ギャラリーと図書室の一隅で

読んで、観て、聴いて、書く。游文舎企画委員の日々の雑感や読書ノート。

トニ・モリスン『ビラヴド』とその時代(1)

2022年03月11日 | 読書ノート
2019年、トニ・モリスンが亡くなった。「1993年アフリカン・アメリカンの女性作家としてはじめてノーベル賞を受賞」した作家である。『ビラヴド』を読んだのは30年近く前のことになる。書店で「ノーベル文学賞受賞」という帯のついた本を見つけ、はじめて聞く作家の名前が気になってぱらぱらと本をめくり、面白そうだと思って購入し、読んだのだったと思う。ちょうど子育て真最中で最も集中力のない時であり、細かいことはほとんど覚えていないが、よい本だと思ったことだけは確かだ。当時翻訳されていたのはそれほど多くなかったはずだが、『ソロモンの歌』と『ジャズ』を立て続けに読んでいる。ずっといつか再読しようと思っているうちに作家が亡くなり、さらに数年が過ぎてしまった。
仲間たちとの読書会で輪番のリーダーになったのをよい機会に、これをテキストに選んだものの不安もあった。当時の自分の読解力に自信がなかったし、子殺しがテーマの同書への共感とは、小さな子供を抱えた自分の思い入れが強すぎたからではないかとも思ったからだ。同時に「アフリカン・アメリカンの女性作家」という冠がつくことに違和感を持っていてそのあたりの意見を聞いてみたいと思ったこともある。
再読し始めるやいなや、30年近い年月を跳越えて登場人物たちが生き生きと立ち現れ、少しも古びていないことにも感動し、まぎれもない名作だと確信した。南北戦争前後の逃亡奴隷を巡る物語は悲惨きわまりないが、読者をただ打ちのめすことなく、ぐいぐいと惹きつけていく。テーマは明確だ。ややもすればメッセージ性が強くなり、イデオロギー的、教条的になりかねないところを救っているのは、見事な構成力であり、巧みな手法や仕掛けが凝らされているからだ。具体的には登場人物それぞれの「語り」や、黒人霊歌をはじめとする口承文化を織り交ぜて「語りたくても語れなかったこと」「忘れてしまいたかったこと」を、次第に明らかにしていく。まるでミステリーのような緊張感をも孕む。
時間はしばしば逆行するのだが、1855年、セサと子供たちの、ケンタッキー州スウィートホーム農園からの逃亡が物語の契機となる。かつてスウィートホームの奴隷主・ガーナー氏は決して専制的な人ではなかった。ただ一人の女奴隷・セサの身を守り、五人の男奴隷の意見に耳を傾け、体罰を加えることもなかった。しかしガーナー氏の死後、「先生」と呼ばれる、未亡人の義弟と彼の教え子たちが支配するようになって、経営方法は全く変わった。“世間並み”の農場になったのだ。苦しさの中で奴隷たちは逃亡計画を立てる。逃亡を手助けする「地下鉄道」「列車」の情報をもたらしたのは、夜中に時々外出していたシックソウである。セサの逃亡先はスウィートホームでの彼女の前任者であり、夫・ハーレの母でもあるベビー・サッグスの所だ。結局、三人の子供――年端もいかない二人の男の子と9ヶ月の女の子――を先に送り出し、身重のセサとハーレはその後に出る予定だったがハーレは現れない。
セサはオハイオ川を渡る直前、白人女性に助けられ、小舟の中で出産する。その後スタンプ・ペイドの手引きで、無事にオハイオ州シンシナティ・ブル-ストーン通りのベビー・サッグス宅にたどり着き、子供たちと再会する。ハーレは来ない。義母や子供たちとの穏やかな日々は、しかし、スウィートホームの「先生」たちの追跡により、あえなくついえる。
1873年、今はセサと末娘デンヴァーだけになった家には、ポルターガイスト現象が起きている。はいはいしていた頃に亡くなった女の子の幽霊のしわざらしい。セサには女の子の墓に「ビラヴド」と刻字してもらった時の屈辱が蘇る。そんな時、スウィートホーム時代の“同僚”ポールDが現れる。懐かしさとポールDの温かな人柄にセサは心を許し、同居が始まる。ポールDは幽霊の悪質な悪戯に立ち向かい、追い出してしまう。“姉”を失い、ポールDを迎えるデンヴァーの心中は複雑だ。
ある日、サーカスを見に行き、和やかな時を過ごし、心がつながったかに見えた三人の前に、若い女が現れる。「ビラヴド」と名乗る女に、デンヴァーは姉だと直感する。ビラヴドはセサを占有しようとポールDを追い詰める。デンヴァーもまたセサとビラヴドの親密さに、疎外されていることを感じている。
デンヴァーには母について「聞いていないこと」が澱のようになって心によどんでいる。7歳の時、善意に満ちた混血女性レディ・ジョーンズの私塾で学んでいたが、ネルソン・ロードに「お母さんは人殺しをした」と聞かされ塾に行くのをやめたのだ。そしてセサに問い質すがその答えが聞こえず、聴力を失う。2年後に回復したものの、以来、引きこもりだ。
物語は登場人物たちの独白を交え、痛烈な痛みを伴いながら過去が明かされていく。ハーレはどうなったのか。ポールDの逃走とはどのようなものだったのか。何よりもセサは本当に人を殺したのか・・・



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