吉嶺史晴のブログ

リコーダー奏者吉嶺史晴のブログです。演奏活動ならびに鹿児島市で音楽教室を運営しています。

即興演奏をするための方法

2019-11-27 | weblog
新しいリコーダー奏法に即興演奏をするための方法について記事を書きました。

発表会終了しました

2019-11-26 | weblog

鹿児島市のシティエラホールで開催された発表会は無事に楽しく終了しました。
有難うございました。

今日はリコーダー発表会

2019-11-26 | weblog

今日は教室のリコーダー発表会です。
シティエラホール(鹿児島市)18時30分開演(入場無料)です。
私も伴奏で演奏に参加します。
皆様の御来場をお待ちします。

「ナイーブさ」を極力排除すること

2019-11-26 | ヴィオラ・ダ・ガンバ
明日からまたガンバの練習に勢いを出そう。
もうソロの曲は暗譜しているのでそれは確認程度で良いことにして、むしろ本番で弾かない曲をどんどんやっやってみよう。

重点的に練習してみたいのはいつもやっている定番の曲をより精密にやること。
■シンプソンのディヴィジョンヴィオール
■テレマンの無伴奏ソナタニ長調
■フォルクレの二短調、ト長調の組曲
■マレのラフォリアなど

メカニックな練習
■重音トリル、移弦、ポジション移動などなど

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「ナイーブさ」を極力排除すること。青臭い感じとかとかくセンチメンタルに流れやすいところとか。そのあたりの点。
センチメンタルであっていけない、ということではない。

しかし演奏者がセンチメンタル過ぎるとそれは時として聴き手がより積極的に聴くためのさまたげになる。

見た目は激しく身体が動いているけれど、音は鳴りが弱くてリズムがダメだったりすると、もうそれだけで聴き手の興味を失うのには十分。

あまりにもわかりやすい表現もダメだ。
かといって何をやっているのかわからないようなのもダメ。

何をやりたいのか、ということは伝わる必要があるけれども、それがどういう在り方で伝わるのか、ということが大事。

結局、演奏者のレベルは彼自身の聴き手としてのレベルを超えることは出来ないのではないだろうか。

8, Berio Sequenza Vb Gesti, Kees Boeke web

2019-11-26 | 音楽制作覚書
8, Berio Sequenza Vb Gesti, Kees Boeke web

ケース・ブッケ氏の演奏する”ジェスティ”(L.ベリオ作曲)の動画。
(無調・特殊奏法・ノイズ奏法 注意)

Kaoru Abe - Guitar Improvisation

こちらは阿部薫(1948-1978)のギター即興演奏(無調・特殊奏法・ノイズ奏法 注意)。

■1960年代から70年代頃に世界的な潮流としてクラシック、ポピュラーの枠を超えて無調やノイズ奏法といったものが流行していた可能性。

■「無駄な音は書かない」とか「選びに選び抜いた音だけがそこに在るように」という伝統的なクラシック音楽の作曲の考えかたは万能ではない。


演奏技術はバロック作品で養う

2019-11-20 | 思うこと

リコーダーやヴィオラ・ダ・ガンバのような楽器の場合、基本的な演奏技術はバロック作品で養う、という態度。

もし現代的な曲を自分自身で作ったり、あるいはまた演奏するような機会があるとしても、その際にはバロック作品によって得られた演奏技術が役立つ。

現代的なものを志向する奏者にとっては当然と言えば、当然のことだけれども、問題はそのバロック作品があまりにも美しすぎる時。

昨日の練習でオトテールのト長調の組曲からアルマンド、ロンド、メヌエットをやった。
そのなかの4分の3拍子のロンドがあまりにも美しすぎて困った。

19世紀ギターとトラヴェルソの音とガンバの音が渾然一体となって、自分で言うのも何だけれどとにかく良かったのだ。

今、水曜日の朝の3時ごろ。
少し早く目が覚めてしまった。
今日は今取り掛かっているガンバのための新曲をまた進めてゆきたいのだけれども、昨日のオトテールの曲の余韻が強すぎてちょっと困った。

こういう時、どうしたら良いのだろうと思う。
他の作り手の皆さんはどうしてるのかな。

ああ、そうだ、作曲してる時は他の作曲家の曲は聴かない、と公言している人もいたな。
僕の場合はそうもゆかないので、とにかく切り替えをうまくしなければ。

今書いている曲、マレやオトテールの曲からすると、和音の美しさに乏しい。
でも21世紀の音楽だから・・・ちょっとだけ言い訳しても良いことにするのだ。
バロック的な和音の美しさはないけれども、21世紀の日本的な美しさならあるかも。。。

でも、もし今から出来る曲を聴いてくれる人がいてもこんなこと些細なことなんだろうな。
よし、今日も書き進めてゆこう!

