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南の島の土着民風自由人

自分の生活、計画し実行してきましたが、病気や人間関係など思いがけない障害に遭遇しました。

(^_-)-☆妻の誕生日

2012-10-17 22:16:56 | 体験

 1371 11月始めの私の誕生日まで、束の間の同じ年である。現役を引いて久しいが、ボランティアで色々な役目をしていて、忙しい生活をしているようだ。私が日本にいると、余計な仕事が増えるので、いない方がいいらしい。銀行から自動で支払うことができる家の全ての費用は私の預金から払われているのだから、いなくても、文句は言わない。必要な時だけ帰ってきてほしいらしい。12月初めに帰国予定だが、その時は、私がいなければならない行事があるからだ。電話をする。

 

 長距離運転旅の要領 1 私は疲れることは無い。給油やトイレで止めるだけで、何時間でも運転し続けることができる。といっても、8時間ぐらいか。それも、水を飲みながら、何かを摘まみながら、ちょっとした風景に当たれば写真を撮りながら、偶に車から降りて通り過ぎた風景を撮ることもある。あまり、運転をしているということを考えないし、意識をしていない。視線を何かに集中することは無い。ただし、分岐点に差し掛かった時だけ、緑の板に白文字の道案内板を探す。木陰に隠れているので、在れば、一時停止して看板を読む。

 2 現在、インドネシアで至る所にポンパ ベンシン (ガソリン スタンド)はある。山の中でも、一般の車が走ることができる道なら、5Km以内に右か左に必ずある。目立つので、決して見逃すことはい。マスジッド(イスラムのお祈り場)とトイレは併設されているので、給油をしなくても寄る人は多い。コンビニもそこにはある。ネットへ接続もできる。

 3 ジャワ島なら全島、大きな町にはバイパスのような町の中へ入らなくても通過できる道がある。看板で“コタ何々”と書いてある方向へは行かないで、その町を通り過ぎた町の名前が書いてある方向へ進む。コタは町中という意味でもある。バイパスが無い町では、メイン道路は片側二車線になっているので、中央寄りでなく道端側を走る。アンコッタが邪魔だが、大型トラックは中央寄りを走るので、その方が見通しが効くし、早く通り過ぎることができる。どこかで書いたが、高速道路はバストラックは左側の車線を走ることを義務付けられているが、一般道は中央寄り(日本では追い越し車線)を走ることになっているらしい、左車線が追い越し車線になっている。

 4 眠気が来るのは自分のコンディションに依る。夜中に走ることもある。臭い物(例えば、自分が履いていたソックス)の匂いを嗅げば眠気がすっ飛ぶということは分かっているが、そんなことはしないで、ボトルの水を顔に掛ければ眠気が吹っ飛ぶ。

 5 こちらの人は算数の計算はできないが、地図を見たことが無い。地理の教科書にインドネシアや世界地図があるのにである。私はその教科書地図をもっていてそれを見て土地の名前を確認している。道を聞くときに地図を見せて、今、この地図のどこですかと,尋ねて、ここです、と、指さして答えることができる人はいない。だから、地図を見せるのは無駄。行きたい場所をいうだけである。70%位は信用できるが、間違って、というより、適当なことをいう人も多いので、変だと思ったら、まめに聞くこと、町中なら、オジェックやベチャのトカン(運転手)に聞く。

 5 メイン道路のどこにでもホテル、ホームステイ、プンギナパン、ロシメンの看板はある。休みたくなったら、泊まる場所を見つけるのに困ることは無い。日本人向きかどうか、私はどうでもいい。

 6 パンクをする確率は日本より遥かに高いと思う。しかし、道端にはタンバルバンと書いた看板が、頻繁に出てくる。コンプレッサーが店の前に置いてある。釘が刺さっているくらいなら10分で直る。一万Rpで充分。

 7 山に入ると、道の様子はジェットコースターのようになる。坂の角度は半端ではない。立ち往生しているトラックはあるし、登ってはいるが、今にも止まりそうな車もある。登り切った先の道がどうなっているか分からない道も多い。追い越しを掛けなければどうにもならない。追い越しは簡単である。躊躇しないことです。前から車が来ても途中で止めないことです。絶対、前方の車は減速か停止をします。そう信じます。何百回、それ以上でしょう、追い越しを掛けたが事故になったことは無い。 

 

隅を走って自然に内側へ寄る、再前方は二車線になっている。

 

 大外を回って右折する。

 疲労 眠気 給油

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(^_-)-☆私の運転術

2012-10-16 17:59:48 | 体験

 1370 ジョコ ウィドド(ジョコウィ)、バスキ氏コンビのジャカルタ州知事と副知事が就任した。お祭り騒ぎ、人気先行のモテモテの雰囲気だが、どうでしょうか,問題山積のジャカルタ、全てのことに関して、今より悪化させない現状維持も難しいでしょう。

それにしても、就任式の制服?が軍服?なのは何故でしょうか。違和感を覚える。

 

 心得ていること、1 バイクも車も、右からでも左からでも、交差点でなくても、出てきたら、一旦停止はしないで、必ず、私の車線に入ってくる。赤信号でも左折はOKという交差点がほとんどである。

2 右側で駐車している車は後方確認しないで。ウインカーも点滅させず、取りあえず突然発進する。

3 バイクも車も方向指示器は信用できない。例として、右折するために右のランプを点滅させる、それはいいが、左へ寄るのです。そして、後続車を中央車線側からやり過ごしてから、やおら、右折するのです。中央寄りで対向車を待つ、日本的な車と半々ぐらいです。消し忘れ、点け忘れ、どうでもいい、いい加減、とにかく、信用しない。

4 二車線以上の道では、割り込めるほどの車間が無くても、割り込んでくる車は当たり前に在る。

5 右折車線、左折車線、直線車線という考えはほとんどない。三車線の交差点で、中央車線から右折する車も在れば左折する車もある、右折車線から直進する車もある。 空いている車線は必ず空いたままにしておかない、必ず、後続車は空いている車線に入ってきて空きを無くす。路肩も含めて、一車線や二車線増えることも当たり前である。遠慮しているとクラクションを鳴らされる。

 

 運転術 1 常に冷静に、割り込まれても、クラクションを鳴らされても、無感情でいること。

2 渋滞の車線に進入する方法、アンコッタが来たらチャンス、左に寄ろうとしながらゆっくり走っているので、窓を開けて制止すればなおゆっくり走ってくれる。バイクが集団で来た時も同じ、車線変更のチャンスでもある。

3 右折でも左折でもUターンでも二車線以上の時には、一番外回りをする。回り終わった時には一車線になる場合が多いので、内側からの車を抑え込むように速く回れる。

4 渋滞になったら、左端車線か路肩に移動する。渋滞の時の路肩走行は捕まらない。確率の話だが、中央寄りよりは速く渋滞を抜けることができる。5 料金所に沢山ゲートあって、前で渋滞している時には、直進ゲートより、遠い隅の方が、行列が短いので、端に寄る。

