~ いるかしあわせ宅配便 ~

ばあちゃんのひとりごと

落花生!!

2018-11-07 21:58:11 | Saranyaのひとり言
おはようございます。

兄は野菜作りを初めて5年目になるそうです。
それぞれの野菜が元気に育っています。

今回、落花生・・・をいただいたので、湯がいてみました。

これが落花生。


実だけにしました。




綺麗に丁寧に土を落として洗います。
落花生と同量の水に2%の塩入れて沸騰すれば、弱火で25分、そしてそのまま冷まします。




湯がき上がりました。



そのまま食べるのもいいですがお料理をしてみます。

今朝7時30分から篠山に託児支援で行きます。
夕食に作って報告します。


丹波の山里にて

2018-11-06 12:25:15 | Saranyaのひとり言
こんにちは
皆さま、お元気でいらっしゃいますか。
昨日の午後から丹波に来ています。

これは大根たちです。

今日の夜には帰阪しなければなりません。
忙しいようですが畑の草取りや段取りの為に、週一回は来ないと次に何を作るかなど、感覚が養われません。
何をするにも、感覚を研ぎ澄ましていくためには、何度も繰り返し試みるしかないのだと感じています。
何をするにも一生懸命しなくては真は見えてこないのでしょう。
今はまだ野菜つくりは何も見えません。
しかし、ブロッコリー🥦がもう少しで食べれるようになります。楽しみです。


夫はオクラ、ブロッコリーなど嫌いなんですがとれたての野菜は美味しいそうです。

蛙のように水陸両用に?

2018-11-05 13:48:15 | Saranyaのひとり言
おはようございます。 なんで蛙、何ですか🐸?

オタマジャクシのときは水の中で、しっぽがとれたら、足が出てきて、陸も飛び跳ねるようになります。
ところで、話は少し横の道に行きますが、カエルの足は前足、後ろ足、どちらが先に出てくるかご存知ですか。
正解は後ろ足、そして前足が出ます。
蛙は泳ぎも得意ですよね。

ハテサテ…。何の話が始まるのでしょうか?

ラーマクリシュナは蛙に例えて皆に話しました。
オタマジャクシはしっぽをつけているあいだは、水の中にしか棲めません。乾いた地面を動き回ることはできない。
だがしっぽを落とすやいなや岸に飛び上がる。それからは陸上と水の中の両方で生きることができる。
同じように、人が無知というしっぽをつけているあいだは、この世という水の中にしか棲めない。
だが、しっぽを落としたとき(つまり神の知識を得たとき)彼は自由な魂として動きまわることもできるし、そうしたければ在家の生活をすることもできるのだ。と。


人は見えないしっぽに、振り回されています。
あなたはしっぽが見えますか・・・。







ある機織りのお話

2018-11-04 16:42:48 | Saranyaのひとり言
おはようございます。

昨日に続き、インドにとても正直で敬虔な人が居ました。その人のお話です。

誰もが彼を信用し、愛していた。
彼は品物を市場に売ることにしていた。
お客が布の値段をたずねると、機織りはこう言うのだ。
「ラーマの思召によって、糸の値段は1ルピー、工賃は4アナです。ラーマの思召によって、利益は2アナです。布の値段は、ラーマの思召によって1ルピー6アナです。」
この機織りへの信用は大きかったので、お客はすぐに金を払い、布を持って行くのだった。
彼はほんとうに神の信者だった。夕方食事をすませると、礼拝堂で長いあいだ神を瞑想し、御名と栄光をとなえた。

