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南の島の土着民風自由人

自分の生活、計画し実行してきましたが、病気や人間関係など思いがけない障害に遭遇しました。

(^_-)-☆生き生き

2018-10-11 23:12:42 | 

 3554 水を得た魚のよう。ナンブで抑えられていたものが解放され、新しい製品、新しい装置を生き生きとした様子で、作り始めている。私に来る仕事は後を絶たないし、断ることもない。私自身ではできないこともある、例えば、ローカルの機械加工屋さん、装置作り屋さんとの細かい部分の会話、注文など。彼がやってくれるから、私は眺めていればいい。私がやろうとすると、私がやるという。今迄のところではそうはいかない。まず、出来ないと断ってしまうから、彼がしたいことをする機会がほとんどないからだ。

私は、彼の能力を分かっているし、何かあったときには、私がバックアップするし、責任を取る、資金的にも心配はかけない。だから、彼は、より積極的になれる。

 

従業員全員への話も、私が言うより数倍以上の効き目があるし、理解しやすいはずだ。非常に助かっている。ただ一つの利益が上がっている押出部門の存在をないがしろにして、携わっている従業員の気持ちを理解しないで、場当たり的な言い訳しか客先にしない経営では、やる気はなくなるし、機会があれば、止めて、別の場所に逃げたいというのは、誰だって思うこと。そして、彼は、その場所に移った。そして、彼の動きを見ると、ナンブでどれだけ抑えられていたかが理解できる。

 

今日は、二ラインで試作をした。ヘニー君とディキ君、それぞれで、パラアマントベッドとホギだ。見ていて楽しくなってしまった。私は二ラインを行ったり来たりしながら補助をした。手伝いをした。彼らの手が届いていない場所で何となく、手を出した。こんな優秀な助手はいないぞと思いながら。

 

 

一つは完成したが一つが明日に持ち越しだ。

ナンブのジャカ君から電話が入った。立ち上げがうまくいかない製品についての相談だ。ディキ君がいなくなってしまったので、私に相談だ。勿論、アドバイスをした。太田さん、僕もそっちへ行っていいかと聞かれた。正式名はジャカリア君だ。

試作 助手 し甲斐

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(^_-)-☆人って!

2018-08-04 21:55:36 | 

 3486 取り巻きが、改めるべきだというべきだ、だから、取り巻きの責任だ、会長自身は、やれとか、持ってこいなどといっていない、という評論家風の人が多い。変でしょ。私が、すぐ思うことは、私なら、用意されているものが特別だったと思えば、次から、無駄なことだから、自分に対して特別扱いをしないようにと言うでしょう。しかし、会長は、準備されたものが、頼んだものではない、と言うだけで、特別すぎるとは言っていないし、今後は、これほどのものを辞退するとは言っていない。それは、彼が要求した取りになるよう願っていて、それが満たされていること確認しているからだ。そして、すべての人が、自分にひれ伏していることを。それによって、確認しているからだ。彼は、満足していたのでしょう。自分の発言が恐れられているという意識は毛頭ないのでしょう。こういうことを、評論家、解説者は、指摘していない。

 

  彼の言っていることのほとんどは、矛盾した居ると、まったく関係ない私でも、思う。突然入院して、インターハイの開会式を欠席したが、暴力団に脅かされたからと言って、インタビューに応じた。脅かされなければ、病院に寝続けていたのでしょうか。脅かされたって、止める理由は全くないと言い、こんな騒ぎになっても、会長に君臨し続けることができると思っているのでしょうか、固執したいのでしょうか。日大事件もそうだが、選手優先ではなく、自分優先なのでしょうね。文化省、スポーツ庁、ボクシング協会?すべての方々にとって、やっぱり、厄介な人でしたね。第三者委員会とか何とかではなく、鈴木スポーツ庁長官は即刻、自宅謹慎にさせて、暫定会長を指名すべきだと思う。その後、すべてを明らかにするよう、調査をすればいい。

 

孫会社の社長夫婦と夕食を共にする。何日か前に、工場を覗きに行って、彼がちょっと戸迄っていたことを、アドバイスして、解消させたお礼だったと解釈している。POMのパイプの製造だった。彼は、まだ、43歳、創業4年目になる。まだ、まだ、これからだ。

 

この食事の中で、ずっと以前、私がまだ太田化工の社長でいたころ、関係があった会社の社長さんが既に亡くなっていることを聞かされた。その中に、二人、私がやっていた仕事、私が作っていた製品を美味しいと思ったのでしょう。良く、工場を覗きこんでいて、何時の間にやら、同じような装置を、私が考え出して、その装置を作ってもらった装置屋に作らせてしまって、その製品を作り始め、私の客先に売り込みに行ってしまった。一社はエッジング、灯油での冷却、形決め装置、もう一社は、スパイラルチューブの定尺カットまでの装置、違う装置会社だったが、二社とも、私がアイディア通りに作ってもらった装置、私に断りなしに、作って提供した。見っともないことをするな、その後、その装置屋には、何も頼まなくなった。

 

http://otaenplaext.net/newpage305.html

そして、エッジングを作ってしまった会社は、グロメットを作ることができない、スパイラルを作ってしまった会社は、LDPEではできるが、N6ではできない、そこで、両者とも、その後、それらの製品を作りたいが、装置屋に聞いてもできるはずがない、私に聞きに来た。どちらも、私より、7~8歳年上の社長さんだった。私の客先だったが、自分で作り始め、その他の私の客先に売り込みに行って、一部を奪ってしまった。その人たちが、私に、できない製品ができるようになるまで技術指導してほしいと頼み込んできた。

凄いな、商売というものはそう迄して、やるのかなと、あきれたと同時に、気の毒に思った。25年ほど前の話だ。その方たちも今はいない。息子さんが後を継いで会社は継続しているという。真似したそれらの製品を作っているらしいが、どこへ売っているのか、目立って邪魔にはないないという。それ以外のものができないからだ。

 

20年以上使っているバゲジ、大分、ほころびが来ているがまだ使える。リックサックは、15年ほど使っていたものが、ほぼ使えなくなっているので、この中に、今までのリックサックを入れることができるちょっと大きめのものを買った、1200円。二重にして使おうと思っている。

気の毒 欲 固執

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(^_-)-☆現状打破

2018-05-21 21:53:40 | 

 3411 ブカプアサ ベルサマをリッポチカランのシティーヲークのソラリアで、久しぶりに会った、20年以上前変えあの知り合いで、私の生徒の一人でもあるディキー君とだった。ちょっと触れたが、今の会社で私に代わる人を模索していたが、たまたま、彼が、自身の現状に満足していたくないらしくて、環境を買えたといっているという話があり、電話で話したよころ、というと、かなり、その気持ちがはっきりしているので、会って、詳しい話を話してみようと思った。

