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南の島の土着民風自由人

自分の生活、計画し実行してきましたが、病気や人間関係など思いがけない障害に遭遇しました。

(^_-)-☆御前崎の灯台

2014-12-24 22:32:05 | 体験

 2168 これは何十年ぶりだったでしょうか。孫が連れて行ってと言わなければ、行くことはなかったでしょう。

11時ごろ家から出て、焼津インター前を通って、150号線を南西に進路を取った。大井川の手前から、大井川港に向かう道に入って、新しくできたらしい、海岸沿いの道を西に向かった。途中、いつできたのか、観光会館のような“なぶら”という名前の施設ができていた。その前をつうかし、灯台へ向かった。大きなホテルが2つあり、その上に灯台はあった。過去に何回か来たことがあったが、周辺の情況は全く記憶になかった。駐車場は狭いが灯台の直ぐ前だった。

 

灯台付近というか、勿論、吹きっさらしだし、猛烈な強風が吹き荒れているにもかかわらず、せっかく来たからと思い、灯台に登ってみた。外に出て大変だった。私でも、なにかにつかまっていないと、飛ばされそうだったが、孫たちは、扉や手すりのしがみついていて、景色を見るどころではなかったでしょう。1分ほど、外に出ていただけだったが、その時に富士山バックの写真でした。

 

帰りは、直ぐに北上し、牧之原を目指した。この道もいつできたのか、新しく感じた。インターの入り口の前の道路を通り、今度は島田を目指し、藤枝の手前でバイパスに入り、静岡に向かった。ということで、一周してきたことになる。社会科見学というか、上の子が習った郷土の様子を確認したようなものだった。牧之原の茶畑は特に印象深かったようだった。

 

何の脈絡もないが、高校二年の時だったと思う。どんな心境の時だったか全く覚えていない。石川啄木の歌だったと思う。自己流で書いてみた、それを母親が取っておいてくれて、今、家の欄間のような所に掲げてあったのに、気が付いた。印鑑“遊神“も自分で掘ったものです。

ドライブ 孫 灯台

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(^_-)-☆誕生日2

2014-11-03 22:36:07 | 体験

 2117 本人、私の誕生日でした。71才に突入。駿府公園に大道芸なるものを見に行ってきた。何回目でしょうか、大変な賑わいでした。歩いて、内堀の中に入るのは何年ぶりでしょうか。多分、何十年ぶりかだと思う。木の高く、繁っているといる感じだった。家康の銅像、そして、ミカンの木が全く目立たない場所になってしまっていた。

 

さて、大道芸の方だが、人出は凄い、感心の強さがわかる、多くの人達が楽しみにしているのは分かる。私達が行ったのは、10時前、何の催しもやっていなかった、そして、それぞれの場所に、何時からと書いてある白板がチョコンと立てかけられていた。そこには、11.30とか12;30から、などと、書いてあった。なあんだ、そんな時間からかと、多くの人達は思うに違いない。早く行っても、何もやっていないのだ。

 

テントが林立し、屋台の車が長蛇の列で並び、昔で言うなら露店の数は、数えきれない、ご当地グルメ、B級グルメと言われているものや、ドギツイ色のリンゴやバナナ、そして、テーブルと椅子も相当な数、皆さん、多くは子供連れの家族、大道芸を見るより、何かを食べに来ている、それが、楽しみで着ている?

 

肝心な、大道芸ときたら、つまらない物ばかり、それでも、その周りには、人だかり、用意周到、脚立を持ってきている人も多かった。この程度か、面白くない、子供達も、ジャグリングやアクロバットやフラフープの芸やパントマイムのようなものを見ながら、「つまんない」といい、「何か買って」という声が、あちこちから聞こえてきていた。

 

それでも、毎年、盛んに、大きな規模になっているらしい、ハロウィンの情況と今日の様子、私にはなじまなかった。何キロ歩いただろうか、ゴルフをカートなしで2ラウンドした感じ、頭がズキズキ痛む中、足がガクガクするまで、よく、歩いたものだ。家に付いて、24kgと30kgの子供の肩車を何回もい当てやったからだろうか、腰がまた痛くなってしまった。

人ごみ 疲れ 腰痛

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(^_-)-☆歯を抜く

2014-08-22 23:23:20 | 体験

 2044 日本の歯医者に何日か、通ったが、結局、新しい義歯を取りつけてもらえなかった。インドネシアで付けてくださいと言われてしまった。日本の歯医者は、これだから行きたくないのが本音。そこで、木曜日の歯医者ルスカンディさん(日本語が日本人より上手かもしれない、つい、私がインドネシア語で話しても、日本語をしゃべる、だから、私も日本語を話しようにしてやる)のハラパン クルアルガ(ジャバベカ2)へ行ってきた。日本の歯医者は予約制で、大体時間通りに治療が始まる、というより、暇で、前の人がいないから、医者が待っているのです。後の患者がいないにもかかわらず、治療は10分程度、消毒や出血止めが定着するのを10分程度じっとしていて、それで終わり、料金は私の場合10%だと思うが、薬は無しで、700円くらい払う、ということは7千円ですね。

 

インドネシアの場合、予約制ではないし、医者が来るのは一週間に一日だけ、同じ医者に診てもらうことになるので、他の日と言うわけにはいかない。今日は、今回の治療での初日だったので、8時に家から出て8時30分に病院に着いた。受付で、何科の医者は誰かを聞かれる。そして、過去のカルテを捜しだしてもらう。その医者の診察室は個室、その部屋の前で、自分の順番を待つ、9時前に部屋の前に行った時、診察が既に始まっていた。約30分後、終わった人が出てきた。待っていたのは、母親と子供だけ。看護婦が出てきて、次の人を呼ぶ、該当者がいない、次の人を呼んだ、これも、いない、そして、次の人を呼んだ、それが、その親子だった。

 

