地方の女たち

夜の街で出会った女達と男達

戦争に思う

2024-08-14 10:43:01 | 日記
この8月15日で、終戦後79年が経ちます。
兵士として戦争経験のある日本人は、かなり少なくなりました。

広島・長崎に投下された原爆については、その事実を残す資料や語り継ぐ人たちによって、毎年多くの人々に知らされます。
それはとても大事なことで、二度と戦争をしないと日本人が思うだけでなく、世界の人々にも、同じ思いを持ってもらいたいものです。

しかし、それらは日本が大きな被害を受けた話で、その逆の日本人が加害者の話を語る事は少ない。

私の父親は志願して兵士になりました。
学歴も無いので一番下の階級からです。
満州に二度、フィリピン・台湾・南方の島と、戦地で10年近く戦い続けました。

満州では接近戦を何度も経験したそうです。
頭の横を銃弾がピュインーと通り過ぎる・・・
音が聞こえるのは生きてる証拠と仲間と言い合い前進した時もあったと。

ある時。
山(丘)を占拠するために攻撃を始めたが、あちらこちらにあるトーチカから中国軍の攻撃が激しく、多くの犠牲者が出た。
父親は前線の兵士の弾が切れそうだと予測し、そばにいた兵士に弾を届けるよう命令した。
弾は横に長く繋がった物を天秤棒の様な物に大量にひっかけて、両端を二人で担いで運びます。
山の頂上に向かって段々畑の様な地形で、段になっている所に身を隠し、タイミングを計って次の段の所まで進むのです。
ところが、、、その時は下級兵士が一人しか残っておらず、仕方なく一人でその任務を実行させた。
父は望遠鏡で、その進み具合を見ていたら・・・
兵士が大量の弾を抱えて、次の段に進もうと身体を起こした時に銃撃され、ほぼ即死だった。
2人で行くべき作業を1人でやらせた自分の責任だと思ったのは戦いが終わった後だった。
その時はその場の弾をどう運ぶかの方に・・・
戦地での長い生活は、人の死に対する感覚も違ってくるのだろうか。
それとも、そんな事を考えられないほど、自分の身や他の仲間に危険が迫っていたのだろうか。

その戦いは多くの犠牲者を出したが、なんとか目的の丘は制圧した。
激しく抵抗した中国軍のトーチカの中に入り確認すると。
死体となった中国兵たちは、足を鎖で繋がれて、その場から逃げる事が出来ない状態だった。
多くの銃撃戦の場合は劣勢になると逃げる。
でも、その時の中国兵たちはそれを許されない兵士たちだったようです。


満州での日本兵たちです。中央の兵士が何かに向かって銃を撃っています。
他の兵士を見ると緊張感は無く、敵がこちらに向かって攻撃している状態ではない様子です。見えない場所に敵が隠れていないかの確認だろうか・・


昭和13年3月10日
中国のロシアとの国境付近には多くのロシア人も住んでいた。
その家を強制的に取り上げ、自分たちの兵舎にしたり。

昭和16年(1941)にアメリカ相手に戦争を始めるまで、日本軍は負け知らずで、苦戦をした戦争も有ったが、最終的に勝利を収めたいた。

私の父は2度にわたり満州に従軍し、中国軍との戦いや、ロシアとの国境警備を任務としていた。
ある時、突然に帰国命令が有り大阪まで帰ってきました。

少しの休暇が与えられ、その時に母と兄(2才前)は父の妹に連れられ、大阪まで父に会いに行った。
たまたま父の妹の知り合いが大阪に居て、その家を旅館代わりに貸してもらったらしい。
その時の写真が
昭和16年7月とあります。この年の12月に真珠湾攻撃があり、太平洋戦争が始まった。
つまり父親は知らされてはいなかったが、この時点でアメリカと戦う計画のもとに兵を移動させたのです。
兵士たちに生死をかけた戦いの前に家族と会う時間を与えられていたのでしょう。

数日後に行き先を知らされないまま、九州から船に乗って出発です。
最初に着いた所は台湾沖で、その場で上陸作戦の訓練を何度もした。
その後は行き先の解らないまま船の旅。
ある時に船が止まり、、、、そこがフィリピン沖だと知らされる。
「ああ、フィリピンに上陸するんだ・・」と
そこにはアメリカ軍とフィリピン軍で20万人近い兵が存在する。
激しい戦いになるだろう・・・と

