60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

記憶力

2016年12月09日 08時07分59秒 | 日記
 
 先週書いた羽生喜治永世名人の話の中で、もう一つ疑問に思っていたことが解決した。それは将棋の対局のTVを見ていると、終了後に対戦を振り返って観想戦をやる。その時に対局の手順を空で覚えており、難なく再現していくのである。また過去の自分の対局や、タイトル戦等の他の挑戦者の対局も手順を覚えているということである。どうしたらそんな風に何百もの対戦記録を覚えることが出来るのか?棋士は記憶力が優れていなければ出来ないのか?、と不思議に思っていた。それについて書いてあったところを抜粋してみる。
 
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 対局が終わったあとに、その一局を最初から最後までの手順を並べてする反省会を将棋の世界では「感想戦」と言います。見ている人から、よく百手とか百二十手とか、対局全部を覚えていられますね、といわれます。だから棋士は記憶力がいいのだと、思われるようです。一部の人にしかできないような、途方もなく大変なことをやっているように見えがちなのですが、あれは実は、誰にでも出きるとても簡単なことなのです。
 
 皆さんもおそらく何百曲、何千曲という歌や音楽を覚えていると思います。最初の歌詞を聞いたらこれは誰の歌だとか、サビの部分を聞いたらこれは何の曲だとか、たくさんの曲の中から、パッと思い浮かべることができると思います。どうしてできるのかというと、音楽を憶える時には、音符、楽譜のようなフォーマットがあって、それを覚えてしまえば、あとはいくらでもどんな曲が出てきてもその形式に沿って記憶していくからです。
 
 同じように将棋の場合も、棋譜(ぎふ)の形式、法則に則って覚えていくのです。(△4三銀、▲6六角、・・・・) そんなふうにすると、たくさんの棋譜を覚えることが出来ます。それから、攻めの手順と受けの手順を知ることが大事です。これにはたくさんのバリエーションがありますが、それらを組み合わせて応用しながらプロの棋譜は残されていきます。音楽でいうとリズムやテンポを知ることと共通しています。局面を決定的にする好手や妙手など、分岐点になる場面は、曲のサビにたとえられると思います。このようにリズムやテンポ、サビなどと連鎖して覚えているので、最初のワンフレーズを思い出せば、そのあとは流れるように次から次へと思い出すことができるということです。
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 最近は非常に便利な世の中になってきました。棋士の場合もパソコンに入っているデーターベースで、一試合を1分間ぐらいで見ることができるようになっています。ビデオとかDVDの早送り機能と同じで、1回クリックしたら、最初から最後まで見ることができるわけです。短い時間で大量の情報を得ることができるという意味では、非常に便利になったわけですが、実はこのようにして簡単に見たものは、簡単に忘れてしまうもののです。パソコンの画面だけを目で追ったものは15分や20分したら、「あっ、さっき見た棋譜はなんだったかなあ」となって思い出すことは出来ません。
 
 これはとても大切なことです。ですから5年後も10年後もきちんと正確に覚えていないといけないと思った時には、ただ見るということだけではなく、木の盤と駒を出してきて並べるとか、ノートに書くとか、そういうアナログなことをするようにしています。記憶する時に大切なのは、五感を使うことではないかと思っています。人間というのは、目から入ってくる情報、視覚からかなりの情報を得ています。しかし本当にきちんと覚えておきたいという時は、目だけではなく、手とか、耳とか、口とか、鼻とか、五感を駆使していくほうがいいと思います。
 
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 昔、プロを目指したこともあるゴルファーと一緒にゴルフをしたことがある。ハーフを終えて4人で昼食の時、彼が振り返って、「貴方は何番の池のところから打ったボールがスライスして・・・・」とか、自分を含めすべてのメンバーの状況を把握していたのにびっくりしたことがある。こちらは遊びで自分の打数もおぼつかないのに、プロを目指した人の競技に対する真剣さをまざまざと知った思いがした。
 
 私も30代によく友人と南アルプスや北アルプスに登っていた。その時は20kg近いリュックを背負って山道を登っていく。重い荷物に喘ぎ、額から汗をダラダラ流し、急でデコボコの道に足を捕られ、上を見上げてはため息をつく。そんなことを繰り返し繰り返して登った山は、降りたあとも鮮明にその行程を覚えているものである。例えば、山小屋を過ぎてからは大きな岩がゴロゴロとした岩場になり、その岩を両手両足を使って登っていくと、やがて小さな沢がある。その沢を渡って左にカーブすると視界が開けて、・・・・と言うふうに。40年経過した今でもその道々の風景は覚えているものである。
 
 記憶とは羽生喜治が書いている様に、如何に真剣であり、五感を使うかで、その深度が違うのであろう。小学校中学校と漢字を覚えるのにどのぐらいノートに書いたのだろうか。九九を覚えるのに何百回と繰り返してやっと暗記できた。英語の単語を覚えるのにノートに書きながら何度も発音し、単語帳に書き込んで電車の中で覚えようとした。それでも日ごろ使い慣れていない英単語は完全には覚えらず、今はすっかり忘れている。
 
 大人になって、人の名前が覚えられない、覚えたつもりが直ぐに忘れてしまう。そう嘆くのは間違っているのだろう。覚えるためにどれだけ努力しただろうかと思うと、ほとんど努力していないことに気付く。名刺交換してその時は覚えたつもりの名前も20分後には忘れている。それを歳の所為にするのではなく、努力の所為にすべきなのであろう。歳を取って記憶力が低下する以上に努力すればまだまだ記憶できることは多いのかもしれない。