ふかごろうキリスト教神学日記

キリスト教の神学について、ふかごろうが学んだことを記して行こうと思います。

キリスト教綱要第3篇、第20章

2017-02-23 00:03:17 | キリスト教綱要第3篇
<2017年2月15日~2017年2月22日に読んだ箇所>
「キリスト教綱要 改訳版 第3篇」
カルヴァン著
渡辺信夫訳
348~424頁

<第3篇、第20章>

今回読んだ箇所には、祈りについて書かれていました。
神様に対して祈るのですが、その心構えが書かれています。
おそらく、自分の益になることを祈っても聞かれないかもしれません。
キリスト教は、ご利益宗教じゃないので、例えばお金をくださいと
祈っても聞かれないかもしれません。
ただ、僕は、厚かましくも、お金をくださいと祈ったことが何回かあります。
その都度、お金が貰えました。
ただ、これは、僕がクリスチャンとして未熟だったので、祈りが聞かれたのではないかと思います。
クリスチャンとして、成熟していくにつれ、そういう自己中心的な祈りは、聞かれなくなっていくと思います。
今では、他者のことを自然に祈るようになってきたと思います。

話を少し変えます。
祈りの基本は、主の祈りだそうです。
この主の祈りにそって祈ると良いそうです。
特に、「日ごとの糧を与えたまえ」が印象的でした。
神様は、一度に大量のお金を与えてはくれないかもしれませんが、日々生活をしていく上で必要なお金は、与えてくれます。
イスラエルの民が出エジプトした後、荒野を旅している時、マナが与えられました。
マナは、食料になりました。
天から降ってきます。
でも、一日分しか取れません。
次の日の分も残そうとしても腐ってしまったそうです。
安息日の前日は、二日分取っても、腐らなかったそうです。

このように、日々の糧を必要な分、その都度、神様が与えてくださいます。
下手に、大金を与えてしまうと、神様から心が離れてしまうかもしれません。
お金があると、どうしても傲慢になったり、不遜になったりしがちです。
必要な分を日々与えることで、神様に従うことを日々意識するようになります。
神様に従うことの訓練になります。
この訓練により、我々の人格は、整えられて行くと思います。