それは神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、
信じる人々に与えられるようになるためでした。(ガラテヤ書3-22/新共同訳)
救われる条件である「イエス・キリストへの信仰」とは、
非常に誤解の多い表現である。
信仰と訳された単語「ピスティス(πιστιs)」とは、
様々な意味のある単語である。
まず第一に、ピスティスとは「真実」を意味する。
パウロ書簡の脈絡からすれば、真実とは神の真実を意味する。
その次に、人間の真実という意味で「信頼」を意味する。
信頼の結果として、確固として主体的に信ずることから「信仰」を意味する。
ピスティスという単語の中に、神本位の言葉である「真実」と、
人間側の言葉である信頼・信仰が同居しているのである。
どの訳を採用するかによって、救いの条件が激変することは言うまでもない。
さらには、「イエス・キリストの」と訳されたクリストゥ(Χριστου)とは、
「~の」と訳されるべき属格であるが、古代ギリシャ語においては、
対格(~を)にも主格(~は)にも訳することのできる表現である。
もし対格(~を)に訳すのならば、「イエス・キリストを信じる信仰」、
もしくは「イエス・キリストへの信頼」の意味になる。
もし属格(~の)に訳するのならば、「イエス・キリストの信仰」の意味になる。
もし主格(~は)に訳すのならば、「イエス・キリストという神の真実」という意味になる。
私は、パウロの前後の主張から判断すれば、主格にこそ訳すべき表現だと思う。
すなわち、訳しなおせば、下記のようになる。
それは神の約束が、神の真実であるイエス・キリストの中から、
すべて彼に信頼している人々に今与えられるためである。(ガラテヤ書3-22/私訳)
救われるために人間の為すべきことは、何もない。
危険な言葉のように聞こえるが、何もない。
人間が何らかの条件によって救いを獲得できるという己の傲慢、
その傲慢こそ、罪そのものである。
人間の内に、いや私の内に、救われるべき何の条件もなければ、
救いの確証を得べき何の結果もない。
人はただ、イエス・キリストの自己放棄によってのみ、
救われ、信頼を惹起せられ、信仰のような何ものかを抱くことができる。
まさしくイエス・キリストは、稲妻のようなものであって、
「私」という何とも傲慢で罪深い存在に落下し、
私をして救いを得さしめ、私をして他人を愛さしめ、
私をしてキリストを信じる心を抱かせ給う存在である。
このキリストという稲妻、このイエスという業火の中にあっては、
男も女も、富者も貧者も、キリスト者も非キリスト者も、
あらゆる人間的可能性、あらゆる宗教的可能性を殲滅せられ、
ただただ神の恵みによってしか、救いを得られぬ存在である。
私にとってイエス・キリストとは、最大の恩恵であり、
それ故に、最大の恐怖でもある。
賛美すべきかな、わが神。恐るべきかな、われらの神。
信じる人々に与えられるようになるためでした。(ガラテヤ書3-22/新共同訳)
救われる条件である「イエス・キリストへの信仰」とは、
非常に誤解の多い表現である。
信仰と訳された単語「ピスティス(πιστιs)」とは、
様々な意味のある単語である。
まず第一に、ピスティスとは「真実」を意味する。
パウロ書簡の脈絡からすれば、真実とは神の真実を意味する。
その次に、人間の真実という意味で「信頼」を意味する。
信頼の結果として、確固として主体的に信ずることから「信仰」を意味する。
ピスティスという単語の中に、神本位の言葉である「真実」と、
人間側の言葉である信頼・信仰が同居しているのである。
どの訳を採用するかによって、救いの条件が激変することは言うまでもない。
さらには、「イエス・キリストの」と訳されたクリストゥ(Χριστου)とは、
「~の」と訳されるべき属格であるが、古代ギリシャ語においては、
対格(~を)にも主格(~は)にも訳することのできる表現である。
もし対格(~を)に訳すのならば、「イエス・キリストを信じる信仰」、
もしくは「イエス・キリストへの信頼」の意味になる。
もし属格(~の)に訳するのならば、「イエス・キリストの信仰」の意味になる。
もし主格(~は)に訳すのならば、「イエス・キリストという神の真実」という意味になる。
私は、パウロの前後の主張から判断すれば、主格にこそ訳すべき表現だと思う。
すなわち、訳しなおせば、下記のようになる。
それは神の約束が、神の真実であるイエス・キリストの中から、
すべて彼に信頼している人々に今与えられるためである。(ガラテヤ書3-22/私訳)
救われるために人間の為すべきことは、何もない。
危険な言葉のように聞こえるが、何もない。
人間が何らかの条件によって救いを獲得できるという己の傲慢、
その傲慢こそ、罪そのものである。
人間の内に、いや私の内に、救われるべき何の条件もなければ、
救いの確証を得べき何の結果もない。
人はただ、イエス・キリストの自己放棄によってのみ、
救われ、信頼を惹起せられ、信仰のような何ものかを抱くことができる。
まさしくイエス・キリストは、稲妻のようなものであって、
「私」という何とも傲慢で罪深い存在に落下し、
私をして救いを得さしめ、私をして他人を愛さしめ、
私をしてキリストを信じる心を抱かせ給う存在である。
このキリストという稲妻、このイエスという業火の中にあっては、
男も女も、富者も貧者も、キリスト者も非キリスト者も、
あらゆる人間的可能性、あらゆる宗教的可能性を殲滅せられ、
ただただ神の恵みによってしか、救いを得られぬ存在である。
私にとってイエス・キリストとは、最大の恩恵であり、
それ故に、最大の恐怖でもある。
賛美すべきかな、わが神。恐るべきかな、われらの神。
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