それから、40分後、終わって出てきた。次の患者を呼んだ、先ほど呼ばれて、いなかった人が、一組だけ来ていて、その人達が入っていた。その人たちは50分後の11時に終わって出てきた。次に呼ばれた、先ほども呼ばれた一組は、今度もまだ来ていなくて、私は呼ばれた。2時間以上の待ちだった。私の抜歯などの治療が終わったのは、11時50分でした。部屋の前に到着して約3時間後に、終わったのでした。それから、料金の払い、薬(痛み止め、化膿どめ、うがい薬)を受け取り、保険が効かなくて、60万RP(5500円)払い、病院から出たのが昼食の時間だったので、途中、家に寄って食事、13時前に会社に入った。

このように、一人当たりの診察、治療時間が長い。が、一週間後に形を取って、二週間後には入れ歯の装着という段取りになっているので、私は、待ち時間は、運不運があるが、インドネシアの歯医者の仕事ぶりの方が好きだ。

 待ち 長時間 短期間

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(^_-)-☆満足感なし

2014-04-21 22:43:11 | 体験

 1921 今回の旅、どこへも行かずに、ゴルフを三日間やっていた方がよかった。ダダ、疲れにいただけだったかも入れない。でも、行ってみなければ、分からない話でして、いかなければ、其れはそれで、後悔するかもしれない、そういうものです。

 

帰りは渋滞をできるだけ避けるために、8時前に出発した。ある程度順調だったが、タシクマラヤのバイパスを過ぎたあたりから,怪しくなってきて、昨年のレバランから使用可能になった一方通行の道に差し掛かって、すぐに、大渋滞の尻尾についてしまった。

 

最初は5車線、しごきあいながら次第に車線が狭まって、最後に一車線になるという道、急な登り坂、下がってコツンと当たっているし、オーバーヒートで立ち往生も続出、もう、散々な道だった。そこを切り抜けても、バンドゥンまでも、芋虫渋滞、チプララン高速道路も車が一杯、チカンペックからジャカルタ道に出てもおなじ、私は、その90%を路肩走行した。それでも、家に着いたのは16:30丁度だった、8時間半かかったことになる。

 

今朝の西海岸の様子、見渡す限りの人は昨日と変わらない。これほど多くの人びとがいるのに誰一人として泳いでいない。膝くらいの高さの波のそれ以上、岸から離れようとしない。我こそは、沖へ泳いで行ってみる、と、思う人はいないのでしょう。打ち寄せる波の高さは、1,5mくらいあるし、たまに2m以上の場合もある。それも、午後になれば風が出てきて、もった高くなる。波打ち際の人が小さく見える。

海岸の波は危険だという教育が徹底しているのでしょう。また、水泳を学校で教える機会は全くないようだ。学校にプールがあるという話を聞いたことがないし、見たこともない。なお、運動場がある学校も、ほとんどないと思う。中庭という感じの広さも広場はある。

泳げないし、危ないという意識が徹底しているので、誰も、我こそはと、思わないのでしょう。

 

今回、面食らったこと、とにかくどんどん観光客が増えている。今回も,地元に人はレバランの時のようだという詩、来月末に大型連休がある。その時は,今回以上だろうと予想している。ホテルはどんどん増え、今も建設中が沢山ある。また、改装をした、改装をしている、改装の計画があるというホテルも沢山、それらに、共通することは、宿泊代の値上げだ。一年前の倍になっているホテルも多い。50万Rp以下の部屋を探すのが難しくなった。今回泊まった部屋は、部屋の前に人が集まりやすくなっていて、話し声、笑い声が煩い、12時過ぎても、やかましかった。温度コントロールが難しいエアコンは付いているが、カマールマンディはお湯はなし、TVはTV ONEしか写らない、シングルベッドでしたが、35万Rpでした。高!!!

 

竜宮城、南の天国もインフレだ、渋滞は激しくなるし、70才を超えた私にとっては、次第に、ラフレシアが遠ざかるような気がする。弱音。と言っているが、5月27日からまた行く予定になっている。

忍耐 競り合い 集中

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(^_-)-☆何とかしたい

2014-03-15 23:12:48 | 体験

 1884 韓国系の会社からLED直感ランプのPCカバーの見積もり依頼を受けた。韓国系の会社でこのタイプのランプを売りだしている会社はここだけだそうだ。アルミハウジングは既にインドネシア製を使っているが、PCカバーについては韓国から輸入していて原料もLGのものを使っている。しかし、品質と納期に問題があるそうで、直ぐにでも、私にお願いしたいという。急ぐ話で、一週間以内にもサンプルを欲しいらしい。金型は韓国で使っている物の図面をチェックし、取り付けが簡単な改造で出来れば、それを使ってほしいということでした。インドネシアに韓国系の押出成型会社はないそうだ。ちなみに日系は三社です。私を入れれば四か所になります。

 

韓国の人と話をするときは、大体、インドネシア語を使う、彼らのインドネシア語吸収は早いと思う、英語でも話せるが、私も彼らもインドネシア語の方に慣れてしまっているので、英語の場合はいちいち考えながら話さなければならない。結局、インドネシア語にしましょうということになる。実際に接触すると、政治のようなギクシャクはない、ま、仕事上の言いたい事を、どんどん、言うだけである。

 

一応、今日でインドネシアでの仕事は、一区切りになるが、休日出勤をしてもらっている手前、多分、明日も明後日も会社に顔を出さなければならないと思う。何事もなく順調に生産が進んでいる事を願う。ここへきて、忙しくなってきているにで、気を使うことも多くなっている。そういう点だけを考えれば忙しくないほうがいい。忙しさはほどほどがいい。先ほど10時過ぎまで仕事をしていた。

 

私の職場になっているPT.ASKAの正面です。

 

中の押出成形エリアです。

 緊急 韓国 LED直管

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(^_-)-☆夢の途中48 1

2014-03-04 22:37:56 | 体験

 1873 久しぶりの晴天で、朝、思い切って、ベッドのシーツや枕、掛け布団などを庭に広げて置いた。帰るまでに、雨が降ってしまえば、どうしようもなくなるが、一種の賭けだ。あまりに湿っているので気持ちが悪い状態だった。結果、十分乾燥することができた。やれやれ!!

