人に別れけるによめる
わかれてふ ことはいろにも あらなくに こころにしみて わびしかるらむ
別れてふ ことは色にも あらなくに 心にしみて わびしかるらむ
人と別れるに際して詠んだ歌
別れというものは、色がついているわけではないのに、どうしてこうも心に染みてわびしい思いがするのでしょうか。
この歌は、古今和歌集(巻第八「離別歌」 第381番)に入集しています。
人に別れけるによめる
わかれてふ ことはいろにも あらなくに こころにしみて わびしかるらむ
別れてふ ことは色にも あらなくに 心にしみて わびしかるらむ
人と別れるに際して詠んだ歌
別れというものは、色がついているわけではないのに、どうしてこうも心に染みてわびしい思いがするのでしょうか。
この歌は、古今和歌集(巻第八「離別歌」 第381番)に入集しています。
陸奥へ下る人によめる
しらくもの やへかさなれる をちにても おもはむひとに こころへだつな
白雲の 八重かさなれる 遠にても 思はむ人に 心へだつな
陸奥へ旅立つ人に詠んた歌
白雲が幾重にも重なるその向こうへと旅立たれても、あなたを思っている私には、どうか距離をおかないでください。
シンプルでストレートに心情を詠んだ、貫之らしい一首と言えましょうか。
この歌は、古今和歌集(巻第八「離別歌」 第380番)に入集しており、そちらでは第二句が「やへにかさなる」とされています。
人のむまのはなむけによめる
をしむから こひしきものを しらくもの たちわかれなば なにここちせむ
惜しむから 恋しきものを 白雲の 立ち別れなば なにここちせむ
旅立つ人への選別として詠ん歌
別れを惜しんでいるときからもうあなたを恋しくなっているのに、実際にあなたが出立してしまったら、どんな気持ちがするのでしょう。
「白雲の」は「立ち」に掛かる枕詞ですね。
この歌は、古今和歌集(巻第八「離別歌」 第371番)に入集しており、そちらでは第四句が「たちなむのちは」とされています。
今日から、貫之集巻第七「別」に入ります。貫之集のご紹介も残り190首ほどとなりました。
天慶六年正月、藤大納言殿の御消息にて、「魚袋をつくろはせんとて賜はせたりける、おそく出でくるに、日近くなりにしかば、大殿にこのよしを聞しめして、『わがむかしより用ずる』と仰せられて、『あへものに今日ばかりつけよ』とて、使して賜はせたりしかば、よろこびかしこまりて、用じて、またの日松の枝につけて奉る。そのよろこびのよし、尚侍殿の御方にをわさしかふに聞こえむと思ふを、しのびてその心書きいでて」とあるに、奉る
ふくかぜに こほりとけたる いけのうをは ちよまでまつの かげにかくれむ
吹く風に 氷とけたる 池の魚は 千代まで松の 陰にかくれむ
天慶六年(943年)正月、藤大納言殿の手紙に「魚袋を修繕に出したら仕上がってくるのが遅れ、魚袋を使うべき日が近づいてきたところ、父君がこのことをお聞きになり、『私が昔からつかっていたものだ』と仰せられ、『似たものを、今日のところはつけよ』と、使いの者に持たせてくださった。私は大変喜んでこれを使い、別の日には松の枝につけて用いた。その御礼として、父君は尚侍殿のところにいらっしゃるであろうと思うので、内々に感謝の気持ちを表したい」とあったので、奉った歌。
春になって吹く風で氷が解けた池の魚は、千代までもほとりの松の陰でお慕いもうしあげておりましょう
「藤大納言」は藤原師輔(ふじわら の もろすけ)、「大殿」はその父忠平のこと。「魚袋」は、地位の高い人が儀式の際に身分を示すために腰に下げた箱で、表に金銀の魚形が付されていたことからこう呼ばれたもの。かっこ(「」)内は師輔の言葉で、一見すると自分自身に敬語を使っているかのようで現代の感覚からすると違和感がありますが、これは師輔に対する貫之の敬意を表すものですね。
貫之集巻第六「賀」はこれでおしまい。明日からは第七「別」の歌のご紹介です。
源公忠朝臣の子に裳着せさせたまふところにてよめる
きみをのみ いはひがてらに ももとせを またぬひとなく またむとぞおもふ
君をのみ いはひがてらに 百年を 待たぬ人なく 待たむとぞ思ふ
源公忠朝臣の子の裳着の祝いの場にて詠んだ歌
あなた様のお祝いをするに際して、どのような人に対しても百年の齢を祈ろうと思います。
源公忠(みなもと の きんただ)は第58代光孝天皇の孫にあたる人物。裳着は男子の元服にあたる、女子の成人を祝う儀式ですね。