天地を 照らす日月の 極みなく あるべきものを 何をか思はむ 

わびぬれば 今はたおなじ 難波なる みをつくしても あはむとぞ思う

命ある限り

2009年03月11日 | Weblog

「命ある限り」の著書がある河野義行さん。「私は、麻原被告も、オウム真理教の実行犯の人たちも、恨んでいない。恨むなどという無駄なエネルギーをつかって、限りある自分の人生を無駄にしたくないのである。」と。

罪を認め、刑を終えた人を受け入れ、著書の中で、麻原彰晃のことを「さん」付けで呼び「教えは間違っていた」と声明を出してほしいと訴えている。罪を認めないまま死刑にすれば、殉教者。  

光市での事件。本村洋さんは「最も尊ぶべきは、過去の判例にとらわれることなく、個別の事案をきちんと審査したこと。(’06.6.20最高裁第3小法廷、浜田邦夫裁判長は、ただ自らと法に従い、無期懲役判決を差し戻した。’08.4.22差し戻し審、死刑判決)社会は正義を再認識し司法が威厳を保つことで、民主主義、法治国家は維持される。

 人の命を最も大事だと想って尊ぶからこそ、死刑がある。刑法は、社会秩序を維持するための手段。死刑というものがあって、人の命を、どうこの国が、社会が、法が、判断するかを考えていくことに意味がある。一つのけじめがついた。 

 惜しむらくは、最後まで事実を認識し、誠心誠意反省すれば、死刑を回避できたかもしれないこと。被告人は、納得して、死ななければならない。納得してはじめて、偶然は必然になり、死は、生は意味をもつ。まだ、発言の機会を奪われたわけでははない。」と。

加害者は、自分のしたことを認識し、さらに「間違っていました」と伝えなければならない。それをしないで死んではいけない。社会は、それをさせないで死刑にしてはいけない。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