 

ふと、思いだした事を書いてみる。48歳の4月末近くのこと。頼まれ仲人を二口引き受けていて、結納の儀式も済ませた一週間後、お腹が痛いのが三日ほど続いた。腹痛は一日二日で直ってしまっていたのが、その時は、ちょっと、変だぞと思って、病院へ行った。直ぐに胃カメラを呑んで、モニターを眺めながら、何かありましね、胃潰瘍ですね。1cmくらいの直径の白い部分を確認した。周りから五つサンプリングをした。「一週間後に来てください、悪性腫瘍か良性かをチェックします」五月の連休になった。妻と休みが合わなくて、一人旅が普通だった。

 

車で静岡インターへ向かい、西か東か、東にした。ずっと走って、青森は下北半島について、六ヶ所村を通って恐山についた。変な所へ来てしまったなと思う。大間町を通って、薬研温泉に泊まった。それまでは、眠くなった場所のサービスエリアか道端で寝ていた。この旅は、四国お遍路のように弘法さんの様な人と一緒だった。もしかしたら、悪性で転移してしまっているかもしれない、そうでなくても、胃を切ってしまわなければならないかもしれない、美味しいものをお腹いっぱい食べられるのは、最後になるかもしれないと思って、大間のマグロオオトロやマツタケをたらふく食べて、温泉に浸かった。仏が浦近くの道路で、速度違反で捕まった。東北弁の警察官、良い旅を、と、言って、見逃してくれた。ついでに、津軽半島の先端、竜飛岬、青函トンネルまで行ってきた。階段国道も歩いた。

 

5日に戻って、6日の病院へ行った。結果は一つが悪性だった。「切りますか、様子を見ますか」と問われた。即座に「切ります」と答えた。「では、今晩から入院してください、体調をチェックして、直ぐに切りましょう」という、直ぐ、入院し、翌日、体調良好、手術の問題なしで、二日後8日の朝、麻酔の注射をして、もうろうとなって,担架に移され、手術室へ入った。手術台に移され、「深呼吸をしてください」と言われ、深呼吸をしようとした途端に、マスクをあてがわれ、無の世界に入った。

 

気が付いたのは、集中治療、麻酔が切れて、痛くて目が覚めたようだ、時間は分からないが、看護婦の会話から夕方5時ごろだった。隣に私の後に手術をしたというおばあちゃんが寝ていた、鼾が、強烈だった。「痛いから、なんとかして」と、頼んだら、座薬を入れてくれた。続く。

 

 http://www.wakuwakujapan.tv/ja/time/page/201403.html 168チャンベルテレビ番組表です。

 

Stasiun Tawang Semarangスマランの列車の駅の名前はタワンです。トイレはあんなでしたが、駅の外観と正面ホールはオランダ時代そのままの洒落たスタイルをしている。この近くにタンジュンマス、トゥルボヨ、チャンディなど工業団地があり、日系企業も多くある。

胃癌 手術 潰瘍

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(^_-)-☆インド洋 1

2014-02-20 22:37:07 | 体験

 1861  もう一人、インストラクターの高橋さんですか、どこかの陸にたどり着いて、何とか、生き延びていると良いですね。

私は、山を歩くのも好きですが、海で泳ぐのも大好きです。プールで泳ぐには好きではない。この数年の間でしたら、日本では用宗と三保で孫たちと、インドネシアでは、パンガンダランの西海岸、バトゥカラス、カラピヤック、ヌサカンバンガンそれとプラブハン ラトゥなどの海岸、バリは、クタ、サヌール、北の海岸などでしょうか。もっと前にさかのぼれば、プラウスリブの五つの島の周辺、ジャワ島西海岸、チャリタ、タンジュンルスン、ウジュンクロンまで、ジャワ島の北側の道沿いの海岸多数、他の島でもサバンからムラオケまで、行った場所で海岸が在れば、必ず海に入ります。一番素晴らしい雰囲気の海はやはりブリトゥン島の周辺でした。

ダイビングはしません、シュノーケリングはします。というより、泳いでいて、その気になる場所なら潜るだけです。ゴーグルも着けません。そんなに深いところへは潜れません、だから、海面から体全体が見えなくなるくらいまでですから、深くても2mくらいまでです。魚やサンゴを上から眺めます、それでも、浅いところなら、周辺に見る事が出来ます。ブナケン マナード、パンガンダラン、クンダリ、グラウ、バンカ、ブリトゥン、ウェー、ニアス、コモド、ロンボクの島々の周辺、バリの北海岸、そして、カリムンジャワ周辺ここが最高、ダイビングの方へ一番のお勧めです。愛好家の方なら、バリ島周辺、ブナケンやワカトビ(スラウェジの南)設備施設がと整ったリゾートに行くでしょうが、私はカリムンジャワ周辺の島々をお勧めです。プラウスリブは15年前まででしょう、今は、海の中は散々だそうです。

 

カメラを下に向けるどころか若干上に向けて取っています。パンガンダランの半島(チャガール アラム、cagar aram)が見えなくなります。岩場は、うねり頂上が来れば見えなくなりますが、波が引いた後は、二三M高さの岩礁を見えるようになる。普通に大波ですから、これのくり返しですから、岩場にしがみついていても。波にさらわれるでしょう。

で、何を書きたかったかというと、インド洋の波は半端じゃない、と言いたいのです。ジャワ島でもどこの島でも島の北側は、日本の太平洋側の波とあまり変わらないが、南側(インド洋)の海岸に打ち寄せる波の高さは、平均で2m以上あります。低い時でも1.5mくらいでしょう。海岸でピチャピチャ膝下までの水で遊んでいてもいきなり、背丈ほどの波がきます。遊泳禁止という意味はその海岸で水に浸かって遊ぶことを禁止するのです。遊泳禁止ではない時でも沖まで泳いで出ることは禁止です。インド洋側の海水浴場全ての規則です。だから、沖まで泳いでゆく人は一人もいません。サーフィンは一般海水浴場とは離れた決まった場所でやります。サーファーにとっては、恵まれた波が多い。

