あふみより あさたちくれば うねののに たづぞなくなる あけぬこのよは
近江より 朝立ち来れば うねの野に たづぞ鳴くなる 明けぬこの世は
よみ人知らず
近江国から朝早く発って来ると、うねの野で鶴の鳴くのが聞こえる。夜が明けたのだ。
詞書には「近江ぶり」とあります。「近江の曲」ないし「近江風」の意ですね。「うねの野」は現在の滋賀県近江八幡市あたりの野とされます。
あふみより あさたちくれば うねののに たづぞなくなる あけぬこのよは
近江より 朝立ち来れば うねの野に たづぞ鳴くなる 明けぬこの世は
よみ人知らず
近江国から朝早く発って来ると、うねの野で鶴の鳴くのが聞こえる。夜が明けたのだ。
詞書には「近江ぶり」とあります。「近江の曲」ないし「近江風」の意ですね。「うねの野」は現在の滋賀県近江八幡市あたりの野とされます。
しもとゆふ かづらきやまに ふるゆきの まなくときなく おもほゆるかな
しもとゆふ 葛城山に 降る雪の 間なく時なく 思ほゆるかな
よみ人知らず
葛城山に降る雪のように、絶え間なくいつまでもあなたのことが思われるよ。
詞書には「古き大和舞の歌」とあります。「大和舞」は、大嘗祭などの際に奉納される舞。第一句の「しもとゆふ」は、「葛城山」にかかる枕詞ですね。大歌所御歌であることを考えると、「思ほゆる」対象は愛する異性ではなく時の帝でしょうか。
あたらしき としのはじめに かくしこそ ちとせをかねて たのしきをつめ
新しき 年の始めに かくしこそ 千歳をかねて 楽しきを積め
よみ人知らず
新しい年の始めに、このようにして千年もの未来を先取りして、楽しみを積み重ねるのだ。
詞書には「おほなびの歌」とあり、左注には「日本紀には、つかへまつらめよろづよまでに」とあります。詞書は大直日の神を祭る神事の歌の意。「大直日の神」とは、禍を吉に転じる神とのこと。左注は、続日本紀に記載のある、この歌の第四句、第五句です。
今日からは巻第二十「大歌所御歌」のご紹介。「大歌」は宮中の祭事で楽器の演奏に合わせて歌う歌のことで、「大歌所」はそれを担当する役所の名です。ただ、巻の名になってはいますが、1100 まで続く巻第二十の歌にあって、大歌所に伝えられる歌は最初の五首のみです。
いよいよ古今和歌集の最後の巻。どうぞ引き続きおつきあいください。
よをいとひ きのもとごとに たちよりて うつぶしそめの あさのきぬなり
世をいとひ 木のもとごとに 立ち寄りて うつぶし染めの 麻の衣なり
よみ人知らず
世を捨てて木々の元に立ち寄り、うつむく私が身に着けるものは、うつぶし染めの麻の衣なのであるよ。
第四句の「うつぶし」に、「うつぶす(うつむく、下を向く)」と僧衣を染める黒い染料の「うつぶし」を掛けています。後者は漢字で書けば「空五倍子」ですね。
68首を採録した巻第十九「雑躰」はこれで読み切り。明日からはいよいよ最後の巻、巻第二十「大歌所御歌」の歌群のご紹介です。
わびしらに ましらななきそ あしひきの やまのかひある けふにやはあらぬ
わびしらに ましらな鳴きそ あしひきの 山のかひある 今日にやはあらぬ
凡河内躬恒
猿よ、そんなに悲しそうに鳴かないでくれ。山に峡があるように、甲斐がある今日ではないか。
詞書には「法皇、西川におはしましたりける日、『猿、山の峡に叫ぶ』ということを題にて、よませたまうける」とあります。「法皇」は第59代天皇であった宇多法皇のこと。
「わびしら」の「ら」、「ましら」の「ら」はいずれも接尾語で、「ら」の反復で歌にリズムを添えています。「まし」は「猿」の意の歌語ですね。第四句の「かひ」は「峡」と「甲斐(効)」の掛詞。「甲斐」はここでは、法皇の行幸を迎えることができたことを指しています。
今日から10月。ご紹介してきた巻第十九「雑躰」の歌も明日でおしまいです。墨滅歌まで含めて1,111首ある古今和歌集歌のご紹介もあと44首。読み切りの日が近づいてきて、なんだか少し寂しくなってきました。^^;;;