 

彼はチアンジュール、ボゴールの南東、スカブミの東、バンドゥンの南西、の出身。バンドゥン郊外のパダジャララン大学、日本語学科の出身、そして、静岡で日本語学校に2年間、いたことがあり、その時に、アルバイトで太田化工で仕事をしたことがあった。その時の縁で、彼がインドネシアに戻ったときに就職先の相談をされ、キタガワで押出の仕事を勧め、私の弟子のようなものになった。

 

その後、いろいろあって、今の会社の押出部門のトップになっている。その部門に日本人はいない。世間話から、徐々に、本題に入ってゆくと、その会社、プラスチックの成型とその関連のをしている、押出は小さい部門で、%90%以上は射出関連、トップからそれらの部門に日本人が責任者としているが、押出には日本人はいない。要するに、新しい仕事を取れない、現状維持だけで、自分の今の仕事は、やることがない上に、仕事を知る日本人がいないから、現状を理解してもらえない。いても意味がないから環境を替えたいという。

 

技術者として、気持ちは十分わかる。今後の彼の行動について、私の希望を話しておいた。どうなることやら、彼の決心は堅いようななおで、何とか、添えるように手伝いたいと思う。レバラン休暇の前にはっきりする。

 

ブカプアサまで一時間ほど前の私が住む田舎町のメイン通りの様子、道の両側に、手つくりの飲み物を売る店が並んでいる、それらを買う人が群がっている。殆どの家庭では自分で作るより、買う人が多い。

不満 希望 打破

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(^_-)-☆そんなこと、

2018-04-01 22:24:43 | 

 3361 グリーンが空くのを待っている。キャディーと日傘。ピンクのロータスは昼前に閉じてしまうが、白紫は、何日も閉じることなく少しづつ大ききなり、ここの花は最大15cmくらいになる時がある。南の島の天国が近いこと感じる。
<div align="center"><a href="http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/019/709/89/N000/000/018/152250912048402466180_IMG_2114.JPG" target="_blank"><img src="http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/019/709/89/N000/000/018/152250912048402466180_IMG_2114.JPG" width="360" height="270" class="up-image" alt="画像" title="画像を等倍で表示します" /></a></div>
<div align="center"><a href="http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/019/709/89/N000/000/018/152250908881626188180_IMG_2120.JPG" target="_blank"><img src="http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/019/709/89/N000/000/018/152250908881626188180_IMG_2120.JPG" width="360" height="270" class="up-image" alt="画像" title="画像を等倍で表示します" /></a></div>
その気になる人の続き、レストランの前の車のなかで、待ったいると、ルコに入ったと聞いてから30分後に、レストランへ入って行ったのを見た。私がいないことが直ぐわかるはず。着いたよという電話がかかってくるのを待っていた。意向に掛かってこない、5分後に、私も入った。カウンターに向かって、何やら、注文していた。遅かったね、そうしたの、と聞いたら、ここの場所が分からなくなってしまった。何人かに聞いたが、インドネシア人、ここの事を知らない、といわれた。という。やはり変。

どこの会社の誰がどうしたの、といった話ばかりだったが、自分の話になると、今の会社、辞めたい、どこか、太田さん紹介してとなった。専門が違うから何もできない、社長から、5Sだけでいいから、やってほしいといわれ、それまで、酷かったが、毎日、5Sだけをして、会社の中はきれいになったよ。でも、今は、その仕事がなくなってやることが無くなった。女性事務員、お局さんの目線が冷たくなった。だから、止めたい。そういわれたって、こっちじゃ、どうにもならない。それこそ、それらの業界との付き合いはないのだから。とにかく頼むよと言われて分かれた。

そして、月曜日の夕方、電話がかかってきた。首になった。今月いっぱいで、終わりといわれたという。明日から出社しなくていいといわれたという。そもそも、誰の紹介で、自分の専門外の仕事の会社に入ってしまったの、から、変だ。

そして、火曜日に、ある人にも頼もうと思って、電話をしているが、鳴っているのに出ないから、太田さん、そのある人のこと知っていたよね。電話番号が間違っているかもしれないから、教えてくれない?という。私は、そのある人に電話をし、番号が正しいことを確認してから、その人に約束通りメールで、番号を教えた。

それから、一時間後に、その人から、太田さん、番号分かった?といってきた。おいおい、メールで、送ったよ、確認して。で終わった。すると、今度は、そのある人から電話で、その人からの電話がまだ来ないよ。どうしたのかな。だった。ある人から、電話をしてみるから、その人の番号を教えてというので、教えた。

その30分後、あの人から、また、電話。電話をして、その人は、出たという。でも、こちらの名前を言っても黙って、話をしない、何回か、あの人自身の名前を言ってみたが、電話は聞いているようだが、話をしないという。だから、切ったという。どうなっているの太田さん、その人、変だよね、だった。

水曜日になって、朝、もう、いい加減にしてよ、と思っていたその人から、また、あの人の電話番号、もう一度、教えてといってきた。SMSも確認すればわかるでしょ、といってやった。あっそうか、SMS開いて見ていなかった。といった。どうなっているの、昨日のメールもSMSも見ていなかった。どうして、見るんだっけ?などと、口走っていた。

そして、その人から、昨日のゴルフをしている最中に電話が入った。夕方の便で日本に帰るという。あの人と話をしたの?と聞いたら、電話が繋がって話をしたという。そして、就職先の紹介を頼んだが、あの人、元気がないね、あの人も、コロコロ。かえているから、知っていると思ったが、体の具合が悪いから、間もなく、一時帰国をするらしくて、紹介どころじゃないみたい。ということで、14日に戻るから、仕事、捜しておいてよ。私は、あなたの仕事、今、どこも、景気が悪いから、期待されても困るよと言ってはおいたが、聞いていないようだ。
その人 あの人 困る

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(^_-)-☆恩師宅訪問

2017-10-16 22:42:19 | 

 3194 次は、中学の同級会へのアプローチの一つ、担任だった先生宅へのご挨拶だった。何年ぶりだろうか、インドネシアへ行っている期間中、一度だけ、私も幹事の一人になって、学年会を催したことがあった。それが、15年ほど前だったと思う。全学年11クラスのほとんどの先生、多分、10人出席されたと思う、各クラス、平均20名合計200人以上の催しだった。その時、私のクラスも20人以上参加し、先生も見えられ、二次会では、会場を変えて、クラス会になった。