波が高いのは、当然、沖のウネリが大きいからです。パンガンダランとヌサカンバンガンの間でも紹介していますが、小舟で行き来しますが、うねりの底と頂上では優に10mはありそう、それが、向こうの方から、次々とやってきて、小舟は底と頂上を繰り返します。底の時には見上げ、頂上の時には見下ろします。風が強くなると、頂上から波が返ってきます。海上でもパイプラインのようになることも在ります。始めての人は恐怖を感じるでしょう。

ウネリだけなら何ともありません、泳いでいても、海面を上下するだけなので、気持ちが良いが、三角波が立ってくると、危なくなります。白波が立ち始めたら、私は泳ぎません。風が強くなってきた兆候です。

 

パンガンダランでも津波の時は別にして、何でもない時にでも、漁船やトゥアーの船が遭難して、何人亡くなったという話は良く聞きます。難破船が海岸に打ち上げられている姿を見たことも在ります。

 

置かれた状態が気の毒だったね、真央さん。雑音に潰されてしまったような気がする。可哀そう。この状態でふりーの演技をしなければならなのが、なお気の毒な気がする。

波で 並みで 危険

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(^_-)-☆務まらない

2014-02-08 23:10:14 | 体験

 1849 文章が間違っていて、理解しにくいかもしれませんが、日本語、英語、インドネシア語でウェブ サイトを作ってみました。とにかく、インドネシアでは、まだ、作られていないものだけ(例外はある)を作って行きたいと思っています。輸入している押出し成型品は輸入する必要がなくなりますよ。

http://otaenplaext.net/newpage52.html  PCカバー(LED直管ランプ用)

http://otaenplaext.net/newpage53.html  TP.ASKA 押出成形部門の紹介です。(ウェブ サイト)

 

私がインドネシアで始めて作った製品のほんの一部です。

 

昨日に続いて、今日、見つけた意見をかなりはしょって、見出しだけを抜粋してみました。

『仕事でうまくいかない人の5つの特徴は次の通りだそうです。
1.会社を批判し続ける
2.上司を否定し続ける
3.「自分は仕事をしている」と思い込んでいる

4.「できない」理由を見つけるのが得意

5.「ブーメラン」の意味がいつまでもわからない』

という文章があった。合っているかどうかは別問題だが、これらの事を見ると、仕事でうまくいかない人ではなくて、会社の中の他の人とうまくいっていない人の特徴を指摘している。そして、その前提が仕事の能力が低い人になっている。

仕事でうまくいっていない人の定義は?能力が実力通りかそれ以上には発揮されていない。仕事で成果が上がっていない。会社に対する貢献が足りない。そういう人の事でしょう。その原因の一つとして、会社の仲間や上下関係とうまくやっていけない、というのがあるとは思う。場所を借りるような、個人でする仕事、例えば、商品のセイルスをする人、勧誘をする人などは、同僚と仲良くなどということはほとんど無視していい。生産に携わる人はチームワークが重要な職場が多いので、それなりの気使いができる人でなければならない。仕事で合せるというより、仕事以外の事で他人と合わせる能力が必要とされる。リーダーとなれば、上に会わせるとともに下のレベルアップも考えなければならない。難しいですね。

 

というわけで、私の場合ですが、今は違うが、私の部門だけなら、上手くやってきた。就職して1年も過ぎないうちに、色々ある部門の中で、私が配属された押出し部門を自立させていた。その時は、三交替勤務の班長で部下は6人でした。中卒高卒で東北や山陰出身者ばかりでした。それでも、私の班から製品を立ち上げ、製品化し、次の日に出勤してきたときにその製品に不具合があってストップしていたラインをまた立ち上げる役目をした。そして、押出し部門は十分な利益を上げていた。しかし、三交替勤務を卒業し係長補佐というポジションで押出し部門全体の責任者になった時から、組合の委員長をしていたこともあって、部下からは、信頼されていたし、部下に不満は全然なかったが、仕事をしないで手柄だけを持って行き、自分ができないのに、あれやれこれやれ、遅いなどと、文句タラタラ、挙句に自分が引き受けてしまった仕事を渡しにやらせ、自分は手を出せないので出さない。期限までにできないときは、私に、誤りに行かせ、製品ができた時には自分が持って行く、その製品に公差に入っていない部分があって、客先から指定されると、私に文句をいう、そしては、私に製品を持って行かせる。そしてOKになれば、ご本人が製品の梱包方法や検査方法について打ち合わせに行く。給料は親会社からの出向ということもあり、歳も10歳以上上ということも在り、私の二倍以上だった。バカバカしくて会社を止めることにしたのは入社して5年目でした。実際に止めたのは7年目が終わった三月末でした。

自分で始めれば、順調そのもの、儲かる仕事がどんどん舞い込んだ。ほとんどが、日本では私が始めて作った製品でした。社長を止めた50歳まで、社員は良くやってくれたし、待遇も零細企業にしては人もうや止むように情況にしていた。取引銀行からの信頼も地域でNO1だった。

 

そして、その後、インドネシアでは、やはり、その会社のトップがそれなりに仕事してくれている人なら、十分な利益をもたらし、客先やインドネシア人から信頼されている私の存在も認めてくれていたが、仕事をしない人がトップになった時には、その人からはあからさまに排除された。その人たちが気の毒に思った。その人たちは『』内の事が当てはまる人達でした。私を排除しても、ご本人、そう長くいるわけでもいない、他の人に変わった時に、惨めな思いをする可能性が高いと思う。

 

