60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

Xi (クロッシー)

2011年12月22日 18時57分57秒 | Weblog
 2年半ぶりに携帯を買い換えた。渡辺謙とオダギリジョーがTVコマーシャルしている、ドコモで最も新しいXi(クロッシー)対応のOptimusX LTE(韓国LG電子製)という機種である。このXiの新しい機種、今までのドコモのFOMAとは違う電波を使っている。この電波が今までのFOMAの約5倍の通信速度を持つから、インターネットを利用してもスピードが早くなるということである。しかし、まだカバーエリアが小さく、都心や一部の地方都市に限られている。そのためにXiの圏外ではFOMAの電波に自動的に切り替わるらしい。だから通信には支障はないようである。

 なぜこのXiの機種を選んだか?それには何点かの理由が有る。その第一は「新もの好き」ということであるが、最大の理由は災害時に強いだろうと思ったからである。昨今スマートフォンが急速に伸び、各社とも電波状況が悪くなっているようである。新宿や池袋など、人が多く集まるところでは電波不足で反応速度が極端に落ちるらしい。3.11の時、携帯電話はほとんど使えなかった。皆が一斉に携帯電話を使い始めてパンクしたからである。その点このXiのスマートフォンはこの11月から始まったばかりだから、加入者数は圧倒的に少ない。これからアンテナを増設し、行く行くはこちらに切り替えて行く予定らしいから、今時点では災害時に最も繋がりやすい携帯電話と思ったのである。

 次にこのXiの機種は通信速度が速く、このスマートフォンをルーターとしてノートパソコンに繋げるデザリング機能と言うのを持っている。「Xi」契約でパソコンにつなげて利用しても、通信料金はスマートフォンのパケほうだいの定額サービスの範囲内で、追加料金がかからない。会社を辞めたとき小さなノートパソコンを買って、どこにいてもインターネットにアクセスできる自分専用の環境が欲しい。そんな希望を叶えられるからである。

 今まで使っていた携帯は2年半前に使い始めたhtc(台湾)製のNTT docomo HT-03Aという初期のスマートフォンである。これはGoogleが主導する携帯電話のOS「Android1.6」を搭載した国内初の機種であった。今回のOptimusX LTE は「Android2.3」のOSであるから、昔のウインドウズ95と今のウインドウズ7の差のようなものである。そしてFOMAからXi(LTE)回線のチェンジはADSL回線と光回線の違いのようなものであろう。その処理速度や操作性は圧倒的にスムーズになっている。
 
 このスマートフォン、当然電話機能やドコモのメールから、各社のフリーメール、インターネット、テレビ(ワンセグ)、NHKや民放のインターネットラジオ、デジカメ、ビデオカメラ、音楽プレーヤー、ボイスレコーダー、手帳、辞書、地図、ナビ、電車の時刻表、アラーム時計、まだ使っていないがお財布携帯、体重の記録から血圧の記録などの各種アプリケーション等、当面必要とするものはすべて、胸のポケットのこの1台に納まってしまった。大げさにいえば、この一台があれば、全てのことが間に合ってしまう。反対にこれが無ければ何も出来ないことになってしまう。

 確か、11年前にNECのムーバの折りたたみの携帯電話を持ったのが初めである。電話機能だけで他に何もなかったように思うが、しかし「電話を持って歩ける」という、その便利さに感激したものである。それから11年、何と早い進歩であろう。なんと便利になったのであろう。これが社会の変化のスピードなのだろうと改めて驚いてしまう。

 いま世の中は溢れるほどに物があり、驚くほど便利になり、スピーディーになった。では我々は昔と比べて豊かになったのだろうか?と思うとき、決して「豊かになった」とは感じないのである。反対に私は不便で物がない子供の時代の方が、はるかに充実していたように感じるのである。昔読んだ河合隼雄(心理学者)の本に、『人はお金や物が豊かになれば、連れて自分の心も豊かになると思う。そしてより物や便利さを追求していく。しかしそれは錯覚であって、物と心は連動していない。反対に物が豊かになればなるほど、そのギャップから、満たされない心を実感するようになる』、そんなことが書いてあったように思う。

 我々が育った時代は戦後である。当時の通信手段は手紙か葉書である。我が家には電話もなく、ラジオが一台あるだけであった。そのラジオも子供が手の届かないようにタンスの上に置いてあった。電話は近所の裕福な家に一台あって、緊急の時だけ電話をかけてもらい取り次いでもらっていた。後は緊急な連絡は電報という手段だけである。キャッシュカードなどはなく宅配便もない、物を買うのは現金を持って店まで行って買うのが当たり前であった。年末年始の挨拶もそれぞれの家まで出向いて、お歳暮や年賀の品を届けていたのである。そんなアナログな時代から考えれば、スマートフォン一台を見ても、それは次元の違う、夢の世界である。「より便利に、よりスピーディーに」、そんな飽くなき欲求がデジタル化を加速させて行ったのだろう。我々はそれに必死について行ったように思う。

 60年経過して、今その夢の世界にいるはずなのに、私には少しの満足感も無いのである。ではデジタルの世界とは何んなのであろう? 私と同年代の仲間は、もうこんなことに関心を示さない。反対に「面倒なこと」、という意識が強い。彼らにはもう時代の変化に付いていこうという気は無くなっているのである。やはり、これが年令相応なのだろうと思う。結局デジタルの世界は情報の世界なのである。リタイヤした人間には余分な情報は必要無くなってくるのである。そして、家庭菜園や美術や陶芸の世界と、アナログな世界に帰っていくのであろう。やがて私もそちらの世界が中心になってくるはずである。まあ、それまではせいぜい最新のデジタル世界を触ってみようと思っている。それは私にとって、ボケ防止の為の道具の役割を担ってくれるように思えるからである。