60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

趣味

2009年03月13日 11時56分26秒 | Weblog
日本橋にあるギャラリーで開催されている木版画の作品展へ行ってきた。
私の友人が自分の作品を出品しているということで見に行くことにしたのである。
この作品展では版画教室に通う約30人の生徒さんの作品が並んでいる。
発表会は2年に1度ということ、その間に自分達が取り組んできたことの成果の発表の場である。
会場には10名近くの人たちがいて、作品を見ながらあちらこちで話の花が咲いているようである。
皆、ニコニコとし会場は明るく華やいだ雰囲気、生徒さんにとっては2年に1度の晴れ舞台である。
一作一作見て回る。静物画、風景画、抽象的な作品。いかにも華やいだ女性らしい作品。
よくここまで根気が続くものだと思う緻密な描写の男性の作品。さまざまな作品がずらりと並ぶ。
作品に費やされたエネルギー、作者の思い、そんなものを作品を通じて感じとることができる。
素人ながらよくここまで集中し、一生懸命になれるものだ。そう思うとなんだかうらやましくなってくる。

60歳に近づいて、自分も何かの趣味を持ちたい、何かに取り組んでみたいと思うようになった。
取り組んでみたいというより、取り組まねばいけない、という方が正しい言い方であろう。
いずれ仕事をしなくなったとき、その空いた時間を何で埋めるかが問題だと思ったからである。
「濡れ落ち葉族」「粗大ゴミ」世間ではそんな風に言われ、退職男のふがいなさを言われている。
毎日テレビばかりを見ていて暮らせるものではない。では自分は何をするのか、何をしたいのか。
結婚してから、仕事と家庭に忙殺され、自分の趣味というものが無くなっていた。
仕事を言い訳にしているが、本当は自分にやってみたい、というものが無かったのである。

子供のころは男の子らしく、何か物を作ることに夢中になった時代があった。
家にあった木切れを集め、飛行機や自動車、パチンコ台や実用的に本立てなども作った。
小遣いをためて、プラモデル、模型飛行機、組み立てラジオ、手製で望遠鏡なども作っていた。
大学になって、マンボ楽団に所属し、またギターを買いクラシックギターを習いに行ったこともある。
しかしどちらも1年程度やったが次第に億劫になって行き、いつの間にか止めてしまった。
就職してからは山登りを始めた。北アルプス、南アルプス、八ヶ岳などの主な山は踏破した。
しかし50歳になって、病気をしてからは激しい運動を制限されてしまい登山からも足を洗った。
そしてそれ以降、語るべき趣味も、特技も、打ち込むものも、なにも持っていない。

時々自問自答する。自分が好きなことは何か?自分が打ち込めるとしたらそれは何だろう、と。
そう思っても、結局「これ」というものがないのが現実である。
何かに取り組もうと思い、鉛筆画の本と道具を買って、スケッチしたこともある。
朝日カルチャー教室の「小説教室」に通い、小説を書いてみようとしたこともある。
しかし、どれも1年もたたないうちにあきらめてめてしまった。
今は毎週、関東近郊を散歩している、本も読むようにしている。映画も多く見るようにしている。
しかしもう一つ物足りない。何かに「打ち込む」「没頭する」という感じの趣味を持ってみたいのである。

そう思うとは反対に、それほどまで考えて「趣味」を探す必要もないのではないかとも思ってしまう。
以前読んだ加藤諦三の本ではないが、
《今を生きるためには「今」が「明日」の手段ではいけない、そのためには今が快適である必要がある》
そのような見方に立てば、趣味を作ることが目的であってはいけない。趣味はあくまでも手段である。
「今」を楽しく生きるために、「今」を充実した時間にするための手段方法であると考えるべきであろう。

では、自分は「今」を楽しく生きているのだろうか?
自分なりに評価して今はまあまあ楽しく生きていると思っている。評価点は60点ぐらいだろうか。
あまり趣味というものを大げさに考えず、あと20点程度加点するための趣味と考えてみよう。
そうすれば、もう少し気楽に、幅広く「趣味」というものが考えられるのかもしれない。
「今」を楽しむためには何で良い。、植物を育てること、工作すること、絵を描くこと、音楽を聴くこと、
映画を見ること、歩くこと、人と話すこと、写真を撮ること、食べること、仕事をすること、等々
本当はなんでもいいのであろう、ただ億劫がらずに、興味を持ち、チャレンジする気持ちがあれば、
何時か自分の中に引っ掛かってくるものがあり、熱中することが出来るかもしれないと思うことにした。
60歳を超えてもまだまだ考え方は定まらないものである。

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