5 枝の道からメインの道に出て右折する時、右から来る車を止めて右折させる人が必ずといっていいほどいる。信号の役目をしている。1000~2000Rp渡す。しかし、車線を渡って右折しなくても左側に侵入して暫く行ったところにUターン場所が在れば、そちらを選ぶ。その方が安全だと思うし、速いし、お金をいちいち準備しなくていい。ガソリン代はほとんど変わらない。

6 例えば5車線になっていて、前方で2車線になる時のように、扇の要に集まるような道では真ん中にいないで端の車線から斜めに真ん中へ寄って行く、直進より割り込みの方が強いからです。チカランバラットの出口が典型的、右端の列に着いて、前の車に離れず、着いて行けばいいのです。それに、端にいれば片側だけ注意すればいい、中にいれば両側を見なければならない。

 

 ディエンのヒンドゥ遺跡、チャンディ アルジュナの現在と数年前。どこか違います。

 コツ 空き 斜め

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(^_-)-☆資金でも手伝い

2012-09-18 16:05:59 | 体験

 1342 お金を渡すだけではだめだ。行動とお金はセットでなければならない。

この前の話の続きはどうなった?と友人から聞かれる。身近にある話なので、皆さん、興味があるようだ。

私が払ったお金は、領収書と交換で受け取った。その後はどちらからも連絡が無いという。どうなることやら、私からは離れた話です。

“四カ月じゃ、薬だけじゃだめでしょ、手術しなけりゃだめでしょ、4ジュタ(3万5千円)くらいかかるでしょ”と、言ってくれた人もいる。私に言ってくれても仕方が無いが、“そうだよね、もっと早く、私に相談してくれたら、どこの薬屋でも、二三カ月なら、簡単に降ろせる薬を売っていて、30万Rpで充分だよ、誰でも買えるから、私も二回、買って。女性に渡したことがある”などという会話もした。

 

女性から、金の無心の理由として、妊娠したから降ろしたい、というのは普通にある。日本人は、そう言われると、自分かもしれないと心当たりがあるので、簡単に2~3ジュタを渡してしまう。妊娠がほんとかどうかも確かめずに、である。今時のその道の仕事をしている連中は、避妊の指導を受けていて、薬なので防護しているのが当たり前、だから、そう簡単には妊娠をしないはず。だから、先ず、本当かどうか疑わなければならない。女性の方はだめもとで、何人かの男性にそう言っているはずです。貴方だけ一人ということは絶対ない。彼女に限って、そんなことは無いなどと思うのは、現実離れをした思い込みです。だから、降ろす薬を現物支給してやればいいのです。できれば彼女と一緒にいって、テストをさせたらいいのです。現金を気前よく渡して、これで薬を買いなさいなどと、渡したら、思うつぼでしょうね。

 

家族や本人が何らかの病気にかかって、お金をほしいと言われた時は、手伝ってあげたいと思ったら、自分が着いて行って、支払いをしてやるのが一番の方法だが、それはなかなかできないでしょうから、“他の人にお金を借りて支払って、病院名や病名がはっきりしている、その請求書や領収書を持ってきたら、借りた人に、払いましょう”と言ってやりましょう。

 

 だから、私は、身の回りの人から頼まれれば、本当に困っているなら、どんな病院へでも一緒に行ってやって支払いをしてあげます。妊娠がどうのこうのというのは、ほんの二回目にしか過ぎない。当たり前だが、他の病気で医者へいっしょに行ってやったことの方がはるかに多い。それは、従業員であったり、近所の家の子供であったり、以前私と同居していてパニック障害の時に大活躍をしてくれた女性であったり、学費の援助をしてあげていた学生であったり、いちいち思い出せないほどの援助をした。これからも、係り合いがある人で病院の費用を払えない人から頼まれれば、病院へ行って払ってやるでしょう。

 

 また、資金は仕事をし、節約生活をして生み出しているのだから、援助は行き先が私の希望通りだということがはっきりしていなければならない。また、自分なりに効果が認めれるものでなければ意味が無いと思っている。どこへ行って、何に使うのか分からないようなものはお断りしている。だから、税金はできるだけ払いたくない。

 

 医療費は保険が効かない状態で全額払っても、日本で国保の30%負担と同じくらいの価格です。インドネシアの医療費は日本の30%ということです。歯医者は別です。歯医者にかかって治療費は手伝いません。

 

 先ほど、インドネシアの家に一時帰国をしている、静岡大学の大学院生Ya君、来年春卒業で、インドネシアの外務省勤務希望です、と静岡国際ことば学院を13年前に卒業後、静岡産業大学を9年前に卒業し、太田化工でアルバイトをしていて、インドネシアでは私の技術の一番の後継者(エンプラ押出成型でインドネシアではNO1)になっているWi君が一緒に私を訪ねてきた。二人とも過去に6年間以上日本での学費や生活費の手伝いをした人です。立派に自立していてうれしい。彼らは今、それぞれに、後輩の面倒を見ている。これは、ほんの一例に過ぎない。

 Kambojaの木と花です。

クローバーが見つからない、一見似ているが、全然違う。

 

 現金支給 現物支給 直接支払

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(^_-)-☆元旦のよう

2012-08-20 22:07:12 | 体験

 1313 Selamat Hari Raya Idul Fitri 1433Hスラマッ ハリ ラヤ イドゥル フィトゥリ サトゥ ウンパッ ティガ ティガ ハー

Mohon Maaf Lahir dan Bathinモハン マアフ ラヒル ダン バティン(イスラムの1433年の新年おめでとう、御免なさい、心身ともに)直訳すれば、こうですが、どうもピンとこない。イスラム教では、御免なさいと言うだけで許される、と、言うことになっているらしい。故郷へ帰って、両親に涙を流しながら、御免なさいと言えば、全部、水に流れてしまう、ということになっているらしい。だから、決まり文句のように“心身ともにごめんなさい”と、この時期、インドネシア中、どこからでも聞こえてきます。

 聞こえてくると言えば、お祈りだと思うが、私にとっては、意味不明の声が、ひっきりなしに聞こえてきていた。夜はその声の他に、花火を上げる音、これは、かなりうるさい。日本なら、どちらも、迷惑なことで、苦情が殺到するでしょう、と、思うほどうるさい。

 

 ゴルフ場も休みなので、家にいるしかなかった。一つ、良いことがある。水道からの水の出が、多くなったこと。この分譲住宅地の人口がかなり減った証拠です。水の使用量がかなり減ったことを表している。おかげで、普段は夜中の10時ころから明け方は4時ころまでしか、シャワーを使えなかったが、18日から、いつでも、使えるようになっている。

 昨日、インドネシアはまだ、自立していないと思う、と書いたが、それはそれとして、インドネシアにはバンク マンディリBank Mandiriという銀行がある。“自立銀行”です。ジャカルタ、JLタムリンにその銀行の本店がある。