暫くして真珠湾攻撃が大成功と船の中で知る。
しかし、直ぐには上陸せず。航空軍が敵の飛行場などを攻撃するのから始まった。
日本軍が近くまで来ている事を知らなかったのか、飛行機による攻撃は大成功。
そのお陰で父親たちの上陸隊は激しい戦いは少ししかなくフィリピンを制圧した。兵士は敵の半分もいないのに、その期間はたったの半年ほどだった。

父親たちは残されたアメ車に乗り、兵舎と繁華街を行き来する日々だった。
日本兵が大量に押しかけ、そこには商魂たくましい日本人・中国人・フィリピン人が酒や食べ物の店を開くようになった。
アメリカは予測していなかったのか、反撃には距離が有り過ぎたのか、
かなりの期間は楽園だった(父談)

父が90才を超えた頃に「もし日本が勝っていたらフィリピンに住んだだろう」と言っていました。 余程、フィリピンの生活が楽しかったのか(笑)
だとすれば、、、、私はフィリピン人だったかも。

しかし、そんな楽しい時間を長くは与えてくれず、フィリピンから南方の島に向かって出発です。
かなり長時間の船旅の後、何と言う島か解らない島に上陸した。
現地人は隠れながら日本兵が何をするのか見守っているだけだった。

父たちは近いうちに有るだろうアメリカ軍との戦いに備え、土地に穴を掘り弾薬や食料を保管したり、簡単な兵舎を作ったり。
そこでは満州の時の様な戦いは、まだ始まっていなかった。

その時の日本軍は台湾やフィリピンを基地として、大陸沿いにシンガポールに向かう兵と、父親たちが行ったニューギニアから少し東の島々に向かう隊で、その付近の全ての制圧に乗り出した。
アメリカが日本を攻撃するには、何処か日本に近い島を基地にしなければ攻撃できないので、アメリカ軍にその基地を与えない作戦です。
そのアメリカ軍の動きの予測は正解だったが・・・
島をめぐる戦いは全て負けで、多くの犠牲者を出す事に。
全滅した島も多かったが、何故か父親は助かった。

それは・・・・マラリアなんです。
アメリカの激しい攻撃が始まる前に、偶然マラリアにかかりフィリピンまで引き上げる事になり、船の中でさっきまで居た島が全滅になった事を知ったりすることも有った。
父親がマラリアに罹っていなければ、私は生まれていなかったでしょうね。

遠い南方の島から日本への船旅は長い。途中で何度も知らない所に寄港しては出航の繰り返し。やっと台湾の南に着き、陸路で北の端まで行きそこから日本に向かった。

その頃にはアメリカ軍の飛行機が時々飛んで来るようになっていたが、本格的な攻撃ではなく偵察が目的の様だった。
今の尖閣諸島から沖縄付近でも米軍の飛行機からの銃撃は受けた。
しかし、そんなに簡単に当たるものじゃないと恐怖はさほど感じなかった。
やはり戦場で生き残っている兵士の「慣れの感覚」なのでしょうか。
それよりも、今にも沈みそうなボロ船の方が怖かったらしい。
移動は飛行機からの攻撃を避けるために、雲の多い天気の悪い時にするので、小さな船は大揺れです。

日本に到着したのは終戦の年の昭和20年に入った頃。
上官の推薦により中尉に昇進するかも・・と期待すると同時に、次の出兵の準備をしている時に新型爆弾が広島に落ちたと・・・終戦です。

敗戦直後は米軍に逮捕されると言う話が流れ、家族を連れて知人を頼って田舎の借家でひっそりと暮らした時期もあったそうです。

父親から戦争の話を聞いたり写真を見て・・・
満州での戦いと写真は多いのですが、太平洋戦争が始まってからの写真は一枚も有りません。
そして、、、最後まで親父の口から出ることは無かった殺人の話。
写真など残された親父の資料から、殺人・虐待はほぼ確実に有ったと思われます。

仮に1000人の捕虜を拘束しても、管理する兵も建物も無い。
捕虜に食べさす余分の食料など有るはずも無い。
だからと言って自由にすると武器を持って殺しに来る。
そんな状況に自国の兵士を追い込んだ人たちの責任です。

昭和20年8月15日で戦争は終わったと思っている日本人は多い。
しかし現実は世界の何処かで戦争は続き、一度たりとも地球上で戦争がゼロになった期間は無い。
現在でもプーチンの様に殺し屋軍団を他国に送り込み、大量に殺人をやらせているのに「一国の大統領」として、ゆるぎない地位と豊かな生活を続けている現実を私たちは見せられている。
何とも言えない悔しい思いです


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