南の島の土着民風自由人

自分の生活、計画し実行してきましたが、病気や人間関係など思いがけない障害に遭遇しました。

(^_-)-☆恩人の死

2013-12-05 22:33:06 | 思うこと

 1784 悲しい!!大ショック、こんなショッキングなことは、ほとんど経験がない。インドネシアにいて、突然の日本からの訃報を聞いて、涙を流したのは三回目でした。

私の恩人の一方がお亡くなりになった。北川工業の会長、北川弘二さま。涙が止まらない。思い出は山ほどある。45年間の思い出が蘇る。昨年の暮れ、稲沢仮本社にお尋ねした時には、私が約束の13時に着いた、その時、既に、応接室で待っておられた。そして、私の仕事の話を熱心に聞いていただき、「技術者はいいな、組織など無くても、技術一本で人の手伝いができるからな」と、私を励ましてくれていた。「太田君、太田君」とその時も何度も言っていた。12年12月12日でした。北川ゴム工業の社長が39歳、私は26歳の頃、東洋プラスチック精工、柿田工場の第一応接室が初対面だったで、その時以来、ずっと、「太田君」のままだった。

 

http://blogs.yahoo.co.jp/enplaind/MYBLOG/yblog.html?m=lc&p=72その日の翌日のブログです。

 

http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/newpage0201.htmlエッジング、グメットを日本で初めて製品化し、商品化した事実を、私と北川会長しか証言できなくなってしまっていたが、とうとう、私一人になってしまった。日本の6ナイロンの小型異形品の溶融押出成形の幕開けでした。

 

毎年、平均で3回ほどお会いしていたと思う。とにかく、じっとしていな方でしたから、そう多くはお会いできない。それでも、本社を訪問する時には、他の方に会うために出かけて行って、訪問した目的に関しては担当者と2~30分で終わってから、おられれば、必ず、会っていただいた。どうも、私に、何かと、愚痴を言い安かったらしい。まだいいだろ、と言いながらいつも二時間以上私を離さなかった。その中で、一番覚えているのは、秘書として働いていた女性が亡くなってしまった時でした。少し涙ぐみながら、彼女との思い出を淡々と話をしていた。お母さんと二人暮らし、家のトイレの中で心不全になって、発見が遅れ、帰らぬ人になってしまったという。社長がどうにかなるものではないが、本当に信頼していた女性だったことが良くわかる。

 

インドネシアでの仕事も私が東南アジアの国に技術を伝えたいと常に話していたことから、私も一緒に行ってみないかと、誘われて行ったのが始まりでした。PT.KITADAWAを離れた時も、パニック障害になった時も、これからどうするんだと、心配してくれた。その後、お世話になることは無かったが、PT.KITAGAWAがインドネシアから撤退する際、私が作り上げた押出し部門の引受先を紹介し、移転の手伝いをした。そして、その時、私の技術を引き継いだインドネシア人スタッフは、今、PT,NANBUで、インドネシアのエンプラ押出の牽引をしている。北川社長が機会を与えてくれたのでした。そして、PT.KITAGAWAの最後の社長が営業畑の人として送られてきたが、どうにもならなくて、撤退することになり、その引受先としてNANBUを紹介し、仲介したのも私でした。そこは、今、PT.NANBUの第二工場になっている。偶に、前を通った時、寄ることもある

 

利益の配分というか、社会へ還元するということは、常に言っていた。多くの人に、いわゆるパトロン役をしていた。演奏会とか絵画展とか、ノーベル賞受賞者の講演などに私自身もよく出かけていた。それにも、私は影響を受けて、バブルで貯めたお金を、色々な人の援助として使ったし、技術指導の為の装置や機械を購入して多くの若者が実習しやすい環境をつくった。今もそれは継続している。そろそろ終わりだが。

 

ゆっくりお休みください。合掌。

社会貢献 影響 恩人

 

ジャカルタ周回有料道路の料金が上がったようですね、普通車は7000から8000Rp

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