きくなる頃にはきっといい時代が来ると思ってこんな曲たちを歌っていたんだろうね」と。

 お知らせしたとおり、8月号の特集は「コヒャン」がテーマとなっています。
 特集と関連して今回ある1世の方に故郷の話を取材しました。
 この仕事を始めてから、諸先輩方には遠く及びませんが、これまで数名の1世の話を聞きました。
 1世といえども家柄や郷里での暮らし、渡日の経緯、戦後の歩みなどは千差万別。ですが1世を取材して(飽くまで私が出会った方々に限ってですが)共通して感じることは、1世らにとって故郷とは抽象的な観念とは違う、具体的な景色であり匂いや音、そこに暮らした人々そのものであるということです。
 言うまでもなく多くの1世たちが他界し、数少ない1世もご高齢でお話を聞くことが困難な人もたくさんいらっしゃいます。1世を取材するたびに、一人でも多くの在日朝鮮人1世の個人史を残していかなければならないと痛感させられます。
 そのような状況下で、1世らの記憶を受け継ぎ、1世らとはまた違った激動の時代を生きてきた在日朝鮮人2世らの多様な生を記録する取り組みも、在日同胞社会において進められなければならないと感じています。(淑)

李冽理選手復活! OPBF王座奪取

2013-06-29 09:00:00 | (淑)のブログ
 李冽理選手が王座に戻ってきました!


 昨日の28日、ボクシングの東洋太平洋フェザー級タイトルマッチが後楽園ホールで行われ、元WBA世界スーパーバンタム級王者の李冽理選手(横浜光、同級1位)が石川昇吾選手(新日本木村、同級5位)を3-0(116-113、116-112、117-112)の判定で下し、新王者となりました。在日同胞の東洋太平洋チャンピオンは、元世界チャンピオン洪昌守選手に次いで2人目となります。

 試合立ち上がりは「緊張して足が動かなかった」(試合後談)と苦戦するも、中盤以降に落ち着きを取り戻すと持ち前のアウトボクシングで主導権を握り、激しい打ち合いにも負けずに有効打を繰り出して試合を制しました。
 

 世界タイトル初防衛戦に敗れた2011年から苦節2年。冽理選手は会場に詰めかけた約300人の同胞たちの応援を背に、みごと復活を成し遂げてくれました。この日を、多くの同胞たちが待っていたと思います。後楽園ホールは同胞たちの興奮と喜びに溢れていました。

 ここ近年、思うような結果が出ず、本人も話すように、スランプをいかに打開するか、精神的に休まる時がなかったという冽理選手。今回の試合は負ければ「引退」を決めており「世界につなげる最後のチャンス。すべてをかけて臨んだ」そうです。
 去る2月には東洋太平洋フェザー級王座決定戦でフィリピンGABフェザー級王者シリロ・エスピノと対戦し、1-1の判定で引き分け、王座獲得に失敗。冽理選手は、いい意味で捉えたらその時の試合が今回につながったとも話していました。試合を振り返り、「終盤は相手をさばけるようになっていて、自分のボクシングをできていると思った」と、確かな手応えも感じているようでした。素人目に見ても、昨日の冽理選手は非常に冷静で、ベテランの風格を感じさせました。



 試合後、冽理選手はリング上「長くお待たせしました!」と第一声。「応援してくれた家族をはじめ多くの方々がいなければ今日ここに立っていなかった。ようやく期待に応えることができた。自分としてはスタートラインに立ったと思っている。一歩ずつ着実にがんばっていきたい」と目標を語ってくれました。

 冽理選手、新たなベルトを勝ち取り、再びの世界王者奪取に向けた第2幕のスタートです!(淑)

第9ハッキョのオリニフェスタ

2013-06-22 09:00:00 | (淑)のブログ


 先週の土曜日、東京・杉並区にある東京朝鮮第9初級学校で行われたオリニフェスタに行ってきました。これは児童受け入れ事業の一環で、学齢前の子を持つ親同士の親睦を深め、ネットワークを広げることを目的として、第9ハッキョが毎年行っているもの。今年は30人ほどのオリニたちと、そのオンマ・アッパたちが集まりました。当日のようすを写真と一緒に紹介します。

 子どもたちに大人気だったのが、「キッザニア第9」。これは世界中で展開されている子ども向けの職業体験型テーマパーク「キッザニア」からアイデアを得たもので、第9のソンセンニムたちによる手作りの職業体験イベントです。児童らは、医者、ゴミ収集、魚釣り、お絵かき、ネイルアート、サッカー、ボーリングなど、様々な職業を体験。労働の報酬として得た「第9キッゾ」とプレゼントを交換するという仕組みです。


 ごみ工場。燃やせるゴミ、ビン・カンなど分別しています。


 魚釣り。見事イカを釣り上げるオリニ。


 女の子たちで賑わっていたお絵かき、ネイルアートコーナー。


 お医者さんに扮したオリニ。小さな聴診器と注射器も。


 キックターゲット。狙ったナンバーをシュートで打ち落とします。


 ボーリング。スタッフを担った第9の児童たちが倒れたピンを元通りにしています。


 ここが商品交換所。商品は、色紙で作った携帯電話や腕時計、おもちゃなどでした。


 これが第9キッゾ。裏面には第9のロゴまでしっかり入ってます。しかも、「はなぎんこう」(笑)。

 オリニたちは第9ハッキョのオンニ・オッパたちに手を引かれながらホールを回り、ゲットした「第9キッゾ」を首にぶら下げた財布に大事そうにしまっていました。
 このイベントが保護者らから好評なのは、第9の児童がペアになってオリニたちの面倒を見てくれるからだそう。手が空く分、親同士が話せる時間も増します。参加したオリニたちからは「◯◯オンニがいるから第9に入りたい」との感想も寄せられるそうです。


