とんねるず主義+

クラシック喜劇研究家/バディ映画愛好家/ライターの いいをじゅんこのブログ 

Will you be there?

2009年08月04日 04時41分25秒 | MJ
長いです。

アルバム『インヴィンシブル』の中の一曲「スピーチレス」。
恋する君の前では、僕は何も言えなくなってしまうんだ---という、シンプルな美しいラブ・バラードです。

マイケルについて考えるとき、わたしも「スピーチレス」になってしまいます。
いくら考えて考えぬいても、いくら言葉をつくしても、ほんとうのマイケル・ジャクソンをつかまえることが、どうしてもできないんです。

この人は、そんな簡単にわかられてしまう人ではないのでしょう。

彼を聖人のように崇める気はありません。でも、考えれば考えるほど、彼のケタ外れのスケールの大きさに圧倒されて、わたしなんかには到底彼を語る資格も力もない、と思えてくるのです。

マスコミはあいかわらず、わけのわからないゴシップを流し続けている。
マスコミの底の浅さをあらためて感じた記事が、最近もありました。
イギリスの俳優ルパート・エヴェレット(Rupert Everett)が、タブロイド誌ミラーのインタビューでマイケルについて語った話。
(まあ、ミラーの記事というだけで話半分に聞かなければいけないんでしょうが)

エヴェレットのコメントで報道されている部分を原文のまま転載します。

"I think it was fortuitous that he died. He was supposed to be doing 50 concerts in London. It wouldn't have mattered how good or bad he was. He wouldn't have managed to do all of them and the press would have destroyed him."

"He was a freak. He looked like a character from Shrek. He was a black to white minstrel. He was crucified by that court case when he was accused of child molestation---that killed him. He personified the pain and anxiety of a black man in a slave country. We all watched as he changed from black to white. He was living performance art."

"We're living in very strange times. We have Michael Jackson, a black man who has gone white, and we have President Barack Obama, who is a half white man gone black. It's absolutely fascinating to watch."

[拙訳:彼は亡くなった方が良かったんだ。ロンドンで50回ものコンサートをやる予定だったんだろ。彼の才能あるなしの問題じゃない。すべてのコンサートをこなすことなんかできっこなかっただろうし、(やったとしても)マスコミが彼を破壊してしまっただろう]

[彼は化物だったじゃないか。『シュレック』のキャラクターみたいだったよ。ミンストレルショー(註:白人の演者が黒人に扮して討論会等をした1920年代の舞台の演目)の逆さ。彼は少年虐待疑惑をきせられた例の裁判で十字架にかけられたんだ---あの裁判が彼を殺してしまった。彼は奴隷の国で黒人の痛みと苦しみをひとりで背負っていたんだ。彼が黒から白へと変わっていくのを、僕たちみんなが見ただろう。彼は生きたパフォーミング・アートだった]

[まったくおかしな時代だ。マイケル・ジャクソンは黒人から白人になり、白人の血が半分はいっているバラク・オバマは黒人になりきっている。まったく見物だね](誤訳あればご指摘ください)


確かにエヴェレットのコメントには事実誤認もあるし、思いこみでしゃべってる所もある。英国人らしい(と言うとまた偏見になるかもしれないが)皮肉とリップサービスたっぷりだから、タブロイドもとびつく。

記事の見出しには、こんなフレーズが躍っています---

「エヴェレット、マイケルを"化物"と呼ぶ!」
「エヴェレットは語った、"マイケルが死んで良かった!"」

そして「このコメントはメディアの関心をひくためのエヴェレットの売名行為だ」と多くの記者は締めくくる。

しかし、コメントをよく読めばわかるとおり、彼ははっきり言っています。
あの裁判がマイケル・ジャクソンを打ちのめしたのだ、と。
マイケルはメディアと社会の人種差別によって殺されたのだ、と。

このコメントは、皮肉の衣にくるまれた明らかなマスコミ批判です。しかしそんなことに目を向けるジャーナリストは、いない。こうして情報はねじまげられてゆく。

「マスコミ」と呼んでしまうと、まるで顔のないハイエナの集団みたいに思えるけど、彼らの中にだって、マイケル・ジャクソンファンは絶対にたくさんいるはずなんです。

彼らの中に立ち上がってこう叫んだ人はいなかったんでしょうか。
「もうたくさんだ!オレのヒーローを侮辱するデタラメ記事を書くのはもういやだ!」

---しかし、それが彼らの仕事です。
そして、その「仕事」を成立させているのは、「需要」があるからなのです。

マイケル報道をただ黙って傍観していたわたしは、いつのまにかそれを受け入れてしまっていたのだと思う。

80年代はいざしらず、90年代、そして21世紀になってもまだ、マスコミがマイケルをおもちゃにしつづけるのを、なぜわたしは見抜くことができなかったのだろう。

自分は「常識」を持っていると思ってたし、報道のあやうさだって、十分理解できていると思っていたのに。湾岸戦争で報道された油まみれの海鳥、あの映像がヤラセだったと知ったあの頃、もう報道にだまされちゃいけないと思ったのに。

たとえば、マイケルがずっと患っていて、公表もしていたという尋常性白斑という病のことを、なぜわたしは信じなかったのか?

「白人になりたかったから肌を白くした」だなんて、バカげた魔術みたいな話の方を、事実よりも優先してしまったのは、いったいなぜだったのか?

その病のことを、多少なりとも自分で調べ(いまやインターネットがあるのだから)、症例や患者さんたちの悩みをたくさん読めば、事実は明らかすぎるほど明らかなのに。

ある瞬間、突然それが理解できました。そして愕然としました。

「自分には偏見などない」と、思いこんでいた。
「マイケルが白人になりたかったんなら、それでもいいじゃないか」と、ずっと思っていた。

でも、それはどちらも大きなまちがいでした。

マイケルが黒でも白でも黄色でも、なんなら緑でも紫でも、彼の超絶的なかっこよさは変わりはしません。
しかし、そう考えることと彼の病を知ることとは、別の問題なのです。


マイケルが、自分の病についてもっと強くアピールすべきだった、と言う人々もいます。
そうすれば、あらぬ誤解を受けずにすんだだろう、と。

精神分析をするつもりはまったくないけれど、それはマイケルの事情というよりも、スターとしての、あるいはもっと広い意味で芸能人としての、誇りみたいなものだったんじゃないでしょうか。

憐れみの目で見られることは、人に夢を与えるエンターテイナーにとって致命傷です。

たとえば---ホントはこんなことは仮定としても考えたくないけれども---もし、万が一、とんねるずのどちらかが何らかの持病をかかえていたとしても、おそらく彼らはそれを公表しないだろうと思う。

もちろん、その病を罹患していること自体が悪いわけでは決してありません。
マイケルだって、もしかしたら、支援団体に寄付などしていたかもしれない。

ただ、彼は病気を「言い訳」にしたくなかったんじゃないだろうか。
徹底したプロフェッショナルだったのだから、マイケルは。
ひょっとしたら病でさえも、みずから文字どおり人種の壁を超えるための手段に昇華してしまったのだろうか?

この件について、ブログ「勇気凛々」の執筆者の方がすぐれた記事を書かれています。
わたしはこの記事に全面的に賛成します。


「自分には偏見などない」と信じこむこと。それこそが、偏見のはじまり。

自分の「正義」を信じ、それを更新するのをやめてしまうこと。それが、無知のはじまり。




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