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信用組合(信用金庫)ルート(5)入新井第一小学校の遺徳碑

大田区立入新井第一小学校には
『遺徳碑』が設置されています。


通り沿いにあり、わかりやすいところでした。


説明文も設置してありました。
(←クリック)

加納久宜の「遺徳碑」
 この石碑は、加納久宜の死後にその恩徳を後世に伝えるため、大正十年(1921年)六月入新井町と信用組合によって、この小学校に建てられました。
 加納久宜(1948~1919)は、幕末の上総(千葉県)一宮藩主の時、率先して私領返上、廃藩置県を提唱し、さらに明治時代に産業・経済の振興につとめた指導者として、全国的に活躍した人物です。鹿児島県知事や帝国農会の初代会長なども務め、農事改良などに貢献しました。子爵であったため、加納侯と呼ばれます。
 現在の山王公園前(山王3丁目31番地)に屋敷があり、明治三十三(1900)から入新井村の学務委員を務め、また信用組合を設立するなど、地元の教育普及や産業振興に尽力しました。かつては貧しい村に過ぎなかった入新井村を、模範的な村に変えた恩人として、村人の父母のように慕われたといいます。
 大正八年(1919)七二歳で没し、墓所は谷中墓地にあります。
 碑文から
大田区教育委員会


通りかかった小学生に聞いてみると、
小学校三年生の時に、授業で先生から話を聞いたそうです。
(怪しまれず答えてくれました・・。)

鹿児島県では、小学校の副読本で紹介されています。

町制120周年を迎えた一宮町でも、
もう一度、最後の藩主・元町長の「城山の加納さん」のことを
小中学生を含めて思い出すときなのではないか、
ますます、そう感じました。

今後、一宮小学校や入新井第一小学校のホームページなどに
加納久宜候についての紹介があると
「郷土を愛する心」を育むために
さらによいものだと思います。

まだ、整理されていないのだとしたら、
誰かが継続的な調査研究をしなくてはならない
ということですね。


蛇足ながら:
ところで、学校が安全であったころ
(学校に柵がなく開放されていた時代)
であれば、いつでも、誰でも、
手を触れることができるぐらい近くで、
碑を見ることができていたのだろうな、
とも思いました。

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