 そのビルの上に、独立万歳、と、イスラム正月を祝う文字が並んでいた。その上の方に、マンディリと書いてある。意味がありそうな、風景だと思う。

 

元旦 祈り 謝罪

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(^_-)-☆いじめ

2012-07-20 22:04:56 | 体験

 1282 インドネシアでの新しい仕事を依頼された。金型のデザインが複雑な仕事で、やはり、誰もが簡単に引き受けると言うことができない製品です。私が指導したインドネシアの三社の日本人ではできません。その本社でもできません。インドネシア人に作らせることもできません。前に書いたが、それらの会社ができないものだけを手掛ける、その対象製品ですから、私が引き受けるしかありません。

 それでは、今どこで作っているのでしょうか、日本のある小企業で作っているのです。その会社は、特殊なものとしてはそれしか作っていないのです。しかし、日本ではその用途として、似たような他のデザインの物でもいいし、ほかのデザインなら、多くの押出成型の会社で作っているのです。私に依頼してきた会社が、インドネシアで、日本で一社しか作っていないデザインの製品をどうしても必要と拘っているのです。その一社はインドネシアへ進出は全く考えていない、その仕事のためだけで進出するわけにいかないこともわかる。9月から金型の製作にかかる。面白くなってきたぞ。インドネシアではこれから伸びる分野の仕事です。

パサール パンガンダランの様子。インドネシアには全ての街にこういうパサールがある。こういう場所で売られて、人気が出れば、企業は成功したと言える。

 

今 日本で学校のいじめが問題になっている。裁判も開かれているようだ。何十年も前から繰り返されている問題でしょ。何故、同じような、苛められによる自殺が絶えないのでしょうか。

 今も同じようないじめは全国あちこちの学校で行われていることは充分想定される。今回の大津の事件(あえて事件と言う)は表面に出た、ほんの一部に過ぎない。自殺でなくても、登校拒否や転校などは明らかに家庭に問題があるのではなく、学校で問題があるのです。先生(今や先生と言う言い方は頼りない人の代名詞に感じる)は、苛めの実態を明るみに出さなければならない。必ずいじめはある、無いなどと思う人は自己防衛に走るろくでなしの人物で、そんな人が、先生になっている資格は無い。先生と言うのは正義感に燃えていなければならない。教頭も校長も教育委員会のメンバーもより以上に正義感に燃えた人間でなければならないはずだ。

 しかし、そういう人たちが正義感は貧弱で、責任転嫁のことばかり考えているのだから。世も末である。そういう人種が教育界を牛耳っているのだから、今回の例は“氷山の一角”で、アンケートを実施すればかなりの数のいじめや疑わしいもが出てくるはずである。“他山の石“”人の振り見て我が振りなおせ“”火の無いところに煙は立たない“”同じ穴のむじな“同じようなことがごろごろ出てくるはずである。

 

じゃれ合っていただけ?ふざけんな!!親はどんな顔をしてるんだ!彼らは一生、まともな生活ができないでしょう。高校では苛めの対象になる可能性もある。多分、高校へはまともに行けないでしょうが、まともな仕事にも就けないでしょう。

そして、こういう子どもは、同級会や同窓会に出てこない。出て来れないのです。顔向けできないのです。当然です。

 

 日本には苛めの世界が子供から大人まであらゆる世代、学校はもちろん、職場、ご近所とか、あらゆる単位集団で存在する。そして、自殺も多い。私は子供のころ、苛める人間との戦いでした。私がいじめられたわけではないが、苛められている子の味方をしていた。苛める奴と戦っていた。高校、大学、初めての就職場所では、苛めが発生するような一般的な場所ではなかったので、まったく、かかわることは無かった、自分で会社を経営している時にも、苛めが発生する一般的なレベルではなかった。

 50歳も半ばから、インドネシアへ来て、一般的レベルの会社に御世話になることになって、なんと、私が苛めの対象にされてしまった。自分では、私より総合的に相当レベルが低いと思っている、私より10歳以上年下の現地の責任者から、全く、見当違いな言いがかりで、ガンガンやられた。その年になって初めて、苛められるということはこういうことかと実感させていた。我慢をしてとうとう、パニック障害になってしまった。この人たち数人は今どういう状態でいるのでしょうか、知りたいとも思わないが、多分、その当時のそれぞれのでたらめ状態を気にしていることでしょう。気の毒な人達でした。

 

 貴方達が邪魔者扱いにし、散々いじめた人物は元気に動き回っていますよ。当然です。子供のころからの知識の蓄積、経験、実績、衰えない行動力、自分で言うのもなんですが、私を苛めたって、自分がみじめになるだけだと思う。どうでしたか、苛めて何か、利益がありましたか、気分が良かったですか、自分のためになりましたか、他の人や社会に何か貢献できたと思いますか。現在いじめをしている人、二三年後の貴方の状況を想定してみてください。

 

 子供のころ、苛められた人は、自殺なんかしてはだめです。苛めた人を見返してやりましょう。それは、そんなに難しいことではありません。何事もなかったように、普通に自分のペースで生活していればいいのです。自然に、必ず、苛めた人たちより、社会的に認められた生活をするはずです。それが、できるはずです。

 

 見返す 嫉妬 顔向け

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(^_-)-☆予想外れ

2012-07-07 22:17:34 | 体験

  1269 家に戻ったのは12;30を回っていた。

 05:00にはまたゴルフ場へ出かける。

 昨日、開いていなかった蕾が今日は開いていると読んで、昼過ぎからジャングルへ入った。見事に読みが外れた。咲いている予定の五つとも蕾のままだった。残念。しかし、その代わりと言うわけではないが、今まで匂っていなかった場所で匂いに気付き、探してみたら、一つ新しい花を見つけた。また、一週間にないくらいに開花しそうな蕾を五つ見つけた。少しだけ、ほっとした。さてそれでは、今日咲くはずだった蕾はいつ咲くのでしょうか。当然、明日、遅くても日曜の朝までには100%咲くはずだ。ぜひとも、咲いているところを見たいものだ。

 

 ところで、今回、気が付いたことがある。パンガンダランのラフレシア パトゥマと言われている花は、大きく分けて二種類ある。色が明らかの違う二種類です。一種類は、ピンクとオレンジの中間くらいだが、かなり、白みがかっている。もう一種類は、オレンジに茶色が混ざっている濃い目の色をしている。花弁のぶつぶつが比較的小さいので目立たない。カールの速さも前者の方が早い。今回で会った中では後者の方が多かった。

 

