3266 25歳のころ、組合長をしていた、そして、三交代勤務を卒業し、日勤になっていた。入社して直ぐ三交代勤務になったとき、車の免許を取った。たまたま、IHIに就職していた大学の卓球部の先輩が、アメリカ勤務になるということで、車を使わなくなるから、免許証を取ったばかりの私にはちょうどいいといって、ルノーのポンコツを貸してくれた。二年間借りた。
その車で、箱根越えで横浜へ頻繁に通った。結婚の半年ほど前からだった。浦島町の下宿まで、箱根新道、小田原バイパス、第二京浜などを通って横浜に、また、東名で新横浜から南下して横浜に入った。所要時間2時間、到着が19時過ぎ、2~4時間ほど、一緒にいて、帰路に就く、会社の寮に到着は、23~1時だった。この頃から、今、日本でも、インドネシアでも長距離運転は苦になっていない。横浜の山下公園とか、その辺りが主にぶらつく場所だった。
1970年2月に結婚し、長泉の中土狩の借家に住みこんだが、しばらく、横浜の学校に妻は通勤していて、お腹が大きくなっていた夏に、静岡の教員試験を受け採用になり、裾野の小学校に通うようになった、その間に、子供が生まれた。最初から、近所の家や会社の近所の家に頼み込んで子供を預けた。当時、スーパーマーケットが営業するようになっていたが、夫婦で買い物にきて、一週間分の買いだめをする姿は、他に見かけることはなかった。典型的な共稼ぎの走りだったと思う。一週間分、4000円平均だった。
そして、社宅に移ったが、一年住んだだけで、長泉下長窪の分譲住宅地に自前の土地と一軒家を買って移った。妻は、長泉小に移っていた、子供は、近くの保育園に3歳から入った。子供の送り迎えは交代だった。仕事が遅くなり、自分の日だったのを忘れていて、気が付いたときにすぐ迎えに行ったが、7時過ぎ、暗い中、玄関の前の階段で保母さんと並んで座って、迎えを待っていたこともあった。とにかく、HPがない時代だ。何の時でも、遅れる場合に連絡が難しかった。
車は、パブリカ、千ドルカーと言われた。36万円だった。土地の価格が急騰し始めた時代だった。無一文から結婚生活がスタートしたが、二人でためたお金で、頭金を払えるようになったので、社宅から一早く出ることができた。その時、間もなく、会社を辞めることになる可能性があるとも感じていたからだった。それに、会社を辞めても、ローンを払い続けることができる自信はあった。その後も、妻ではなく、私が払った。
この七年間、まず、独身寮に入り、結婚して、中土狩へ、次いで、会社に隣接の社宅に世話になり、下長窪に自前の家を手にいれて移った。ここで、TPSの社員ではなくなった。知恵の勝負でもあったが、何より、体力勝負の世界だということを感じた。
太田化工の来年のカレンダー、この月捲りのタイプ、創業の54年前に私が採用したものです。待ってくれている会社や人が大勢いる。私も毎年欠かさず3本もらってくる。
用宗駅から500mほど東の踏切からの富士山。
結婚 転居 共稼ぎ
Aktris Jepang Aoi Miyazaki baru saja menikah dengan seorang anggota boyband V6, Junichi Okada, tulis keterangan agensi Johnny & Associates pada 24 Desember.インドネシアでこんなことが報道されている。