キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

信仰の3段階

2011-01-23 18:12:01 | 聖書原典研究(パウロ書簡)
人生に段階があるように,信仰にも段階がある。


まず第一段階が,イエスの十字架を仰いで,

自分の過去の罪が見逃されていることを認識することである(ローマ書3章)。

次に,イエスに過去の罪を見逃されながら,それでも罪にある自分を認識して,

将来成し遂げられる死人の復活を待ち望むことである(ローマ書8章)。

最後に,過去の罪を見逃され,将来造り変えられる神の恵みにあって,

現在,今・ここで,神の御心を実行しようと欲することである(ローマ書15章)。

第一段階が「信」である,第二段階が「望」である,最後の段階が「愛」である。

キリスト教神学において「信・望・愛」という言葉は標語にさえなっているが,

まあ,良く言ったものである。


信仰にも段階があるから,原語聖書の解釈においても違いが出る。

ピスティス クリストゥ(πιστισ χριστου)

第一段階の者は,「キリストを信じる信仰」と訳す。

すなわち,対格的属格に訳するだろう。

そして,イエス・キリストの十字架上の贖罪を頼りに,

この世の生を生きるに違いない。

第二段階の者は,「キリストの有した信仰」と訳す。

すなわち,所有格的属格に訳すだろう。

そして,この世の生の矛盾に耐えるために,イエス再臨の希望をもって生きるだろう。

第三段階の者は,「キリストという神の真実」と訳す。

そして,イエスがこの世において神なき悲惨な生を生きたように,

彼もこの世においてそのような生を望み,受け止め,生きるだろう。


私が言わんと欲することは,まるでヘーゲルや空海のように,
(ヘーゲル「精神現象学」,空海「秘密曼荼羅十住心論」)

人間の意識に段階があって,そして高みにある者は低い場所にいる者に優越感を持ち,

かかる優越感をくすぐって,自己の思想を受け止めるように施すことではない。

その逆である。

人は,イエスに近づけば近づくほど,自分がどうしようもない人間であること,

すなわち,自分こそ罪であり,暗闇であり,神に反逆する者であり,

そうであるが故に,イエスに従うよう生きねばならないと自覚するものだ,と言いたいのである。


光ある所,闇多し。

光にあればあるほど,闇が色濃く反映される。

すなわち,ダンテ風に言えば,

人はその精神が高みに達すれば達するほど,

地獄の最深部に近づいていくのである。
(ダンテの神曲では,地獄から天国へ昇っていくが,実際の精神現象を文学形式において表現するとすれば,天国から地獄へというのが,聖書的理解なのではないかと思う)


私は,パウロやヨハネや共観福音書記者の信仰理解とは,

そのようなものだったと思わざるを得ないのである。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