浪漫飛行への誘(いざな)い

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新しいNHK朝ドラの舞台、沖縄との縁

2022年04月12日 10時23分43秒 | 旅行

 

アメリカ統治下に置かれた沖縄が1972年に日本に復帰して、今年で50年を迎えるが、これに合わせてかNHKの朝ドラ「ちむどんどん」は沖縄が舞台のドラマとなっている。沖縄とは昔から縁があって、まだ米軍の統治下に置かれていた1962年8月に沖縄でボーイスカウトのジャンボリーが開催され、参加する機会を得た。パスポートに代わる身分証明書なるものがあって、それを取得したので、はじめて日本から外に出たことになる。全国から選ばれたスカウトたちが晴海ふ頭から船に乗って丸2日かけて、那覇港に着いた。那覇では、現地のスカウト達と交流し、現地のスカウトの家にホームステイした。その家は、那覇では名家で大きなレストランを経営しており、そこで参加者全員が食事をすることもあった。通貨はドルで、道路も、車は右側通行の時代であった。

ジャンボリーが行われたキャンプ地は、米軍基地内にあるホワイトビーチというところであった。沖縄本島の「うるま市」にあるが、今も在日米海軍の基地であり、訪れることはできない。60年も前のことなので、記憶が定かではないが、キャンプ地で印象深く覚えているのは、現地のお祭りを見学したこととセブンアップ等アメリカの飲み物を初めて飲んだことである。当時、日本では、コーラやセブンアップのような炭酸飲料は、まだなかったような気がする。ホームステイしたスカウトとは、その後も長くおつきあいをさせてもらっている。また、那覇に向う船の中で一人の男性と偶然知り合いになり、その後もその方が亡くなるまで親しいお付き合いをさせてもらった。当時、沖縄県庁の薬務課に勤務していた人で、薬局を経営する傍ら、らい病とか沖縄の薬務関係の仕事をされており、その後も沖縄に行くたびにいろいろとお世話になった。1970年に沖縄に卒業旅行で行った時も、辺士名という街にある知り合いの薬局を紹介してもらい、泊めてもらったり、大変お世話になった。自分より大分年配であるが、可愛がっていただき、彼の子供に、自分と同じ名前(発音は別)を付けられていた。まさに不思議な縁であった。

1970年3月の卒業旅行も縁のある沖縄をメインとし、台湾・香港まで足を延ばした。1962年同様、晴海ふ頭から琉球海運による船旅であったが、悪天候に見舞われ、72時間もかかってしまった。知り合いになった方が港に迎えに来てくれて、薬局近くのホテルを手配してくれた。本島内では、北は辺戸岬から南はひめゆりの塔等の南部戦跡まで沖縄の名所を巡った後、飛行機で石垣島に渡った。南西航空のYS11であったが、これが生まれて初めての飛行機搭乗であった。低い高度で飛ぶので、遊覧飛行のごとく素晴らしいブルーに輝く海を楽しむことができた。石垣島では、竹富島まで足を延ばしたが、当時、島には乗り物はトラックが1台しかなかったと記憶する。民宿に泊まったが、薬草をいっぱい食べたことを覚えている。石垣島からは、また船で台湾海峡を渡り、台湾の基隆に上陸した。船が大揺れして、船酔いどころか大変な目にあった。これが海外旅行の第一歩であった。

1972年の日本への復帰以降では、1975年の沖縄海洋博にも出かけた。その後も、業務出張やらプライベートやらゴルフで沖縄を訪れることも度々あった。離島も、石垣島、竹富島、宮古島、久米島には足を運んだ。那覇⇒成田のLCC機内で偶然知り合った米軍基地に勤める女性の招きで、嘉手納基地にも二度ほど入れてもらう機会を得た。何かと因縁の深い沖縄であるが、日本に復帰して50年も経つということを聞くと時代の流れを感じる。まだ行ったことがない離島もあるので、機会があったら、他の先島の方まで足を延ばしてみたい。

 

写真は、1962年の那覇への船旅

 

 

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