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奈良の名所・古跡

行ってみたい所があるといいのですが・・・古墳とか建物とか巨樹とかいろいろ・・・

春日門跡

2008年01月11日 | 史跡
 門跡には、虎口を構成する東西2つの石垣積の櫓台が残っています 撮影日;2007.12.18

 築造は16世紀末~17世紀初頭
 現存する櫓台は、17世紀後半の織田家宇陀松山藩時代の向屋敷・上屋敷造営に伴う再構築だそうです

★所在地;宇陀市大宇陀区春日59
★交通;近鉄榛原駅より 大宇陀行きバスで終点下車 徒歩15分
★駐車場;道の駅『宇陀路大宇陀』を利用
★入場料;見学自由
★問合せ;0745-87-2133(宇陀市教育委員会)

 松山城下町の出入口にあたる西口関門(黒門)から続く大手筋正面に位置します
 松山城下町の象徴的な建造物だったようです

 春日神社の参道に有ります



松山西口関門「黒門」

2008年01月09日 | 史跡
 旧松山城の名残を留める唯一の遺構です 撮影日;2007.12.18

 正確には織田氏長山陣屋の門遺構

 寛文11年(1671)、松山藩主織田長頼による新陣屋建設に伴って構えられたもの

★所在地;宇陀市大宇陀区下本
★交通;近鉄榛原駅より 大宇陀行きバスで西山下車 徒歩7分
★駐車場;なし
★入場料;見学自由
★問合せ;0745-83-0252(大宇陀観光協会)

 旧位置に現存する城下町の門として珍しいものです

 正面の柱間十三尺五寸(約4m)
 両内開きにで、左右に袖垣をつけた高麗門の形で、本瓦葺き切妻屋根の簡素な門です
 壁以外は黒く塗られ、黒門と呼ばれています

 門を含む地域は枡形になっています
 門の前後の狭い通路が直角に幾重にも作為的に曲げられ、防備の工夫がされています



森野旧薬園

2008年01月02日 | 史跡
 「小石川植物園」と並ぶ日本最古の薬草園です 撮影日;2007.12.18

 約250種類の薬草が四季折々に可憐な花を咲かせます

 徳川8代将軍吉宗が、全国から薬草を取り寄せる際に貢献した「森野藤助」に、薬草木の苗木を与えた
 これらの苗を開墾した裏山に植え、薬園を創始しました

 大正5年に国の文化財史跡に指定されています

★所在地;宇陀市大宇陀区上新1880
★交通;近鉄榛原駅より バスで大宇陀下車 徒歩5分
★駐車場;道の駅『宇陀路大宇陀』を利用
★入園料;大人300円
★休館日;有りません
★開園時間;9:00~17:00
★問合せ;0745-83-0002

 店舗では吉野葛の製造工程も見学できます

 平成10年4月に森野旧薬園の資料館を開館しました

 薬園内からは大宇陀の町を見渡す事が出来ます


 参考;森野吉野葛本舗のホームページ

岩屋石窟

2007年12月05日 | 史跡
 奈良時代の石窟寺院跡です 撮影日;2007.11.23

 凝灰岩を削って西向きに切り開かれた大小二基の石窟遺跡
 間口7m、奥行き5m、高さ6m

 出土した須恵器などから、中国の石窟寺を真似て造られたようです

 三重の石塔が残り,昭和23年に国の史跡に指定されました

★所在地;南河内郡太子町山田
★交通;近鉄当麻寺駅より 徒歩50分
★駐車場;有りません
★入場料;見学自由
★問合せ;

 大石窟の内部中央に、凝灰岩で作られた三層の塔(高さ3m)が置かれています
 北壁面には三尊立像の浮き彫りがあったようです
 現在は光背部分が辛うじて識別できるだけです

 「當麻曼荼羅」(国宝・當麻寺の本尊)は、中将姫が岩屋で織ったとする言い伝えがあります


 二上山雌岳の近くです

滝寺磨崖仏

2007年10月07日 | 史跡
 我が国でも最も古い磨崖仏の一つです 撮影日;2007.9.25

 昭和54年に奈良県指定史跡に登録されています

 天平時代(8世紀頃)のもの
 細粒室花崗片磨岩の岩肌に彫刻され、菩薩等を浮き彫りにした仏龕が五面配されています 

★所在地;奈良市大和田町滝臺1640-2
★交通;近鉄富雄駅より バスで砂茶屋下車 徒歩50分
★駐車場;矢田山遊びの森のP利用
★入場料;見学自由(覆屋は鍵がかけられています)
★問合せ;0742-22-1101(奈良県教育委員会)

 滝寺の草創沿革については詳かではありません

 付近からは奈良時代の瓦が出土しています


 矢田山遊びの森から徒歩10分ほどです

 かなり、分かりづらい場所に有ります

地獄谷石窟仏

2007年08月26日 | 史跡
 今もかすかに彩色が残る名作として知られます 撮影日;2007.7.31

 春日山信仰に由来して「滝坂の道」に点在する石仏のひとつ

 中央の中尊は、高さ1.4mの盧舎那仏(または釈迦如来、奈良時代後期の作)
 左は薬師如来、右は十一面観音(室町時代ごろの追刻)といわれます
 右壁に妙見菩薩、左壁に阿弥陀如来と千手観音が刻まれています

★所在地;奈良市春日野町
★交通;近鉄奈良駅より 
    市内循環バスで破石下車 徒歩80分
★駐車場;奈良奥山ドライブウェイの駐車場を利用して歩くルートもあります
★入場料;見学自由
★問合せ;0742-34-1111(奈良市観光課)