通勤途中の大雨。

やる やらない やれない

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(^_-)-☆高齢者講習

2013-12-20 22:42:05 | 体験

 1799 路線バスに乗ったのは、何年ぶりでしょうか。記憶にないほど、遠い昔の事。高齢者運転講習会に行ってきた。免許期限から一か月以上過ぎているので、現在、無免許状態、まさか、無免許運転して講習会に行くわけにいかないと思い、バスで行くことにしたが、バスに関しては完全浦島太郎状態、支払い方法は?から始まって、どこから乗って、どこで降りればいいのか、降りてから講習を受ける自動車学校までのルートは、などなど、バス会社や目的の自動車学校に電話で聞いたり、ネットで、出来るだけチェックしたりした。妻からバスのプリペードカードを貰った。1000円で300円お得というやつだ。ただし、9;00~16;00と書いてある。

 

乗る時にこのカードをどこかに差し込む、乗る時は私一人だったので、焦ることもなく、その場所は直ぐに分かったが、ちょっと心配だった。降りるバス停近くになった時に、直ぐに降りられるように。立ちあがったら、「バスが止まるまで立ちあがらないでください」と注意された。乗客は6人、私が一番、年下らしい、これじゃ、そういうのも当たり前かなと思う。

 

バスを降りて、結構、速足で30分掛かって、到着、早く付きすぎて受けまで20分ほど待たされた。全員で6人、女性3男性3、私がこの中では生まれが早いはずだ、他の人は期限が来る前の受講。私は過ぎているからだ。しかし、他の人の顔や振る舞いを見ると、相当、年寄り臭くて、自分のこんなかと思うと厭になってしまう。とにかく、講義が始まり、認知症にテストは無かったが、75歳以上になると、あると聞いた。今日は何曜日かとか、今何時頃かとか、時計の文字盤の一番上の数字はいくつか、など、問われると聞いた。

 

動体視力検査や運転適性検査などを行い、最後に普通に運転免許を始めて取る時のような実地テストコースとコーンの間を左右に何本か抜けるスラロームを走った。脱輪や接触なしで、おそらく満点でしょう。他の方たちは、結構、失敗があった。インドネシアの過酷な条件で運転している私にとっては、非常に簡単なテストだった。13:20~16:20の三時間、終了証明書を渡された。5800円で買ったようなもの。

今時の教習所、自宅まで送迎してくれるところが多いと知った。夜も教習をすることも知った。帰りは、30分もまた歩きたくないし、プリペードカードを使えないので、私の家の方に迎えに行く車があったら、私を送ってほしいと頼んだら、丁度、あった。その車で無事帰宅、これで、今年中の免許更新の準備が整った。後は、免許発行所へ行くだけである。

 

教習所の様子、静岡はいずれも一杯でここ藤枝の田んぼの中しかなかった。

路線バス 無免許 高齢者講習

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(^_-)-☆大変ですね、酒

2013-12-19 22:45:49 | 体験

 1798 インドネシアで、酒飲みの人たちは、入手が簡単ではないから一苦労する。手に入れることができても日本価格に数倍払わなければならないらしい。日本なら1升(1.8L)1000円なのに5000円出しても買いたいということになるらしい。

 

バリ焼酎、アラックバリ、帰国する時、空港の免税店で680mlを2本買った。一本20US$40%アルコール。前回もそうだったが、今回も、店には出してない。アラックバリを買いたいと言うと、何本か聞かれて、倉庫から出してくる。何本でもいいのかと聞くと、「いいという、ただし、日本のカスタムがOKなら」という。日本は二本までだから、日本なら問題なし。何故、アラックバリだけそういう売り方をするのか聞いたら、インドネシアの酒は、売ってはならないらしい、煩い団体があるからだという。最終チェック、登場前の控室に行く前にもう一度、機内持ち込も荷物のチェックがある、この時に、自分のバックに入れないで、免税店で入れてくれた密封されたプラスチックのバッグのままX線に通せば問題なし。日本に土産としてや自分の為に買って持ってゆくなら何の問題もない。

高いと思うが、これが、インドネシア国内で一般的に、エージェントを通して買おうとすると最低でも3500円する。それを5000円でも買う、日本人がいる。

ということで、とにかく、酒類は高い。一旦の会社のコンペや工業団地やアパート住民のコンペなど。ドルフコンペは様々あるが、日本食レストラン主催のゴルフコンペの参加者が多いという。固定参加者が多いという。何故でしょうか、酒や焼酎が飲み放題の場合が多いからだ。ゴルフなどどうでもいいのです、打ち上げの酒が目当てなのです。それほど、お酒のみの方たちは、大変なのです。

ある会社の購買関係をコントロールをしている人は、酒の接待は勿論、アルコール類を持ってくる業者と優先する。取引したければ、品質より、価格より、アルコールです。

 

話変わって、この前、米麹を買いに行ったのは何時だっただろうか、今回は、毎日これから忙しくなりそうなので、買いに行ってきた。「お味噌を作るのですか、それなら、このパンフレットを持って行って下さい」と渡された。味噌と甘酒の作り方が書いてあった。濁酒の作り方は載っていない。

インドネシアへ持ってゆく、友人への土産だ。濁酒は簡単に作ることができる、インドネシアでは、温度管理は必要ない。自然で30℃前後になっているからだ。ネットで紹介されているイースト菌Sel ragiを加えるなどの方法で準備し、その温度のまま放置しておけば、泡が発生し続ける。ガーゼや手ぬぐいなど上に被せるものはインドネシアで手にはりにくいのでもって行った方が良いかもしれない。

絞ればいいだけだ。酒粕(私はこれを貰う)も取れるし、炊いたご飯を追加し、処方通りに繰り返し、続けて酒を作ることもできる。米麹を追加して行けが、新たに始めからやる必要がない。

私の場合、米麹をインドネシアへ持ち込みも問題はないと思っている。

 