その後、学年会は次に主催する組が決まっていたはずが、開かれないままだし、クラス会も私がほとんど日本にいないから、他の人が主になってやることもなかった。

 

私たちに担任だった先生は、11歳とし上、85歳でした。見かけもそうだが、私たちとあまり変わらない年齢に見えるし、言葉も、表現もはっきりしているし、記憶も衰えていない。75まで、北高校で教鞭をとっていたとか、その後は、町の役員や老人会の幹事、市の手伝いとか、やることが、今でも、たくさんあるとか。やはり、動き続けている、そして、病気らしい病気のも掛かっていないことが、普通に元気でいられるのだと、ご本人も分析していた。お話、私にも、参考になった。

 

趣味は多かったと記憶している。中学一年間だけの接触だったが、昼休みに、曲の解説をして、クラシックの音楽を流していたのも先生だった。自宅から持ってきたものだった。カメラも当時では、高級な大きな一眼レフを持っていて、私たちを撮影していたことも覚えている。ちょっと、家庭が経済的に恵まれている先生だなと思っていた。当時、静岡では、ちょっと、有名な、洋裁学校の息子さんだったことを、卒業してから知った。今回、初めて、応接間に通されたが、書物とLPとCDのコレクションで溢れかえっていた。なるほどと思う。

 

三時間近く、とりとめのない話をし、同級会の確認をして、お宅を後にした。

 

先生の話によると、当時のほかの10人の同学年担任だった先生は、すべて、お亡くなりになっていた。

 

静岡の街の東側、東静岡駅の東に行ったが、コンテナターミナルになっていた。大型のショッピングモール?の脇を通ったが、出入りの車と近くの講堂に出る信号で、思いがけない大渋滞になっていて、これも、びっくり。私にとっては、この風景、新鮮に映った。今日も雨だった。

恩師 元気 活動

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(^_-)-☆ちょっと長い話

2017-08-26 22:37:39 | 

 3143 10年以上前の本当にあったこと。 

某有名私立大学の理工学部出身の青年、25歳。本社勤務暦3年の将来有望な期待される青年らしい。中学校の時から野球をやっていたと言うことで体もいいし腕力も背筋力もありそう。ゴルフも太田さんには、悪いけれど、250mは軽いですよ、と、言っていて、なるほど、実際に軽々と私より100m先に飛ばす。

 

現場で金型の解体の指導を始めた。順番にこうして、ああして、これを緩め、これをはずしてから、これを緩める、などと、しゃべりながら私が作業を進める。ご本人さん、頷くでもなく、手伝おうとするでもなく、メモをするでもなく、腕を後ろに組んでみている。その内、ボルトが硬くて外れない物に出会った。私がパイプやパンマーを使って、緩めようとしたが、完全に焼きついているか、傷が食い込んでしまっているかで、ビクともしない、私の力ではどうしようもなかった。また、力任せにやって、ボルトをちぎってしまっては、後始末が面倒になるなどとも話した。彼はそれでも、手出しをしようとしない、見ているのか、眺めているのか、立っているだけだった。 ちょっと、力を貸して、と、頼んだら、疲れやすいから、出来ません、と、言った。「こういう仕事も、自分でやらなければならないときが来るよ」と言ったら、「私は、力仕事はしません」ときた。

私は、最期の手段で、全体を外し、焼き場に持っていって、ボルトごと金型を真っ赤に焼いてやわらかくし、ボルトを水で冷やして、収縮させて、万力に加えてボルトを外した。ご本人さん、感心するでもなく、納得するでもなく、本当に無関心な態度で、眺めていただけ。こんなやつもいるのかと、開いた口がふさがらなかった。私の仕事を冷ややかな目で眺めながら、何を考えているのだろうか。インドネシアに来て、どんなことをしようとしているのでしょうか、自信有りげに何もしないので、不気味である。

 

 世の中にはすごい人もいるもので、何が、自信ある態度の裏づけなのでしょうか。25歳や30歳ごろに、60歳の目上の人、私に、仕事をしたくないと言うのだから、たいした者だと思う。当時のY君のことだ。現場の仕事をしたがらない。私が教える仕事は頭で考えるよりも自分で積極的に手を出して、体で覚えるチャンスを一杯つくることだが、それを、最初に言って聞かせたのだが、本人、一向に現場へ出ようともしない。「太田さん、何々の基準書はありますかとか標準書は整っていますか、あったら、見せてください」と言う。監査に来たようなことをいう。こちらは、「あるけれど、目安であって、自分で体験して、自分で書くくらいにならないとだめだよ」と言って聞かせる。それでも、インドネシア人スタッフにそれらの書類を要求して手に入れたようだ。しかし、インドネシア語である。全く理解できない。直ぐに読むことをあきらめて、返してしまった。さすがに、日本語の物を求めてこなかった。どうするつもりだったのでしょうか。もしなければ、私に作るように要求するつもりだったのでしょうか。監査員のつもりだったのでしょうか。とにかく、事務所にいないで、現場で皆と話をしたり仕事をしたりしなさい。其れが、仕事も言葉も速く覚える最良の方法だよ。と、言って聞かせた。

その後はどうするかと思っていたら、現場へ出ることは出た。しかし、現場の椅子に座って、周りを眺めている、みんなの仕事を見ているのかいないのか、目的は何なのか、周りの人が、迷惑しているのが分かる。それでも、じっとしている。

 

何しにインドネシアへ来たのか聞いてみた。「行けって言われたから」と言う返事。これから、どうするつもりか、聞いてみた。「別に、何もする気はない」と、言ってくれた。「それじゃ、いてもらっても困るから、帰れば」といって、それっきり、後は話しかけない。ご本人さん、社長と工場長の間にある、お偉いさん、来客時だけ使う真ん中の大きな机を前にして、背もたれの大きな椅子に踏ん反り返って、事務所全体を眺めている。私は、その事務所の隅っこの窓際に一人陣取っているのであたかも、彼が威張った馬鹿上司で、私は、ふきだまりに追いやられたような雰囲気。誰がみてもそう見えるだろう。

其れが、彼が帰るまで二週間続いた。その間、一言も口をきかなかった。私の技術を覚える為に派遣されてきたとばっかり思っていたし、そう、紹介されてから、その気になっていたが、彼と会って一週間後には、こりゃどうにもならないなと思った。一ヵ月半で日本へ帰っていった。恐れ入りました。

 

この青年、その時の社長は踏ん反り返る人ではなかったが、今の社長は、その青年が帰る前、二週間踏ん反り返っていたと同じスタイルで踏ん反り返って三年が過ぎた。従業員の誰からも、あの人は仕事嫌いで、会社にあまり出てこない。いるときはいつもそっくり返っていると言われているが、本人には伝わっていないようだ。

