「 郵便不正事件で無罪判決が確定した村木厚子・厚生労働省元局長(56)=現内閣府政策統括官=が
17日、国側が違法捜査の責任を認めて支払った賠償金を、
社会福祉法人「南高愛隣会」(長崎県雲仙市)に寄付することを明らかにした。
同会は、刑務所を出所した知的障害者らの社会復帰を支援している。
賠償金約3770万円から、弁護士費用を除く約3千万円を寄付する。
村木さんは「国民の税金を、最も光が当たりにくい人々のために使いたい」と話している。
村木さんは無罪判決確定後の2010年12月、事件の真相を明らかにしたいと国などを相手取り、
起訴による休職で失った給与や慰謝料など約4100万円の損害賠償を求めて提訴。
国側は請求の大部分を認め、賠償金を支払った。」
(「gooニュース」より引用)
郵便不正事件では、思いっきり犯人扱いされ、本人はもとより、家族、親戚外関係者の
方々はさぞ苦しい思いをしてこられたかと思う。
どうであれ「容疑者」と報道されてしまうと「ニュースでこう言っている」、
「活字でこう出ている」と噂話レベルよりも遥かに説得力が強い。
(単純に間違った報道はされないものという何処か絶対的な暗黙の了解があるように見える)
晴れて無罪になったが、得てして心ない人たちは、これから先も思慮配慮に欠けた発言をし、
その度に心を痛める場面にも遭遇することもあろうかと思われる。
一度、世に放たれた「言葉」の扱いとはそんなものかもしれない。
事実をありのままに伝えるのが報道、ジャーナリストの仕事だとしたら、
「歪められた真実」を疑いなく「事実」と受け取って、
さも郵便事業の闇にメスを入れ、見事白日の下に晒してやったぜ的に報道した事に
「ここに間違いは無かったのだろうか?」と疑問符を投げかけたくなる。
最大の問題点は、正しい事をしているという思い込みだろう。
一応善意無過失とはしておくが、正しい事をしていると思っている以上、そこにためらいはなく、
一切の歯止めは利かない。
そのまま突き進んで成れの果てまで報道し、この事件は完結となるのだろう。
一方で、「ためらいがあったり」「悪意があったり」すると、人間が畜生でない限り、
何処かで手が止まる。そして反省もすることだろう。
どういう事かと言えば、例えはあまり宜しくないけど、「人を殴る」という行為。
人を殴る事は社会通念上良くない事である。
普段の生活で、なかなかそういう場面に直面しないのだが、どうしようもなくついカッとして
一発殴ってしまったとしよう。
もしかしたらもう一発殴ってしまうかもしれない。
しかし、相手が死んでしまうまで殴り続けるという事は、ほぼないことだろう。
(たまに結果として殺人事件になってしまうものもあるが...)
そこにはやはり「このまま殴り続けたらヤバい」という自制心が
どこかしら働くからであろう。
このままこれを続けたら何処かヤバい...
良い事をしている(少なくとも悪い事はしてないはずだ)と思っている限り、
この自制心が働くことはない。まず働く切っ掛けがない。
つまり、今回の場合、スタート地点で既にベクトルの向きが間違っているにも関わらず、そこに何の
迷いも躊躇いも無く、迷信的に「正しいもの」として突き進んでいることの危うさを非常に感じる。
提供された「事実」と思われるものが歪められている以上、仕方が無いというのは
確かにそうなのかもしれないが、一度キャスターの口から、新聞紙面で踊った活字からの
影響力(=広まり具合)たるや計り知れない。
報道側の主張も分かるが、ただ右から左へ流しているだけに過ぎなくなる。
しかも1のトーンで話している事を1,000くらいに拡声して広めているように思える。
一方で、そんな苦しみを受け続けたにもかかわらず、今回3,000万円も寄付する
村木さんの懐の深さには脱帽する。
もし自分だったら、出来ないだろうなぁ...
17日、国側が違法捜査の責任を認めて支払った賠償金を、
社会福祉法人「南高愛隣会」(長崎県雲仙市)に寄付することを明らかにした。
同会は、刑務所を出所した知的障害者らの社会復帰を支援している。
賠償金約3770万円から、弁護士費用を除く約3千万円を寄付する。
村木さんは「国民の税金を、最も光が当たりにくい人々のために使いたい」と話している。
村木さんは無罪判決確定後の2010年12月、事件の真相を明らかにしたいと国などを相手取り、
起訴による休職で失った給与や慰謝料など約4100万円の損害賠償を求めて提訴。
国側は請求の大部分を認め、賠償金を支払った。」
(「gooニュース」より引用)
郵便不正事件では、思いっきり犯人扱いされ、本人はもとより、家族、親戚外関係者の
方々はさぞ苦しい思いをしてこられたかと思う。
どうであれ「容疑者」と報道されてしまうと「ニュースでこう言っている」、
「活字でこう出ている」と噂話レベルよりも遥かに説得力が強い。
(単純に間違った報道はされないものという何処か絶対的な暗黙の了解があるように見える)
晴れて無罪になったが、得てして心ない人たちは、これから先も思慮配慮に欠けた発言をし、
その度に心を痛める場面にも遭遇することもあろうかと思われる。
一度、世に放たれた「言葉」の扱いとはそんなものかもしれない。
事実をありのままに伝えるのが報道、ジャーナリストの仕事だとしたら、
「歪められた真実」を疑いなく「事実」と受け取って、
さも郵便事業の闇にメスを入れ、見事白日の下に晒してやったぜ的に報道した事に
「ここに間違いは無かったのだろうか?」と疑問符を投げかけたくなる。
最大の問題点は、正しい事をしているという思い込みだろう。
一応善意無過失とはしておくが、正しい事をしていると思っている以上、そこにためらいはなく、
一切の歯止めは利かない。
そのまま突き進んで成れの果てまで報道し、この事件は完結となるのだろう。
一方で、「ためらいがあったり」「悪意があったり」すると、人間が畜生でない限り、
何処かで手が止まる。そして反省もすることだろう。
どういう事かと言えば、例えはあまり宜しくないけど、「人を殴る」という行為。
人を殴る事は社会通念上良くない事である。
普段の生活で、なかなかそういう場面に直面しないのだが、どうしようもなくついカッとして
一発殴ってしまったとしよう。
もしかしたらもう一発殴ってしまうかもしれない。
しかし、相手が死んでしまうまで殴り続けるという事は、ほぼないことだろう。
(たまに結果として殺人事件になってしまうものもあるが...)
そこにはやはり「このまま殴り続けたらヤバい」という自制心が
どこかしら働くからであろう。
このままこれを続けたら何処かヤバい...
良い事をしている(少なくとも悪い事はしてないはずだ)と思っている限り、
この自制心が働くことはない。まず働く切っ掛けがない。
つまり、今回の場合、スタート地点で既にベクトルの向きが間違っているにも関わらず、そこに何の
迷いも躊躇いも無く、迷信的に「正しいもの」として突き進んでいることの危うさを非常に感じる。
提供された「事実」と思われるものが歪められている以上、仕方が無いというのは
確かにそうなのかもしれないが、一度キャスターの口から、新聞紙面で踊った活字からの
影響力(=広まり具合)たるや計り知れない。
報道側の主張も分かるが、ただ右から左へ流しているだけに過ぎなくなる。
しかも1のトーンで話している事を1,000くらいに拡声して広めているように思える。
一方で、そんな苦しみを受け続けたにもかかわらず、今回3,000万円も寄付する
村木さんの懐の深さには脱帽する。
もし自分だったら、出来ないだろうなぁ...
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