米麹屋(以前一度紹介した店と同じ)。下の子1年生。  

 酒 酒粕 アルコール

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(^_-)-☆チャペッでした

2013-11-04 22:56:45 | 体験

 1753 予定通りというか、止む負えずというか、出勤をしていた。

そして、満足できる製品が出来あがった。もう一度休み明けの水曜日に再現トライをして確認する。片づけは他の人に任せて、13:00過ぎに出発し、ジャカルタのブロックMへ向かった。日曜日で空いているはずの高速道路が、ハリムの料金所を過ぎたところから、大渋滞になってしまっていた。やっと、たどり着いた。スマンギの出口が、閉鎖されていて、出られない。次の出口まで行かされた上に、そこで降りても大渋滞、スナヤンには近づけないらしい、ずっと、南に回って、戻ってくる形でブロックMに着いた。なんと、16:00過ぎだった。3時間も掛かった、トイレに行ってこないで出発したので、ずっと、こらえていた。パパヤの二階のトイレに飛びこんだ。

 

 で、何故、ブロックMかというと、そうとう以前から、どんなものか、一度見てみようと思っていた場所がある、碁会所です。慈恵という店で、毎週、土日に何人かが集まって、囲碁をしているという話は、知っていた。スディルマンのスミタマスの日本文化センターでもやっている、こちらは、日本人ばかりでなく、インドネシア人や中国、韓国の人もやっていて、国際的だと聞いている。ブロックMの方か、日本人だけの集まりらしかった。場所は、パパヤの入り口の並びで4軒目くらいか、昔の喫茶店の入り口の様相の店だ。入ると、直ぐ右のカウンター席が有りその奥に碁会所が見える、私が恐る恐る入って中の様子を伺った時には二人しか見えず、碁盤が見えなかったので、声を掛けてみたら、そうだという。しばらく待ってもらえば、そろそろ、何人か見えますよという。パパヤで買った弁当を待っている間に、食べていたら、店のおかみさんが、ここでも、料理ができますよ、そこのメニューが書いてあるでしょ、と、壁の上の方の短冊のような、板ペッらを指差して、言った。

 

 肝心の碁だが、間もなく、相手の方が現れて、一局お願いした。四目置くという、点数があって、置き石の数と込み数が表に表してあるらしい。十数年ぶりの一局目です。結局、下の真ん中と右隅の黒が死んで、私が十数目を残した。一時間半ほどかかった。二曲目は、込みが無くなった。10目ほど負けだと思う、数えずに投了した。機会が有れば、また、寄ってみたいと思う。使いなれない、頭脳の部分を使ったので、疲れた。運転を、トイレを我慢しながら3時間、それだけでも疲れているのに、頭もふらふら、酸欠状態、19:00にブロックMから出てチカランへ、20:00に家に着いた。しかし、ブカシバラット辺りから、アクセルを踏む右足首が攣ってしまい、痛いのをずっと我慢しながら運転していた。

Banyaknya acara di kawasan Gelora Bung Karno, Senayan, Jakarta Pusat, membuat lalu lintas di daerah itu macet parah. Tempat parkir penuh luar biasa sehingga pengunjung kesulitan untuk menyimpan kendaraannya.

Tes CPNS (calon Pegawai Negeri Sipil ) dengan PNS ( Pegawai Negeri Sipil)

家に戻ってから知ったことでした。ジャカルタ中心部の渋滞の様子です。スナヤンのブンカルの国立競技場で催しが多すぎて、酷い渋滞になっている。駐車場が足りない。公務員採用試験?もあったようだ。ジャカルタだけでなく、全国各地の競技場のスタンドで試験が行われた。とんでもない日にジャカルタへ行ってしまった。それも、ブロックMへ行くのに、スマンギまで行かないで、途中のパンチョランやパサールミングで降りてゆけば良かったと後悔している。

囲碁 快適 疲労

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(^_-)-☆臭くない

2013-10-18 22:48:55 | 体験

 1736 ラフレシアのことになるとちょっと熱くなる。もしかしたら、日本人で一番、この花を数多く見ているのが私かもしれない。日本の植物学者のどなたよりも、この花に会っている機会は多いかもしれない。学術的にどうのこうのという感覚では無く、神秘的な恋人に会いに行くような感覚だと思う。咲くメカニズムなどどうでもいい、ただ、ただ、不思議だなと思うのが良い。

ブンガ バンカイの匂いについて書いておきましょう。実際に匂いを嗅いだ事がある人はほとんどいないと思います。日本人ならなおさらいないと思います。それほどチャンスは少ない。Bunga Bangkaiですよ、ブンガは“花”です。バンカイはバにアクセントが有ります。日本語の挽回とは発音が違います。“動物の死骸”という意味です。転じて交通事故の後の滅茶苦茶になった状態や火事の酷い焼跡の事もバンカイと表現することが有ります。インドネシアでは、変わった匂いのする花の事を、それぞれ各地でブンガ バンカイと言います。姿、形は似ても似つかないものです。

ラフレシアはブンガ バンカイの一種にすぎないのです。ラフレシア アルノルディはスマトラのブンクルーに有ります。ラフレシア パトゥマはパンガンダランです。私は行ったことがありませんが、マレーシアといってもマレー半島ではなく、ボルネオ(インドネシアはカリマンタンといいます)のキナバル山辺りで、何種類かがみられるようですね。それぞれ、ラフレシア何とかと名前がつけられているでしょう。

 

http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/newpage041.html ブンクルー

http://otaindoesiaextrusion.web.fc2.com/newpage0010.html ブンクルー

 

http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/newpage0307.html ブンクルー写真

http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/newpage0304.html ブンクルー写真

                                                                                                         

http://nanbuindonesia.web.fc2.com/page238.html パンガンダラン 写真

 

http://otaenplaext.net/newpage32.html パンガンダラン

http://otaenplaext.net/newpage33.html パンガンダラン写真

興味の或る方は、これらに目を通して下さい、そうすれば、かなりの専門家になれるでしょう。さて、その動物の死骸に様な匂いですが。臭い、と、思ったことは一度もありません。トイレの匂い?とんでもない、そんな悪臭ではありません。強烈な匂いというのは、大袈裟な表現です。ハエを集まる?そんなのは嘘です。ブンガ バンカイが咲くようなジャングルの中にはハエなどいません、実際、15年以上に渡って、多くの花に会っています。蕾や蕾が大きくなり茶色の皮で覆いきれなくなり真ん中からオレンジ色の花弁が見えてくる、咲き始めたばかりから真っ黒になって、ぼろぼろになって、どこかに消えてしまうまでを、何度も見ていますが、一度もハエがたかっているのを見たことが有りません。近くにハエが居るのも見たことがありません。

