60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

池口史子展

2008年11月18日 08時42分07秒 | 美術
11月12日の日経新聞の文化欄に池口史子(ちかこ)展のコラムがあった。
そこに「終秋」と「東の海」の2点の小さな絵がカラーで紹介されている。
両方の作品とも無機的なタッチで描かれていてどこか憂いを秘めていてるように感じる。
『この作品、是非見てみたい』私の中で絵画に対して初めて感じた強い衝動である。
今まで散歩の途中に美術館があればなるべく立ち寄り、努めて多くの作品に触れようと思った。
見ていて、上手く描けているなぁ、迫力があるなぁ、綺麗だなぁ、この絵にはこんな思いがあるのか、
この作品は何を言いたいのだろう?この作品は見る人皆は理解しているのだろうか?
どちらかと言えば少し離れたところから、評論家的に客観視して見ていたように思う。
そんな私が小さな写真の絵を見て、『見たい』と思ったのである。
自分の感性に合う絵、大げさに言えば絵に対して人生で初めて感じた感情なのかもしれない。

思い立ったら即実行。16日に早速渋谷の松濤美術館に見に行くことにした。
この松濤美術館は区立でこぢんまりして落ち着いた雰囲気の美術館である。
地下1階と2階のツーフロアの展示で、油彩作品75点と挿絵25点の作品が展示してある。
最初に彼女の初期の作品が数点展示されている。
その作品は絵の具を分厚くぬりたくったようで、暗い画面の中に主題の輪郭さえはっきりしない。
20代の若い女性の沸々とした内面のマグマをぶつけたような作品である。
それが半世紀近くを経て、書きあげた作品は比べようもなく劇的に変化している。
この作品は同一人物が書いたのだろうかと、あっけにとられる感じである。
画家のスタイルが決まる、画風が定まるとは、こういうことを言うのだろうか。
私の感性にフィットした作品は1990年以降にアメリカやカナダの取材で描かれた作品である。
北アメリカの広漠とした大地に広がる光景、寂寥(せきりょう)とした異国の町並みや風景である。

自分が感じたことをどういう風に語ればいいか、どういう風に表現したらいいのかなかなか難しい。
作品の中に鉄道をとらえたものが多い、線路の彼方にあるであろう人々の営みや街へのあこがれ。
そして郷愁、静寂、荒涼とした風景はどこかロマンチックでどこかに物憂いものを秘めている。
長大ななぎさの風景、倉庫群と鉄路、辺境の閑散とした町並み、ホテルからみた異国の町並み、
自分には全くなじみのない外国の風景であるが、その絵の中から感じるのは
寂寥、端正、憧憬、辺鄙、孤独、抒情的、軽快、澄明(ちょうめい)などであろうか、
見ている側に昔を懐かしみ、ほろりとした詩情を感じさせてくれるのである。

彼女の年譜を改めて見てみた。
1943年(昭和18年)満州で生まれる。父は満州鉄道に勤務とあった。
私より一つ年上、しかも私と同じで、父親は鉄道員であった。
だから鉄道の絵が多いのに納得がいく。そんなことが、いっそう親近感を感じてしまう。
年譜の途中に池口小太郎(ペンネーム堺屋太一)と結婚とあった。
そうすると、貧乏画家ではなく、恵まれた環境の中で絵を描いてこられたのかもしれない。
そんな彼女が、1988年カナダのアルバータ州の大穀物地帯の小麦貯蔵庫を取材に行った折、
バスで移動して疲れて眠っていて、目が覚めたとき出会った風景を描いた絵が世に認められた。
「それはまるで一目惚れのように、今これが私の表現してみたい風景だった」と彼女は語っている。
たぶんこの時にこの画家の中の描くべきものが定まったのであろう。
そして私がその絵を見て、その作者の感動にシンクロしたのかもしれない。
絵を見るということは作品から発する旋律に、見る側が共鳴できるかどうかなのであろう。
この歳になって初めての経験である。