そして、以前の社長のときは、踏ん反り返っていなかった工場長が,箍が外れたのでしょう、今の社長になったら、一緒に踏ん反り返っている。私を、パワハラをしたコンビだ。時にはいびきをかいて寝てしまっている。すごい状態で、あきれて、開いた口がふさがらない。目をさまして、書類をながめて、誰かを呼んで、叱り付け始める。その変身に笑っちゃう。

件の一見スポーツマン風で、体育系、現場の仕事を率先して遣りそうな青年は、大変用心深いというか、心配性と言うか、気が小さいと言うか、ジャカルタ中心街のガトゥットゥスブロト通りが3イン1で二人きりだったので、高速道路から其の通りに出ることが出来なかった。高速道路の脇で降ろして、其のとおりを横切らせて、彼のアパートまで帰らせようと車を路肩に駐車した。そうすることを前もって話しておいた。

だが、其の場所に来て、自分のアパートまで三車線のガトゥットゥスブロト通りを横切らなければならないことを見て知った。車は信号の関係で断続的に込んでいる時と空いている時が二三分おきに来る。彼は「いやだ、こんなことをさせるのですか」と、怒ったように、また、懇願するように、降りないと言い出した。しょうがないから、3イン1が終わる19:00まで、約二時間ジャカルタの南部の方を案内して時間を潰してもどった。

 

おかげで、私が彼を降ろして家に着いたのが21:00を回っていた。私が、無理を言ったのかもしれませんが、以前にジャカルタの人を何人もそういう方法で降ろしたことがあるので、当たり前に、彼にもそうしてもらおうと思っただけだったが、いろいろな人がいる物だと感じさせられた。

 

この中の人々、今は、どうしているのでしょうか。三人とも、あの時の会社にはいないと思う。

 

パンガンダランのチャガールアラム、ブンガバンカイがありますね。一つは蕾です。分かりやすいほうです。匂いがかすかにして来ます。

冬彦 過保護 ふんぞり返り

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(^_-)-☆ワ~~オ!!

2017-07-28 23:39:42 | 

 3114 これ、現実か?50年以上前の出来事の再現だ。こんな、奇跡のような偶然があるのだろうか。22歳の時にあったことが、73歳直前で、繰り返された。21日に彼女の誕生日のことを書いたばかりだったが。

こんなところで、こんなタイミングで、声を掛けられた。エッ、誰?通りがかりの小さな個人病院の駐車場のバイクに乗ろうとしている女性からだった。声を掛けられる心当たりが全くない。私は歩いて、歯医者へ行き、その帰り道だった。その前に、100円ショップで買い物をした。あたかも、時間調整したかのような。そして、たまたま、その時間にそこを通っただけだった。

 何秒か、誰?と思い見つめていたら、被っていたヘルメットを取り始めた。顎から口、頬が見えてきた。まだ、誰なのか分からない。エッ、まさか!! 目が現れた。エっ、びっくり、かのペースメーカーの人、中学の同級生だった。駅のホームではないが、あの、五輪真弓の歌、”雨宿り“の世界が再現された。

 

 僕だっていうこと、よくわかったね、と言ったら、すぐわかったよ、変わっていないね、と。私の方も、ヘルメットを取って、見えた顔は、10何年か前にあった時と全く同じだったし、中学生の時の面影そのものだった。

こんなことってあるんだね、でも、太田君とだけだよ、他の人と、町で、偶然会って、声を掛け合うことはないという。こちらも、同じだ。

 

 突然の出会いで、何を話したらいいかわからない。昨日、下駄を買いに行った話をしたら、ブログを読んでいて知っていた。彼女の方は、周りで亡くなる人が多くなった。誰々も亡くなったよ、同級会をしようよ、という話。

 

そして、彼女、身体障碍者の手伝いをすり仕事中だったので、電話番号を確認しあって、近いうちに、会いましょう、同級会のこともあるし、ということで、別れた。これも、あの時と同じだった。電話するよ、じゃあ、と言いながら、バイクで去っていった。呆気に取られて後姿を見ていた。行ってしまってから、後姿でも、写真を撮ればよかったと思った。かかった病院と買い物をした店を撮ったのに、まったく、思いつかなかった。

 

この写真を撮った一分後のことだった。

 

こんな花のようだった。

 

 

 今日から、生涯学習センター(以前、長田公民館)の囲碁同好会へ行くことにしていて、久しぶりに行ってきた。なんだか、知らないが、うまい人だということにされて、二段だという人が、3子を置いて、お願いしますということになった。何十年もほとんど打っていないから、1勝2敗だった。半年、会員になることにした。ただし、碁を打っていても、午前中の、嘘のような本当の出来事で、思考が中途半端になっていて、うわの空で打っていた。

ゆめ うつつ まぼろし

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(^_-)-☆仕事はじめ

2017-07-04 22:33:58 | 

 3090 全員が日勤、明日から三シフトが始まる。若いのに全身リュウマチ、そんなのあるの、と思うが、で、休みがちだった一人だけが、その理由で、出てきていなかったが、その他、全員が、戻ってきた。戻り率が異常に良い。THRをもらって、辞めてしまったり、ムディックから戻らなかったりして、初日に出てこない人が、多いのが普通だからだ。

 

その関係でか、こちらが急いで欲しいものがあって、メールや電話で、問い合わせても、返事がない場合が多い。仕事にならない。客先から催促があるものもそれが手に入らなければ、返事ができない。だから、客先も、私からの返事がないと、思っている、と思う。日本の正月の仕事初めて同じようなもので、一週間ほど、世の中の動きが鈍い。

 

連日、撮影対象だった蓮の池とキャディー、そして、白い蓮には赤とんぼがいつも群がっている。

 

大学の同級会の案内が入った。今回の幹事は、山梨在住の方々だそうで、甲府市内集合が、10月初旬ということで、三か月前からの案内でした。メールの宛先から推測するとご本人を入れて、26人、39人いたが、一人は早いうちに亡くなっているので、38人でなければならないが、住所やメールアドレスが分からなくて、音信不通の人が12人なのでしょうか。亡くなった人がいるという知らせは聞いていない。

二回に分けて、案内を送っているなら、半々として20人弱ずつくらいに送るはずでしょうね。多分今回は、私が参加できるように日を決めていただいたのかと思う。インドネシアに来てしまってから、私が出席したのは、確か、15年ほど前の一回だけだったと思う。どうも、タイミングが悪く、参加ができなかったが、今度は出席できる。

 

