イエスは、信じる者を救い給うたように、
信じない者をも救い給う。
彼はもちろん、彼を信じる者を、必ず救い給う。
と同時に、彼を疑い、彼を否定し、彼を胡散臭いと思い、彼を罵詈する者から、
彼は忠実な使徒を起こし給う。
イエスを否定する者が、傷跡のあるイエスに出会う時(罪の贖い)、
最大の敵が最大の使徒に変わる時である。
と同時に、イエスを肯定する者が、傷跡のないイエスを公言する時、
すなわち、まるでイエスが死なれなかったかのように宣べ伝え、
まるでイエスを半神か半人に仕立て上げ、安易な自己満足に耽る時、
それは最大の反逆が行なわれる時である。
前者は最大の歓喜である、後者は最大の汚辱である。 . . . 本文を読む
この世には、どうにでもできる問題と、できない問題がある。
自分の境遇を変えることは、残念ながら、人間の直接的な支配領域ではない。
仕事に不満を持っていても、それを明日にでも変えることはできず、
人間関係に不満を持っていても、まるで魔法使いのように変えることはできない。
しかし境遇を変えられずとも、人間はその境遇の受け取り方を変えることができる。
不遇な境遇にあっても、それを日々嘆きつつ生きるか、
その根底に自分を修練させる意図を読み取り、喜びをもって生きるか、
それは人間の自由である。
境遇は変えられない、しかし、自分の心は変えることができる。
変えられない境遇を嘆くよりも、それを支配できない自分の心を嘆くべきである。
哲学者エピクテトスが言ったように、変えられない境遇について嘆くから、
いつまでも不安が耐えないのである。
そして、答えの出ない不安に囚われているから、
不安が不安を呼び、生きる力を蝕んでいくのである。
嘆くべきは、境遇を支配できない己の心である。(箴言16-32) . . . 本文を読む
エジソンがいつか述懐したように、
人間というものは電球のようなものだ。
光を放つために存在するが、自分自身からは光を放つことはできない。
まるで、電球が自然に発光しないのと同じである。
光を放つためには、是非とも、光源と繋がる必要がある。
世の中には、様々な光源がある。
イスラム教や儒教のように、厳格な倫理を高唱する光源がある。
仏教や哲学のように、優美な思想を呈示する光源がある。
また、成功哲学やスピリチュアルのように、現代的に洗練された光源がある。
さらに、無神論や唯物論のように、光源ならぬ光源もある。 . . . 本文を読む
彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。
彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、
私たちが慕うような見ばえもない。
彼はさげすまされ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。
人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
(イザヤ書53-2・3)
イエスはマリアから生まれ、年とともに心身成長し、
少年時代は神学者を論破し、神の . . . 本文を読む
世界歴史に登場する偉人のうち、四大聖人と称される人物がいる。
釈迦・孔子・ソクラテス、そしてイエスである。
偉人と称される者は、文明の根本原理を創造した者でなければならぬ。
そして、文明の土台は宗教であれば、最大の偉人は世界宗教の開祖である。
西洋文明の精神的支柱を創造したソクラテスとイエス、
東洋文明の精神的柱石となった釈迦と孔子。
歴史家が彼らを四大聖人と讃えるのは、きわめて世界歴史に符合した洞察である。 . . . 本文を読む
わたしよりも父や母を愛する者は、
わたしにふさわしい者ではありません。
また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、
わたしにふさわしい者ではありません。(マタイ伝10-37)
人間は誰かを愛せないのではなく、
誰かを愛さずには生きていけない存在である。
自然のままの人間に愛がないのではなく、
自然のままの人間こそ、愛に支配されている。
なぜか?
それは自分の不安を癒してもらいたいため . . . 本文を読む
静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。(テサロニケ書Ⅱ3-12)
働かぬ者、食うべからず。
俗な言葉であるが、きわめて健全な言葉である。
自分自身、身体にも頭脳にも汗をかかずして、
栄養分だけ摂取せんと欲することほど、道理に反することはない。
自分自身、現実社会にて血を流さずして、
他人や社会に対して物を言うことほど、不真面目な態度はない。
経済的独立なきところに、精神的独 . . . 本文を読む
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。
古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
(コリント書Ⅱ5-17)
昔、殷の湯王は、昨日よりも今日、今日よりも明日の行いが正しくなるように、
下記の言葉を自誡の句として、洗面の器に彫り付けていたという。
「日に新たに、日日に新たに、また日に新たなり」(「大学」)
絶えず行状において向上せんと欲する真摯な態度 . . . 本文を読む
なぜ、私は、胎から出たとき、死ななかったのか。
なぜ、私は、生まれ出たとき、息絶えなかったのか。
なぜ、ひざが私を受けたのか。
なぜ、私の吸う乳房があったのか。(ヨブ記3-11・12)
風見しんご氏の愛娘が事故で亡くなられ、
人生とは実に不条理だと思わざるを得ない。
大切なものであればあるほど、失ったときの苦しみは言語に絶する。
離したくない者が離れ、失いたくない者を失い、
そういう . . . 本文を読む
信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐
(テサロニケ書Ⅰ1-3)
人間は往々にして、単純よりも複雑を好む。
ただただ主を信じればよいものを、
いつしかそれが何となくつまらなくなり、
イエスを哲学的に理解せんと欲するようになる。
哲学的に理解せんと欲して、無益な神学論争に没頭し、
多少の知識的相違にて争うようになる。
「知識は人を高ぶらせる」(コリント書Ⅰ8-1)と . . . 本文を読む