 今日は残念ながら。新たに発見したのは一つだけですが、きっと、明日は新たに五つ以上に会うことができることでしょう。やはり素晴らしいことです。蕾はあちこちのごろごろ在ります。目にはいるのは直径が5cmくらいからです。黒みがかったこげ茶色をしている。その皮は0,1mmくらいか、艶があって、きらきらしている。一個見つけると、その傍に沢山の蕾を見つけることができる。だから咲く場所はほぼ決まっているのです。以前咲いた場所に近くには蕾が必ずあります。直径が10cm以上になったころから、こげ茶色の皮がはがれ始め、その後も肌色、ピンク、オレンジが混じったような色をした花弁の下側になる部分が表面だが、段々大きくなる。皮がほとんど取れたころ、15cmくらいになったころ、五つの花弁が剥がれて、立ち上がり、挙句はそっくりかえって、花弁になります。5cmくらいになった時から咲くまでおそらく、三カ月くらいかかると思う。

 プラスマイナスは一カ月でしょう。だから、蕾を見てからでの開花予想は難しい。おそらく、パンガンダランのチャガール アラムの中に常時、平均100個以上在るでしょうが、開く前に何らかの原因で枯れてしまうのが50%、だから、50個はいつか次々に咲くはずです。蕾の期間が長く、咲いている時はたったの一週間程度、きれいとかかわいいとかに見えるのは三日程度。どこの蕾がいつ咲くか、予想できないことと、観賞期間がみじかいこと、発見しにくいことなどで、なかなか、見ごろの花に会える確率は非常に少ない。三回、ジャングルへ入って、一つ、二つに会うことができれば、運が良いと言えるでしょう。

 

 咲く寸前の蕾は二つ、咲いて二日目の花が一つ、この中に在ります。分かりますか。

 開花予想 はずれ 運次第

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(^_-)-☆出入国時

2012-06-23 21:14:33 | 体験

  1255 スカルノハッタでの出入国時、イミグレで問題は無かった。しかし、私だから問題なかったと思うが、慣れない人、言葉が出来ない人、事情についての知識がない人、結局、普通の日本人が今回の私のような状態だったら、問題あり、だったと思う。幾らか払わなければ通してもらえない状態になるでしょう。
一カ月ぎりぎりでシンガポールへ行った人がイミグレで1万円払ったという話は時々耳にします。
 
出国時、先ず、二カ月、それもギリギリまで出国しないのだから、当然、“どこの会社にいたか”と、鎌を掛けられた。“仕事はしていない、どこの会社にも属していない、旅行だけだった“と答えた。彼は一枚目のステッカーだけをみて、”期限から、一か月もすぎている”と言ってきた。私はパスポートをめくって、もう一枚のステッカーを見せた、私は承知していたが、そのステッカーには期限の欄に何も書いてなかった。私もそれを見たときに、エージェントに指摘したら、なお、二ページ先にステッカーではなく、スタンプになっていて、そこには大きく手書きで期限が書いてあったのを確認してあった。だからそれも見せて、この通りだと説明した。彼は、納得した。”シンガポールでビザを取ってくるのか“と尋ねられたので、”仕事を頼まれたので、仕方がないから、引き受けて仕事をすることにした“と答えた。もうその時には、世間話調子になっていた。
 
今度は、入国する時、イミグレの兄ちゃん、私のパスポートをペラペラ捲りながら、新しいビザがないと、つぶやいた。私は期限切れのショートステイビザより前に空いていたページに新しく貼られたステッカーを見せて、“今日、シンガポールで、取って来たばかりだ”と言ってやった。“なるほど、そうか”と言っていたが、どうも様子が変、彼、そういう人間に接したことがないか、経験が浅いらしい。本当は、”どこに住むのか”と聞くべきなのに、”どこの会社で仕事をするのか”聞いてきた、それにだけ答えても意味がないので、”チカランで仕事をして、入国カードに書いてあるようにチカランへ住む”と言ってやった。”KITASはジャカルタか”と聞かれた。”チカランに住むのだから。ちょっと前ならカラワンだったが、ブカシバラットにイミグレが開設されたばかりだから。ブカシじゃないか”と、答えたというより、説明してやった。彼は、間違えて、ジャカルタ用のスタンプを押してしまっていた。慌てて、手持ちの自分の小さなバックから、イミグレの場所が空欄になっているスタンプを探し出して、別の場所に押した。私が言うことを信じていいのか心配だったのでしょう、当然です。他の列の先輩係員に“チカランはカラワンかブカシか、ブカシでいいのか”と聞いた、先輩係員はブカシにBaru buka(できたばかり)だから、ブカシでいいと答えていた。本人納得、空欄にBEKASIと、書いて、前のスタンプにキャンセルと書きながら、“間違いだったから、ブカシへ行ってください”と、説明してくれた。私は、そんなことは、こっちの方が知っているよ、と言いたかった。何も知らない人なら、ジャカルタのイミグレ行きのスタンプを押されたままになってしまうところでした。
 ショートステイビザ以外のビザの大きなステッカーが貼られた状態で初めて入国した時には、住む場所によって、どこのイミグレーションへ行って、その後の必要申請をしなさいと言うスタンプが押されることになっている。
話は変わって、ネット接続の環境、今回シンガポールで使ったターミナル3のフロアーのあちこちに、充電用のコンセントがある。個人ラップトップ用にテーブルや椅子まで用意してある。そして、差し込みの状態が、以前は三又のシンガポールだけの姿になっていたので、アダプターを使わなければならなかったが。今はそのアダプターを付けた状態になっているので、インドネシアのスタイルにも、日本のスタイルにも対応できるようになった。アダプターは必要なくなった。その上、ケーブルラン、ワイアレスランどちらも接続できるようになっていた。
それに引き換え、スカルノハッタノターミナルは、どうにもならない。ネットの接続、バッテリーチャージのことに限らないが、二十年以上の時代遅れである。新しい地方の空港の方が、シンガポールと同じというわけにはいかないが、使い勝手はいい。国の玄関口として、恥ずかしく思わないのが変。ターミナル3へは行ったことがないが、シンガポールのチャンギよりサービス充実のターミナルを作ってほしいと、誰もが思っているはずだ。

昨日の写真 http://otaenplaext.net/newpage30.html
2010年 旅記 http://nanbuindonesia.web.fc2.com/newpage108.html
2010年 写真 ニュートン サーカス 
http://nanbuindonesia.web.fc2.com/newpage111.html
2011年 旅行記 http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/newpage0403.html
タワーホテル未完成 建設中
2011年 写真集 http://space.geocities.jp/enplaindonesia/newpage00089.html

出国 入国 イミグレーション

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(^_-)-☆初体験の連続

2012-06-16 22:20:42 | 体験

  1248 ジャヤプラ、スンタニもそうだったが、第一印象はタクシーの料金が高い。空港から街までの料金は,今の円高でも800円くらいする。たったの5Km弱である。10分も乗らない。その他の物価全部が高い、ジャカルタやバリの観光地より高いかもしれない。土産物のTシャツは500円以上だ。パンガンダランなら150円くらいなのに。レストランの価格も高い、高い値段のタクシー運転手と一緒に食事をすれば、三千円くらいにはすぐになってしまう。だから、私は、カップ麺を主食にしていた。一人でよかったと思う。

