60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

再開

2013年03月19日 16時06分32秒 | Weblog

 PCのトラブルだったのか、それとも「gooブログ」のトラブルなのか、なにがどうなたのか分かりませんが、一時投稿不能になっていましたが、いつの間にか治っていました。ということで一旦引っ越しましたがまた舞い戻って来ました。今後ともよろしくお願いいたします。 下の2つは休んでいたときのモノです。





アカデミー賞

2013年03月19日 15時56分15秒 | Weblog
                            アルゴ

 第85回アカデミー賞で、ベン・アフレック監督の「アルゴ」が作品賞、脚色賞、編集賞も含め3部門を受賞した。この映画、昨年11月に見ていて、結構面白い作品だと思った。そしてその後アカデミー賞にノミネートされたと知ったとき、「やはり」と納得したものである。映画はイラン革命成立後の1979年、イランの学生400人あまりが首都テヘランにある米大使館を占拠し、52人のアメリカ人を444日間拘束するという事件が発生した。この時大使館職員6人がカナダ大使の私邸に逃げ込んだ。暴動のさなか隠れているこの6人の救出、計画から実行までを実話にもとずいて画いたものである。何が面白かったと言えば、一つはここまでこじれてしまったアメリカとイスラム世界の経緯に納得したこと、もう一つはそのスリリングな展開に映画ならではの面白さを感じたことである。実話に基づいた話であるから結末は判っているのだが、その脚色や演出でこんなに面白くなるのかと思ったのである。映画で展開されていくスリリングさを例えるならば、昨年中国での反日の暴動の中を日本人として、中国の街を歩き回ったとした時の緊張感のようなものである。(実際には体験していないが)

               
                            愛・アムール

 先週同じくアカデミー賞の外国語映画賞を受賞したミヒャエル・ハネケ監督(オーストリア)の「愛、アムール」も見に行った。ストーリーはパリの高級アパートで暮らす音楽家の老夫婦が静かに余生を送っている。しかし病気からの手術が失敗して妻は半身不随となってしまった。それから2人の生活は一変してしまう。夫は病院嫌いの妻の願いを聞き入れて、自宅での介護を決心する。しかし妻の容態は日に日に悪化していく。妻を車いすから立たせ別のいすに移動させたり、ベッドに横たわる妻の寝息に夫が聞き耳を立てたり。そうかと思えば、今度は妻が、隣で眠る夫の横で不安そうな表情を浮かべたり……。夫が妻を、妻が夫を思いやる姿、いわゆる今の社会問題化している老々介護である。やがて介護も妻の衰えと比例して困難な状況になり、とうとう限界を迎える。そして夫が妻を殺してしまうことになる。「老い」と「死」をテーマにひと組の夫婦の人生の最終章を赤裸々に描いた作品であり、老後にさしかかった私には身につまされるものがあった。

 この作品、テーマとしてはありきたりなものではあるが、その描き方がいかにもヨーロッパ的で面白いと思った。冒頭は教え子のピアニストの演奏会のシーンから始まる。映像は舞台から客席を見たカットで、固定されカメラで何分にも亘り長回しで撮られている。満員の客席は演奏が始まるまでのひと時、観客同士の雑談の様子がしばらく続く。やがて場内の照明が薄暗くなり、次第に雑談やざわめきが静まっていく。そして拍手があり、それが鳴り終わって、ピアノの演奏が聞こえてくる。その後も演奏の場面は一切映さず、ピアノの曲を聴く観客の様子が長回しの中で映し出されていく。それからしばらくしてカットが変わり老夫婦のアパートの室内に移る。それ以降全ての場面はアパートの中だけの映像で、しかもBGM(効果音楽)は使わず、静寂の老夫婦のアパートの中に一緒にいるような臨場感を持たせている。この映画フランス映画にも関わらず作品賞や監督賞など5部門にノミネートされていたそうで、やはりハリウッドでも高い評価だったのであろう。

 一方日本アカデミー賞は「あなたへ」(高倉健)、「北のカナリヤたち」(吉永小百合)、「わが母の記」(樹木希林)、「のぼうの城」、「桐島、部活やめるってよ」が候補で、結局「桐島、・・・」が最優秀作品賞を取った。「あなたへ」と「わが母の記」以外は観ていないから何ともいえないが、日本の映画はそれなりに良くできているように思うが、しかし斬新さとか奇抜さとかスケールとか、「はっ」とするような突き抜けた面白さは欠けるように思うのである。エンターテイメントとしての映画は、まだ一歩も二歩も外国作品の方が先を行っているように思ってしまう。

               
                             あなたへ

               
                          きたのカナリアたち

               
                            わが母の記

               
                            のぼうの城

               
                         桐島、部活やめるってよ






帽子

2013年03月19日 15時53分41秒 | Weblog
 先日テレビニュースを見ていたら、黒のコート白のマフラーにソフト帽を斜に被り、モスクワで開かれるG20へ向かう麻生財務大臣が写っていた。思わず「何を気取っているんだよ」と思ってしまう。あんのじょう外国メディアから、「マフィアの会合に出られるのですか?」と、きついジョークを飛ばされたようである。まあ本人が良いと思えばそれでいいのだろうが、私には少し違和感を感じるのである。

 昭和の20年代か30年代だろうか、私の父も通勤には必ずソフト帽を被って出かけていたように思う。大人になればネクタイと同じように帽子を被る、これが社会全体のスタイルのようになっていたのだろう。そして当時見ていた洋画(西部劇はカーボイハットも含め)に出てくる主人公はほとんど格好よく帽子を被っていたように思う。そんな時代からいつの間にか無帽が当たり前になってきた。当然我々が社会に出て行った昭和40年代からは帽子を被っている人は皆無になった。

 最近街の中でも帽子を被った男性を見かけることが多くなった。一つは薄毛を隠すために被る帽子、一つが今のトレンドなのか若者が被る帽子、もう一つが年配者が昔のファッションに憧れて被る帽子である。ソフト帽などを被っている人は、麻生財務大臣ではないが基本的におしゃれな男性なのであろう。胸にチーフを覗かせ喫茶店でも食事の場でも帽子を取らない。「どうだおしゃれだろう」、「どうだカッコいいだろう」、そんなオーラを醸し出している。

 このオールドファッションは私にとっては違和感が強い。もともとセンスの無い私が言うのはおかしいのだが、ただ目立つだけが狙いのおしゃれのように思うのである。私のおしゃれ感は、「センスが良い」と思わせるのが「おしゃれ」のように思うのである。清潔感、色のコーディネイト、着こなし、そして調和、そんなものトータルを考えてこそおしゃれなのだろう。昔見た洋画でゲーリークーパーやクラークゲーブルのように背が高く顔の小さい外人には似合うが、背が低く顔のデカイ日本人には帽子は似合わないように思う。ただ昔のオールドファッションの憧れから帽子を被るのでは、ただただ違和感だけが目立ってしまう。