吉嶺史晴のブログ

リコーダー奏者吉嶺史晴のブログです。演奏活動ならびに鹿児島市で音楽教室を運営しています。

西洋の伝統に根ざした音楽を作る上で

2016-09-07 | 音楽制作覚書
西洋の伝統に根ざした音楽を作る上で鍵盤和声のセンスは必要不可欠なものだ。
簡単に言ってしまえば鍵盤楽器で和音をつかむ訓練ということになるのだが、もう少し広い意味でこの実習を組み立ててゆくとそこでは移調、スコアリーディング、通奏低音リアリゼーション、即興演奏などひとりの音楽家として必要とされる基礎的な訓練が全て含まれることになる。

個人的な考え方だけれども音楽に携わる以上、スランプに陥ることは避けられない。

自分ひとりのチカラだけでスランプを脱却できればそれでも良いのだろうが、少なくとも私の場合には過去の音楽作品に助けられることが多い。というよりも過去の音楽作品は単に過去のものであるだけではなく、生きている自分自身の方向性を確かめるために欠かせないものとなる。

何故バッハの音楽が高く評価されるのだろう?

もしかしたらそこには悪い意味での「ナイーブさ」がほとんどないからではないだろうか?





中西覚、廣瀬量平のリコーダー作品についての覚書(技術的な事柄)

2016-09-07 | 音楽制作覚書
中西覚の「村の休日」組曲、そして廣瀬量平の一連のリコーダー作品、これらはどちらも日本人作曲家によって書かれたリコーダー作品だけれども、本質的な違いがあるとしたら、廣瀬作品はその多くの部分にて音高、ならびに音の長さが不確定な書法が採用され、中西作品には「土俗面」を除いてそのようなものはない、ということである。

このような観点にたてば中西作品のほうが西洋的な立場からすると、より緊密な構成をもった作曲作品といえる。奏者の自由になる部分が廣瀬作品に比較して少ない。すなわち奏者ではなく、作曲者がより多くその音楽の成り立ちに関与している音楽。

廣瀬作品はその逆ということが言えるのではないだろうか。

どちらが良い、どちらが悪いということではなく、少なくとも西洋的な観点においては中西作品のほうが優れたものであるということになるのではないかと私は思う。

私たちは受けて来た教育、あるいは育って来た環境からどれほど自由になることが出来るのだろうか?

もしかしたら私たちの音楽的なセンスは果てしなく西洋的(いやアメリカの商業主義的と言うべきか)に染まってしまっているのではないだろうか?

そのような状況で、「日本的な音楽」「アジア的な音楽」などと言うような題目にどれほどの意味があるのだろうか?

ひな型の練習(素振りみたいなもの)

2016-09-06 | 音楽制作覚書
最終的な目標は音楽を作り出すこと。
それはそうなのだけれども、どんなに頑張ってもなかなかうまくゆかない時もある。

そんな時、役にたつのが自分にとってひな型になるような練習。野球のバッターが素振りをするようなもの。

僕の場合はハ音記号が3つ、へ音記号がひとつある4段譜を鍵盤楽器で弾く、可能であればそれを頭のなかで移調しながら弾く、というものがそうだ。

たったひとつだけ。
こんな簡単なものが僕にとってのひな型の練習なのだけれども、中身はその時々で変化する。ハ音記号が3つ、へ音記号がひとつの4段譜という点はいつも同じだけど、曲が違えば当然やっていることは変わる。

本当の曲だけではなく、たとえば対位法の教科書に載っている模範解答みたいなものを弾くこともある。
この場合、本当の音楽作品に比較して音楽的な密度が低くなるのは致しかたないにしても、あるひとつのシステムのもとに厳密に組み立てられた音楽とはどのようなものかということ、それを知る上では良いものである。

最終的な目的。
それは作曲作品を残すこと。あるいは録音という形で演奏を残すこと。

でもどう頑張ってもうまくゆかない時というのがある。そんな時はひたすら、ひな型の練習をやるだけ。
とりあえずやるだけ。

*注意事項
ひな型の素材の偉大さに打ち負かされてはいけない。バッハのフーガの技法のようなものはひな型の練習としては最高の教材だけれども、それに打ち負かされてるだけじゃダメだ。
それはそれ。自分は自分。