私の同級生、多分、私が一番に近い年下だ。とにかく、現役で入った同級生はたったの5人だけだった。平均で、多分2歳年上だと思う。一番離れているのは5歳上だと思う。ということは、78~79歳になっているはずだ。関西地方に住んでいると思うし、まだ、出てこられるのかなと思う。ボケ老人の会、病気経験報告会、そして、暇つぶし方報告会。

 

中には、訳の分からない仕事をしている会社の社長さん?もいるようだし、現役で仕事をしている人も私を含めて数人はいるようだ。皆さん、どういう暮らし方をしているのか非常に興味がある。毎年、同級会をしている科もあるようで、単に集まって近況報告だけでもいいから、毎年、定期的にやったらどうかと提案する。ただし、海外は私だけとしても、関東一円から岡山辺りまで、分布している人達が、集まりやすい場所とは、難しい話でもある。年も年だし。

早い方は、出欠席の返事をしている。私は、迷っている。というのは、出席することはするが、次の日の日程が、韮崎の大村記念館や温泉施設を訪問することにしているらしいが、折角、久しぶりに甲府へ行くので、個人的には、ノーベル賞に興味があるわけではないし、大学周辺や思い出の場所を訪問したいのが本音で、どう返事を書いたらいいか迷っている。

敬老会 同級会 体調報告会

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(^_-)-☆素直な二人

2017-06-09 22:16:55 | 

 3064 昨日の続き、インドネシア人二人でやってきた。メールで色々書いてきた日本人は来なかった。来ていただかなくて良かったと思う。また、適当なことを言われても、いちいち突っつくのも嫌だし、困惑するだけだから。商社とメーカーのジャカルタ事務所の人だった。日本人と同じ営業の人間は、半年ほど前に会っていて、お互いに覚えていた。日本人が来る前には彼と話はスムーズに言っていたが、日本人gは来てからは、彼とは、話をしなくなったというか、できなくなっていた。彼も遠慮するようになったと思うし、日本人も、彼に任せればいいのに、存在を前面に出そうとしたのでしょう。

 

コベストロのマスター レベルの技術者と日本人が言っていた人は、確かに技術営業らしいが、私からすると、一般的な樹脂の知識はイマイチだし、射出に関しても、ほとんど知らないし、押出に関しては、まったく知らない、ということが、話して数分で分かった。それで、ダメだというわけではない。そんなものなのだからだ。

 

そこで、話は、原料のプロパティの違いについて、話してやった。このPCに限らず、また、同じメーカーの同じ事業所で作られた、同じ品番の原料でも、ロットによって、流れ特性は微妙に違う、その違いの幅は、大小有って、温度条件だけでいうなら、20度以上変えるときもある、それが、押出用原料で、それを、いちいち、クレームの対象にしていたら、いつまでも製品はできない。私たちは、それを、使いこなさなければ、仕事にならないと説明し、それを前提に、今回の原料は、同じ原料名で品番も同じだが、明らかに流れ特性、原料の噛みこみ状態が違っていて、かなりの範囲の条件を変えてみたが、良品はできなかった。そこで、今は、客先の許しを得て、装置の改造を進めているところで、それを待って来月初めに再挑戦することにしていると説明した。原料にクレームをつけているのではないとも、付け加えた。

 

そして、原料の原産地が違っていたと、日本人に話したら、彼は、絶対にそんなことはないと言い張っていて、話は平行線、だったが、どうだろうか、タイのコベストロで作ったものをこの商社が売る可能性があるのではないかと、彼に聞いた。彼曰く、可能性はある、タイから出荷したこともあったという。袋の模様は同じだが、色違いは何種類かあったという。そのうちの一つが、以前、こちらに、届けられたかもしれないという。

 

日本人が、認めなかったことを、彼が、技術指指導、共同開発と言って送り込んだ人があっさり正直なことを言ってくれた。当然、考えられることを、否定し、私たちの技術不足とみて、技術者を送る、まったく、的外れの考えだし、行動だ。私が、新しく着た原料は、産地が違うよと、言ってやった時に、何を思ったのか、「われわれは、産地偽造などコンプライアンスの点からもあり得ない」と、強調してきた。私は、産地偽造などと一言も言っていなかった。何も、クレームをつけてもいなかった。むしろ、産地を正直に袋に書いてあったから、指摘しただけだった。

 

彼らに技術的な話をしても、仕方がないから、ほどほどにして、タイからの原料をサンプルとして25Kgいただきたいとお願いした。快く、承知してくれた。改良した押出機を使うから、違いが分からないかも知れないが、多少は、扱いが違うかもしれないから。

 

インドネシアでこの原料を売っている先は今まであったのかと聞いたら、ないという、未だに、PCのプルファイルを手掛ける会社は、他に、ないことを確認した。最近、日系商社とEVAについて、話をしたが、ついでに、メップやテイジンの押出用のPCを扱ったことがあるかと聞いたら、以前、太田さんに売ったことがるだけだと言っていた。

 ミーティングの最後に商社の人に、大変重要な、ある事お願いした。このことは、私が言っていたと、日本人に言わないでほしいと、付け加えた。彼らは、満足して帰っていった。

 

 

プアサもほぼ中間、会社の雰囲気は、皆さん、プアサを守っている。女性も全員、プアサをしている、と、思う。で、私としては、仕方がないから、プアサをしている振りをしている。

口が乾くと喋ることが難しくなる、日本人の来客があった時には、ほっとする。飲み物を出してもらえるからだ。それでは、会社の中にいるときに、どうしているかというと、飲み物はボトルで、引き出しの中に用意して有って、事務所に誰もいなくなった時に一口飲む。また、一人で、車で外出する機会を作るようにし、会社から出れば、飲めるだけ飲める。そして、昼時には、やはり、外出というか、家に戻って、簡単な食事もしている。

 

会社の人達には一応、私もプアサをしているよという風に見せていると思う。高齢者はプアサを免除されていると、ムハンマドさん、アッラーさんは、言っているようだが、皆さんがいる前で、飲んだり食べたりできない雰囲気だ。

 

昨日MM2100のルコに行ったときに、インドネシアンレストランで食べた、ナシチャプチャイ。プアサの時には、どこのレストランも、中が見えないように、中を暗くするか、カーテンのようなものを垂らす。

