キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

イエスを三度否定した男

2007-01-31 00:54:26 | 聖書読解
イエスは、信じる者を救い給うたように、 信じない者をも救い給う。 彼はもちろん、彼を信じる者を、必ず救い給う。 と同時に、彼を疑い、彼を否定し、彼を胡散臭いと思い、彼を罵詈する者から、 彼は忠実な使徒を起こし給う。 イエスを否定する者が、傷跡のあるイエスに出会う時(罪の贖い)、 最大の敵が最大の使徒に変わる時である。 と同時に、イエスを肯定する者が、傷跡のないイエスを公言する時、 すなわち、まるでイエスが死なれなかったかのように宣べ伝え、 まるでイエスを半神か半人に仕立て上げ、安易な自己満足に耽る時、 それは最大の反逆が行なわれる時である。 前者は最大の歓喜である、後者は最大の汚辱である。 . . . 本文を読む

心を制御するもの

2007-01-30 00:20:43 | 人生の慰め
この世には、どうにでもできる問題と、できない問題がある。 自分の境遇を変えることは、残念ながら、人間の直接的な支配領域ではない。 仕事に不満を持っていても、それを明日にでも変えることはできず、 人間関係に不満を持っていても、まるで魔法使いのように変えることはできない。 しかし境遇を変えられずとも、人間はその境遇の受け取り方を変えることができる。 不遇な境遇にあっても、それを日々嘆きつつ生きるか、 その根底に自分を修練させる意図を読み取り、喜びをもって生きるか、 それは人間の自由である。 境遇は変えられない、しかし、自分の心は変えることができる。 変えられない境遇を嘆くよりも、それを支配できない自分の心を嘆くべきである。 哲学者エピクテトスが言ったように、変えられない境遇について嘆くから、 いつまでも不安が耐えないのである。 そして、答えの出ない不安に囚われているから、 不安が不安を呼び、生きる力を蝕んでいくのである。 嘆くべきは、境遇を支配できない己の心である。(箴言16-32) . . . 本文を読む

真理のエネルギー

2007-01-29 00:01:55 | 無宗教主義
エジソンがいつか述懐したように、 人間というものは電球のようなものだ。 光を放つために存在するが、自分自身からは光を放つことはできない。 まるで、電球が自然に発光しないのと同じである。 光を放つためには、是非とも、光源と繋がる必要がある。 世の中には、様々な光源がある。 イスラム教や儒教のように、厳格な倫理を高唱する光源がある。 仏教や哲学のように、優美な思想を呈示する光源がある。 また、成功哲学やスピリチュアルのように、現代的に洗練された光源がある。 さらに、無神論や唯物論のように、光源ならぬ光源もある。 . . . 本文を読む

神の僕の歌

2007-01-28 00:10:46 | 聖書読解
彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。 彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、 私たちが慕うような見ばえもない。 彼はさげすまされ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。 人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。 (イザヤ書53-2・3) イエスはマリアから生まれ、年とともに心身成長し、 少年時代は神学者を論破し、神の . . . 本文を読む

イエスと宗教的偉人の違い

2007-01-27 00:15:42 | 無宗教主義
世界歴史に登場する偉人のうち、四大聖人と称される人物がいる。 釈迦・孔子・ソクラテス、そしてイエスである。 偉人と称される者は、文明の根本原理を創造した者でなければならぬ。 そして、文明の土台は宗教であれば、最大の偉人は世界宗教の開祖である。 西洋文明の精神的支柱を創造したソクラテスとイエス、 東洋文明の精神的柱石となった釈迦と孔子。 歴史家が彼らを四大聖人と讃えるのは、きわめて世界歴史に符合した洞察である。 . . . 本文を読む

捨てて得る道

2007-01-26 00:01:41 | 無宗教主義
わたしよりも父や母を愛する者は、 わたしにふさわしい者ではありません。 また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、 わたしにふさわしい者ではありません。(マタイ伝10-37) 人間は誰かを愛せないのではなく、 誰かを愛さずには生きていけない存在である。 自然のままの人間に愛がないのではなく、 自然のままの人間こそ、愛に支配されている。 なぜか? それは自分の不安を癒してもらいたいため . . . 本文を読む

経済的独立と精神的独立

2007-01-25 00:55:08 | 無宗教主義
静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。(テサロニケ書Ⅱ3-12) 働かぬ者、食うべからず。 俗な言葉であるが、きわめて健全な言葉である。 自分自身、身体にも頭脳にも汗をかかずして、 栄養分だけ摂取せんと欲することほど、道理に反することはない。 自分自身、現実社会にて血を流さずして、 他人や社会に対して物を言うことほど、不真面目な態度はない。 経済的独立なきところに、精神的独 . . . 本文を読む

日日に新たに

2007-01-24 00:33:13 | 人生の慰め
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。 古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 (コリント書Ⅱ5-17) 昔、殷の湯王は、昨日よりも今日、今日よりも明日の行いが正しくなるように、 下記の言葉を自誡の句として、洗面の器に彫り付けていたという。 「日に新たに、日日に新たに、また日に新たなり」(「大学」) 絶えず行状において向上せんと欲する真摯な態度 . . . 本文を読む

コメディア(喜劇)

2007-01-23 00:01:35 | 人生の慰め
なぜ、私は、胎から出たとき、死ななかったのか。 なぜ、私は、生まれ出たとき、息絶えなかったのか。 なぜ、ひざが私を受けたのか。 なぜ、私の吸う乳房があったのか。(ヨブ記3-11・12) 風見しんご氏の愛娘が事故で亡くなられ、 人生とは実に不条理だと思わざるを得ない。 大切なものであればあるほど、失ったときの苦しみは言語に絶する。 離したくない者が離れ、失いたくない者を失い、 そういう . . . 本文を読む

信・望・愛

2007-01-22 00:01:50 | 聖書読解
信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐 (テサロニケ書Ⅰ1-3) 人間は往々にして、単純よりも複雑を好む。 ただただ主を信じればよいものを、 いつしかそれが何となくつまらなくなり、 イエスを哲学的に理解せんと欲するようになる。 哲学的に理解せんと欲して、無益な神学論争に没頭し、 多少の知識的相違にて争うようになる。 「知識は人を高ぶらせる」(コリント書Ⅰ8-1)と . . . 本文を読む