2月26日の最後の一宮藩主でもある加納久宜元町長の命日です。
墓前への献花式の様子が、新聞報道されました。
千葉日報(南総)
"殿様町長"に献花 一宮町
一宮藩主で元一宮町長の故加納久宜氏(1848~1919年)をしのんで、命日の26日、同町の城山公園にある町指定文化財「加納久宜公の墓」で献花式が行われた。
加納氏は、20歳で一宮藩主となり、明治維新後は大審院検事や鹿児島県知事を務めた。19 . . . 本文を読む
一宮町の史跡「加納久宜公の墓」には
玉川孫一郎町長と
宮沢信夫JA長生代表理事組合長の
生花も手向けられました。
観光客や町民の散策のコースに入るといいものだと思います。
大正の初期に、
一宮町に信用組合ができたのも
加納久宜町長のリーダーシップのひとつです。
それが、農業協同組合となり、
今日のJA長生へとつながっていきました。
現在のJAの関係者から忘れ去られているのではないかと
心配 . . . 本文を読む
今日、2月26日は、
最後の一宮藩主でもあった、加納久宜町長(大正初期)の命日です。
そこで、今年も細々と献花をしようと考えていました。
会員の方々が声をかけ、
いつもより、参加者が増えそうだということがわかりました。
そこで、
急遽、パンフレットを作りました。
参考にしていただければ幸いです。
. . . 本文を読む
加納久宜研究会(一宮町まちづくり推進団体)は、
平成20年(2008年)3月に
「鹿児島人物叢書 加納久宜 鹿児島を蘇らせた男」 大囿純也著 高城書房
を1年間かけて読むところからはじめました。
「加納久宜」に関して、現在市販されている唯一の書籍だったからです。
内容は
『加納久宜全集』の『自叙伝』の部分がもととなっています。
また、
なぜ、発行したのかということも紹介されています。
現在 . . . 本文を読む
今朝(9月11日)の朝刊に折り込まれた
シティライフ(ミニコミ紙)外房中央版に
7月18日(日)に一宮海岸で開催された
「第5回一宮エコフェスタ2010」での
『電動アシスト自転車で一宮名所めぐり』(一宮町スピリチュアルトライアングル)
が紹介されました。
明日(12日)は一宮町では、町制120周年記念イベント、
農林商工祭りや上総国一宮祭り(上総おどり他)
明後日(13日)は
玉前神社の . . . 本文を読む
一の宮町は、今年、町制120周年を迎えました。
現在、町では新たな「町の総合計画」を策定しています。
私は町の「総合計画」を、
町の指針を示すとても大事なものだと考えています。
単に可能な事業の羅列であったり、
できないことの言い訳ではなく、
夢を描く。
そのように理解します。
象徴的な言い方をすると、
「地方自治法で定められている」という説明を聞いたときに、
どのように受け止めるのかという . . . 本文を読む
最後の一宮藩藩主でもある加納久宜元町長は、
農業ばかりでなく、科学技術全般に関心が高かった。
明治30年ごろの鹿児島県知事時代には、
自ら幻灯の技師を務め、
その後の大森の加納邸には、
自分が開発した防犯装置まであったそうだ。
そして、
明治40年ごろには、志田太郎氏と、
別荘地には電話が必要と働きかけ、
特設電話を設けさせた。
一宮は、銚子、八日市場、木更津とともに
千葉県下で電話架設が . . . 本文を読む
『刻まれた歴史~碑文は語る農政史』
を入手しました。
今度(20日)夜の
『加納久宜公研究会(仮称)』の
話題の一つにしたいと思います。
「資本と労働は、本来一つのものである」
-これは上総一ノ宮の城主であった加納久宜
が、農会と産業組合指導者になったあと
『献芹迂言』のなかで明らかにした彼の思想である。
刻まれた歴史―碑文は語る農政史
目 次
産業組合の父平田束助
福沢諭吉につぶ . . . 本文を読む
大田区立入新井第一小学校には
『遺徳碑』が設置されています。
通り沿いにあり、わかりやすいところでした。
説明文も設置してありました。
(←クリック)
加納久宜の「遺徳碑」 この石碑は、加納久宜の死後にその恩徳を後世に伝えるため、大正十年(1921年)六月入新井町と信用組合によって、この小学校に建てられました。
加納久宜(1948~1919)は、幕末の上総(千葉県)一宮藩主の時、率先し . . . 本文を読む
昨年末に、
小原白梅育英基金(城南信用組合)の事務局から
大森駅周辺の地図
(記念石碑、石灯籠、加納様記念碑等の位置)
と
闇坂(くらやみ坂)の紹介
関連する資料を贈っていただきました。
ようやく
近く(大岡山)まで行く機会があったので、
環状7号線からちょっと外れて、
見に行くことができました。
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地方自治 偉人・歴史上の人物 教育 . . . 本文を読む
今日(16日)の
『加納久宜研究会(仮称)』第22回例会で
会の名称を
『加納久宜公研究会(仮称)』とすることとし、
一宮町の「まちづくり推進団体」への
登録団体として申請することにしました。
多くが
「加納さん、加納さん」と呼ぶのは、
親しみと、尊敬を込められているのであろう、
その距離感も
大切にしたいものだとも思います。
しろ山の加納さんのお墓は
町の史跡としての名称は
『加納久宜公の墓 . . . 本文を読む
明治時代の人にとって、
『幻燈講演』とは、どのようなもので
あったのでしょう。
このブログでは
『最新技術を用いたプレゼンテーション』と
評価してきました。
そして、リーダーシップ論にも
つながると考えさせられました。
リーダーは、
最新の技術に対して基本的な知識と技能と
その良さを見抜くセンスを持ち、
自ら示して、納得させる。
そうあってこそ、そこに『本当の権威』があり、
単なる『権威主義 . . . 本文を読む
昨年末に、日本赤十字社に
明治時代の加納久宜鹿児島県知事の
『赤十字幻燈講演』について問い合わせたところ
日赤情報プラザさんから
『日赤鹿児島百年史(赤十字幻灯)』も
紹介していただきました。
県内視察の日没後、
各地で行われた『赤十字幻燈講演』は
どんな内容だったのか。
どうして、そこまで熱心になれるのか。
あらためて考えました。
三 赤十字の幻灯会
日赤鹿児島市委員部は明治三十七年九 . . . 本文を読む
昨年末に、『赤十字幻灯講演』について
日本赤十字社に問い合わせたところ、
赤十字情報プラザから、
『日本赤十字幻燈説明書(明治29年12月訂正)』と
『懐旧九十年』(石黒忠悳)の
コピーを送っていただきましたが、
それに先立って、
先ずメールにて
『日本赤十字社百年史(赤十字幻灯)』
『日赤鹿児島百年史(赤十字幻灯)』
を紹介していただきました。
あらためて
『日本赤十字社百年史(赤十字幻灯 . . . 本文を読む
加納久宜鹿児島県知事(明治30年ごろ)が
赤十字事業の普及に熱心であったは、
その趣旨に共感し賛同したのはもちろんのこと
人との出会いがあったことと考える。
日本赤十字社の発足には
佐野常民氏の存在が大きい。
あらためて
佐賀県の佐野常民記念館のホームページを
見てみました。
加納久宜鹿児島県知事(明治30年ごろ)が
熱心に『赤十字幻灯講演』を行った背景には、
佐野常民氏との出会いが
日本赤 . . . 本文を読む