PC LOT 産地

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(^_-)-☆時は流れる

2017-05-12 23:02:23 | 

 3036 日本で40年くらい前から、私と仕事を一緒にやってくれた当時若者が、今は66歳、去年の初めごろから、そろそろ、会社を閉じたい、どうも、手首の具合が悪くなったようで、シングルのゴルフもこの一年以上できないと言っていた。気は優しくて力持ち、中学時代は卓球で、高校では柔道部の猛者だったという。年には勝てず、押出の仕事から、いよいよ離れることにしたそうだ。客先の多くは、太田化工に移し、押出機などの装置の大半も太田化工に移したそうだ。私と沼津で一緒に太田化工を立ち上げたようなもの、静岡に来てしまった私の後を継いで、客先もそのまま残し、数年後には、太田化工から独立し、セピックという名前の会社を立ち上げて、今までに至っていた。私の一番弟子というところだった。残念だが、原料袋も持ち上げられなくなったと、嘆いたくらいだから、仕方がないかと思う。

 

もう一人、彼の同級生で会計事務所を経営している、私が会社を作る前、富士プラ精工という会社で夜勤専門、12時間勤務をしていた時、一年半ほど一緒で、経理の仕事をやっていた。私が会社を作ってから、会計事務所に勤めだし、税理士資格に挑戦し、毎年、一科目かに科目合格し、4年で税理士の資格を取った。その間、勉強だからと言って、資格を取ったら有料にするからと言って、私の会社の経理を無料でやってくれていた。その後、静岡へうてってからも、かれが、税務申告をしてくれていた。私が社長時代、20年間、一度も税務署の監査を受けたことがなかった。もっとも、規模の割には多額の税金を払っていたからかもしれないが、彼の手腕には、大いにお世話になった。二年に一回ほどは、今でも、太田化工であったり、私が沼津の会計事務所に、アラック(インドネシアの酒)を届けたりしていた。 その彼も、そろそろ、事務所を他人に任せることを考えているという。

 

富士プラ精工時代に、何の大会だったか、卓球の団体戦に出たことがあった。亡くなった、梨大時代の同級生、同じ応用化学で卓球部だった小山君と四人で、いいところまで行った覚えがある。

 

お世話になりましたと、彼らから、言われているが、まだまだだよ、これからも、お世話するかもしれないし、お世話せれる可能性方が高いよね、という話をした。

 

最近、目立って、プルタミニが増えている。以前は、地方の田舎へ行くと、ガソリンスタンドがほとんどないところに、ペットボトルで道端に売っていた。しかし、田舎へ行かなくても、ちょっと、路地に入っただけのところで、ミニ ガスステージョンができている。続々と増えている感じだ。また、最近、プレミウムという一番安い種類のガソリンが売られなくなっていて、プルタライトという種類が多くなっている。それでも、リッター5~60円くらいだが。ミニでもライト(ガソリンの一種)とソーラル(軽油)を売っている。法に触れないのでしょうか、危ないと思うのだが。

 

日付が変わったころ、家から、夜逃げのようにして出発、空港へ向かう。4;30出発で現地時間11時に到着予定。

出発 引退 年月

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(^_-)-☆人は様々

2017-04-15 21:45:53 | 

 3009 Good Friday祭日だが、クリスチャンではない皆さんは出勤、レバラン休暇に振り替える。私は、午前中ゴルフでした。

うまくいっていない仕事があって、19時過ぎまで会社にいた。結局、うまくいかなかった。金型からの樹脂の出方が変、何が原因かわからなかったが、最終的にわかって、それでも時間がないので、月曜日にとした。

 

夕方、工場から。目の下は、釣り堀になっている。

 

65歳だという。この養殖池の持ち主だ。餌をやりに来ていた。カンビン(山羊)の放牧もしていた。

 

http://space.geocities.jp/enplaindonesia/newpage0013.htmlもう、10年以上前の話か。ひどい人はひどいね。直らないね。

http://space.geocities.jp/enplaindonesia/newpage001.htmlこんな人シリーズ、日本で社長時代には、想像できなかった、非常に興味深い人たちが多い世界を知った。なお、この後に、何人か追加する予定がある。

 

 会社へ行ったら、こんな話があった。インドネシアらしい話だと思う。経理と図面書きの、そのことでは、結構、できると思っている人たちだ。

 昨日の朝,出勤したときから、事務所内のWi-Fiが、ネットなしの状態になった。別に、それの担当者が決まっているわけではないが、設置したときに、立ち会って、パスワードを聞いた人、それが。図面書きの人だったので、なんとなく、彼が、その責任者のようなものになっていた。事務所にいる時間が長いのも彼と経理だったので、二人に、使えないことを伝えた。それ以前に、使えないことを彼らも知っていた。

 わかっていても、彼らは、受信発信器を何気なくいじっているだけで、導入した会社に問い合わせをしようとしないので、状況を話して、直してもらいなさい、と。頼んだ。

 

 私が席を外した時に、渋々、電話して聞いたらしい。一時間ほどして、私が戻った時に、彼ら、何も言わない。まだ、Wi-Fiが使えない。彼らに聞いてみたら、電話をしたという。原因は、と聞いたら、ガングー(一般的には邪魔という意味)だという。それで、彼らは、納得しているらしいのが不思議、私には、電話をしなさいと言ったのに、その結果の報告、電話したという話もないし、原因に関しての報告もないのも不思議だ。その日、一日中、使えなかった。

 

 今日、午後、会社へ行っても矢張り、使えない。どうなっているの?と聞いたら、やはり、ガングーだという、この地域全体にガングーがあるという。SMSが入っているという。昨日と同じだ。彼らは、使えないことを納得している。もう一度聞いた。使えない原因はと?そのガングーの原因は?と。そして、そのガングーはいつなくなる見込みなの?と。原因を聞くということは、そういうことでしょ?と。

 

 渋々、また、電話した。結局、ガングーの原因を、今も、チェックしているという。いつ、正常に戻るか、わからないという。ガパパの世界である。インドネシアである。私は、納得できないが、納得した。

 自分のモデムがあるので、それを使っている。

インドネシア人 日本人 不可解

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(^_-)-☆お別れ

2017-03-30 22:40:30 | 

 2993 海へ行ったのに、腿がパンパンに張って痛む、座椅子からの立ち上がりが大変、両手を卓袱台につかまって、体を持ち上げなければならない。原因は、島に上陸してから、ちょっと高台に上がるのに、両手を前について上がるような、梯子のような急は階段を上る、それを、何回か、繰り返したからだ。また、島での移動はタクシーより、オジェックが主だった。オジェックって長時間乗ったことがなかったが、意外に、後ろに捕まっていると腹筋を使うし、股を大きく開くので、内腿の足の付け根の筋肉を突っ張らせている。また、両足に力が入る。かなり不自然な状態になっている。歳を取ると痛みは長い時間差でやってくる。

 