 

そして、移植はできないと学者でおっしゃる方がいるようですが、ボゴールの植物園で咲かせる花はブンクルーやパンガンダランから蕾を取り寄せているのです。それぞれの場所から、移植した人に会って、私が移植したという話を聞きました。ボゴールの植物園にはハエがいるらしくて、ハエがたかっている写真を見たことが有ります。花粉?これも見たことがない、どこについているのでしょうか、粉らしきものが無い。雄花、雌花?どこが違うのでしょうか、見た目だけでは、区別がつかない、本当にあるのでしょうか。真ん中に突起がいくつもある、これが、それなのでしょうか、そうは思えない。種があるのでしょうか、それらしきものを見たことが無い、風で舞うのでしょうか、それとも、小さい昆虫などが身につけて運ぶのでしょうか、木に張り付いて横向きに咲いていることもあります。種がそこにくっついたのでしょうか、見れば見るほど不思議です。種の写真を見たことがない。ミクロの小ささなのでしょうか。キノコのようなものと説明するなら納得するが、ハエなど昆虫類が受粉させ、種を運ぶなどという話なら、現実的ではないので、信じることはできません。

 

私は動物の死骸の匂いがどんなものか知りません、とにかく匂いは咲いている時、かすかに匂います、人間が捨てる生ごみや果物のドリアンなどの臭さは鼻が曲がってしまうほどですが、ラフレシアの匂いは、そんなに悪臭ではありません。独特な匂いです。匂いに敏感な人がその匂いを察知し、風向きを確認し、咲いているだろう方向を示します、それに従って、捜します。この匂いがすれば必ずと言っていいほど、出会うことができます。人に依っては、匂いがしないのに突然、目の前にあった、などということもあり得るくらい、匂いはかすかです。私は今では、その匂いを感じることができます。何か野生動物の小便の臭いだろう、人間の小便の臭いだろう、お前、おならをしたな、昨日、風呂に入っていないだろう、などと、冗談を言いながら、捜すくらいの匂いです。

ラフレシアではありませんが、アモルファス チタニュームは咲くときだけ匂いますが、直ぐに閉じてしまって無臭になります。鼻をつまむなどということは、全くありません。

 

典型的な皮剥け蕾です。全く匂いませんが、この状態の時に小動物が突っついて傷を付けると、最悪、開かずに腐ってしまうこともあります。咲いても、花びらが欠けていたり、腐ったりして、形が崩れるものも多い。パンガンダランのジャングルなら、この状態やもっと小さくて皮が剥けていない蕾には、いつでも、必ず、いくつかに会うことができます。

 

昨日書いた新手法の金型で作る予定の製品の注文が、ジャワ ティムールの会社から入った。この仕事が60歳代最後の仕事になるようになればいいと思う、70歳代まで持ち越したくない。

 

パンガンダラン西海岸のサンセット、凧上げの少年とその妹と父親か。気に入った写真です。

希少 匂い 神秘

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(^_-)-☆遅い日系企業

2013-09-18 22:29:20 | 体験

 1706 バンドンの中国系の人が経営している会社へ営業に行ってきた。バイパスの高速道路から近いが、ゴミゴミした、かなり古くからある工業団地の中、場所は非常に分かりにくい。経営者の経歴は詳しく聞かなかったが、歳は見かけ60歳くらいか。良く、中国へ行って、自分が使いたい部品を捜しに行く、安いものを捜す。品質よりも安いものを捜す。その上、なお、値引きを要求して直値下げさせて、手に入れるそうだ。見本市のようなものが、年中、どこかの都市で、やっているそうで、そこへ行っては、値段の交渉をするのだそうだ。手に入れた部品を手にしながら、熱く話をする。

 

 その上で、日系企業に対する、考えを話しだした。日本人は品質第一で値段は高くても仕方がない、そして、新しい製品を出すのに時間を掛ける。中国人は全くその反対だと。

一緒に行った或る日系会社のインドネシア人(生粋のプリブミ)が、それに、大きくうなづく。新しいものを採用するのに時間を掛け過ぎる。日本の承認を必ず取らなければ行動を起こさない。例えば、太田さんが出してくれた部品についても、私がテストした限りでは、今までのものより、色々な点で、直ぐに、今までのものから帰ればいいと思うのだが、日本人は、耐久テスト、何時間以上やらなければならないとか、日本へ送って承認を得なければならない、などで、いつになった、採用するのか、はっきりしない。売り出すまでに時間が掛かり過ぎるし、値段も高い。“自分たちでもこれじゃあ、競争に着いてゆけないよ、と、分かる”という。“そういう話を日本人に言っても聞いてくれない”電気製品、携帯電話が典型的だという。”ね、太田さん“と皆さんが、私を見て言う。

 

私もその通りだと思う。これじゃ、日本は、次々と、色々な産業で、抜きさされてしまうだろうと思わされた。こんなに、雑然とした工場で、環境がどうのこうのなどは全く問題されないで、中国から安い製品を買って来て、組み立てて中間部品を日系企業に提供しているのです。この環境を、その会社の日本人は見に来ていないという。そして、採用されるまで一年かかったという。日系以外にも同じようなものを納めているが、既にもっとすぐれた新しい安い製品を納入しているそうだ。日系企業にも紹介してあるが、採用されないそうだ。今や日系企業を相手にしても、必要が居あと思うところに気を使わなければならないので、相手にしたくないと、言いたげだった。

 