 オモニ会が用意してくれた昼食。ごはんや野菜が動物の形に型どられていたりウインナーがタコだったりと、子どもたちのためのお楽しみが満載のスペシャルなカレーライスでした。私もおこぼれに預かりましたが、クマの形のニンジンを見つけました。ちなみにもちろん、甘口でした。おいしかったです。


 昼食のあとは、同校児童らによるミニ公演で、歌や踊り、楽器演奏などを披露してくれました。4月に入学したばかりの1年生によるウリマル体操では、オリニたちが真似して一緒に歌い踊る場面に会場から笑い声がはじけました。


 最後はオリニたちも、みんな一緒に。「ウリウリ! コッポンオリ」の人気キャラクター、コッポンも来てくれました。写真が小さくてちょっと見づらいですが、奥の方、ピンクのつぼみがそうです。

 同胞社会におけるこうしたオリニフェスタは各地で取り組まれていますが、第9ハッキョのオリニフェスタはソンセンニムたちと保護者をはじめ地域同胞、そして同校児童らが一丸となってつくったもので、学校への愛情をたっぷり感じられるイベントでした。
 私事ですが同校は母校であり自宅からも近いため頻繁に出入りしているので、仲良しの子どもたちがいます。小さなトンム(友だち)たちに会えるのも、同校を訪れる楽しみの一つです。

 おまけ。昼食後のデザートとして子どもたちにプレゼントされた、メッセージ付きの手作りマフィン。
 「オリニフェスタに来てくれてありがとう!! 第9ハッキョ オンニより」
(淑)

校正のはなし

2013-06-15 09:00:00 | (淑)のブログ
 7月号を脱稿しました。あとはできあがりを待つばかり。この時期、編集部には比較的緩やかな時間が流れています。つかの間の開放感に浸りつつ、気を引き締めるために今日は編集部の仕事について少し書きたいと思います。

 雑誌編集に欠かせない校正について。
 印刷物につきものの校正とは、原稿と校正刷りを対照し、誤りを修正したりする作業です。脱字や同音異義語の変換ミスといった誤字、原稿の誤りを訂正し、言葉を正す機会でもあります。
 記者が執筆しチェックが済んだ原稿はデザイナーにわたり、写真などの素材と合わせて誌面を組みます。構成をするための校正刷りのことを「ゲラ」と言います。あらゆる誤りを排除し、正すために、このゲラを編集部みんなで何度も確認します。初校、再校、再々校、最終校といったふうに。

 「誤字脱字を撲滅したい」。編集に携わる人なら誰もが真摯にそう考えていると思います。が、なかなかうまくいかない。
 入社当初に(k)さんが貸してくれた(いわゆる借りパク状態。ごめんなさい)「校正のこころ 積極的受け身のすすめ」(大西寿男、創元社、税別2000円)には次のように書かれています。

 「校正する者にとって、何がいちばん大切かといえば、ゲラ(校正刷)の言葉とのあいだに、他の何者をも介在させない、一対一の信頼関係を築く読みです。…ゲラの言葉の肉声を聴き取ろうとする、『積極的受け身』の態度です。」

 冷静かつ客観的にゲラを見ることができれば、少なくとも、ケアレスミスはなくなります。大切なことは、時間をかけてゆっくりと確認すること以外にありませんが、校正の期間は同じ文章を何度も何度も繰り返し読むため、内容も文章も覚えてしまいます。そうして刷り込まれてしまうとなかなか誤字脱字を発見できません。だから上記のように、「受け身」になって「疑う」ことが非常に重要だといえます。

 ですがなんといっても、文字原稿の段階で誤字脱字を最小限に止め、いかに質を保証するか、でしょう。つまるところは、ベースになる個々の見識や知識にかかっていると思います。日々是精進です。
 さて、この文章の中に誤字が2つ隠れています。気づきましたか?(淑)

7月号の特集は

2013-06-08 09:00:00 | (淑)のブログ
イオ編集部は今月も〆切前の追い込みシーズンを迎えています。
イオの〆切は10日ですが、明日は日曜日なので実質的には今日が〆切前日ということになります。

そんなイオ編集部が絶賛編集中の7月号の特集は、「飛び出せ、ちびっ子アスリート!」です。
近年、同胞社会ではスポーツが元気です。特にラグビーやボクシングをはじめとしたウリハッキョのスポーツクラブの活躍はめざましく、同胞社会を大いに賑わせていますね。
朝鮮学校の全国高校体育連盟主催などの主な公式大会への出場が認められたのは、1990年代に入ってから。
現在は、大阪朝高ラグビー部の4年連続「花園」出場、李健太選手の高校「4冠」などと好成績を上げており、
また、朝鮮学校出身の選手をはじめとする在日同胞が、さまざまな分野で朝鮮代表として世界の大舞台に立っています。
まさに今この瞬間にも、中国の武漢で行われている第3回東アジア空手道選手権大会に7人の在日同胞選手が朝鮮代表として出場しています。

7月号では、そんな同胞社会のスポーツ選手たちに続く、未来のアスリート、ちびっ子たちのスポーツの取り組みを特集します。
在日本朝鮮人蹴球協会が各学校にコーチを派遣して行っている初級部低学年の「ポンドリ・サッカースクール」をはじめ、
ウリハッキョや同胞コミュニティでは、幼い子どもたちを対象にしたさまざまなスポーツの取り組みが行われています。
私は都内の某スポーツ教室2ヵ所を取材しました。全貌はイオ7月号をお楽しみに。
大きな夢と可能性を秘めた小さな芽に、ご期待ください!(淑)