リッポチカランのシロアムへ行ってきた。なんというか、ついこの前まで、一緒のカートでゴルフをしていた方が、この世から消えてしまうとは、この世の習いとはいえ、言いようがない悲しみがこみ上げてくる。栗崎さんにお世話になった方が非常に多いので、私と同じような気持ちの人も多いと思う。場所は、建物の右端、ちょっと、地下へ降りた場所でした。息子さんや奥さんと、栗崎さんは、多分、私が同じカートに乗って、ゴルフをしたのが、最後だと思う、こんな話をしながら、つい涙が流れた。「人生是離別」

 

お別れは、30日の夜8時までです。

 

会社はこの連休中、私が遊んでいる最中、オーバータイムで継続生産をしていた。とにかく、電力不足で、フル稼働できないので、仕方がないらしい。内の会社は、三交代勤務の人達は、土曜日は通常出勤なので、今回の連休は、28日を27日に移動し、日、月、二日連休になっていたが、その二日とも出勤してもらった。日系、コリアン系各社、冷蔵庫の販売が好調の様子、それ関係のプロファイルやチューブの注文が増えているからだ。

 

http://otaenplaext.net/newpage125.html 旅行記 

http://otaenplaext.net/newpage126.html 写真集

Raja Ampatの記録です。早速、ウェブサイトに移しました。

ご霊前 合掌 ご冥福

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(^_-)-☆尾を引いている

2017-03-23 22:32:08 | 

 2986 惜しい人を亡くしたtelah kehilangan orang terkasih

もったいないね Sayang sekali! 惜しいSayang 惜しかった itu adalah disesalkan

 

栗崎さんの何げない普段でした。

太田様  無沙汰しています。

先週 1週間 寒い日本におりました。新宿にある東京医科大病院とのお付き合いも5年になりましたが、まだドクターのOKがでず、しばらくは“月一で”日本通いです。

 

従来の治療法が、効果が出ないため、今月末から新薬による治療となります。航空券代、滞在費等結構出費も多く太田さんからお借りしているルピアの返済が出来なくて大変申し訳ありません。今しばらくお待ちください。

 

太田さんのブログは欠かさず読んでおります、昨日でしたか”ぎっくり腰“になったと書かれてましたがいかがですか?

チカランに住んでいながらジャバベカに行けないのは本当につらいですね。いつまでも会社に迷惑をかけるわけにいかないんで、

そろそろ”決断“しなくては、と思ってます。

足の痛みがとれないうちは運動ができないので、ひたすら我慢です。

 

新規工場でご苦労されているようですが、「ここはインドネシア」ですので70~80%くらいの期待値で頑張ってください。

栗崎からでした。

 

融通したRpは、お渡ししたものですから、返していただかなくてもいいのに、既に、返していただいた。

 

最近のジャカルタ、スラバヤ中高速鉄道の報道のほんの一部

Kereta Cepat Jakarta-Surabaya Masuk Proyek Strategis Nasional 2017国家戦略プロジェクト

PT Kereta Api Indonesia akan menghilangkan sejumlah perlintasan dalam kajian kereta cepat lintas Jakarta--Surabaya yang menjadi usulan kepada pemerintah Jepang.

PT Kereta Api インドネシアは、踏切を無くす。ジャカルタ-スラバヤ日本政府への提言した。

Direktur Utama PT KAI Edi Sukmoro mengatakan dalam hasil kajian proyek kereta cepat bersama tersebut rencananya menggunakan jalur yang sudah ada. Edi Sukmoroは述べている、既存のラインを使用して計画に沿って研究結果プロジェクト。Pihaknya hanya akan membeli kereta bermesin diesel baru dan menghilangkan perlintasan. それは、新しいディーゼル列車と交差を排除させる。

 

"‎Jadi akan dibuat lebih rinci berapa perlintasan yang harus dihilangkan. Adapun, jumlah perlintasan saat ini mencapai 980 unit, termasuk yang liar," 「だから、インターチェンジを除去する必要があります。現在の交差の数は980 台、違法も含む"

と、こんなことを言っている。当たり前でしょ。そんなことは、提言するほどのこともない、と、思う。

 

ジャカルターバンドゥンの工事はワリニ付近で始まっているという報道は一月にあったが、その後、関連ニュースがない。土地の買収が90%に達したというニュースがあったが、この頃は、85%という報道に替わっている。ハリムとプロワカルタ付近の買収が進んでいない。それでも、2019年に開業という目標は訂正していない。

 残念 惜しい プロジェクト

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(^_-)-☆18年お世話になった

2017-03-22 22:40:50 | 

 2985 私がインドネシアで知り合った人の中で、一番、お付き合いの長い方でした。赤旗を立てでもまたゴルフをしましょうよ、と、声を掛けていたがかなわぬことになってしまった。

 

私がゴルフを始めたのが1998年、暴動の直ぐ後でした。その半年後位にある初心者歓迎というゴルフの集まりを知り、その仲間に入れてもらうことした。アクラブ会でした。その会の世話役をしておられたのが栗崎さんでした。その時も今も、ヤマニの方でした。私も栗崎さんもその会を何年後かに止めて、ジャバベカで毎週ゴルフを小グループでやるようになっていた。それは、昨年の末、10月ころまで続いていた。

 

その1年前くらいから、肺がんが見つかり、日本やマレーシアなどで手術を受けたり、治療をしながらも、インドネシアにいる時には、一緒のカートでゴルフ場を回っていた。その内、激やせで、体力も無くなり、ゴルフどころでは無くなっていた。それでも、会社に出勤していたし、ゴルフの夢を見ると言っていた。

 

今年に入って、月に一回、日本に帰り、投薬をしていたようだった。今回、半年ほど会社から休暇をもらうよ、と、話しながら、一週間ほど前に帰国した時には、病院で投薬もない状態で、静かに亡くなったとか。

 

ドライバーの飛距離が殆ど同じだったので、同じカートに乗ることが多かった。二打目も同じくらいのところに行くので、カートに戻らないで、無駄口をたたきながら一緒に歩くことも多かった。仕事上の付き合いはなかったが、ジャバベカでのゴルフの付き合いは、10年以上はあった。私はインドネシアでお付き合いしている日本人は少ないが、栗崎さんは、インドネシアには35年以上関わっていて、県人会をはじめ、工業団地の付き合い、何やら、ボランテャアの仲間、現地警察にも知人ガ多かった、多くの世話役をやっておられて、栗崎さんを何かと頼りにした人も多かったと思う。事件に巻き込まれた時に、栗崎さんに相談した人も多かったと思う。時々、そんなことを、ゴルフコースを回りながら、話をしていた。私は、聞き役だった。

 

事件やデモ、ストライキの事前情報もこまめにメールで流してくれていた。

 

