60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

60歳

2008年11月25日 09時18分19秒 | Weblog
久しぶりに昔の同僚に逢った。
彼は再来年の1月で60歳になるという。定年まであと1年2ヶ月の秒読みに入った。
その後どうするか?それが今の彼の最大のテーマである。
定年後ははよほどのことがない限り、嘱託として今の職場に留まることはできるそうだ。
しかし年収は大幅ダウン、役職もなくなり、一介の嘱託社員として同じ事務所で働かざるを得ない。
今までの部下とは立場が逆転して使われる身になる。上意下達のサラリーマン社会では
その環境の中で働くことでのストレスは容易なことではないようである。
今まで嘱託で務めた定年退職者の大半は2年も持たず、1年程度で辞めているという。
定年したと同時にラインから外れ、誰からも相手にされず邪魔な存在になり下がる。
歳を取っただけ実務力は衰え、何もできないまま事務所の片隅で不遇をかこつことになる。
そんな境遇に耐えられるか?まずそれが第一の関門である。

第二の関門は嘱託を2年間勤めたとして、その後完全に職を失ってからどうするかである。
年金生活では使えるお金も少なくなる。掃いても掃いても道路から剥がれない濡れ落ち葉のように、
何もやることがなく、家にしがみついているのは夫婦ともども悲劇である。
第三の人生、興味がもてる何らかの仕事、趣味、社会参加など見つけられるかどうかが課題になる。
今、彼はそんなことを意識して、生田緑地の日本民家園で月2回のボランティアをしているようだ。
20棟近くある古民家の維持管理や説明員というボランティアである。
同じボランティア同士で話せる仲間もでき、結構楽しく働けるようだ。これは一つの核になる。
しかしこの民家園でのボランティアも狭き門で、競争も激しく月2回しか参加できないようである。
稼ぎは二の次にして、何か継続していける仕事や活動を見つけたい。それが第二の関門である。

今は嘱託に転じた時に「いじめ」に合わないように、「良い上司」「親しみの持てる上司」を演じている。
退職後のネットワークの維持のために、同窓会など積極的に参加し、人にも極力逢うようにしている。
万歩計を身に着けてメタボな体型から脱出するため1日2万歩を目標に歩くように心がけている。
すこしでも趣味を広げるために、家の前の土手に草木を植えて毎日観察しながら楽しんでいる。
しだいに殺伐としてくる家族とのコミュニケーションの慰めにと、子猫をもらってきて飼い始めた。
家のローンが気に掛かり、家に引きこもる娘の事が気に掛かり、残された田舎のお墓が気にかかる。
今まで進学から就職、結婚、子育て、仕事と、ただただ無我夢中で突き進んできた日々。
60歳という一つの区切りに差し掛かってくると、全てのことを意識しなければならなくなってくる。
一つ一つの課題に期限がついて立ちはだかってくる。そんな感じがするものである。

彼が言う。
休みに一人散歩している時、思わず「わーっ!」とか「やーっ!」とか奇声を発する自分がいるという。
人前では自嘲するが、どうしても抑えられない衝動で、これがストレスのバロメーターになっている。
どうしても晴れない鬱屈した気持ちが自分を捕えて離さない。60歳とはこんなこんな時期なのだろう。