 トラディッショナル ビレッジを訪ねてみた。Gatsiというでムラウケの中にある。行きたいから、手段をコーディネートしてほしいと、ホテルのレセプショニストに頼んだら、行く車のことだけでなく、そので、あなたのために民族衣装を着てダンスを模様しますから、そのショーを見せることができるのは、夕方の6時ころになります、と、案内があった。費用はと聞いたら、5ジュタ(約4万円)だという。私一人のためかと聞いたら、そうだという。観光客の団体さんに見せるのではないのかと聞いたら、団体さんは来ない、あなた一人のためだという。丁重にお断りをした。夕方でなくて、昼間、そのを訪問して、どんな様子か見るだけでいいから、車の手配をしてくれるだけでいいと、改めて、頼んだ。

 どうも、そういう見世物のための準備をする担当者がそのにいるらしい。に人々の収入源としては大きいらしい。バリにケチャやバロンのように毎晩、その地方の集会所みたいなところでショーを催して、観光客が訪れるという場所は無いようだ。それほど、観光客が来る場所ではないから、それも、当然だ。

 昼間、その戦闘ダンスをやるといところを、通ってもらったら、役場の前だった。役場の人達が、イリアン独特の戦闘衣装(裸に腰みの)をまとってダンスをするのだそうだ。そんなのは、見たくもないと思った。

 

 海岸近くのヴィレッジが多く、メラウケの郊外でもある。マリンズ(Marinds)という種族のところへ行ったが、背が高い、体が大きい、干してある服が超LLである。運転手がここのの人で、最後に彼の家の前を通ったので、家族に挨拶したいと頼んで、訪問し、一緒に写真に収まった。一族の一部だそうだが、彼の家族はどうなっているのかは訊かなかった。みんな明るい。そこら辺りで遊んでいた皆が集まってきてしまった。

 

 海岸の遠浅は想像を超える。沖を見てもどこまでも干潟になっていて、海はどこまで引いてしまっているのだろう。メラウケ側の深さも3m位浅くなっていた。昨日、船の持ち主が、海へ出ることができないと言ったわけが分かった。これでは河口から舟が海へ出られないわけだと、納得した。出たとしても、帰ってこられなくなるのだそうだ。

 この向こうはオーストラリアだと、地元に人が強調していた。見えるのかと聞いたら、見たことは無いと言っていた。

 パプアの人達の体形、顔、髪の毛の状態などなど、各地で違うそうだ、ジャヤプラかワメナかメラウケの人の見分けがつくそうだ。メラウケの中でも、何族というのがあって、それも、わかるそうだ。私には皆さん同じに見える。

 サンセットを港で見ようと思って行ったら、カメラを持っているのを見て、写真はだめだから、ここからは入れないと、ゲートの前で止められてしまった。昨日何も言われなかったのに。そこで、別の場所から川に面した所へ出たが、時遅し、太陽は沈んで仕舞っていた。

 

先ほど、マリンズのへ行ったときに、オランダ人が多分、案内人だと思うが、二人のパプア人と一緒にそこの人をモデルにして写真を撮っていた。私が、その連中に30mくらい離れた所から、カメラを向けたら、そのうちの一人が、駄目だと言いながら、私のところへ来て、今撮影した写真を消せと言ってきた。まだ撮っていないと言ったら、チェックさせろという。仕方がないから、モニターを見せた。納得したが、彼は、オランダ人は許可をとっているからいいが、許可をとっていないものは撮影禁止だという。どこからどこまでだめなのか、何M離れていればいいのか、聞いてみようかと思ったが、やめた。そのでも、彼らがいない場所では、皆さん、大歓迎で、写真を撮ってほしいと集まってくるので、自由に撮影できるのに、変だ。

 もう一つ確実なことは、パプア人の伝統的へ近づくには、案内人がパプア人に限ることです。パプア以外から移住してきた人種では、ちょっと、近づきにくいという印象だった。

 

 パサールでピナンに挑戦してみた。そこの人と運転手が二人して食べ方を指導してくれた。ピナンの実を出して。かじって口に入れる。そのあと、石灰の粉を何とかいう長細い植物の先に付けて口に入れ、一緒に噛み砕く、段々、赤くなってくる。という、しかし、私は、ピナンの実をかじったところまでで、その先には進まなかった。というのは、渋い、渋柿より渋い、舌先がしびれ出した。もう、そこで、吐き出してしまった。しばらく、渋さとしびれが残った。買ったピナンは運転手に渡した。インドネシア語で渋いという言葉が見つからない。彼らはパヒッド(Pahid)と言っているが、“苦い”、ではない。

 自由行動 恐れ知らず 向こう見ず

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(^_-)-☆新しいカラオケ(^_-)-☆危ない橋

2012-06-09 22:50:48 | 体験

  1241 そろそろ日本へ帰ってもいいかなと思っていたが、取りあえず問題が消えたようで、何とか、延長ビザの期限切れの前にシンガポールへ行けそうだ。本格的に仕事ができるのはレバラン明けになる可能性もあるので、ビザが取れても、会社と契約をするかどうかは、別の問題になる。もうしばらくはフリーでいてもいいかなと思う。
 
 最近、頼まれごとが多い。仕事をしてはいけないのだから、どこの会社へも、行かないようにしている。万が一、密告されたら、私自身寄り、その会社に迷惑がかかる。名前入りの作業服を着ることは絶対しない。もし、密告するとしたら、訪問した会社の社員か警備員だけですが、もし、ホテルやサービスアパートに泊まっているなら、動向をチェックできる人やパスポートのビザの種類を知る人がいて、定期的にイミグレの署員がチェックに来ているので、報告をしまする。本人が会社の車で出かけたりしていれば、たちどころに、御用となります。一人百万円位の罰金が科せられます。私が知っている最大は、大会社で20人一遍に挙げられて、二千万円払った例がありました。

 話はそれたが、頼まれごとというのは、人材紹介が、一つです。これから、インドネシアで会社を立ち上げようとしている会社からの依頼です。ナンブの時には、経理、総務、射出、押出、蒸着部門とメンテナンス、設計図面部門のトップは私が全て勧誘して入ってもらった人たちでした。通訳と営業のトップを除いて、ほとんどすべての人たちは今も部門のトップで日本人の支えになっています。それを知るこちらの日本人は一人もいないでしょう。日本の本社もそれを承知していないでしょう。無報酬でやっていたのです。会社は、どれほど、節約できたでしょうか。
 新規に参入する会社は、日系の紹介会社に頼るしかないので、頼むのだが、これらを、日系の人材紹介会社やエージェントに頼んだら、膨大な費用を請求されるが、いつまでたっても紹介してくれないか、紹介しても、ろくな人間ではないことが多い。私はローカルの人材紹介会社に頼んだ方がいいとアドバイスするのですが、それも、無理らしい。
 そういう会社の人から、私のウェブ サイトを見たと言って、何とか手伝ってほしいと言ってくるのです。マネージャークラスの人探しを頼まれます。
 インドネシア人の友達(過去に私が何らかの形で援助した人)に声をかけて、紹介してもらいます。メールで送ってもらい、メールで転送します。報酬を払っていないし、報酬は一切受け取っていません。それが、私のポリシーです。プライドです。

http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/ 元のウェブ サイト
http://otaenplaext.net/newpage0.html 新しく追加したウェブ サイト