ゴルフ場でも超有名人で、しばらく、顔を出さない時には、私に、栗崎さんどうした?今日はいないね。と、多くの人が聞く。栗崎さんは、今、日本だよと、紙に書いて貼っておきたいくらい、会う人ごとに聞かれる。

 

インドネシアにいて、お世話になった方が亡くなったという知らせを聞くのは非常に辛い。今朝、その知らせを聞いて、しばらく、涙が止まらなかった。人生の先輩として、尊敬をしていたし、非常に身近な方だった。ご冥福を祈る。

 

そう、多くはないが、尊敬している方、目標にしている方、生き方の手本にさせていただいている方が、次第に会えない世界に行ってしまう。

 

元気だったころの姿。ともに愛でた花。Surgaで眺めていることでしょう。栗崎敏敬(くりざき としのり)

(^_-)-☆18年お世話になった 2985 私がインドネシアで知り合った人の中で、一番、お付き合いの長い方でした。

赤旗を立てでもまたゴルフをしましょうよ、と、声を掛けていたがかなわぬことになってしまった。


   私がゴル
フを始めたのが1998年、暴動の直ぐ後でした。その半年後位にある初心者歓迎というゴルフの集まりを知り、その仲間に入れてもらうことした。アクラブ会でした。その会の世話役をしておられたのが栗崎さんでした。その時も今も、ヤマニの方でした。私も栗崎さんもその会を何年後かに止めて、ジャバベカで毎週ゴルフを小グループでやるようになっていた。それは、昨年の末、10月ころまで続いていた。

 

 

その1年前くらいから、肺がんが見つかり、日本やマレーシアなどで手術を受けたり、治療をしながらも、インドネシアにいる時には、一緒のカートでゴルフ場を回っていた。その内、激やせで、体力も無くなり、ゴルフどころでは無くなっていた。それでも、会社に出勤していたし、ゴルフの夢を見ると言っていた。

 

今年に入って、月に一回、日本に帰り、投薬をしていたようだった。今回、半年ほど会社から休暇をもらうよ、と、話しながら、一週間ほど前に帰国した時には、病院で投薬もない状態で、静かに亡くなったとか。

 

ドライバーの飛距離が殆ど同じだったので、同じカートに乗ることが多かった。二打目も同じくらいのところに行くので、カートに戻らないで、無駄口をたたきながら一緒に歩くことも多かった。仕事上の付き合いはなかったが、ジャバベカでのゴルフの付き合いは、10年以上はあった。私はインドネシアでお付き合いしている日本人は少ないが、栗崎さんは、インドネシアには35年以上関わっていて、県人会をはじめ、工業団地の付き合い、何やら、ボランテャアの仲間、現地警察にも知人ガ多かった、多くの世話役をやっておられて、栗崎さんを何かと頼りにした人も多かったと思う。事件に巻き込まれた時に、栗崎さんに相談した人も多かったと思う。時々、そんなことを、ゴルフコースを回りながら、話をしていた。私は、聞き役だった。

 

事件やデモ、ストライキの事前情報もこまめにメールで流してくれていた。

 

ゴルフ場でも超有名人で、しばらく、顔を出さない時には、私に、栗崎さんどうした?今日はいないね。と、多くの人が聞く。栗崎さんは、今、日本だよと、紙に書いて貼っておきたいくらい、会う人ごとに聞かれる。

 

インドネシアにいて、お世話になった方が亡くなったという知らせを聞くのは非常に辛い。今朝、その知らせを聞いて、しばらく、涙が止まらなかった。人生の先輩として、尊敬をしていたし、非常に身近な方だった。ご冥福を祈る。

 

そう、多くはないが、尊敬している方、目標にしている方、生き方の手本にさせていただいている方が、次第に会えない世界に行ってしまう。

 

元気だったころの姿。ともに愛でた花。Surgaで眺めていることでしょう。栗崎敏敬(くりざき としのり)さん、ありがとうございました。

日本で荼毘に付し、インドネシアで告別式、埋葬するそうですが、詳しいことはまだ決まっていません。

残念 尊敬 ショック

日本で荼毘に付し、インドネシアで告別式、埋葬するそうですが、詳しいことはまだ決まっていません。

残念 尊敬 ショック

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(^_-)-☆生甲斐

2017-02-21 22:20:02 | 

 2956 金正男っていう人、年は幾つだったのでしょうか。何のためにこの世にいたのでしょうか。おかしな一族に生まれてきたことには運が悪いとしか言いようがない。気の毒でしかないが、彼の生甲斐は何だったのでしょうか。風采が上がらない顔とスタイルで、いったい、どこで、何をしようと思っていたのでしょうか。何をしていたのでしょうか。何かの仕事をしていたとは思えないし、生活資金は、何処からか受け取っていたのでしょうが、そんな、生き方で良かったのでしょうか。勿論、奥さんはいたし、子供もいるのだから、それらの人達だけにでも、納得させるような生き方をしていたのでしょうか。亡命の道を選ばなかったのでしょうか。弟のやり方に反対で、殺される運命なら、もっと、世界を巻き込んだ行動はできなかったのでしょうか。それに、殺されなくても、生きていただけで、訳の分からないドロドロした国際社会に巻き込まれる運命にある。発言がなかったということは、それだけの勇気がなかったということでしょうか。それにしても、稀有な運命、彼の思いは想像できない。

 

生甲斐と言えば、考えさせられる人たちがあちこちにいる。ISの連中の生甲斐は、韓国の少女像を繁殖させている人達の生甲斐は、

 

私の生甲斐は、誰かや、どこかをやっつけよう、自分が思っているようにさせよう、私がしていることに従え、そういうことは全くなくて、望む人には教えるし、望む人や集団のために、仕事をする、ことだ。出来る範囲で援助もする。出来る範囲で、見て回る。それを50年以上続けてきた。ということだが。

 

金正男を殺した人たち、殺せと命じた人達、何が生甲斐なのでしょうか。少女像を増殖している人達は何が生甲斐なのでしょうか。打ち込んだり没頭したりすることができるもの、自己満足ができること、それは、他人のためにでも、自分のためにでもどちらでもいいと思うが、これが生甲斐だと思うが、ご本人は、満足しているのでしょうか、打ち込んでいるのでしょうか、そうなら,気の毒ですね。ふと、そんなことを思った。他人に迷惑を掛けない、他人をまきこまない生甲斐は、みつけられないのでしょうか。

 

ジャラン ラヤ チビトゥンへ行った。

 

向こうに、私たちの工場が見える。ここまで、なかなか、たどり着けない。ゴルフ場やジャバベカ6の東1km以内だが、直接東へ行けないから、それらから、南回りでも北回りでも3㎞くらい走らなければ着かない。

生甲斐 他人 自己

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