 『聖人窟』ともいわれます
 石を切り出したあとの洞に線刻したもので、石窟に生えた苔のみどりと石仏に施された朱とのコントラストが美しい

 近くに春日山石窟仏(穴仏)、夕日観音・朝日観音・首切り地蔵などが有ります


 参考;石の仏のページ

高天原

2007年08月05日 | 史跡
 石碑の立つ周辺が高天原であったとう説があります 撮影日;2007.7.19
 
 高天寺橋本院の駐車場に【史跡 高天原】の石柱が建っています

 でも、あるのは公衆便所だけ^^

★所在地;御所市高天
★交通;近鉄御所駅より
    バスで北窪下車 徒歩12分
★駐車場;タダです
★問合せ;0745-62-3001(御所市観光協会)

 高天原とは日本神話でいう天上界のこと
 高天は天孫降臨の地、高天ヶ原の聖地です
 古事記や日本書紀に出て来る神話は、この地にあった「葛木王朝」の神話がベースになっていると言う説が有ります


 高天彦神社の東側一帯です

東大寺講堂跡

2007年07月24日 | 史跡
 今は礎石のみが残る鹿の遊ぶ芝生地となっています 撮影日;2007.7.17

 大仏殿北側には、かつて幅約60mの大仏殿に匹敵する講堂が建っていました
 度々の戦火で近世以降は再建されませんでした

 本尊として千手観音、脇侍の虚空菩薩、地蔵菩薩が在ったことが「東大寺要録」に記されています
 この地蔵菩薩は天平19年(747)光明皇后様が発願され作られた
 「日本初のお地蔵様」だったようです(講堂と共に焼失?)

★所在地;奈良市雑司町406-1
★交通;近鉄奈良駅より 徒歩15分
★駐車場;有料
★入場料;タダです
★問合せ;

 焼門跡から二月堂への裏参道につながって行き、静かな散策コースです
 写真、スケッチ、油絵を描いているアマチィア芸術家が多い所です
 少し二月堂寄りの東側に立派なサルスベリの木が4~5本生えています


 すぐ近くに、正倉院があります


小治田安萬侶の墓

2007年05月22日 | 史跡
 奈良時代の高官、従四位下の小治田朝臣安萬侶の火葬墓です 撮影日;2007.5.8

 明治45年(1912)に、茶畑の植替え時に偶然「銅版墓誌」3枚が発見されました
 昭和26年(1951)の発掘調査では、火葬地を墓地にしたことが確認されています

 国の史跡に指定されています

★所在地;奈良市都祁甲岡町
★交通;近鉄榛原駅より
    針インター行きバスで来迎寺下車 徒歩5分
★駐車場;有りません
★入場料;見学自由
★問合せ;0743-82-0201(都祁行政センター)、0743-87-0001(大和高原文化の会

 安万侶を葬った墓は1辺が3.6mの方形の墓壙を小規模な封土で覆ったものです

 主板は、縦29.7cm、幅6.3cm圧座0.4cmの短冊形
 「右京三条二坊従四位下小治田朝臣安萬侶大倭国山辺郡都家郷郡里崗安墓 神亀六年歳次己巳二月九日」と刻まれています

 封土の周囲からは銀の和同開珎10枚、その他に長胴甕の土師器、三彩の小壺、鉄板なども出土

 小治田臣は蘇我氏の同族だそうです

 安萬侶は文武~聖武天皇に仕えた高官で、現在の西大寺南から尼ヶ辻付近に住んでいたようです
 神亀6年(729)没


 都祁水分神社が近くです

史跡三井「赤染井」

2007年04月08日 | 史跡
 聖徳太子が開掘した三基の井戸のひとつ「赤染井(あかぞめい)」だと伝えられています 撮影日;2005.7.6
 
 この井戸は、明治年間には埋没していました
 昭和7年の発掘調査で、深さ約4.25m、上部直径約91cm
 側壁は中膨れの筒状をしているそうです

★所在地;生駒郡斑鳩町三井
★交通;JR法隆寺駅より 徒歩35分
★駐車場;法輪寺の駐車場利用
★入場料;見学自由
★問合せ;0745-74-1001(斑鳩町教育委員会)

 三井の地名は聖徳太子がわが子の産湯に使うため
 三つの井戸(御井、赤染井、前戴井)を掘ったことから三井と呼ばれるようになった言われます
 古代朝鮮の井戸の形式を伝え日本に現存する最古に属する井戸と言われ
 今も水が湧き出ているそうです(国史跡)

 法輪寺の別称「三井寺」の由来の井戸です




 史跡「三井」
 赤染井 史跡「三井」説明板
 2010.12.18撮影の画像を追加

『史跡三井』 斑鳩町ホームページより
この井戸は、法輪寺旧境内の範囲に含まれ、聖徳太子が開掘した三基のうちのひとつだと伝えられており、法輪寺の別名である「三井寺」や「御井寺」についても、この井戸に由来しているようです。
この井戸は、明治年間には埋没していましたが、昭和7年に発掘調査が実施され、深さ約4.25m、上部直径約91cmであることがわかりました。
構造としては、底部に4個の石を方形に組み合わせて、その内外の隙間より水が湧き出るようになっており、側壁は中膨れの筒状を呈してあり、底面より約1.15mの高さまでは乱石積みで構築し、その上約3mを長弧長約29cm、短弧長約23cm、長さ約23cm、厚さ約7.6cm扇形の「せん」を積んでありました。
法輪寺より出土する瓦には「王井」の文字を刻印した瓦が出土しており、せん積みというその特異な構造ということからも、法輪寺とこの井戸とはかなり密接な関係があったと推察されます。