 元のウェブ サイトで開けなくなったページは、新しいウェブ サイトから開けるように追加しています。写真集が主です。

  
約二千円の節約のために庭の草刈りをした。
 
(^_-)-☆リッポチカランの新しいカラオケ 一階は日本食レストランで二階がカラオケ、三部屋あって、作りは掘り炬燵に、蒲団がかかっていない状態。カラオケの装置とモニターがなければ、日本食レストランの二階にある形式と同じです。テーブルの上に置いてあるものもレストランと同じで、端や小皿が敷物の上に乗っている。注文料理のメニューも置いてある。だから、入った部屋は日本食レストランの一室とまったく同じです。部屋は明るい。
ここから、違うのは、カラオケですから、女性の手伝いを一人頼むことになります。一人、一時間、千円です。何人か入ってきて一人を選びました。それだけでいいのです。後は、リモコン操作で曲をセッティングして歌いたいだけ歌えばいいのです。飲み物や食事を頼んでも頼まなくてもいいのです。日本茶は無料です。おつまみも出されますが、無料です。私は、焼き飯と刺身セットをと頼みました。両方で600円くらいでした。

写真はその様子です。彼女もお茶でした。リモコンは焼き飯の左にあるが、白ふちに四角いモニターが着いている。
 そう機会があるわけではないので、アクア600mリッポン持ち込みで、お茶を4回お代わりして、約4時間いて40曲ぐらい歌まくって、食事をして、5千円くらいでした。彼女に10万Rpチップを渡した。
 他のカラオケやマッサージはラマダン、レバラン期間中は営業しないが、ここはレバランの祭日以外は営業するそうです。ただし、女性に服装は普段着だそうです。アルコール類は原則として出さないそうです。どうなりますか。プアサ、ラマダンは7月半ば過ぎからだと思います。
 私が不満に思ったことが二つだけあります。インドネシアの歌が装置に入っていないこと、何曲かを連続で予約をしたいときに、一曲目を送信すると直ぐスタートしてしまうので、何曲や予約し終わるまで一興目を歌えないことです。セッティング用リモコンが日本語なので、アシスタントが手伝えない。それを除けば、ほとんどファミリーカラオケに話し相手の女性着きという、私にとっては理想的なカラオケです。しかし、ほとんどの日本人男性にとっては、女性と話といったって言葉が通じないし、目的が違うし、当て外れになることでしょう。
 SANSUPOの速報でチェックしていた。日本サッカーすごい。
危険  奉仕  無報酬  ボランティア

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(^_-)-☆現地の仲間達

2012-05-31 22:21:52 | 体験

1232 パンガンダランの三人の友人と一緒にチャガールアラムへ入ってラフレシアを探した。残念ながら、開いている花に会うことはできなかった。その代わりにユリの花そっくりな大きな花に会った。名前は知らないが、十何年も前からこのジャングルへ入っていて、初めての発見だった。

 イワン君、サーファーで、西海岸でインストラクターをしながら、特に欧米オーストライアからのサーファーの面倒を見ている。6月にオーストラリアから戻ってくるラシッド君のすぐ下の弟です。日本人がたま~~に来るが、その相手もする。

 アケオ君、ライフガードの幹部です。十数年前、私がパンガンダランへ行きはじめたころ、西海岸にライフガードが生まれた。バリのクタ海岸のライフガードが手本だった。その最初の数人の内の一人だった。今は50人以上いる。この前の四連休は一日、ざっと、四万人は来ていたという。忙しくしかったという。今日から、金曜日まで三日間OFFで、私のラフレシア探しの手伝いをしてくれた。日本語も片言、できるようになっている。

 アウェン君、イワン君の弟、水泳が苦手、水が怖いらしい。今、22歳だが、彼が15歳の時、嫌がったが、経験だと思って、初めて、ヌサカンバンガンへ連れて行った。ところが船酔いで散々だった。それ以来、誘わない。ヌサカンバンガンへ行こうというと、おなかが痛いと言い出す。

 その彼は、チャガールアラムのガイドをしている。私の評価では、彼の鼻が一番、敏感だと思う。何人かの手伝いで入るが、彼が、匂うというのが一番早い、どちらの方向から匂ってくると、指摘する。それに従って、みんなで探せば、必ず見つかる。大木の根っこの向こう側や急な登りの向こう側などはその場所まで行かないと見ることができない。匂いが頼りである。

 この前の四連休の一日に日本人夫婦をチャガールアラムに案内したそうです。日本でイチゴ園を経営している人だという、色々聞いても、仕方がなおので、何も聞かなかったが、ラフレシアになかなか会えなくて、何とかしてあげたくて、匂いを頼りに一生懸命探したそうです。一つだけだったが、発見することができてよかった、特に、奥さんの方が、子供のころからの憧れだったようで、大感激していたとか。

 

 そんな彼らとジャングルから出てきて昼食、カカップメラ(鯛)のゴレン(唐揚げ)、カカップヒタン(石鯛)はバカール(焼き)、チャーカンクン、チュミチュミ(イカ)はバカールとゴレントゥプン(小麦粉をまぶしてフライ、てんぷら)、ウダン(エビ)はバカールで食べた。飲み物はテーパナスタワール、全部で4千円(44万4千Rp)でした。

 

 ラフレシア がっかり 仲間たち

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(^_-)-☆あれから14年2

2012-05-16 22:07:04 | 体験

1217 多くの日本人の慌てふためきをよそに、帰宅も自分で運転して、MM2100から高速に乗りジャカルタと反対方向のチカランから、ルマーアバンのグラハチカランまで何の問題もなし、暴動はどこの話という雰囲気だった。しかし、高速道路はフリーパスだった。

 次の日は、流石に、家にいた、そして、スハルトの退陣劇をテレビで見ていた。と、同時に、焼き討ち後の惨憺たる状態も見ていた。外へ出て行って、ゴレンガン(揚げ物)を買って、セキュリティーに渡し、近所の様子もチェックした。外国人に何か危害を加える気配があるかを確かめたかった。まったく問題なしだった。

