終戦後昭和20年代、私は小学生でよくラジオで歌を聞いていた。
幼い私の耳にも女性の美しい声が聞こえ淡谷のり子、渡辺はま子の名前も知っていた。
今TVにて感動的な「戦場のメロディ」という実話のドラマをみた。
終戦後フィリピンで捕虜になり死刑囚となった日本軍人達、すでに20名以上絞首刑が行われていた。
108名が順番を待っていた。
収容所の中で死刑を待つ間に祖国日本への望郷の思いで作詞、作曲したのが「あぁーモンテンルパの夜はふけて」
これを日本人クリスチャン教誨師を通じて日本にいる歌手渡辺はま子に送った。
早速渡辺はま子は日本全国で歌い話題となった。
そしてフィリピンのモンテンルパの収容所慰問に行き、日本の死刑囚に生きる力を与えた。
教誨師が大統領に減刑願いに行ったが、フィリピンの大統領は日本軍に妻子を殺害されていたので全員の死刑を強く望んでいた。
教誨師は何も言わず「あぁモンテンルパの夜は更けて」を聞かせた。
大統領はその悲しいメロディーに心を打たれ聞き入って、日本人死刑囚が作詞作曲した事を知った。
そして2ヶ月後全員釈放、昭和28年6月26日、祖国日本に100人余りの死刑囚全員無事帰国出来た。
音楽が人の命を救った素晴らしい実話で何とも言えず涙して凄い感激、感動、でした。
戦犯死刑囚の代田銀次郎大尉(27歳)の詞
「モンテンルパの夜は更けて つのる思いにやるせない 遠い故郷しのびつつ
涙に曇る 月影に優しい母の夢をみる」
その時の気持ち、何とも悲しく人生の虚しさを感じる。
この詞に曲をつけた音楽が得意だった死刑囚伊藤正康憲兵少尉(23歳)の気持ちもはかり知れない。
1日たってこの「あぁモンテンルパの夜は更けて」の歌手渡辺はま子の事が思い出された。
当時 小3くらい(昭和27年)で父は山口県防府市の鐘紡に勤務していた。
鐘紡工場は瀬戸内海に面してとても広く、工場内に大きな体育館のような建物があり年に何回かいろいろな催し物があった。
当時の歌手(川田晴久、灰田勝彦、二葉あき子、美空ひばり、雪村いずみ、等)
もちろん渡辺はま子も来てこの歌を歌ったのを覚えている。
その後何度も聞いたが、この様ないきさつがある事など全然知らなかった。
私は若い頃、10年間自衛隊に席を置き、しかも日本で最強と言われる空挺部隊を志願して猛訓練をうけた。
あらゆる武器(ライフル、拳銃、マシンガー、ロケットランチャー、無反動、火炎放射器、機関銃、迫撃砲等)を
暗闇で分解し正常にもどす等、使いこなせるようになり部下の隊員を指導していた。
射撃も視力がよく特級で中隊対抗の代表だった。(現在も両眼共に1,5)
私はこの時、日本に何かあったらと純粋に考えていたと同時にここで覚えた技術は生涯役にたたない事を願っていた様に思う。
戦争は悲惨で、過去の過ちを繰り返さないよう心より平和を願っている。
(写真:歌手 渡辺はま子)
ああモンテンルパの夜は更けて
(フィリピン,モンテンルパ刑務所日本軍人死刑囚、歌手 渡辺はま子慰問)