キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

獅子の死骸-士師記11~21-

2008-10-26 18:11:56 | 聖書読解
サムソンは父母と共に、ティムナに向けて下って行った。
ティムナのぶどう畑まで来たところ、一頭の若い獅子が吼えながら向かって来た。
(士師記14-5)


獅子は人間を引き裂き、死に至らせるものである。

そして罪も人間をその内部から蝕むものであれば、

この獅子を「罪」と置き換えても間違いではないと思う。

神がまるでいないかの如く生活する人間の根本的態度。

「神がいなければ全てが許される」
(ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」)

全てが許されているかの如く生きる人間内部の罪は、

フロイトのいうところのエロス(情欲)とタナトゥス(破壊欲)を野放図に解放させ、

最後には自分自身を蝕むようになる。



そのとき主の霊が激しく彼に降ったので、
彼は手に何も持たなくても、子山羊を裂くように獅子を裂いた。
(士師記14-6)


しかし、主の霊であるイエス・キリストは、かかる罪の呪縛から我々を解放するため、

この世に生まれ、死に、葬られ、三日目に甦り給うた。

彼も古の預言者と同じく、身に寸鉄も帯びず、ただ一人で、

我々人間の罪とその結実である精神的・政治的権力に対して、戦いを挑んだ。

どれだけ憤怒の嵐が吹こうとも、どれだけ憎悪の雨が打とうとも、

最後まで憤怒と憎悪の道を取らず、十字架上で愛の凱歌をあげた。



あの獅子の屍を見ようと脇道にそれたところ、
獅子の死骸には蜜蜂の群れがいて、蜜があった。
彼は手でそれをかき集め、歩きながら食べた。
(士師記14-8・9)


罪の屍の後には、イエス・キリストなる甘き救いの蜜がある。

救われた者は、蜜を集め、飲み食いすることによって、

枯れ果てた霊魂を元気づけることができる。

イスラエル人である闘士サムソンがペリシテ人に対して勝利を収めたように、

キリストに従うキリスト者はこの世に対して勝利を収めることができる。

キリストはすべての人を救う優しき方であると同時に、

罪に打ち勝った常勝将軍でもある。

バアルに従う罪の世界に、キリスト者が敗北する訳がない。



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