 軍のタンクが各交差点、重要建物の前で警護をしている様子も映し出されていた。家にじっとしていられなくて、2日後、チッポチカランまで行ってみた。当時はEJIPとMallに分かれる四つ角がロータリーになっていて、Mall側に戦車が侵入を止めていて、モールへは行けなくなっていた。そのまま、家に帰っても意味がないので、思い切ってジャカルタへ行くことにした。チカランバラットから高速に乗ったが、チケットを渡す人がいない、そのまま入った。高速道路は貸し切り状態、前後に一台も車が見えない。対向車線にはジャカルタまで数台とすれ違ったかどうか。ポンドック グデティムール当時は4500Rp払うが通過、チャワンで5500Rp払うがこれも人がいないので通過一旦、クニンガンで降りた。高速道路に下に戦車が二台警備していた。信号は働いていなかった。そのまま、ガトゥットゥスブロトを通ってスマンギの交差点まで行った。ジャラン スデイルマンに降りて北へ向かったが。ここでも戦車数台があった。ジャラン タムリン

へ入ったところの噴水の周りには多分、ざっと見て10台位に戦車、装甲車とともにNHKなど外国のTV局に中継車が数台あった。そこまでは、何も暴動の後はなかった。ジャラン タムリンからジャラン ガジャマダに入ったころから、道の両側のビルの窓ガラスが割られ、道にはタイヤなどを焼いたような跡が見えはじめた、グロドックの陸橋が見えてきたときには、すでに両側のビル全部のガラスが割れて、黒こげになっていた。陸橋は真っ黒に焼けていた。その左側に曲がる道沿いに様々な商店があるが、これらも全部破壊されて真っ黒だった。ただし、グロドックの中は無傷のようで、入口を装甲車が塞いでいた。もう、悲惨を超えていて、良くここまで、やってしまうものかと、集団が狂気になった時の恐ろしさを目の当たりに見た気がした。

ホテル バタビアやスタシューム コタ周辺は健在。結局、中華系の商店、ビル、人が対象だったのです。

 

 スホイ関連

 HPやカメラが多数回収され、それの放映も始まった。全員がはしゃぎまくっていて、席に座っている人はほとんどいない。一瞬の間に木っ端みじんになってしまった。何も考えるいとまもなかった。

 必ず、こういう事件がると、乗り遅れた人がいるもので、ジャカルタの渋滞で遅れ、渋滞さまさまだった女性がいた。

 

 ブラックボックスが見つかったと書いたが、私の間違いでした。今朝10:00頃、機体の最後尾から100mほど離れた場所で、黒く焼けた状態で見つかったらしい。

それよりも、見つかったら、どちらが、分析するのか、もめているらしい、場合によっては、アメリカで分析してもらうという案もささやかれている。

 今日はたったの2袋、病院へ届けられたとか、合計、29袋です。

 

 近道、抜け道、狭い道をジャラン ティクスと言います。その様子です・私は、ここに限らず、あらゆる場所で、近道、抜け道があれば使います。三か月前、高速道路をバイクで封鎖された時も、この道を使った。

 焼き討ち 略奪 暴行

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(^_-)-☆あれから14年1

2012-05-15 22:01:12 | 体験

1216  1996年夏にインドネシアへ始めて仕事をしに来た。16年前です。それから、2年足らず、98年5月に大暴動を目の当たりに経験した。その一週間前ほどから、不穏な空気が膨らんでいった。トリサクティ大学(タマンアングレックの高速を挟んだ向かい側)の学生のデモへ水平射撃で数人の犠牲者がでたことを最大として、スハルト政権打倒のデモはインドネシア中に広がっていた。また、暴動2日前にガソリンの30%位の値上げが実施された。デモの弾圧に警察では手に負えず、軍も参加していた。その時の国防大臣がウイラント、軍の最高司令官がプラボーだった。二人とも、現在、ミニ政党の党首をしていているが、この暴動の黒幕だったという疑いは晴れていないが、当時、追及もされなかった。

 昼前、会社にいて、ジャカルタ北部で暴動が始まったというニュースが入ってきた。キャンティーンのテレビを点けっぱなしにした。タンゲラン方面とブカシ方面東西に暴動が連鎖していった。MM2100へは来なかったが、国道沿い、ブカシティムール、タンブン、チビトゥン(MM2100の高速を挟んで北側)を通りコタ チカランに15:00ごろには達した。だんだんMM2100に近づいてきて、通過する模様が伝えられた。私が当時住んでいたルマーアバンの手前で終息した。

 暴動、略奪、焼き討ち、暴行など、完全に理性がなくなった集団がやりたい放題のことをしてしまった。暴動が襲った付近の高速道路のゲートもすべて焼かれた。後で知ったが、中華系の人がターゲットにされ、残忍な暴行も各地であった。

 

 ジャカルタに住んでいる多くの日本人は、夕方、会社から出て、あちこちが通行止めになっていたため、翌朝にやっと家に着いたという人が多かった。

 

 日本人に対し、国外脱出勧告がだされ、翌日にはチャーター機も到着していたが、脱出希望の人数が多すぎて、さばききれない、ホテル日航集合、バスでスカルノハッタ空港に向かい、日本やシンガポールなどへ脱出する計画だが、処理しきれず、各場所で最長2日待機した人もいたという。実際には、その後、何も起きなかったのだから、私のように、休暇と思って、ゆっくりしていればよかったのですが。それぞれの会社の本社や日本政府にとっては何もしないわけにいかないから、脱出勧告を出したのですが、それにしても、危機管理というか、対策というか、手段というか、全てに、場当たり的で、計画性がなく、ただただ、慌てふためいて、うろうろしていたとしか思えなかった。私は、それに振り回されなくて正解だった。

 

 迅速だったのはアメリカとオーストラリアだった。翌日の朝にはハリム空港(スホイ、デモ機が飛び立った空港、東南ジャカルタ)に本国からチャーター機が到着していて、その日のうちに脱出をしていった。場所も空軍の空港だから安全だ。

 

スホイ関連

 一週間過ぎた。ブラックボックス(実際にはオレンジ、Flight Data Recorder)が発見され、回収された。例のブンクス(包み)は25になった。一人一包みにしてもまだ半分である。もう、後は細切れになってしまっていて、カントン(袋)と表現しているが、小さな袋で、回収するようになるでしょう。ハリムへ5袋ついたと言っていた。

 ブンクスの中身の身元が判明し始めるのは二週間後からだという。そのころには、インドネシア人の関心は失せているでしょう。

 

 タンブンへ行ってきたが、行きは高速を使い帰りは途中MMへ寄ったので、ジャラン ティクス(jalan tikusネズミ道)を使った。その入口と出口、バイクの通勤道路でもある。

 

