地方の女たち

夜の街で出会った女達と男達

戦死者に対して・・

2015-04-10 00:03:03 | 最近のニュースから
ここ数日は天皇皇后両陛下がパラオに行ったニュースが中心でした。

戦争というのは絶対にあってはならない事なんですが、現実には有るかも知れないんだと言う意識は必要でしょうね。

同じ日本人同士でも価値観は大きく違うのですから、外国人ともなれば違って当然です。
価値観が違えば、たった二人の問題でも必ず問題が発生してトラブルになります。

私の父親は志願して兵士になり、終戦まで陸軍に所属していました。

当初は中国(満州)北部に行き、太平洋戦争が始まる少し前に呼び戻されて、フィリピンでの戦い、そして南方の島々に・・。

結果的に勝ち戦ばかりで、劣勢の戦いは日本に帰国する直前の一年足らでした。
熱病に罹り帰国する事になったのですが、その事(病気)が命を救った事になります。

両陛下が訪れたパラオでは殆ど全員が戦死した※生き残りは一万人余りの兵隊で数十人。
父の話だと、南方の島々の兵士は殆どの島で全員戦死と言ってました。

アメリカとの開戦直後にフィリピン(アメリカ統治)を攻撃して占領し、その後に南方の島に・・・
父が行ったのはパラオよりまだ東でニューギニアの東南にある小さな島でした。

まだ基地などはなく、島に上陸と共に設営作業の毎日で、戦いはなかったそうです。
現地人は武器を持った兵士を木の陰から覗いているだけで、何の抵抗も出来ない状態だったそうです。

そこで、熱病に罹り一旦は台湾に引き返す事になったのですが、何分に昔の事で、時間がかかる。
その移動の間に敵機に攻撃を受けた時は死を覚悟したそうです。
もっと危険で激しい戦いを経験している父親でも、自分が攻撃していない時は不安ばかりになったそうです。

なんとか台湾に着き病院に行った頃にニュースが飛び込んできた。
それは父親がいてた島が全滅したと言うニュースでした。
仲間や部下は全員戦死、遺体も収容できない状態です。
ですから、父親が病気にならなければ私はこの世にいてません。

その時にやっと、、、、「負けるかもしれない」と思ったそうです。

今振り返ると、その時はすでに昭和19年の末から昭和20年の正月頃なので、現実には至る所で敗走する状態だったはず。
本土の国民だけじゃなくて、戦っている兵士も、日本軍の戦況は知らされていなかったし、知る方法もなかったのでしょう。

私は父が年のいった時の末っ子なので、父親の膝の上で戦争の話をよく聞かされました。
勇猛果敢な話しばかりでした、しかし、私が大人になり父も老人になった頃には本当の話を聞かされるようになった。

そこには悲惨な話ばかり、殆どが勝ち戦だった父親の時代でも敵(中国・米国)だけじゃなくて日本兵も悲惨です。

父は戦闘中に自分の部下を間違った判断で死なせてしまった事があると、、、父が亡くなる一年ほど前に聞かされた。
つまり、その事があって60数年の間は一人で心の中にしまっていた事になる。

その話をしていた時の老人(父親)の目には涙が溢れ、戦後に遺族に会いに行けなかった自分に対して情けないと悔いていた。

その時に私は気が付いた事が・・・
昭和の終わり頃に、戦争経験者が戦地での残忍な行為を、反省を込めてマスコミに喋る様になっていた。
その様子をテレビで見て、父親は激しく批判していた。
「戦争中の話は、、、、殺し合いの話なんぞ。今の時代に考えれば正しい事なんか何も無い。戦友を傷つけまいと黙ったまま死んで行った仲間を裏切る行為だ。言ってしまって自分が楽になってるだけだ。」

激しい怒りを見せていたのは自分の事もあったのでしょう。

戦争・・イコール、殺し合い。。。。確かに現地で戦っている人達は今も昔も同じ思いかも知れません。