60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

お正月

2017年01月06日 08時16分23秒 | 日記
 風も無く穏やかな年明けである。朝9時、1人初詣に出かける。初詣といっても、この歳になると自分に対する願い事も無いから、もう大きな神社仏閣には行かない。したがって昨年から形ばかりで家から一番近い(5分)諏訪神社に行くようになった。この神社、昔この一帯の地主が個人的に建てたものなのだろう。100坪程度の敷地に鳥居と小さな神殿があるだけである。時代を追うごとに宅地化が進み、今では住宅地の真中に取り残されたように存在している。
 
 お正月用に最低限の飾りつけされた境内には地元の関係者だろう人が3人、参拝者は誰もいない。少し気恥ずかしさを感じながらお賽銭をあげ、鈴を鳴らし二礼二拍手一礼でお参りをする。終わるとハッピを着た人が「甘酒はどうですか?」と紙コップに注いでくれた。顔見知りでない人との会話もままならず、そそくさと甘酒を飲んでその場を後にした。
 
   
 
   
 
   
 
                 元旦の穏やかな光が降り注ぐ 
 
   

 新年の早朝、人も車もほとんど通っていない街は意外と新鮮に感じる。「天気もよくすがすがしいから、一回りして帰ろう」、そんな気分になって歩き始めた。行きかう車も無い静かな自動車道を歩いていると、ジョギングの人が追い抜いて行った。しばらく歩き左手に折れて住宅地に入る。家々の門や玄関には松飾があり、まだひっそりして人の声も聞こえない。我が家の周りを大きく左回りで弁天様にも行ってみる。鳥居の前に「元旦祭、十一時から」と書いてあって参拝者もいない。境内では近所の人2人が準備をしている。ここもお参りして再び歩き始めた。
 
   
 
               家から10分のところにある弁天様
 
   
 
                  左は西武狭山線
 
 西武線の支線である狭山線の線路の脇を登っていると、4両編成の電車が走ってくる。その電車を捕らえてカメラを向ける。その時一瞬富士山が見えた気がした。よく目を凝らして見ると家と家の間に雪を被った富士山が見える。この地に引っ越してきて34年、富士山を見たこともないし、見えるとも聞いたこともない。所沢は郊外の住宅地で、うねうねと起伏のある丘にビッシリと住宅が建ち並んでいてる。最近は駅前に高層マンションが立ち始めたから、その上層階からは富士山が見えるのかもしれない。しかし平地から見えるとは思いもしなかった。通勤時でもほとんど見ない方角、快晴で空気の澄んだ冬の朝、たまたま電車が走っていたから振り向いたら富士山があった。偶然と偶然とが重なってお正月に富士山を見た。なにか奇跡のように思える。
 
   
 
            電車を撮ろうとしたら、右上に富士山が見えた
 
   
 
                真っ白に雪を被った富士山 
      元旦から富士山を見たから今年はなにか良いことがあるかもしれない。
 
   
 
                   年賀状の配達
 
   
 
                    犬の散歩
 
   
 
               茶畑の先は我が家がある住宅団地

 我が家を出て小さな諏訪神社に初詣してから、大きく左り左りに回って我が家が望める茶畑にでた。右の鉄塔の左側が我が家である。この景色34年前とほとんど変わっていない。しかし3人の子ども達はみな外に出て今は女房と2人である。穏やかで暖かい光に照らされている我が団地を見て、「さて今年はどんな年になるだろう」と思う。もうこの歳になれば大きな望みはなくなってくる。たまたま富士山を見つけて幸せを感じるように、日常の中に新しい発見を見出すような年なのだろうか、そう思ってみた。