キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

神の真実

2010-02-26 18:23:43 | 聖書原典研究(パウロ書簡)
それは神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、
信じる人々に与えられるようになるためでした。(ガラテヤ書3-22/新共同訳)



救われる条件である「イエス・キリストへの信仰」とは、

非常に誤解の多い表現である。

信仰と訳された単語「ピスティス(πιστιs)」とは、

様々な意味のある単語である。

まず第一に、ピスティスとは「真実」を意味する。

パウロ書簡の脈絡からすれば、真実とは神の真実を意味する。

その次に、人間の真実という意味で「信頼」を意味する。

信頼の結果として、確固として主体的に信ずることから「信仰」を意味する。

ピスティスという単語の中に、神本位の言葉である「真実」と、

人間側の言葉である信頼・信仰が同居しているのである。

どの訳を採用するかによって、救いの条件が激変することは言うまでもない。


さらには、「イエス・キリストの」と訳されたクリストゥ(Χριστου)とは、

「~の」と訳されるべき属格であるが、古代ギリシャ語においては、

対格(~を)にも主格(~は)にも訳することのできる表現である。

もし対格(~を)に訳すのならば、「イエス・キリストを信じる信仰」、

もしくは「イエス・キリストへの信頼」の意味になる。

もし属格(~の)に訳するのならば、「イエス・キリストの信仰」の意味になる。

もし主格(~は)に訳すのならば、「イエス・キリストという神の真実」という意味になる。

私は、パウロの前後の主張から判断すれば、主格にこそ訳すべき表現だと思う。

すなわち、訳しなおせば、下記のようになる。


それは神の約束が、神の真実であるイエス・キリストの中から、
すべて彼に信頼している人々に今与えられるためである。(ガラテヤ書3-22/私訳)


救われるために人間の為すべきことは、何もない。

危険な言葉のように聞こえるが、何もない。

人間が何らかの条件によって救いを獲得できるという己の傲慢、

その傲慢こそ、罪そのものである。

人間の内に、いや私の内に、救われるべき何の条件もなければ、

救いの確証を得べき何の結果もない。

人はただ、イエス・キリストの自己放棄によってのみ、

救われ、信頼を惹起せられ、信仰のような何ものかを抱くことができる。

まさしくイエス・キリストは、稲妻のようなものであって、

「私」という何とも傲慢で罪深い存在に落下し、

私をして救いを得さしめ、私をして他人を愛さしめ、

私をしてキリストを信じる心を抱かせ給う存在である。


このキリストという稲妻、このイエスという業火の中にあっては、

男も女も、富者も貧者も、キリスト者も非キリスト者も、

あらゆる人間的可能性、あらゆる宗教的可能性を殲滅せられ、

ただただ神の恵みによってしか、救いを得られぬ存在である。

私にとってイエス・キリストとは、最大の恩恵であり、

それ故に、最大の恐怖でもある。

賛美すべきかな、わが神。恐るべきかな、われらの神。

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