なんだか結構、寒くなって来た。
身体が冷えると、いろいろ大変だからちょっとずつ暖かくしながら前進あるのみ。




Georgina Jackson Big Band-Wonderful World

2019-11-19 | 日常雑記
Georgina Jackson Big Band-Wonderful World

歌い手・トランぺッターGeorgina Jackson。
ことあるごとにこの歌を聴いています。
素敵です!


作曲の材料はいろいろなところに(一粒で二度美味しい。。。)

2019-11-19 | 音楽制作覚書
Improvisations on a contrabass-recorder (2015)

作曲の材料はいろいろなところにある。
例えば自分自身の即興演奏も。
これなどはしばらく前に録音してみたコントラバスリコーダーの即興演奏なのだけれども、たとえばこういうものを何か別の楽器のために移し変えてみるという作業はどうだろう?

実際は過去のものを移し変える作業(耳コピー含む)だけれども結果としてはとりあえず作曲と言えるものにはなりそう。

楽譜を介在しない即興演奏なんて単なる遊びみたいなものにも見えるけれども、こういうもののなかにも使えそうな材料が隠されているのは面白いなあと思う。

つまり、即興演奏する際には純粋な遊びとして。
そしてそれを耳コピーして楽譜に起こす際にはもっと客観的に。

一粒で二度美味しい、みたいな。。。。


「はながさきました」とか「ひのまる」みたいな。。。

2019-11-19 | 日常雑記
昨日は延べ8時間くらい音符を書いていた。
下書きが20枚くらい、とりあえず完成型が4枚。
でも完成型の最後のほうはもう、集中力がきれて無理やりやっつけたから終わり方はみかけ倒しだったかも。

自由に音符を書いたりする時間が与えられているのは本当に有り難いことなのだけれども、出来上がって来るものの出来栄えが良いことばかりではなく、(というか、そういうことはほとんどなくて)見掛け倒しだったり、頭でっかちだったり、根本的なアイディア不足だったり、そういうことのほうが多い。

どうしてもうまく行かない時もあって、出来の悪さをいちいち真に受けてしまうとしんどい。
「そういう時もあるから良いんじゃないの」くらいにしておくのがコツかも。

小さい子はひらがなを書く練習をする。
ひらがなが書けるようになったら、それを使って短い作文を書く練習をする。

「はながさきました」とか「ひのまる」とか。。。。。

とかそういう感じかも。

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確認事項
実際、書いている間は書いているもののクオリティを批評し過ぎないこと。
自分で自分を批評するのは曲がある程度のところまでいって最終的な段階として推敲するところまで(あるいは一日の分が終わってとりあえずの完成型まで到達するまで)。

一見、ダメなものが本当にダメなこともあるけれど、一見ダメなものが実はダメではないこともある。
ダメ出しは最後の最後までとりあえずやらないでおく感覚。

あえて自分に自分でダメ出ししない、というのも広い意味での「技術」と捉えることが出来るのではないだろうか。

ある程度未完成なものとして作品(楽譜)を終わらせる

2019-11-19 | 音楽制作覚書
ある程度未完成なものとして作品(楽譜)を終わらせる感覚の重要性。

■作り手である自分だけで音楽を完結させる必要がないということについての自覚。つまり演奏者にある程度の割り合い、場合によってはかなり多くの割り合いをまかせてしまうことについて身をゆだねる感覚

■曲のなかに出てくる強弱やアーティキュレーションの標記は必ずしも作り手である自分自身が指定したとおりには演奏されないことがあるということについて許容できるだけの器の大きさ

■作曲作品としての楽譜の完成度の高さと実際に出てくる音楽のクオリティとは必ずしも比例しないということについて受け入れてみる

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補足:

例えばバロック期に自明のこととしてあった通奏低音の技法。
これなどは未完成どこではなく、全く楽譜そのものを書かないという在り方。(少なくとも鍵盤楽器の右手に関して)

つまり左手の動きは書くけれど、右手についてはそれを省略してしまうという方法だった。
左手についても場合によってはオクターブを変えたり、オクターブを重ねたりすることは有り得たはずで、このように考えてみると、「あえて楽譜に全部書き込まない」態度、つまり未完成なものとして自分の作曲作品を終わらせるというのは実は古くから行われていた方法だったことがわかる。

もちろん旋律楽器の声部にしても、例えばイタリア風の装飾などは楽譜自体は非常に単純なものであっても、それを奏者が即興的に装飾するという慣習があった。