さて、ある夜、彼はおそくまで眠ることができなかった。それで礼拝堂にすわり、ときどきタバコをふかしていた。

そのとき一群の盗賊が前の通りを通りかかった。彼らは品物を運ぶ男がほしかったので、機織りに「一緒にこい」と言った。
そして彼の手をつかみ、引っぱって行った。ある家で盗みをはたらき。荷物を機織りの頭の上において、運ぶように命じた。
そこへ、突然警官がやってきた。それで盗賊は逃げ去った。だが、荷物を持っていた機織りは捕えられた。彼はその夜は留置された。
翌日、取り調べのために長官の前に引き出された。村人たちは事件を知って法廷にやってきた。
彼らは長官に言った。
「閣下、この男が盗みをするはずがありません」そこで長官は、機織りに陣述を求めた。


機織りは言った。
「閣下、ラーマの思召によって私は夜の食事をすませました。そしてラーマの思召によって、礼拝堂にすわっていました。それはラーマの思召によって夜ふけでございました。ラーマの思召によって、私は神を思い、彼の御名と栄光をとなえておりました。
そのとき、ラーマの思召によって、一団の盗賊がそこの道を通りかかりました。
ラーマの思召によって彼らは私を引っぱって行きました。そしてラーマの思召によって、ある家で盗みをはたらき、そしてラーマの思召によって、彼らは荷物を私の頭の上に置きました。ちょうどそのとき、ラーマの思召によって警官が到着し、ラーマの思召によって私は捕らえられました。そしてラーマの思召によって警官はその夜私を留置し、けさ、ラーマの思召によって私は閣下の前に連れてこられたのでございます」と。
長官は彼が信心深い男であることを知り、釈放を命じた。帰途、機織りは友だちたちに言った。
「ラーマの思召によって、私は釈放されました」


長い長い物語が終わりました。
この男の「ラーマの思召によって・・・」といつもすべてを受け入れて、しかしながら、そこには彼自身の正直さと敬虔の念が深い人でした。
私たちならこのように言うでしょう
「私は、そんなことしていない、盗賊が引っぱっていたからで、私が悪いわけではない」と、弁明したり、困惑した心を整理できなくてイライラすることでしょう。
人は一瞬に、間違っていると思っても、悪いと思っても、自然に逃げることがあります。
心根に神を置いていないと間違いは一瞬におこります。

子育ても同じです・・・善かれと思う心はほんとうに子のためですか。


風の中の落葉のように

2018-11-04 10:33:04 | Saranyaのひとり言
皆さま おはようございます。

さて、今日の一言に入ります。

今日も「ラーマクリシュナの福音」より
ママたちは本を読む時間もないと思うしますので紹介します。

風な中の落葉のようにこの世を生きなさい。
そのような葉は、あるときは家の中に、あるときはゴミの山に吹きやられる。
木の葉は風の吹くままに飛んで行く・・・ときには良い場所に、ときには悪い場所に。
いまや、神がお前をこの世におおきになったのだ。結構なことだ。ここにいなさい。
また、彼がお前を持ち上げてもっとよい場所に置いてくださったら、今度はどうしたらよいかそのときに考えても十分に間に合うことだ。
神がお前をこの世に置いてくださったのだ。そのことについてお前に何ができるのだ。彼にすべてを任せなさい。
彼の足下に自分をささげなさい。そうすればもう困ることはない。
そうしたら、いっさいのことをなさるのは神だ、とさとるだろう。
すべては『ラーマの思召』にかかっているだ。


よく言われます。柳のようなしなやかさは強風が吹いても折れることもなくしなやかに元に戻ると。
その意味とは、少し違う気がします。
今の自分のあり様、立つ位置、境遇に逆らうなということでしょうか。

これらの境遇も神様の思召ではない場合もある様な気がします。
やはり、自分で考え、選択している様な気がするのです。考える際の注意が必要な気がします。
それでも、間違っていて苦しい状況であっても、神の思召と思い神に任せて、新しい展開を待つのも良いのかもしれませんね。

明日は、ある村に一人の機織りが住んでいた。彼はたいそう敬虔な人だった。
現在では、馬鹿にされることがあるかもしれない程、神の思召を信じてすべてを受け入れた人です。
お楽しみに!