 色々、見せてもらったり、話をしたが、結局、私との話では「原料のブレード番号と図面と目標価格を、今月中は中国へ行っているので、10月に、示すので、検討してみてください」ということだった。「でも、原料は輸入だし、少しだけだから、高いでしょう。中国の市場は比較にならないほど大きい、原料も地元で大量に作っているし、製品も沢山作る、だから。中国と価格で競争するのは大変ですよ」と、閉めくくられてしまった。インドネシアで日本人では無理でしょう、と、言っているように受け取った。

 

遅い 高い ほどほど

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(^_-)-☆成田ジャカルタ

2013-09-07 23:18:43 | 体験

 1695 また、インドネシアに戻っている。いつものパターン通り、6;20に静岡の家から出発、成田空港到着は、10分遅れの9:40でした。12:00発のガルーダには、充分な余裕がある。そして順調にジャカルタへ到着、と。ここまでは良かった。そこから、まいった。18;00に白タクで空港から出発、タマンアングレック辺りから、大渋滞、チャワンを通過したのが21:00、渋滞が無ければ30分のところを3時間かかった。結局、会社へ寄ってから家に着いたのが22;00を遥かに過ぎていた。日本時間では、7日になっている時間だ。疲れも、半端ではなかった。土日以外の出発、到着は、避けるべきだった。大反省。

 

成田第一の内装が一新されていて、全体的には、色々なものが分かりやすくなり、洗練された風景になっていて、外国人には受けそうだ。そして、いつものように、充電用のコンセントを捜す。あった、流石、サムスン、ギャラクシーの充電場所を設置してあって、四つのコンセントの一つをサムソンが使っていて、見事に、従来からある二つのコンセントの差し込み口を邪魔していてプラグを差し込めないようにしてある。私はたった一つ使えるコンセントを使うことができた。意識的にそうしてあるのでしょうか。空港の、例えば、掃除機などを操作する人からクレームが付かないのでしょうか。

 

スカルノハッタへ着いてから、例によって、ポーターがカスタム通過を手伝うからと言って荷物を持とうとする。必要ないからと、断る。私の荷物が出てきた。それには、はっきり、三か所にチョークでチェックが書かれている。それを見つけたポーターの一人が、自分が問題なく通過させてやると、カートを引っ張ろうとした。いつもの事だから、問題ないよ、手伝いは、要らないよと、断って、カスタムに向かった。チェックが無ければ、手荷持だけX線を通すが、チェックが有れば大きなバゲジを通す。そして、そのあと、荷物を開けろと言われる、ということだが、私の場合は、チェックが有って、X線を通した後も呼び止められない時の方が多い、というより、ほとんど、呼び止められたことが無い。私の場合は、若い係官に、ここにチェックがあるから通すのか、と、こちらから、話しかけて聞く。そうすると、必ず、インドネシア語ができるのかと聞き返される。できるよ、などという話をしながら、コロに乗せる。そのまま、トンネルの向こう側に行く、なにも、言われない。

一度だけ、燐光顔料を持ちこんだときに、怪しまれて、開けられたが、安全シートを持っていた事と、インドネシアではまだないものだから、インドネシアで皆さんに知ってもらうためのものだと説明したら、頷くばかりだった。ということで、普通の様子をしていれば、チョーク恐れる必要なし。他の人に平気だよとは、言えないが。

 

もうひとつ、家の門扉が見事に直っていた。流石、メンナンスの会社、手際が良し、有りがたかった。

改装 意識的 堂々

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(^_-)-☆連続手伝い

2013-09-06 10:48:32 | 体験

 1694 日本での活動最終日でした。ほぼ三週間、別の世界で、充分、英気を養った。最終日の今日、インドネシアから良いニュースが入った。原料の手配も順調に行っているようで、インドネシアに戻れば、多分、大きな動きが出ると思う。

 

昨日からの続き、何故、インドネシア人を社長にした会社を閉じさせたかというと、これがまた、原因は、しがらみでした。N社の会長から、進出に当たって、“お前、どうしても、手伝え“とい事になって、仕事をそっちのけで、工場を捜したり、借りたり買ったりする工場の交渉に当たったり、その間に、”今やっている会社をN社の押出部門として、移せ”という話にもなった。会長と私の付き合いは古い、30年以上、下請けとして、目を掛けてもらっていた、大いに、私の技術を認めてくれていた。信頼関係でもあるが、兄、弟に関係のようなものもあると思っていた。K社を手伝い始めた時にも、“何故、俺の方を手伝わないのか“と、言われていた。日本へ帰れば、必ずゴルフをやる間柄にもなっていた。これは、今でも、続いている。

 

K社の跡地に第二工場を作るなどの手伝いの後、いの一番に、押出し部門をN社の中へ移した。従業員全員を正社員という条件だった。そして、いきなり、押出し部門は利益を上げていた。他の部門を含めた、全体が黒字になるのは二年後だった。先駆けて、引っ張る形になっていた。その後、本社のテクノセンターにどうしても来いというので、一年間ほど、掛け持ちをしていた。しかし、最初から分かっていたことだったが、稟議稟議で試作を思うようにできないばかりか、通勤が苦痛だった。そこで、契約満期と同時に、誰にも話さず、会社から抜けてしまった。当の会長にも、話をしなかった。会長は、私が居なくなって一か月後に、分かったらしい。

 

その後、しばらくして、今の会社にお世話になることにした。

 

一番目の会社の押出部門化、会社全部を私に任せていれば、今、二社目と三社目(N社)でやっていることすべてを独占的にやっていたはず、そして、二番目の会社の社長がまともなら、三社目の仕事も二社目でやっていたはずだ。一社目も二社目も、大きな技術と利益を逃がした。その点、三社目は、棚ボタの利益を受けている。一社目から私について来ていたインドネシア人は、安定した労働条件の中にいる。

 

パチンコ屋だが、意味がわからない、宣伝板、分かる人には、分かるのでしょうね。

 

 洗濯物をたたむ手伝いの下の子。

 解放 自由 稟議

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