大暴動 記憶 残虐

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(^_-)-☆グロドック

2012-05-07 22:15:13 | 体験

1208 待機中なので自由に過ごしている。自由といっても、じっとしてはいない。先日、久しぶりにグロドックへ行ってバキュームポンプを物色した。17年前に、初めていて以来、100回以上入っているが最近5年間では10回程度である。98年の大暴動の2日後にも、相当ひどく焼き討ちされていると聞いて、様子を見に行った。確かに、目を覆いたくなるほどの惨憺たる状態だった。今、その面影を探すのは難しい。
ジャカルタの秋葉原というのが表現として近いかもしれない。工具、電気、電子機器、金属材料、配管資材などなど、ピンからキリまでそろっている。インドネシア製、中国製、台湾製、ドイツ製、日本製、すべてがそろっている。
最近は各工業団地の近所にグロドックの支店のような店も出来ていて。かなりのものはグロドックまで行かなくても手に入るようになったし、無いものでも、カタログなどから製品を指定すれば、グロドックの店から届けてもらうこともできるようになっている。

実際に目で見て価格と相談し、すぐ手に入れたい場合は、グロドックへ出かけるしかない。私は、グロドックの雰囲気が大好きなので、いつでも、行けたら行ってみたいと思っているが、交通事情を想像すると躊躇してしまう。土曜日の昼から日曜日は休業なので、行くなら平日しかない。
行くときに先ず、決断しなければならないのが、南から行くか北から行くか迷う。分かっていれば、渋滞が比較的少ない方を選ぶが、勘に頼るしかない。一般的には北から周る。高速道路をタンジュンプリオク方面に行き、アンチョールの次がグロドックへの出口である。バタビアホテルなどオランダ統治時代の旧市街を通ってグロドックに向かうが、ここも渋滞が凄まじい。コタ駅の前を過ぎれば500mくらいである。チカランから二時間はかかる。それも、最後の30分はせいぜい4kmくらい走るだけ、競り合い、割り込みあいの連続である。

最近は車の数が増えているが駐車場の受け入れ台数は増えていない。朝、10時を回れば一杯になってしまう。私が選ぶ北から入ると駐車場が狭いのでなお一杯になりやすい。運転手を使っているならい、買い物にさっさと行けるが、私の場合はまず駐車しなければならない。買い物をする店よりかなり離れた場所に駐車するはめになってしまう。

帰りは、南下する。ガジャマダ、タムリン、スディルマン通りとジャカルタが誇る南北の幹線道路です。大統領宮殿、国立博物館、モナス、バンクインドネシア、日本大使館、ホテルニッコー、サリナデパートなどなど、インドネシアの一等地である。スマンギの交差点から高速道路に入る。最初、迷うには、この道を行くときにも使おうかどうかである。10時前なら当然3イン1の関係でこの道は使えない。

LTC(リストゥリック トレーディング センター)三年前ほどにできたショッピングビル、ワルンガ集合したレストランスペースもあって、ごちゃごちゃ、汚い場所が苦手な人はそこで比較的洗練された食事ができる。しかし、グロドックのLTCの階段からグロドックを見下ろした写真と、その逆でLTCを見上げた写真。

グロドック 秋葉原 電子部品

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(^_-)-☆穏便だったメイデイ

2012-05-02 22:26:22 | 体験

1203 Hari Buruh メイデイ、会社の多くは休日にした。それも、あわてて休日にした会社が多い。というのも、会社カレンダーを作るとき、去年の11月頃には、労働組合の過激な動きを予想していなかった。ところが、二月三月の最低賃金決定時期に高速道路をバイクで封鎖するという手段を成功させ、メイデイも同じ手段に出るのではないかという不安が経営者は感じたのでしょう、あわてて休みにしたのです。
 結局、何事も起きなかった。ジャカルタの中心地でデモが実施されたが、羽目を外すことはなかった。ジャラントールの封鎖もなかった。
彼らが一番問題にしていたことは、アウトソーシングを止めろ、という事でした。その会社の正規社員はできるだけ、少なくして、掃除をする人、運転手、セキュリティー、駐車場の管理者、などなどは、派遣業者から派遣された人が担っている、それを止めて、正規社員を使えと言っているのです。

経営者にとっては、異常に高い残業手当、退職金をできるだけ少なくする手段として、当然、利用するはずである。まずいのは、その、労働基準法を決めてしまった。政府である。労働組合も、既得権としてしがみついているのが原因です。

今日から、新しいウェブサイトを作り始めた。先日、日本へ行った時にホーメページ ビルダー16を手に入れた。初めて作った時には11でした。それを駆使して、プロバイダーは、無料のヤフーやFC2などを使ってきた。しかし、この頃、それを担ってきたラップトップに機能が衰え始め、また、内容が入り組んでしまって、上乗せができなくなってしまったどころか、転送したはずが、何らかのデータや写真が消えてしまったりするようになってしまった。そのサイトをいじれなくなってしまったのです。もう、何もしないで、そのままに、そっとしておくしかなくなってしまった。 
 今日のゴルフからの帰り道、多くの会社が休みのジャバベカ サトゥ付近
 メイデイ レーバーズデイ ハリブルー

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(^_-)-☆問題なし?

2012-04-27 21:42:18 | 体験

1198 インドネシアにいます。ガルーダは成田第一に変わっているが、チェックインカウンターは北ウイングの一番奥の端です。

成田空港で支払う、インドネシアの短期滞在ビザの金額は25US$です。チェックインの後、一番、右隅のカウンターで支払います。US$ノミの支払いで、そのほかの通貨は受け付けない。US$の現金なら、おつりをくれます。トラベラーチェックではおつりはもらえません。US$を持っていなければ、そこら辺りに両替所が沢山あります。しかし、本当にガルーダは、助かる。

 

バゲジを開けさせられた前回と同じものを同じ量と、酒を4リットル(2リットルパック2)、バゲジに入れた。それと、老衰したラップトップを入れた。これらの比重が大きいので、それだけで10Kgある。バゲジの底へ並べて入れておいた。その他は、カップ麺やポテトチップスなど軽いものでバゲジの隙間がなくなるようにしてある。今回は成田で何人かの日本人が呼び出されていたが、私は呼ばれなかった。

インドネシアではどうか、バゲジの四方に前回より多くのチョークのチェックが書かれていた。以前のチェックも薄くなっているが、消えずに残っている。それを見たポーターが、自分が手伝えば、大丈夫と言ってきた。私は、別に開けられても前回のように説明すればいいし、今回はMSDSを持っているから、もっと、大丈夫だと思っているので、断った。カスタムは混雑していた。三列あって、一番好いている場所の係員が手招きしていたのでそちらへ行ったら、私のバゲジに全く目がいかないまま、日本語で、手に持つだけ、と言ってくれた。X線チェック後、呼び止められることもなく、開けさせられることはなく、通り過ぎた。

 

車の宿泊費は5泊6日で24万Rpでした。やはり、安い。往復タクシーを使えば65万Rpは掛かる。

ところで、17:30ジャカルタ着、18:30車の宿泊場から出発、21:35チカランの家に到着、3時間かかった。ギラである。大渋滞、原因は車が多いです。流石、ジャカルタである。ほとんど動かなかったタマンアングレック辺りで写真を撮った。普通に走っていれば、夜にジャラントールの横の景色は撮影できない。

 

税関 チョーク 問題

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